その心が震える日
『初めてましてご主人様、わたくしはミュイエットと申します。どうぞ可愛がって下さいませ』
滑らかに光る褐色の肌にたっぷりとした艶やかな飴色の髪を持つミュイエットと名乗る女。
胸は谷間を強調したスパンコールでギラギラと輝くブラにガラスビーズのフリンジがびっしり付けられている。下腹部も同じ素材で、だが局部だけ隠れていればいいような小さい布だ。
明らかに男を誘うような衣装。
彼女のほっそりとした首に掛けられた自動音声生成機からはやや抑揚のずれた機械ならではの淡々とした音が発せられた。
この声帯に直接取り付けた機械から再生される音はミュイエットの元々持っていた声音で、抑揚がずれるのは自動音声生成機が旧式のものだから故だ。
「ミュイエット……」
掠れた声で彼女の名を呼ぶ男の瞳は濡れて潤んでいるが、ミュイエットは微笑んで瞳を閉じたまま微動だにしない。
彼女は微笑みを崩さず、床に両膝をついている。両腕は肩の辺りからない。肩は瘤のようになっていて切断面は肉も見えず滑らかだ。
髪で見えにくいが良く見れば耳もなく、それがあった場所は綺麗に肌が貼り付けてある。
明らかに上等な性奴隷として細部まで作りこまれたその身体。
『初めましてご主人様、わたくしは……』
自動音声生成機は壊れたように同じ言葉を再生し続けている。
* * * * *
七歳になったばかりの少女、ミュリアは戦火を逃れようとする一団の中にいた。
ミュリアと同じくとぼとぼとひたすら歩き続ける周りの女や子供たちの肌は褐色、髪は飴色。これは敗戦国となったチカチスという小さな国の民の特徴。
そしてミュリアの瞳は金の入った瑪瑙のような不思議な虹彩を持つ。これは普通の民のものではない。これはこの国の王族に顕れる特徴だ。だが瞳なんて余程近くでじっくりみなければ分からない。
そんな出自のミュリアの両手は塞がっている。
左には乳母であるケイナ、右はケイナの娘でありミュリアのひとつ歳上の乳姉妹カーナだ。
彼女たちは本来ならば住んでいた城で今頃首を落とされ晒されているか、毒か、攻め込んだ敵国兵の慰み者となり甚振られ――何にしろ命を落とす筈だった。
だが彼女たちは城は城でもその敷地の外れ、まるで作業小屋のような一角で息を潜めて生きていたために難を逃れることができた。
城に災い有りと彼女たちに報せに来たのは、寡婦であったケイナと恋仲にあり、城壁を守る衛兵だ。彼は城を出るまでは彼女たちといたのだが、職務を全うするため戻って行った。
ミュリアは別れ際のケイナと彼が泣きながら抱き合っていたのを心に刻み付けていた。彼女の心は熱く震えている。
まだ子供で、城の敷地から外に出たこともなければきちんと教育された訳でもない世間知らず、彼らが生き別れ――今生の別れとなるのをまるで観劇するように夢見心地で眺めていた。
ケイナと彼の姿は彼女にとって美しい記憶の一つとなる。
そして行く宛などない三人は、あちこちに紛れながら逃げ続ける。
そして一緒に逃げた民たちからチカチスに攻め入った国について知る。
攻めてきたのはここより遥か北にある、氷で大地が覆われるという極寒の国、ホライアだった。
氷というものを彼らは伝え聞くことでしか知らないが、寒い冷たい国の人間は心も冷たいのかと恐れ怒った。
ホライアはもうすぐチカチスと協力関係になるはずだった国だ。
なぜこうなったかは一年前に遡る。
この大陸では数は少ないが一定周期で各国に魔法の素質のある者が生まれる。魔力の発露は必ず十歳、十二歳になる前に魔法の正しい使い方を学ぶためにナーレ魔法国へ行かねばならない。
魔法国は大陸の端にあり、大陸中で素質のある者は六年間魔法学園に入ることになっている。
チカチスからは第五王子にその力が見られたので、魔法国で暮らしていた。十八歳となり、卒業を待つばかり。
だがそこで大陸の全てをも巻き込む大騒動が起きる。
ホライアの王子と公爵令嬢の婚約破棄騒動である。チカチスの王子はそれに深く関わっていた。しかも騒動の原因となる聖なる力を持つ少女を連れて逃げたのだ。
これにいたく腹を立てたのは当事者のホライアの公爵令嬢と周囲である。
婚約者であったホライアの王子のみならず、王と王妃を弑逆し、王弟を新たな王に掲げ公爵令嬢はその妻である王妃となった。
ここまでがまるで計画通りと言わんばかりに速やかに行われ、迷いなくその魔手は元王子と懇意にしていた第五王子の故郷チカチスへと伸ばされた。
チカチスは一年通して太陽が地を焼き、風も熱を持って吹くような国だ。雨季もあり、その時期には川の氾濫に悩まされる。
だが暑さに強く香りの良い花が咲き乱れ、この地独特な果物などを資源とし、民は幸福に生きていた。
そこへホライアが乗り込み、色彩豊かな国を黒一色に嘗め尽くしていく。
ホライアは大陸からこの国の木1本花ひとつさえ残さず消し去るように力を行使していった。
ミュリアは共に隠れ逃げる民の声を聞く。
彼らの声は怨嗟に満ちていた。
ミュリアにとって腹違いの兄、顔も見たことのない兄は人々から褒めそやされるひとかどの人物だった。
正義感が強く稀有な魔法を使う彼が戻れば、姫様はお城で暮らせますからね、と乳母のケイナは口癖のようにミュリアに言っていた。
そのためミュリアは見たことのない兄に強い憧れを持っていた。
兄というものもよく分からないが、カーナのようなものなのだろうと考える。ケイナは彼女にとってまさしく母。カーナは生まれた時から一緒にいる。二人はかけがえのない家族だった。
ミュリアはそこに物語の王子様然とした空想の中に息づく兄をまぜた。彼女と同じく瑪瑙の瞳を持つという、優しく強く逞しい兄を。
だが、今ここにいる民たちはその兄に向かって呪詛を吐き続ける。ホライアの王子、その元婚約者であり、今現在チカチスを嬲り蹂躙している新ホライア王妃、兄と共に逃げた聖なる力を持つ少女。
そして何の力もないチカチスの王族に、魔法という特別な力で国を守らぬ兄に。
その中に幸運にもミュリアの名はなく、身を固くして寄り添う彼女たち三人はほっと安堵の息を吐く。
ミュリアは打ち捨てられた王女だ。
だが王女と言うのに実は語弊がある。彼女は養女だった。
王の従妹の娘であるミュリアはその血が薄いのにも関わらず『加護の瞳』と呼ばれる金混じりの瑪瑙の瞳を持って生まれた為に王家に養女として引き取られた。
この瞳はパッと見る分には分かりにくいが、念のため見えにくいようミュリアの前髪は厚く下ろされている。元々王女らしい生活もしていなかったから、襤褸を纏った貧しい子供に十分見えた。
戦火は国の中心を焼き払い、周辺へと燃え広がる。
本来武力の低いチカチスではない。これだけ早く制圧されているのは恐らく相手の戦力の中心に魔法師がいるからだと話題になった。
やはり聖なる力を持つ少女を追ってきたという双子の魔法師がホライアに協力して暴れまわっているらしい。新しいホライアの王妃も魔力があり魔法が使える。しかも彼女の力は近年稀に見るほど強大なのだという。
チカチスの民は震え上がった。
ホライアの魔女、ホライアの悪魔と呼び恐れた。
追いやられ追いやられ、ミュリアたち一行は中立国ゾイエとの国境近くまでやって来ていた。
あちこちの町や村から他にも焼け出されて逃げた者が集まっている。
彼らはお互いに仕込んだ噂や見てきた事実の情報交換をする。
他国に救いを求めたが、ホライアの魔女である王妃の不興を買ってはたまらぬと追い返されたり、ホライアに阿るためにまとめて捕縛し差し出された話もあった。
中立国とは言えゾイエももしや、という気持ちが民に国境を越えることを躊躇わさせていた。
そんなゾイエから、身なりの整った恰幅の良いふくふくとした男が彼らを迎えに国境までやって来た。
彼はゾイエの高位貴族であると彼らに説明する。
「ゾイエではあなた方を歓迎しますよ、どうぞこの荷馬車にお乗りください」
優しく話しかける貴族に対し、彼らは疑う心は奥底にありつつも、戻れば死しかないために彼の言う通りにすることにした。
もちろんミュリアたち三人もだ。
貴族の話によると、ゾイエでは男たちは人足として働いてもらいたいのだと言う。女子供は農作業や工場、貴族の屋敷での下働きをしてもらいたいと。
元々働き者な国民性だ、じりじり熱い陽光に晒され、熱風に吹かれ、豪雨に流されても負けない気概こそチカチスの民の証である。
働く場所があるから衣食住も世話すると言う。給金も出る。とりあえずゾイエで生きていけそうな地盤は用意されていた。
ゾイエへの荷馬車に乗り込む一団は五十人に満たない。
やはり疑わしいとに残った者たちもいた。彼らは荷馬車が砂埃を立てて走り去るのをずっと固い表情で見送っている。
ミュリアたちも荷台の中から、彼らを小さくなっても見えなくなってもずっと切なく見つめていた。
ゾイエまでは順調に行けば一週間程度で着くという。
あちこちで荷物を積むのに男手が必要なため、効率重視なのだと男たちは女子供と別れて乗ることになる。
そんな風に始まった最初の二日は誰にとっても文句のない期待に満ちた旅路だった。
――だが。
山間に入った三日目に男たちの荷馬車だけ先へ行ってしまった。ミュリアたちの乗る荷馬車はとろとろとしか進まず、間が空いたため先の馬車に置いていかれた形となる。
その夜、荷馬車の中にケイナ含む数名の女の姿はなく、母を恋しがる小さな子たちをミュリアやカーナなど年上の子供たちがあやしていた。
翌朝いつの間にか荷馬車に戻って来ていたケイナは、ミュリアとカーナを呼び抱き締め荷馬車から降りた。
抱き締めるケイナからはチカチスの川そばの青い草いきれに似たムッとする強い匂いがしたが、ミュリアは何も言わなかった。
ケイナは目尻、耳、口と順に素早く指差した後、小さな声で話し始める。これは絶対誰にも見られず聞かれず言ってはいけない話の時の合図。
「姫様、ここからお逃げください。カーナは姫様と行くように――これを」
ケイナは辺りをさっと目だけで見渡し、胸元から小さな袋をカーナに渡し、ミュリアに言い聞かせるよう優しく言う。
「夜ではいけません、今です。今は見張りが少ないので、私が引き付けている間に隠れてください。いいですね、何があっても出てきてはいけません。そのままこの山を下るのです。チカチスは日の沈むほうですからそちらへ行ってはいけませんよ。山を下って日の昇る方に行ってください」
ミュリアとカーナは息を呑んでぎゅっとお互いの手を握った。
「カーナ、必ず姫様をお守りするのですよ。姫様には瞳の加護もございます、きっと生き延びてまたお会いしましょう」
「……でも、他の子供たちは……」
ミュリアが小さく呟けば、ケイナはにこりと微笑んだ。
「さすがはお優しい姫様です。けれど私は姫様の母君様がお亡くなりになる際お約束しました。必ず姫様を無事生かしてみせると。ゾイエはいけません、私たちを奴隷とするつもりです。姫様、父君の故郷ダッタリアを目指しなさいませ」
ミュリアがそれに戸惑いながらも頷き、カーナは口を真一文字に結んでケイナを見る。ケイナは二人に微笑む。
「カーナ、ダッタリアのギエフ大公様にその袋をお渡ししなさい。お前は私の分も姫様によくお仕えするように」
そう言って、さあ隠れてと木の後ろへと二人を押しやった。
合図があるまで動かないようにと言い含められていた二人はじっと息を殺してその時を待つ。
ケイナは見回りに来た男たちを誘って、彼女たちからやや離れた茂みへと彼らを連れていく。
服を脱ぎ始めたケイナに男たちが下卑た笑いをこぼし、その茂みに身を潜ませた時、ケイナの腕が高く伸ばされゆらゆらと揺れるのが見えた。
ミュリアとカーナは音を立てないよう密やかにその場を離れる。
カーナは常日頃からミュリアを連れて逃げるための教えを母のケイナより施されていた。
もしここが砂漠であったり見通しの良い平地であったならば、子供二人などあっという間に捕まっていただろう。
だが山は運が良い、とカーナは思った。
ゾイエの山はチカチスと違って水が潤沢なのは植物を見れば分かる。
川が見つからなくても朝になれば朝露、夜になれば夜露がある。寝る前に小さく穴を掘って大きな葉を被せておいてもいい。食べられるものはなくても水さえあればしばらく生きていけると彼女は教わっていたし、何だったら虫だって食べられる。ミュリアだって食べるものがない時は虫やカエルを食べてきた。
きっと大丈夫、とミュリアの手を握る。
ただ、カーナは何か小さなトゲが刺さったような、胸
もやもやする何かを胸に抱えていた。
母が彼女を守るため囮になったのも理解している。ミュリアはカーナと同じように、カーナの妹のように寝食を共にし貧しい暮らしをしていたが、本当はカーナと違って『お姫様』だ。それも彼女は母から聞いて知っている。
カーナはこの胸にちくちくと残るトゲが何か分からなかった。
そしてミュリアはカーナと共に山を下る。
* * * * *
男はミュイエットが自動音声生成機から同じ台詞を垂れ流し続けるのを虚ろな眼差しで見つめながら聞いていた。
椅子の上で、ぐっと掌を力強く握り込むと男は立ち上がった。
ミュイエットの肩を軽く二回叩く。これは否定。やめろという意味にもなる。
すぐに喉からスイッチが切り換わる独特の金属音がして、室内に沈黙が満ちた。
男はそのまま、肩から腕の付け根を指先で撫でた。滑らかな肌の質感と同じ硅が使われている。
瞳は失われているが、義眼が埋め込まれているお陰で目蓋の陥没は起きていない。義眼は一番簡単な物だから物を見ることは出来ない。
耳もそういう趣味の主に削ぎ落とされている。腕もそうだ、と男は唇を噛んだ。
足だって、膝から下は両足ともに義肢だ。
口は聞けないようにされていて代わりに自動音声生成機が付いている。
ミュイエットはこのようにあちこちツギハギだらけだが上等な奴隷として扱われていた。
男は彼女の肌に手を置いたまま思いに耽る。
――けれど、彼女の主が変わる度どんどん雑なものになっていったことは身体を見れば分かる。義肢と自動音声生成機は当時の最先端、肩口と耳に張られた硅も高級品。まして彼女の褐色の肌に合わせたものは特注だろう。
欠損嗜好か加虐性欲か。そのどちらもなのかは分からないが、彼らは飽きるのが早いきらいがある。もっと早く見つけていれば――
男がやっと彼女を見つけた競売場は彼女の最期を決める場でもあった。
もし誰も彼女を買わなければ、一生を牢獄で過ごすほどの重罪を犯した囚人たちのガス抜きとして送られることが決まっていた。
男は震える手で彼女をそっと抱き締める。
「ねえミュイエット、君はまだ人だよね、機械人形」ではないよね、ここはまだ人だよね」
そう言って柔らかな胸の谷間に手のひらを当てた。
どく、どく、と生きるために血を身体に巡らせる規則的な音がする。男が言うのは生理的なこの音のことではない。
何も答えないミュイエットを抱き締めながら彼ははらはらと涙を落とした。
* * * * *
ミュリアとカーナが山を下りるのには二ヶ月はかかった。過酷なものだった。
更に彼女たちがダッタリア大公国に到着するには二年以上かかった。
後から分かったことだが、ダッタリアを迂回してその隣、メシュパという国まで来てしまっていた。
メシュパでもチカチスの民の証である褐色の肌と飴色の髪が人目を引いてしまうので、二人は木や葉の汁で髪を染めたり、花の花粉で白粉を作って塗ったりしながら、物乞いを仕事にして日々の糧にしていた。
チカチスは人の噂によれば完全に焦土と化し消えてしまった。ホライアの王妃はそれでもミュリアの兄と少女の行方を探しているらしい。
ホライアはそのためにチカチスだけでなく、周辺国も巻き込もうとしているようだが、流石にチカチスの滅亡を目の当たりにした他国は嫌悪感を示し手を組んだ。
現在ナーレ魔法国がホライアを抑えていると言う。
だがミュリアには生まれ故郷であっても全く良い思い出のない土地である。
ケイナとカーナは寄り添ってくれたが、贅沢をしたわけでも傅かれて暮らしていた訳でもない。
ケイナは『姫様』と呼び丁寧に接してくれてはいたが。
愛情も彼女たちからしか受けた記憶はない。呼び名だけの義父母も義兄弟姉妹たちもミュリアの存在は無いものとして扱っていた。
夢に見た第五王子の兄も、ミュリアを助けには来ない。彼は夢の中の人だから、彼女はこれまでの過酷な生活の中そう納得した。
顔馴染みになり、今は手作りのあばら家で共に暮らす靴磨きの少年が、景気がいいという噂を聞いてダッタリア大公国に行くと言う。
ミュリアとカーナは渡りに船とばかりに彼と共にダッタリアを目指すことにした。
靴磨きの少年の名はマフル。十二歳、彼女たちの兄ということにしてもらった。
彼に家族はない。元々は大陸のはるか北方の国から移住民としてやってきたが、受け入れてもらえなかったと言う。
肌の色も髪の色も真っ白で、瞳も薄い水色と涼しい色合いがミュリアには好ましかったが、彼はそうではないらしくいつもミュリアとカーナを羨ましがっていた。
マフルも靴磨きの墨でわざと髪や肌に色を付けていて、ある時水浴びした後に三人とも本来の色に戻った時、三人が三人口をあんぐり開けて一時後に大笑いした。
「ミュリアもカーナも綺麗な色してるのに勿体ないね」
マフルがそう言えば、二人もマフルに同じことを言い返した。こうしてお互いのないものねだりに笑っていた。
だが子供の彼らにも小さな目に見えない亀裂がそこかしこに入っていた。それは本人たちは気付かないまま広がってゆく。
マフルはミュリアの金瑪瑙の瞳を気に入っていて、ちょくちょく眺めさせてもらっていた。
カーナはそれが嫌だった。だが、嫌だからやめてと言えない。ミュリアが嫌がらないからだ。
カーナにとってミュリアは妹のようだが、本来仕えるべき主だ。
――だけど、とカーナは独りごちる。
だけど、チカチスはもうないのにミュリアはどこの誰のお姫様になるんだろう? お母さんはミュリアのことばっかりだった。私のことなんて……マフルだってミュリアばっかり。ミュリアなんて私の後をついてくるだけで何もしていないのに。
カーナに不満が溜まって溢れそうになっていた。
山は過酷だった。飲み水も食べ物もチカチスで虐げられた暮らしをしていた時以上に手に入れるのが困難で。
でもカーナはミュリアのため、母に言われた通り彼女を優先してきた。カーナだって喉は渇くしお腹もすく。母であるケイナと離ればなれになって寂しい。
ケイナケイナと呼び泣くミュリアを抱き締め、声で見つかることに怯えながらも、ミュリアの呼ぶケイナは私だけの母なのに、と悲しくなった。
夜になる前にカーナが穴を堀り、大きな葉を被せ夜露を溜めたものは全てミュリアが飲んでしまっても。
やっと見つけた食べられそうな果実を、傷だらけになりながら木によじ登って取ったものをミュリアが食べ尽くしてしまっても。
カーナはずっと我慢してきたのだ。妹のように思っていたから。ミュリアも悪気があったわけではない。その後ミュリアはミュリアで山水の流れる場所を見つけたし、山芋の生ったのも見つけた。
このメシュパに来てからも、ミュリアはミュリアに出来ることを一生懸命やっていたし、カーナの後に付いて回ったのは彼女の仕事を覚え手伝うためだ。
だがカーナも子供だ。良いことよりも悪いことばかり覚えていた。更に彼女はマフルに少女らしい憧れを持っている。
マフルがミュリアに特別な気持ちがあるのは見ていて分かってしまう。
それがミュリア九歳、カーナ十歳の頃である。
* * * * *
ミュイエットは微動だにしない。微笑みも崩さない。
ただそこにいるだけ。
男はミュイエットの義肢の留め具を外す。
その時だけ僅かに彼女の身体がびくりと震えたように男は感じ、知らずホッと安堵の息を吐いた。義肢を外した膝下の切断面も滑らかで逆に痛ましい気持ちになる。
男は片手で彼女の身体を支え、両足の留め具を外すとしっかりと抱き抱える。
そのまま自分が座っていたソファに彼女を座らせ、薄手のガウンを掛けてやった。
それでもミュイエットの表情は何も変わらない。
男は立ち上がって部屋の隅にある物を取りに行く。
布が被せてあって、大きさは彼女の上半身程度。
布を被せたままミュイエットの隣に置く。
男はソファに座らず彼女の前に跪いた。
「どうか、どうか……私を許して欲しい。私が今からすることはともすれば君に地獄を見せることになるかもしれない」
男はミュイエットの膝に額を乗せる。
「……許して、ミュイエット……ミュリ……」
* * * * *
ダッタリア大公国では君主であるギエフ大公がチカチス国に戦火有りの一報を聞き、出国してしまっていた。
代わりにギエフ大公の弟、カイル公爵が国を采配している。
中々兄である大公が戻れぬ日々に不安を募らせていたある日、カイルの元に国境警備から届けられた一報が入る。
現在国境警備の砦から官庁に移されたが、亡国チカチスのミュリア王女が保護されたと言う。
カイルは飛び上がらんばかりに驚いた。
なぜなら、兄ギエフ大公はそのミュリア王女のために駆けずり回っているからである。
ミュリア王女は兄の愛した女性、ミュイエットの忘れ形見だ。
本来ならば彼女とミュリアはこのダッタリアで三人幸せに暮らしていたはずだったのだ。
チカチス王の執着によって引き裂かれた二人は、協力者によって連絡を取り合っていた。
ギエフは協力者からの手紙にある我が娘が無事生まれることを楽しみにしていたし、もうミュイエットと会えなくても娘は自分の手元に戻るかもしれないと覚悟もしていた。
ミュイエット自身が、ミュリアの行く末を思い悩んでいた。おそらくチカチスでは大事にされないだろうからできればギエフの元に送りたい、自分の代わりに自分の分まで愛して欲しいと願っていたからだ。
だが、それもまた叶わなかった。
生まれた娘ミュリアにはチカチスの王族に伝わる『加護の瞳』である金瑪瑙が見られたからだ。
加護の瞳を持つ者は栄光や幸福を約束され、それを周囲にも与えるのだと言う。
更に娘を産んですぐミュイエットが儚くなったこと、チカチス王はミュリアには興味がなく、だが加護の瞳を持つことから一生飼い殺しになるであろうことをギエフに伝えた。
そして、いずれ隙を見てギエフの元へミュリアを送ると。その時にはミュイエットがずっと大事にしていたギエフとの思い出の品を持たせるからと伝えて長く連絡は途絶えた。
弟であるカイルが兄から聞いていたのは、ミュリアがいずれダッタリアに来る時は思い出の品を持っているということだけ。
それだけがミュリアと兄を結びつける唯一のものだった。
慌ててカイルが官庁に駆けつければ、そこにはチカチスの民の証、褐色の肌に飴色の髪をした年の頃は十歳前後ほどの痩せてみすぼらしい格好の娘が、袋を手に真っ青な顔で待っていた。
今にも倒れそうな娘から袋を預かり中を覗けば、そこには兄ギエフの名とダッタリアの紋章が刻まれた指輪、協力者であったケイナの名が書かれた紙、小さな骨が一つ入っていた。
カイルは娘に名を問うた。
娘はやはり青い顔、血色を失った白い唇を震わせて言う。
「……ミュリア……私がミュリアでございます」
それを聞いてカイルは喜びから彼女を抱き締めたのだった。
カイルは直ぐに兄ギエフ大公に向けて報せを出した。
だが、運悪く大公はミュリアの行方とホライアへの報復を他国に嘆願するため大陸中を駆けずり回っており、拠点にしている場所には中々戻れなかった。
ギエフ大公がその報せを受けダッタリアに急ぎ戻るまでに更に五年の月日が経過する。
* * * * *
ダッタリアでミュリアはカーナをずっと待っていた。
カーナは国境警備の砦に行ってくると言い、ミュリアには隠れて待つように言い置いていった。
ミュリアはだから静かに隠れて待っていた。
国境は国によって厳しさが違う。
ミュリアたちのような難民、マフルのように職を求めて旅する者でも受け入れてくれる国とそうでない国がある。
ダッタリアは前者だった。但し、国境で細かく色々聞かれ記録される。名前、見た目、出身国、目的。
手のひらに赤いインクを塗られ、五枚の紙に手形を残す。
これはダッタリアにある五つの国境警備砦にそれぞれ一枚ずつ保管されるのだと言う。
何かあったときには手形を照合して国に送り返されるのだ。だけどミュリアとカーナにはもう帰る国はない。マフルと同じくメシュパをとりあえずの出身国にした。
カーナはきっとミュリアのために、ミュリアの父を探してくれているのだ。
ミュリアは何も出来ない、知らない、動くなと言われればそうする自分に憤っていた。
誰でもない、自分自身に。
カーナに守られてばかり。マフルに甘えてばかり。今だって本当ならミュリアのことなのだから、ミュリアが行くべきだったのにカーナに任せてしまった。
カーナは中々砦から出てこない。
さっきはちょっとした騒ぎが起きていたようだった。
立派な馬車が来て、すぐ出ていった。
まさかカーナに何かあったのかとはらはらしながら辺りをうろうろしていると、砦から出てきた旅行客らしき人たちが官庁に誰か連れていかれたのだと話すのを聞いて、彼女は焦る。
カーナが疑われたのだろうか、ケイナが持たせた袋は間違いだったのだろうか。
でも連れていかれたのはカーナとは限らない。ミュリアはおろおろとその場をうろつく。
見かねたマフルはミュリアと一緒にいてくれた。だが彼も遊びに来たわけではない。働き口を探しに来たのだ。
なのでミュリアは彼に街へ向かうよう促す。マフルはしばらく考えて言った。
「じゃあ待ってて。カーナは僕が見てくるよ」
マフルとしては、ミュリアがカーナから隠れているよう言われたことに納得いかなかった。
多分誰かに追われてるような感じは受けていた。
だが、いつもなら肌も髪も色を二人とも隠すのに、カーナだけは隠さずにいた。
カーナの顔色も悪かった。だからダッタリアにいることがダメなのかとも思ったが、それならわざわざダッタリアに来る理由にならないともマフルは思う。
ミュリアはカーナの言うことを素直に聞いて隠れて待っている。マフルはたちの砦に戻った。
警備隊の男たちが、マフルを見て笑った。
「お、どうした? 道に迷ったか?」
「さっき一緒に来た子……カーナが戻ってこなくて、彼女の妹が不安がってるんだ、どこに行ったか知らない?」
男たちは顔を見合わせると、ひどく困った顔で言う。
「さっきの子は事情があってな、官庁に行くことになったんだよ。あっ、もちろん悪いことではないから。きっといいことだ」
「西の街の官庁だから行ってみるといい。妹がいるとは言ってなかったからそのまま行かせたが。すまんな、向こうも探してるかもしれん」
マフルはありがとうとお礼を言い、砦から出た。
――おかしい。これまでカーナがミュリアを置いていくことなんてなかった。
マフルは飲み込めない何かを抱えながらミュリアと共に西の街へと歩き出した。ミュリアもまた初めてカーナがいない不安に押し潰されそうになっていた。
休み休み、途中地図看板を見ながら西の街の官庁に着いた頃にはとっくに日は落ちてしまっていて官庁も当然閉まっている。
二人は仕方ないと野宿出来そうな場所を探した。
* * * * *
カーナがミュリアに罪悪感を持ったのはこの五年でほんの一瞬だった。
今は激しく後悔している。
カーナの心に闇が潜んだのはいつだったろう。
ケイナが自分を顧みなかったからか、ミュリアを優先することに疑問を覚えたからか、マフルがミュリアばかりを可愛がるからか。
――どうせミュリアの父親と言っても会ったことがないんだから、私であっても分からない。母さんも私に幸せになってほしいからあの袋を渡したんだ。
そう囁きかけるもう一人の自分に頷いて、カーナは自分こそがミュリアだと大人たちに、偉い人に嘘をついた。
血の気は引いているのに、顔だけ熱いという状況に目眩がしそうだった。
けれど、引き取られた先の大公家ではメイドたちに傅かれ磨かれ、これでもかとミュリアの叔父のカイル公爵やミュリアの祖父母に甘やかされて贅沢を味わった。
そこでもうミュリアを忘れた。
きっと大公が戻ってきても上手くやれる。
だってミュリアとは彼女が生まれたときから一緒にいたんだから、境遇も思い出も全部同じ。
チカチスの城での話は皆に同情された。ダッタリアまで来る時の話もミュリアをカーナとして話した。
カーナは呼ばなくていいのかと聞かれて、あの子はマフルと一緒に行くと言った。
マフルを思い出せば胸がじくじく痛むけれど、貴族の子息子女たちはカーナにとても優しく、皆こぞって友達になりたがる。
マフルよりも彼らの方がちやほやしてくれるからいい、と彼女は痛みを忘れた。
肌や髪の色も、異国情緒があって良いと褒めてくれる。
貴族の勉強は大変だけど、失敗しても怒られない。
だからカーナは忘れていた、ミュリアがミュリアである証のことを。
知らなかった、母ケイナが協力者であり、ミュリアの瞳について教えていたことを。
大公が戻って来ると知った時、カーナは結婚の申し込みを幾つも貰っていた。カイル公爵が、まずは親子の対面が先、とそれらを保留にしていた。
だけど、とカーナは明かりひとつない暗い邸牢の中、両手で顔を覆って泣いた。
カーナの手はあの頃と違って、どこも荒れていない。爪の先までつやつやと磨かれている。
痩せこけ垢だらけの身体ではない、ふっくらと女らしく成長した身体に薔薇の香りを纏う。
――だけどあの生活には戻れない。嘘がバレてまった。あんな簡単に。
ギエフ大公は本当に取る物も取り敢えず帰ってきた。
服は砂埃や汗で汚れてしまっていたし、髭面でまるで熊のようだった。
馬車ではなく単騎で乗り継いで駆けてきたのだと破顔して駆け寄る。
家族も使用人たちも皆涙で潤む目をハンカチで押さえて見守っていた。
だが、カーナを抱き締めようとして顔を見て一言。
「お前はミュリアではない――誰だ」
その地を這う恐ろしい声にカーナの虚飾世界は一瞬で凍りつき砕け散った。
カイル公爵や祖父母が慌てふためく中、ギエフ大公は冷たく言い放った。
「ミュリアは金瑪瑙と呼ばれる虹彩、加護の瞳持ちだ! この娘は黒目! なぜ私が来るまで迎えるのを待たなかった!」
大公の怒りは半ば八つ当たりで、彼もそれは理解していたがミュリアに会える、愛しい女の忘れ形見に会えるという期待の分、ネガティブな感情がそれを上回ってしまった。
カーナはそのまま大公に引き摺られるようにして邸内の一室に放り込まれ、未だ事情を飲み込めないカイル公爵と共に話を聞かれた。
カーナはガタガタといっそ憐れなくらい怯えて震えながらも、ありのままを正直に話した。ミュリアが妬ましかったこと、疎ましかったこと、成り代わってもいいじゃないかと思ったこと。ミュリアの行き先は全く分からないこと
聞いた大公の怒りは凄まじく、彼の魔力は制御を失い荒れ狂ってカーナの顔面を襲う。
カーナは顔に酷い火傷を負った。大公の怒りの籠った魔力のせいで彼の炎は中々おさまらない。
大公は彼女の傷を治すことを禁じ、カイル公爵たちにミュリアの捜索を命じた。
だがもうあれから五年経過している。
国境警備砦の日報から、五年前に一人の少年がミュリアらしき少女を連れて西の街に向かったことが分かる。
だが、西の街の官庁には彼らの訪問は記録されていなかった。
もしやダッタリアを出たかとその可能性も考え、各国境警備砦と各街の官庁にも通達を出すが、該当する人物は国を出ておらず、ミュリアの痕跡は西の街で消失してしまっていた。
幸いなことにマフルと言う青年だけは何とか見つけることができたが、彼も酷く憤っていた。
特にカーナに、次いでギエフ大公に。
カイル公爵は兄の怒りを、マフルの嘆きを受ける度に己を責めた。カイルは良かれと思ってカーナを保護したが、偽物の可能性や虚言を疑うことをすっかり忘れていた。袋にあったのは本物の兄の指輪であったのだから。
カイル一人の責任ではないし、見分ける術は兄のみが知っていて周囲は誰も知り得なかった。けれどそれを差し置いても当時乳姉妹であったカーナ――本物のミュリアも保護しておくべきだったのだと悔いた。
もちろんギエフ大公もだ。周囲に怨嗟を吐き散らし、魔力を溢れさせては彼方此方燃やしていたが、一番は己の不甲斐なさに腹を立てていた。
それを他人に擦り付けることで鬱憤を晴らしていただけだ。可哀想と少しは思うが、一国の君主と高位貴族を謀ったカーナへの処罰と後始末は既に終わった。
そしてマフルの怒りは彼を冷静にさせる。
一刻も早くミュリアを見つけねばならない。愛しい者をこの手に取り戻し、温かく迎えてやるために。ギエフはそう心に誓った。
* * * * *
ミュリアが目を覚ますと、見覚えのない部屋の中だった。
おかしい、と彼女は辺りを見回す。
ミュリアが眠る前にいたのは西の街外れにある安宿だったはずだ。そことは作りが全く違う。
初めての街で野宿は危ないからと、二日分の宿代を出してくれていた。
そこでまずマフルが二日の間に住み込みで働ける場所を探す。お昼過ぎには一旦帰ってくるから、そうしたら一緒に官庁へ行ってカーナの行方を探そうということになった。
砦の男たちの話では悪いことではないと言っていたし、すぐ見つかるよと言うマフルの言葉に頷いたミュリアは、宿のおかみが持ってきてくれたお昼ごはんを食べていた。
そこから記憶がない、ということは食事をしながら眠ったのかな? とミュリアは妙に重くぼんやりする頭で不思議に思う。
そこでようやく身体に違和感があることに気付いた。
足も腕も身体ごと拘束されていた。
口にも猿轡が噛まされていて、声を上げることも出来ない。
でも頭だけではなく身体も重怠い。だから動く気にも声を出す気にもなれなかった。
ただ、部屋の中が夕焼け色をしていて薄暗いので、マフルは心配しているだろうなとミュリアは思う。
小さく扉が軋む音がして、足音が聞こえ何かをどさどさと床に置く音がする。
ミュリアの顔の前に誰かが立ったと思うと覗き込んだ。
「目が覚めてるね、この子。薬は効いてそうだけど、念のためアレ打っておこうか?」
――宿屋のおかみさんだ。こんな怖い顔だったかなあ。
ミュリアに優しく笑いかけてくれた。お腹がすいてるだろう? 鍵を開けておくれよ、と優しく声をかけてくれた。温かいごはんを食べさせてくれた……と彼女はぼんやり宿屋のおかみを見ていた。
彼女は小さな箱を取り出して、針のついた長い入れ物に触れていた。ミュリアはただぼんやりとそれを見つめている。
「あ」
針を腕に刺されたミュリアは痛みで顔を顰めると、おかみは更にミュリアの顔を見つめて声を出した。
「なあ、あんた! 来てよ! この子凄い目を持ってるよ」
「……どおれ? ――へえ! こりゃあ珍しい。見たことねえなあ……高く売れそうだ」
おかみに呼ばれ、箱を組む手を止めてミュリアの顔をしげしげ眺めているのは宿屋のおやじだった。そこでミュリアは加護の瞳を隠していないことに気付いたが、急な怠さと眠気に抗えず意識が暗闇に落ちて行った。
* * * * *
ミュリアは子供ばかりが集められた場所にまず送られた。性別は関係ない。
ただ身綺麗にはなった。そこでミュリアは『ミュイエット』と言う新しい名前を貰って働くことになった。
カーナと別れた時は十一歳。今は十二歳になっている。ミュリアとカーナは栄養状態の悪い時期が長かったので、同じ歳の子達より二つほど年下に見える。
仕事場の人間に聞かれるまま正直な年齢を伝えると、舌打ちされた。だが、その後すぐに十歳ということにしろと命令された。
「いいか? 今からお前はミュイエット、十歳だ、誰に聞かれてもそう言え。もし違うことを言えば鞭で百ぺん打つからな!」
ミュイエットは働く。辛いことしかなくて何度も泣いた。周りの子供たちは顔ぶれがどんどん変わる。
彼女は店で特別だった。加護の瞳があるから、この店ではいっとう上物なのだと支配人が厭らしい笑みを浮かべていた。
その内ミュイエットをよく指名する羽振りの良い男が彼女を買い取った。
その日から神経質な男の事を『旦那様』と呼んでお仕えしなくてはいけなくなる。
ミュイエットは男と結婚した訳ではないと理解していたので、旦那様と呼ぶのに抵抗があった。
それに男は抱き締めてくるが、彼女の心にいつか見たような熱いものは沸き上がって来なかった。
あの時の心の震えをミュイエットは支えにしていた。
いつか旦那様にもそれを感じることができる筈だと。
ところがそれは儚く挫かれる。
ミュイエットに月の障りがやってきた。ミュイエットにその知識はない。
神経質な男は無体を強いて出た血は許せるが、この血は許せなかったようで、あっさりと売られてしまった。
ミュイエットは競売場の目玉商品となる。
彼女は基本的に従順だ。これが加護なのか分からないが、店でも酷い客に当たらず、買われても酷い目には遭わなかった――そうこれまでは。
次の男は『ご主人様と呼べ』と言った。
彼は劣等感の塊を抱えていて、自分より弱いものを虐げて喜ぶ癖のある男だった。
男はある日、美しい金瑪瑙を彼女から取り上げてしまった。
そしてそれを防腐処理し、人形に閉じ込めた。
趣味の悪いことに、人形はミュイエットによく似ていた。金瑪瑙を入れればまるで生きているかのように艶かしい。
片や瞳をくりぬかれたミュイエットは適切に処置はされたが、男に視神経を焼かれてしまっていた。
目蓋が窪むのは食指が動かないと一番安い義眼を入れられた。
ミュイエットの心はまだ生きている。辛くて辛くて耐えられないと彼女はあらゆる痛みに悲鳴を上げた。
悲鳴を上げれば舌を抜かれた。
逃げようと這えば足を切られた。
とうとう這って動くことすら許さないと両腕を落とされた。
そして男に飽きられた。男はなぜか金瑪瑙を入れた人形に執着しだし、ミュイエットはまた競売場にかけられる。
今度は魔導機械の研究者だと言う男に買われた。
だけどミュイエットは彼がどのような見た目をしているのかさっぱり分からない。でもそれで良いと思った。
どうせまた辛くて苦しく痛いことしかない日々がやって来るのだと諦めが勝ってしまっている。
新しいご主人様となった男はミュイエットに酷いことはしなかった。
むしろ高級な硅で切断された傷を覆い、彼女を労る言葉を掛けてくれる。
魔導機械で損なった部分を補い、義肢も着けてもらった。
喉には声帯部分に自動音声生成機を付けられ、声を出せば良い声だと褒められる。
彼は残念ながら目の再生は無理だと言い、代わりに自動で動く良い義手を着ける予定になっていた。
ミュイエットは今のご主人様なら心を熱く震わすことが出来るかもしれないと期待する。
だがやはりそれは裏切られる。加護の瞳を失ったために。
ある日ミュイエットが寝台で横になっていると、男たちの声がした。ご主人様の声もする。
珍しく客人が来ているのだなとそのまま寝た振りをした。ミュイエットはこれまでの買い主たちにより、自分が存在していることを他人に知られることはいけないことだと把握している。
上機嫌なご主人様の声に、ミュイエットは思わず微笑んだ。ところがそれは男の言葉で冷たく固まる。
「奴隷買ったんだってな? 見せてくれよ」
「まだダメだ。今実験中だからな」
「実験中ってあれか? 人と機械の間を探るんだっけ?」
「『機械人形は生きた人間から作れるか』だよ」
――機械人形……私は人形にされてしまうの?
いくら世間知らずのミュイエットでも機械人形は知っている。
――私は私でなくなってしまうの?
ミュイエットは静かに泣いた。今のご主人様は優しい、心を捧げても良いのかもしれないと思っていた矢先だった。
実験、と声には出さず心で呟く。
――聞かなければ良かった。聞かなければ優しい人だと思ったまんま人形にでも機械にでも何にだってなれていたのに!
ミュイエットはむくりと起き上がると、寝台から手探りで離れた。
男はミュイエットの処置が長丁場になりそうな時は、何かを切って食べていた。
確かこの辺り、と寝台から少しずつ歩みを進めて、小さなテーブルに辿り着く。
案の定テーブルには触れただけでそれと分かるナイフが置いてある。
どうせミュイエットは触れないだろう分からないだろうと置いてある。
彼女は思い切り自分の耳にナイフを当てて落とした。
自動音声生成機から激しい叫び声と拾いきれずマイクの音が割れて重なり、悍ましく恐ろしい音を生み出した。
絶望しているミュイエットは残った片方の耳も同じようにナイフを当てたが上手くいかず、ナイフを取り落とす。
男はその音に慌ててミュイエットの元に駆け付けると、嬉々として耳の処置を始める。
招かれていた彼の友人たちは、冗談めかして『人を人形とか面白いよな』などと言っていたが現在実現に向けて実験されているミュイエットを見れば、余りの痛々しさに目を瞑るしかできなかった。
* * * * *
ミュイエットは微笑む。
何の感情もそこにはない。ただ微笑むだけだ。
彼女に跪いていた男は立ち上がり、そうっとミュイエットの耳に両手を当てた。彼の手のひらがほわりと温かい朝焼け色に光る。
「耳を削いでも、中の機能が正常なら聞こえた筈なんだ。あの狂った研究者はね、耳も機械化するためにわざと潰したんだよ」
その言葉にミュイエットがぴくりと反応する。
男は優しく微笑む。
「遅くなってごめんね、ミュリア。離れてから十年は経っちゃったかな? 色々なことがあったんだ」
言いながら、彼は次に喉の自動音声生成機を外して、それがあった部分に手を当てる。
「実はね私には魔力があったんだ。君のお父さんの力を借りてね、魔法学校で学んだよ。死に物狂いで。本当は聖女と呼ばれる人のいる国にお願いするつもりだったんだ。何しろ君のお兄さんを監禁していたせいで被害を大きくしたんだから――だけど僕にもその力があった。彼女よりは弱いから欠損を全て埋めることは出来ないけれど」
そして今度はミュイエットの口に指を突っ込んだ。ミュイエットが噎せそうになるのを宥める。
「ホライアの王家は潰したよ。ダッタリアが中心になって」
男は彼女の口の中に、なくなった筈の柔らかな濡れた舌が戻ったことを確認すると一人納得したように頷いた。
「ホライアの魔女は死ぬまでずっと喚いてた。君のお兄さんのことを好きだったんだって。彼女はね、ある日突然別人のようになったんだって。それで婚約者は怖くなって婚約解消を申し出たんだ」
ミュイエットは何も言わない。
ただ微笑みが揺れていた。怖いのか、嬉しいのか、悲しいのか。男には彼女の気持ちは分からない。
彼は彼女の後ろに回る。
「偽物の目を取っちゃうね? 気持ち悪いだろうけど我慢してね……ああそうそう、ホライアの魔女の話。とにかく婚約解消がトリガーだったらしくて、彼女は狂ったんだ。その怒りの矛先はなぜか転入生の少女に向けられた。ちなみに君のお兄さんは少女を保護する教主国へと送り届けただけなんだよ」
男は義眼を取り出すと、用意してあった小皿に置く。そのまま今度はミュイエットの隣に置いてあった物に被せてある布を外した。
それは小さなミュリアを生き写しにしたような人形。金瑪瑙の虹彩を持つ瞳の入った人形だ。まるで生きているような生々しさを感じる。
男は人形の瞳を傷付けないよう取り出す。それは防腐処理と一緒に傷付かないよう防護処理もされていた。この人形は持ち主の魂を吸い取るという曰く付きで競売場にかけられていた。
彼は長く息を吐いた。彼の使う高等な魔法はただですら酷い疲労があるのだが、それをずっと流しているから軽く目眩もする。
けれどもやめない。ミュリアがミュイエットとして受けてきた傷は、彼の目眩や魔力切れ程度とは比べ物にはならないのだから。
「ミュリア、お兄さんが君に謝りたいって。お兄さんはね悪くないんだ。命を狙われている女の子を守って教主国へ送り、頼まれ留まっただけ。教主国がそれを各国に伝えようとした時にはホライアの魔女たちによるチカチスの蹂躙が始まっていた」
男は人形から取り出した金瑪瑙の瞳をミュイエットにそっと入れると、目隠しをするように手のひらで目を覆う。
じんわりと彼の手のひらは光る。
ミュイエットの顔からは微笑みが消えていた。
代わりにうっすら怯えたような恐れを含んだ表情が見える。
「教主国がお兄さんを押し止めたんだよ。彼が情報を漏らせば教主国も消える、彼が教主国にいるとバレても消える。だから彼らはお兄さんを監禁していたんだ、ホライアの魔女が消えるまで」
男は魔力が底をつきそうになる苦悶に耐えた。汗が滴り落ち服にポトリと染みを作る。また長く息を吐いて何度も深呼吸する。
「もう少しだから、我慢してね。ああ、君を見つけることになったのは密告が切っ掛けだよ。『ある魔導機械の研究者が違法手術している』ってね。この国では奴隷や人身売買競売場は違法じゃないから難しかったけど、その密告のお陰で君を見つけて取り返すことができた」
目蓋に当てた手が殊更強く光る。
「――あとはカーナくらいかな? カーナのことは憎い?」
男が聞くと、ミュリアが微かに身動いだ。男は目を閉じる。
手のひらから流していた魔力がやんわり押し戻される。これは彼女への治療が終わったということ。
彼は手の目隠しを外さないまま、ミュリアに言う。
「久しぶりだから声を出すことを忘れたのかもしれないね。『はい』なら一回『いいえ』なら二回まばたきしてごらん?」
彼の手にややあって二回睫毛が大きく触れる感触があった。
「……そうか……うん。実はねカーナは駆け落ちしてしまったんだ」
男はすらすらとカーナの経緯を語る。それまであった男の感情はそこに全く込められておらず、まるで用意していましたと言わんばかりに語られる内容に、ミュリアは語られたものとは別の行く末が見えたようで切なくなった。
だがそれは責められない。彼がミュリアを慮ってのことだから。
ミュリアを人形ではなく人だと思っているからこその気遣いだ。彼女は捨てた感情をしばらく振りに取り戻した心持ちになる。
「――私が誰か分かる?」
男はミュリアの目隠しを外す。そっと首を横に振ると、男がまたミュリアの前に移動して跪くのが分かる。
「……できれば私を見てほしい。人の悪いものを見続けてきて、もう見たくないものばかりかもしれない。君の瞳を戻した私を恨むかもしれない……だけど」
男は震えていた。
「許してミュリア。私は君の笑顔が見たい。君の金瑪瑙が光り輝いて私を映すのを見たいんだ。こんな私の我儘をどうか許して……」
男の懇願にミュリアの胸が熱く震えた。
ない筈の腕が激しく脈打つ心に手を当てているように感じる。
目蓋が震えるのが分かる。
塞き止めるものは何もない、溢れこぼれる涙が分かる。
ミュリアはゆっくりと目を開けた。
その瞳に飛び込んだのは白。
彼の瞳が大きく見開かれる。その色は涼やかな薄い水色。
「マフル……? マフルなのね?」
ミュリアがそう呟くと同時に、マフルは彼女を強く抱き締めた。
もう絶対に離さないと何度も呟くマフルの胸の強い響きを聴きながら、ミュリアはあの日に感じた心の震え以上に熱く滾る自分と彼の血潮を感じ、うっとりと瞳を閉じた。
* * * * *
たくさんある中から見つけて読んで頂きありがとうございます。
マニアックで重めの恋愛短編を書こうと思ったら削って削って削ったのに2万文字オーバー(※空白含む)の代物に。
連載にすれば良かったんですけど、連載だと他国の動きもガンガン盛り込んでしまうので。
転生した乙女ゲームで上手く行かなかった悪役令嬢・転生はしていないもののプライドズタズタにされたと怒って報復する系を桜江が描くとどうなるか?をやってみた結果です。
私の作品を読まれた方は分かると思いますが、私相当ひねくれてます。
この作品においては悪役令嬢が転生した時点で彼女の破滅は確定していたのかもしれません。自棄を起こさず早とちりをせずにいれば、もしかしたら。
さて。
※劣等感=コンプレックスは物申したい方いらっしゃるでしょう。ですがこれが今回ぴったり来ましたのでお許しを。
※R15と言うことで結構濁したつもりです。
※視神経、声帯等、取り付ける機械などはそういうことが出来るファンタジーで、グロや医療系を目指した訳ではありません。描写の甘さは私の表現力の低さ+R指定ありきと平にご容赦下さい。
気に入って頂けたら☆評価等宜しくお願いします。励みになります。
©️2022-桜江