白雪姫は口付けで生き、吸血鬼は口付けで死ぬ。
青く生い茂る草原を駆け抜ければひっそりと寂しそうに佇む大きな洋館が現れる。まるでその館を隠すみたいに植えられた木々は咎めるように重く空を閉ざした。
「ここか……」
ぽつりと呟けばその主そのものを攫ってしまうような風が吹き抜ける。少女は顔を上げた。この場にはそぐわないひまわりのような笑顔でその黄水晶に似た瞳に星を瞬かせた。
「こんにちは! ねえ一緒に遊ばない?」
その日からその少女は毎日同じ時間に訪れ、毎日同じ笑顔で、毎日同じ元気な声で、毎日同じことを言った。決して開くことのない古びた二階の部屋の窓に向かって。はっきりとは見えないがそこの部屋に誰かが住んでいてちゃんと少女のことを見ていることを少女は知っていた。それでも窓は風の通る隙間もないほど、ぴっちりと閉ざされている。少女からは人影すらも拝めない。しかしめげずに根気強く少女は何度も何度も遊びに誘った。
「こんにちは! ねえ……いややっぱいいや。きっと君は私のこと好きじゃないんだね。ならもういいや。迷惑なことしてごめんね。じゃあね!」
その日、彼女の習慣が途切れた。ひまわりのような笑顔は寂しそうな顔に変わり、明るい声は微かに震えていた。変わらず輝いて見える少女の瞳の輝きの根源は今日だけは今にも零れ落ちそうな涙だった。
「……」
俯きもと来た道に引き返す少女を二階から見ていた人物が慌てたように窓に映る場所に移動した。それを見計らったように少女は振り返りにっこりと笑う。いつもと同じ、そればかりかそれ以上に輝かしい笑顔だった。
「ふふ、引っかかった! 私が目標を達成する前に大人しく引き下がるわけないでしょ! ねえ! 今日こそ一緒に遊ぼうよ!」
驚いたように二階にいる人物は目を丸めた。少女にはそれがよく見えた。そして思う。ああ、やっぱりちゃんと聞こえていたんだ、と。
「ね! 君の知らないとっても楽しいことをたくさんしよう?」
そう笑いかけた途端二階の部屋の人物は姿を消した。
「あー逃げちゃった……でもまあ……いいか……だって聞こえてたんだもん」
そう一人呟いて、少女は歩みだした。今度は戻るべき場所に続く道ではなく、屋敷に入るための道のほうへ。ノックをし、返事を聞くより先に少女は重厚な扉を開けた。か弱そうな見た目に反し重いだろう扉をいとも容易く開ける。
「えーっと階段はどこかな」
暢気な声で明かり一つついていない屋敷の中を見回す。するとがしっと誰かに腕を掴まれた。
「勝手に入られては困ります。お引き取りください」
「? だあれ? 私は君には用がないの」
少女は不機嫌そうな声で答えた。暗闇の中でかろうじて見えた彼女の服装からしてこの屋敷の使用人だろう。
「あなたになくても私にあるんです。どうかお引き取りください」
「ねえ君使用人でしょ? ならあの子に会わせてくれる?」
「いったい誰のことでしょう」
使用人はとぼけたように首を傾げた。
「あの子はあの子よ。二階の部屋にいる女の子」
「そんな方はいません。見間違いでしょう。あなたが会いたがっている方はいらっしゃらないのですから用はないでしょう。早く帰って……」
「ねえ私はこの屋敷に自由に出入りできないけれどどうして君はできるの?」
幼い子どもが親に何でもかんでも尋ねるように、少女はそんな幼子に似た純真さで使用人に尋ねた。使用人は戸惑った。
「それは私がこの屋敷に仕える使用人だからでしょう。何を当たり前のことを……」
「つまり使用人ならこの屋敷に出入り自由ってこと? じゃあなるよ、使用人。いいでしょ? よろしくね、先輩」
腕を掴む彼女の手を振りほどき代わりに握手を求める。
「何を言って……この屋敷は新しく使用人を雇うつもりはありません」
「そう? なら君が何らかの理由で休養しなければいけなくなってその代理として私が雇われるのなら何も問題はないかなあ」
すっと月のように絶えずきらめいていた彼女の瞳から色が消える。思わず使用人は後退してしまう。
「何を馬鹿なことを……」
「え~私、こう見えて結構頭良いんだよ?」
毎日見せていた眩い笑顔の面影もなく、温度のない表情で少女は言う。するとかつかつとヒールが床を叩く音が屋敷に響いた。
「……何を、しているんですか」
綺麗な声だった。背後から聞こえたその声に少女はそれが誰の声なのかすぐにわかった。
「やっと会えた! こんにちは! この使用人さん、全然話が通じないの。クビにしてもらった方がいいんじゃないかな?」
「ふふ、そんなこと言わないでください。私が物心つく前からお世話になっている大切な人なんですから」
穏やかな調子で彼女は笑った。
「ああ、それはごめんなさい。まあいいや。いまはそんなことどうでもいいの。ねえ早く一緒に遊ぼう? なんだってできるんだよ」
「なんだって……?」
興味が湧いたのか彼女は少女の言葉を繰り返した。
「そう! なんでも! 泉でボートに乗ったり、森にピクニックに行ったり!」
「外で……遊ぶのですか……?」
「いけません、お嬢様」
きつくなった口調で低く使用人が咎める。むかっ腹が立ったのか少女は使用人のほうに向きなおって言った。
「君は使用人でしょ? 使用人が主の行動に口出ししていいと思ってるの?」
「私の主はお嬢様ではなくこの屋敷の当主様です」
冷たく使用人が言い放つ。
「そう…………なら仕方ないか。じゃあ部屋の中で遊ぶ。それならいいでしょ?」
「えっ? そういうわけでは……」
戸惑う使用人は放って少女は彼女の手を取った。彼女が慌てて少女の顔を見てみればいつもと変わらぬ輝かしい笑顔だった。
「さあ君の部屋を案内して! 暗くてよく見えないの!」
あははと少女が大きく笑い、彼女もつられて笑みを零した。
「今使用人にお茶を用意させますね」
「そんなことする必要ないよ」
「え?」
彼女はきょとんと眼を丸め少女を見た。そして少女もまた不思議そうに眼を丸めていた。
「ああ、もしかして本当に部屋で遊ぶと思ったの?」
「違うんですか?」
「だって君が外で遊びたいんでしょ?」
彼女はぱちぱちと瞳を瞬かせた。にやりと笑んだ少女に唖然とする。
「そんなこと私言ってない……」
「言ってないから伝わらないと思ったの? それで、どっちなの? 外で遊びたいの? 遊びたくないの?」
「あ、遊びたい! です!」
僅かに赤くなった頬で前のめりになって答える。その答えに少女は満足そうに眼を細めた。
「よくできました。なら」
少女は窓のほうに近づき壊れかかった古い窓を力ずくでこじ開ける。少し冷たい風がきれいな少女の長い髪を揺らす。夢を見ているような、きれいな金色だった。暗い暗い夜空に瓶に詰めた星屑を落とすような光景だった。
「飛ぶよ」
少女の美しさに見とれていたが放たれた言葉に我に返る。
「え? 飛ぶ?」
戸惑う彼女の疑問は解消してあげずに少女は窓枠に足をかけそのまま勢いよく飛び降りた。
心配して見下ろしてみればなんてことないように彼女は笑っていた。そして大きく腕を広げる。
「安心して! 君のことは私が受け止めてあげる!」
自信にあふれたその表情はなぜか安心できるもののような気がした。しかし彼女の表情はいまだ晴れていなかった。
「で、でも……」
「大丈夫! ちゃんと日傘は持ったから!」
「え?」
少女の言葉に彼女は目を丸め少女を見つめた。ほら、と優しい表情で少女は急かす。意を決して彼女は口をぎゅっと閉じた。
先ほどの少女をまねて窓枠に足をかけ飛び降りる。下を見るのは怖いから目を閉じながら。
彼女が落ちている最中、一陣の風が吹いた。その風が彼女の背をそっと悪戯に押す。
「え?」
「わっ、ちょっと待って……っ!」
待ち構えていた少女は予想外のことに慌てて彼女の落ちるだろう場所に移動する。「ぎりぎり間に合った……」少女は小さくそう零し溜息を吐く。
勢いよく落ちてきた彼女は少女とともに地面に倒れてしまった。
「間に合ったんですか、これ……?」
ゆっくりと体を起き上がらせながら少女に聞く。
「まあケガしてないから大丈夫じゃない? ふふ、結構やんちゃさんだね」
「……風のせいです」
頬を膨らませて彼女はそっぽを向いてしまった。
「あはは、人のせいにしちゃいけないんだよ?」
「もう、あまり茶化さないでください。嫌いになりますよ」
「それはだめ!!」
適当に零した一言に少女はやけに反応し、涙目になる。その変わりように思わず吹き出してしまった。
「ふっ、ふふ。変な人ですね、あなた」
「そんな私と話してる君も十分変な人だよ。……遊ぼっか」
優しく目を細めて少女が手を差し出す。同じくふわりと笑った彼女はその手に自分の白い手を乗せた。日の光なんて知らないような、いっそ気味の悪いほど白い肌だった。
「ええ、遊びましょう」
その日、少女たちは近くの湖まで歩き、ボートに乗った。最初は彼女が扱いでいたがすぐに根を上げ少女が代わった。終始二人は笑い合っていた。気づけばあっという間に日が暮れ、慌てて屋敷に戻った。お別れの前には明日も遊ぼうね、とどちらからともなく約束をした。約束通り、翌日も少女はひまわりのような笑顔で屋敷を訪ねてきた。その日も同じ約束をし、解散した。そうして二人は毎日のように仲良く遊んだ。
丁度二人が遊び始めて一か月が経った日、少女はどこか得意げな表情をしていた。素敵な秘密ごとを隠しているような、そんな表情だった。尋ねれば少女は待ってましたと言わんばかりに緩んだ頬で教えてくれた。
「あのね! 今日はお泊りしようと思うの!」
「おと……まり……?」
少女の提案に彼女は首を傾げた。
「一度してみたかったんだ~。仲のいい友達とおしゃべりしながら夜を明かすの!」
「とも、だち……」
「? どうかした?」
何か嬉しいことでもあったのか、頬をほんのり赤らめ瞳を輝かしている彼女に少女は尋ねる。慌ててなんでもない、と首を振って話を戻した彼女だったが少女の言った友達という甘美な響きを嚙みしめていた。
「いいですね、お泊り。ぜひしたいです」
「ふふ、でしょ? 君ならそう言うと思った」
嬉しそうに、少女は目尻を下げて笑った。
「ねえ、もう寝ちゃったの?」
寝間着に着替えこれから朝が来るまでたっぷり話そうと思っていたというのに彼女はすやすやと寝息を立てて寝てしまった。夜行性だと自分で言っていたというのにもう寝てしまった彼女に少女は頬を膨らませた。
「もう、全然夜行性じゃないじゃん。嘘つき。これから恋バナの一つや二つしようと思ったのに……いや、この子にそんな話あるわけないか。私もないし……もう、明日絶対怒ってやる」
そう呟きながら少女はベッドを降りた。
小さなサイズの拳銃を寝ている彼女の胸に向ける。引き金を引けば瞬きする間もなく、彼女は死ぬだろう。ごくりとつばを飲み込んだ。伝う汗は伝うままにする。
そっと引き金を引く。
「ばーん」
綺麗な声だった。おどろおどろしい銃弾の音ではない。綺麗な、女の子の声だ。驚いて少女は彼女を見た。
「おはよう。目が覚めちゃいました」
「起きてた、の……? じゃ、なくて……なんで銃……弾切れ……? なんで……」
戸惑う少女のことを優しいまなざしで見つめ彼女は目を閉じた。長い睫毛は桃色の頬に影を作る。
「知っていますか? 銃は弾がないと人を殺せないんです」
「そんなの、知ってるに決まってるじゃん……」
掠れ気味の当惑した少女の声に彼女は慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「そして吸血鬼は銀の弾丸でなければ死にません」
「! それ……気づいて、たの?」
吸血鬼は少女の問いには答えなかった。
「ただ私はつよ~い吸血鬼なので銀の弾丸でも死にません」
「なに、それ……」
「でも……そうですね。誰にだって弱点の一つや二つあるものです」
ゆっくりと瞳を開け、表情の消えた少女に微笑みかけてからまた赤い瞳を閉ざす。
「弱点、知りたいですか?」
「……知りたいと言えば君は教えてくれるの? そんな馬鹿じゃないでしょ?」
自棄になったように少女は誰に向けるでもなく嗤う。
「教えますよ、あなたになら。あなたは特別なんです。……私はあなたに殺されたい」
少女はようやく俯いていた顔を上げた。優しい笑みの吸血鬼に出会う。まるで女神さまのような、吸血鬼らしからぬ笑顔。あの白磁の手がふっくらとした少女の頬に添えられる。
「私はあなたに殺されたい。そしてあなたは吸血鬼を殺したい。――教会を追い出された元シスターさん」
「っ、元なんかじゃ……」
泣きそうな声で否定する。唇を嚙みしめることしかできなかった。
「元ですよ。私は何でも知っています。これでも私、かなりの年なんですよ」
「それは、そう思う」
「失礼な子ですね。まあいいですが。それで? あなたは私を殺してくれますか?」
どこまでも優しい目で吸血鬼は問う。
「どうして、私なの? ほかのだれかに頼んでよ」
「あなたにしか頼めないんです。……強い吸血鬼はですね。愛した者の口付けでないと死ねないんです」
「……は?」
まん丸い瞳をより丸くして吸血鬼を見る。嘘をついているようには到底見えなかった。
「毒林檎を齧ったあの子は王子様――愛した者の口付けで息を吹き返しました。けれど私は吸血鬼ですから。悪者の私は愛した者の口付けで死ぬんです。面白いでしょう?」
ふふ、と鈴を転がしたような声で吸血鬼は笑う。細められた瞳はどこまでも赤く真意は読み取れない。まるで血のように、深く赤に染まっている。見つめれば見つめるほど毒を増すように林檎色の瞳は濃くなっていく。そもそも吸血鬼の真意などそこにはないみたいだった。
「言っていませんでしたが私はあなたのことを愛しています。知っていますか? 吸血鬼の愛は醜いんです。あなたのことが愛しすぎていっそ殺してしまいたい。……冗談ですよ。遠ざからないでください」
頬を膨らませた彼女は見た目通りの可憐な少女らしかった。
「……そんなに君は死にたいの?」
その質問は想定していなかったのか吸血鬼は僅かに目を丸くした。それから何が可笑しかったのか笑い出す。ひとしきり笑うとどこか寂しそうに眼を細めた。
「死にたいですよ。何百年もずっとそう思っています。でも私、人を愛したことがなかったから。死ぬに死ねなかった」
「そう……でもどうして私の銃から弾を抜いたりなんてしたの?」
「確かに私は死にませんしすぐに修復できますが心臓に穴が開くのは嫌じゃないですか。痛いのは嫌いなんです」
「なにそれ。変な人。大体君のこと殺そうとしてる人のことなんてどうして好きになるの」
吐き捨てるように言う。
「欲望丸出しで人間らしいから、でしょうか。私、人間が大好きなタイプの吸血鬼なんですよ」
「ふざけたこと、言わないでよ」
少女の眉間に皺が寄る。
「言ってませんよ。本心です。本当に人間が大好きなんです。だけど人間は吸血鬼なんて好きになってくれない。でもあなたは違ったんです。自分の利益のためとはいえ私をどこにでもいる普通の女の子として扱ってくれた。友達って言ってくれました。そんな子のことをどうして好きにならないでいられるんです? 私には無理でしたよ」
「何、言って……ほんと、意味わかんない」
「わからなくてもいいです。あなたが私に口付けすればすぐにわかりますから」
にっこりと静かに笑う。絵画から出てきたような、完璧なその美しい笑みに思わず後退ってしまう。
「ねえ、お願いですから私があなたのことを愛していると証明させてください。私の死体を持って帰ればあなたは教会に戻ってこられます。それに……私の財産もすべてあなたに差し上げます。一生遊んで暮らせる、それでも有り余るような大金です。だから……」
必死にまくしたてられても何も理解できない。彼女が何かを言う度、自分のことを何一つ理解されていないことを思い知らされて、苛立つ。
自分の手首を掴む白い手を乱暴に振り払った。
「……? どうしましたか?」
「……っ!」
きっと吸血鬼のことを睨みつける。しかし何もわかっていない赤い瞳を見てしまえば何もかも馬鹿らしくなった。大きなため息を吐き出す。
「?」
「……好きな人としかしたくない……キス……」
ぶっきらぼうにそう言って吸血鬼から視線を逸らす。ふふっ、と笑い声が聞こえた。
「ならあなたに私を好きになってもらわなければいけませんね。私の余命、結構伸びちゃいました」
へにゃりと笑った彼女を見れば表情が剥がれ落ちる。
――ああやっぱり、何もわかってない。
「君は長生きするんだろうね」