泉 鏡花「春昼後刻」現代語勝手訳 三十二
三十二
「女中が直ぐに出なかったんです」
『ねぇ、助けておくんなさいな、お御酒を頂いたもんだからね、声が続かねぇんで、えへ、えへ』
と、厭な咳なんぞして、
『やっておくんなさいよ、飲み過ぎて切ねぇんで。助けておくんなさい、お願ぇだ』
と言って、独り言のように、貴下、
『やり切れねぇや』ッて、ほんとに、ふてぶてしい容子ったらないんですもの。そこらへ、ペッペッと唾を引っ掛けていそうですわ。
小銭の音をチャラチャラとさせて、女中が出ようとしましたから、
『光かい、光や』
と呼んで、二階の上がり口へ来ましたのを、押し留めるように、床の中から、
『何だね』
と、自分でも些と尖々しく言ったんです。
『門付けでございます』
『芸人かい!』と、私があまりにも強く言ったので、
『はい』
ッて吃驚していました。
『不可いよ、やっちゃ不可い。
芸人なら芸人らしく芸をして銭をお取り、とそうお言い。出来ないなら出来ないと言って、物乞いにおなり。なぜ、また自分の芸が出来ないほど酒を飲んだ、と言っておやり。いけしゃあしゃあと失礼じゃないか』
と、むらむらして、どうした訳か、じりじりと胸が煮え返るようになって、そう申し付けますと、窃と足音を忍んで、光は二階を下りましたっけ。
お恥ずかしゅうございますわ。
私の声が甲高かったみたいで、下まで聞こえたようです。表二階に居たんですから。
『何だと!』
と、門口で喰ってかかるような声がしました。
枕をおさえて起き上がりますと、女中の声で、ご病気なんだからと、こそこそ言うのが聞こえました。
すると、嘲るように、
『病人なら病人らしく死んじまえ。治るもんなら治ったらよかろう。何だって愚図ついて、煩っているんだ』
と、赭ら顔なのが白い歯を剥き出しているようです。はぁ、そんな気持ちがしましたの。
『おぉ、死んで見せようか、死ぬのが何も……』と、つっと立つと、ふらふらして床を放れて倒れました。外縁へ続く段へ裾を投げ出し、欄干につかまった時、雨がさっと降って、暗くなり、私は一人で泣いたんです。それッきり、声も聞こえなくなって、門付けはどこかへ行ってしまったようでした。雨も上がって、また明るい日が当たりました。何ですかねぇ、その男は十文字に小児を引背負って裸足で歩行いている、四十がらみの、巌乗な、絵に描いた、赤鬼と言った姿であったように、今こうやってお話をしているうちにも想像してしまいます。女中に聞いた訳でもございませんのに。――
またもうそのまま寝床へ倒れ込みましょうかと思いましたけれども、そうしたら気でも違いそうですから、ぶらぶら日向へ出て来たんでございます。
否、はじめてお目にかかりました貴下に、こんなお話を申し上げるくらいですもの、もう気が違っているのかも知れませんが」
と言いかけて、散策子を見詰めたが、美女の心が籠められているようで、その目の色は何とも言えぬほど美しかった。
「貴下、後の世というものは本当にあるものでございましょうかしら」
「…………」
「もしあるのだと極まっておりますなら、地獄でも極楽でも構いません。逢いたい人がそこに居るんでしたら、さっさとそこへ行けばよろしいんですけれども」
と、土筆と同じくらいの白い指で、また茫然と草を摘み、摘み、
「必ずそうだとは極まっていませんから、もしか、死んでそれっきりになっては情ないんですもの。そのくらいなら、生きていて思い悩んで、煩って、段々消えて行きます方が、いくらかましだと思います。忘れないで、何時までも、何時までも」
と言い言い、抜き取った草の葉をキリキリと白歯で噛んだ。
が、途端に慌ただしく、男の膝越しに衝と袖を伸ばした。その袖の色も、帯の影も緑の中に鮮やかに映ったかと思うと、美女は溌と活々とした表情になり、蓮葉な物言いで、
「いけないわ。もう、人の悪い」
と言ったが、それは、散策子が先ほどの質問の答えに窮し、草の上に無造作に投げ出されてあった、オリーブ色の上表紙に、とき色のリボンで封のあるノートブックを指先で弄んでいるのを美女が見たからである。
つづく