泉 鏡花「春昼後刻」現代語勝手訳 二十八
二十八
南無観世音大菩薩………お助け下さいませと、散策子は心の裏で唱えた。九字を切って、これまで保っていた気持ちも構えも、美女のこの行為で粉々に砕け散った。
「お足袋が泥だらけになりました。直きそこでございますから、ちょいと持ち帰って、濯がせましょう。お脱ぎなさいませな」
と、指を掛けようとする足袋の爪尖を慌ただしく引っ込ませる時、身体を引いて、今度はちゃんと背中を土手へ寝るくらいに、ばたりと腰を掛ける。暖かい草が、首筋に赫と火照って、汗びっしょりとなり、真っ赤な顔をして、目をちょろつかせながら、
「構わんです、構わんです、こんな足袋なんぞ」
ヤレ、また落語の前座が言いそうなことを、と内心ヒヤリとしながら、ようやくしっかりと瞳を定めて見ると、美女は刎ね飛んだ杖を拾って、しなやかに両手でついて、悠々と立っている。
羽織なしの引っ掛け帯で、緩やかな袷の着こなしが、今の身じろぎで、片前下がりになっている。友染の紅の匂いがこぼれ、水色縮緬の扱帯の端の少しずり下がった風情は、杖には似合わないだけに、まるで杖が人質に取られた格好に見える。――可哀想に、持ち主の身代わりとなって、恋の重荷でへし折れるのではないか。
「本当に済みませんでした」
と、美女はまたもや先を越して、
「私、どうしたら可いでしょう」
と、思い悩んだ目を半ば閉じて、物憂げに、目の見えない者が溜息をつくように、どこか哀れさを誘う風な物言いで、
「うっかり飛んだことを申し上げて、私、そんなつもりで言ったんじゃありませんわ。
貴下のお姿を見て、それから気分が悪くなりましたって、言葉通りのことが、もし本当なら、どうして口へ出して言えますもんですか。貴下のお姿を見て、それから気分が悪く……」
と、再び口の裏で繰り返してみて、
「おほほ、まぁ、大概お察し遊ばして下さいましなね」
と、親しげにさし寄って、袖を土手へ敷いて凭れるように並んで坐った。春の草は、その肩辺りを翠に仕切って、二人の裾は、足許に広がる麦畠に向かい合う格好である。
「そういうつもりで申し上げたんでございませんことは、よく分かってますじゃありませんか」
「はい」
「ね、貴下」
「はい」
と、何も考えずにそのまま頷くと、まだ気持ちが済まないらしく、
「言葉咎めをなすってさ、本当にお人が悪いよ」
と、変に搦む。
これには、少しばかり言わなくてはと、横を見向いて、
「人の悪いのは貴女でしょう。私は何も言葉咎めなんぞした覚えはない。気分が悪いとおっしゃっるから、おっしゃる通りに受け取りました」
「そして、腹をお立てなすったんですもの」
「否、恐縮をしたまでです」
「そこは貴下お察し下さるところじゃありませんか。
言葉の綾もございますわ。朝顔の葉をご覧なさいまし。表はあんなにうすっぺらなもんですが、裏はふっくりしておりますもの。……裏を聞いて下さいよ」
「裏だって……ちょっとお待ちなさいよ。えぇ……」
呼吸継ぎをしようと、目を瞑り、仰向いて一呼吸ついて、
「反対なんだから、私の姿を見ると、それから気分が善くなった――ということになる――いい加減になさい、馬鹿になさって」
と、極め付ける。但し、笑いながらである。
すると、美女は清しい目で屹と見て、
「難しいのねぇ……。ああ言えば、こうおっしゃる。貴下、弱い者をお苛めなさるもんじゃないわ。私は煩っているじゃありませんか」
そう言って、草に手をついて膝をずらし、
「お聞きなさいましよ、まぁ」
と、恍惚したように笑みを含む口許は、鉄漿をつけているのではないかと思われるほど、婀娜っぽいものであった。
「まぁ、たとえば、私に、恋しい懐かしい方があるとしましょうね。可うございますか」
つづく