泉 鏡花「春昼後刻」現代語勝手訳 二十七
二十七
「先刻の、あの青大将のことなんでしょう。それにしても、よく私だというのが分かりましたね。驚きました」
と、すぐにでも遁げ出せるような構えになると、美女はなおも打ち微笑んで、
「そりゃ知れますわ。こんな田舎ですもの。そしてご覧の通り、人通りのない所じゃありませんか。
貴下のような方の出入は、今朝ッからお一人しかありませんもの。ちゃんと存じておりますよ」
「では、あの爺さんにお聞きになって」
「否、私どもの石垣の前をお通りになった時、二階からお見かけいたしました」
「じゃあ、私が青大将を見た時に」
「貴下のお姿が楯におなり下さいましたから、その時も、厭なものを見ないで済みましたわ」
と、小首を傾げて、どこか慕うような風情。
「ですが、貴女」と、つい、うっかり言ってしまったので、
「はい?」
と、促すように言いかけられ、ハタと行き詰まったらしく、杖をコツコツ突きながら、強く瞬きを一ツして、唇を引き緊めた。
美女はやんわりと、
「何でございますか、聞かして頂戴」
と、あでやかな表情で詰め寄る。
散策子は慌て気味に狼狽つきながら、
「貴女は、貴女は気分が悪くって、寝ていらっしゃった、というじゃありませんか」
「あら、こんな風に甲羅干しをしておりますのに」
「はぁ……」と、ここを通らねばならない散策子は目を睜って、あぁ、我ながらまずいことを言ったという顔付き。
美女はその顔を差し覗くように、瞳を斜め上に衝と流しながら、華奢な掌を軽く頬に当てると、袖元の紅がひらり、搦んだかと思うと、雪のような白い腕を辷る音がさらさらと衣擦れして。
「本当は寝ていましたの……」
「何ですッて」
と、苦笑い。
「でも、その時は寝ていやしませんの。貴下、起きていたんですよ。あら……」
と、やや声の調子も高くして、
「何を言ってるんだか分からないわねぇ」
馴れ馴れしくそう言うと、急に胸を反らして、すっきりした耳許を見せながら、顔を反向けて俯向いたが、そのまま身体の平衡を保つように、片足をうしろへ引いて、立ち直って、
「否、寝ていたんじゃなかったんですけども、貴下のお姿を拝見しますと、急に気分が悪くなッて、それから寝たんです」
「これは酷い、酷いよ、貴女は」
散策子は美女にぶつかるほどに、つつと詰め寄り進んで、
「じゃ、青大将の方がましだったんだ。だのに、わざわざ呼び留めて、災難を免れたとまで大袈裟に言って、礼なんぞおっしゃって。元々、私は余計なお世話だと思ったんだ。ご婦人ばかりのお住居だと聞いただけでも、ますます極まりが悪くって、ここだって、貴女、こそこそ遁げて通ろうとしたんじゃありませんか。それを大袈裟に礼を言って、極まりを悪がらせた上に、『お姿を拝見して』とはどういうことです。幽霊じゃあるまいし、気分を悪くする姿というのがありますか。図体とか、状態とか言うものですよ。その私の図体を見て、気分が悪くなったとは些ときつ過ぎる。そのために寝付いたとは、あまりにも酷いじゃありませんか。
要らんお節介を申し上げたのが、面白くなかったらそうおっしゃい。このお関所を謝って通して頂く。――勧進帳でも読みましょうか。それでも駄目なら仕方がない。元の巌殿へ引返して、山越えで遁げ出すだけのことです」
と、反撃する気持ちで、そう言った勢いに、どかと土手の草へ腰を掛けたつもりだったが、負けまいと、魔物の顔を見詰めながらだったので、その横に坐ろうとしたはずの腰が据わらず、床几を辷って、ずるりと大地へ。
「あら、お危ない」
と言うが早いか、霞を抜けたような眩いばかりの極彩色が散策子の目の前に現れた。美女がすぐに友染の膝を乱して、それを直しもせず、はらりと跪いたのである。片手で男が踏み外した下駄を一ツ、前壺を押して寄越すと、扶け起こすつもりであろう、もう片方の手が薄色の手巾と共にひらめき、芬と薫って、優しく男の背にかかった。
つづく