泉 鏡花「春昼後刻」現代語勝手訳 二十六
二十六
斜めに翳し置かれた紫の傘には、あの紫苑の花に寄って来る、黄金虫の翼のような煌々とした日の光が射し込んで、草の中に輝くように見える。
その蔭から、よろけ縞模様のお召し縮緬が、波形の線も見えないくらいにぼんやりと、しなやかな裳裾で、婀娜っぽく土手の翠を左右へ振り分けたが、油のようにとろりとした雨上がりの路との間に、細い褄先が柔らかくしっとりと、あるかなしか、内端に掻き込んだ足袋で留まって、そこから膝まで襦袢の友染がゆったりと捌かれている。美女は雪駄を一ツだけ土に脱いで、片足はしなやかに、草に曲げているのである。
その前を通ろうとして、散策子は思わず立ち淀んだ。下衆な輩との賭け事に負け、鬼が出る宇治橋(*1)の夕暮れを、ただ一騎、東へと馬を走らさねばならない思いであった。
このように意を決して近づいた足音も、その紫の傘を小楯にして、土手へ悠然と朧に投げ出された、艶にしてその圧倒的な緋の袴の前では、小波を寄せるほどの微かな響きすら与えられなかったのである。しかし、散策子は一ツ胴震いをして、立ち直り、思わず肩を聳やかすと、杖をぐいと振り、心の裡で『臨,兵,闘,者……』と九字の呪文を唱えた後、意を決して、つかつかと通った。
路は、ああ、しかし、鬼の脱いだその雪駄を跨がねばならないほど狭い。実際、一方は海の方へ、一方は橿原の山里へ、一方はやって来た方の巌戸になる。久能谷のこの出口は、あたかも、T字の形をしているのである。前は一面の麦畠。
正面の青麦と対峙した時、散策子の顔はまるで酔っているようであった。
南無三、声がかかった。それ、言わぬことではない。
「…………」
一思いに遁げることも出来ず、立ち止まった彼は、馬の尾に油を塗っておき、尾を鷲掴みされても、掌を辷り抜けるようにしておかなかったことを、どれほど口惜しく思っただろう。
「私?」
と、振り返って、
「ですか?」と言いながら、一目見たのは、宇治橋に出没する、頭が禿げ、歯を剥き出しにした怪物の姿ではなかった。射し込む日の光を受け止めた紫の傘の影を籠めた俤は、まるで几帳に映り込んだ月の影の風情。雲のようにふわりとした鬢、星のように煌めく簪、紅花を思わせる唇、美しい眦。細くしなやかな腰を草に縋るようにして、鼓草の花の中に浮き出た様子は、まさに虚空に浮かんでいるのではないか、と見間違えるほどであった。
白魚のような指が、ちょいと、紫紺の半襟を引き合わせると、美しい瞳が動いて、
「失礼ですが……」
と、ただ莞爾する。
散策子は、ただ「はぁ」とだけ言ったが、どうかした時のために、自分の周りに遁げ路はないか見ておく、といった構えである。
「貴下、お呼び留め申しまして」
と、ふっくりとした胸を上げると、少し凭れかかって土手に寝るようにしていた姿を前へ起こした。
「はぁ、何」
と、散策子は真顔になって、
「私ですか?」と、空とぼける。
「貴下のようなお姿だ、と聞きましてございます。先刻は真にご心配下さいまして」
雪のような白足袋で、脱ぎ棄てた雪駄をしなやかに引き寄せた時、襦袢の友染がはらはらと乱れ、模様の花が目の前に立って、ぱッと留南奇(*2)の薫りがした。
美女は立ち直って、
「お陰様で災難を」
と襟首を見せて頭を下げた。
その時、独りの武者になったように散策子は、杖を脇に挟み、兜ならぬ帽子を脱いで、
「ええ? 何のことでしょうか」と、はぐらかせた挨拶。
美女は親しげに笑いかけて、
「ほほ、私にはもう災難でございます。災難ですわ。貴下、あれが座敷へでも入ッたのを知らないでご覧なさいまし、当分家を明け渡して、どこかへ参らなければなりませんの。本当にそうなりましたら、どうしましょう。お陰様で助かりましてございますよ。ありがとう存じます」
「それにしても、それが私だと極めたのは?」
と、思っていたことが思わず口へ出た。
しかし、この言葉は少し調子が外れたような気がしたので、訊き返すように、
「えぇと……」
*1:鬼が出る宇治橋……宇治の橋姫。興味ある方はウィキペディアで検索してください。
*2:留南奇……香木
私の読解力が足りないせいもあって、鏡花の情景描写をうまく表現できず、忸怩たる思いでいる。
読めば、雰囲気だけは感じるけれども、それを実際、自分の文章として表そうとすると難しい。