LXⅦ 卍 アニメは子供のものという思い込み 卍
いっこうに考え方が変わらない物事……それは、アニメは子供のものという偏見、というか思い込みであろう。あえて偏見とだけとしないのは、アンチだけに限らず愛好家でさえ意識下ににそんな思い込みを捨てきれず、精神的ブレーキとしている節があるからだ。
1970年代、確かにアニメは「テレビまんが」でありは子供向けに作れれていたのだが、そのおなじ頃、一部のクリエイターはドラマ性重視の作品を作り出すようになった。『あしたのジョー』とか『野球狂の唄』とか……それらはアニメ、ではなくアニメーションをツールとしたドラマ、と捉えるべきなのだ。
ガンダムだってどちらかと言えばそっちのほう。
テレビまんがとは「まったく別のもの」なのだ。
作り手の職場環境が実写畑ではなかった、あるいは技術的に実写ではできない作品だったから、アニメで作るしかなかった、というのが本当のところであったと思う……宮崎御大はアニメーターバカ一代だからちょっと違うんだけども、富野監督や押井監督は実写に行きたがってたし、庵野監督もそうだった。「アニメ」を作りたいんじゃなくて、その都度「作品」にふさわしいツールを選択したかったのだ。
ところが人がアニメを語るとき、それらは全部まぜこぜな前提で語られてしまうので、齟齬が生じる。
『作品』はたんに個々的な作品として捉えるべきで、『アニメ作品』や『実写作品』と分け隔てすべきではない。
マンガはそのバブル期の90年代に「子供の読むもの」という偏見から脱却できたが、本来はそのときアニメの立場も引き上げるべきだった。でもそうはならなかった……だってオタクってアニメが好きで実写より優れてると思ってたもんね。
いっぽうで実写畑方面の根強い敵愾心も働いたためか、日本アカデミー賞など映像作品を讃える場ではいまだにアニメーション賞という「特別枠」に留まっている。このへんが一番深刻です……だって【千と千尋の神隠し】がアカデミーに輝いたときのマスコミ対応が明らかにもてあまし気味だったし。いやその前、【マトリックス】が【攻殻機動隊】を持ってっちゃったときも国内は「???」状態でグズグズしてたし、たぶん【もののけ姫】あたりで是正していれば、アニメは今よりずっと豊かで儲かるものになってたでしょうね……。
そうしてアンチもアニメ好きも現状維持のまま何十年も放置したまま、アニメ屋さんたちの世代交代による純粋培養が進んだ。
結果、「アニメは子供の観るもの」という偏見を自己肯定したような作品ばかりになっちゃった。じっさいゼロ年代と比べても、とくに夜中アニメの幼稚化は顕著でしょう……なんせ大半は夕方に放送してもおかしくない内容だし。
富野監督が危惧した通り「アニメしか知らない」世代がアニメを作ってるため、表現や演出その他、どこか他の媒体から引っ張ってきた、という感覚がほんとに皆無なのね。『ルパン三世』や『キューティーハニー』は古いフランス映画のオシャレ感を引っ張ってきてるし、押井監督は【第三の男】とかのカメラワークを使ってた。いまはそういう外から取り込んだ要素はなく、似たようなキャラでテンプレな話で回すしかなくなった。
外から100取り込んで、それを噛み砕いてひねり出せる発想は10くらいだって、多少謙虚なら分かりそうなもんだけどな。
夜中アニメに不自然な透過光が出現するのも、そうした偏見/思い込みに自縛された、壁を破れない、ようするに精神的に成長できない連中ばかりだからだろう。
本来「ドラマ」として作られた『宇宙戦艦ヤマト』のリメイクに違和感を覚えるのも、『銀英伝』リメイク版のおもな感想が「なんかみんなバスケ上手そう……」留まりなのも、作り手の「大人要素」が欠けてるからかもしれない。
だいたいさ、性描写程度で尻込みするようなナイーブな奴に革新的な作品なんか作れるはずもないよね。「子供の心を持った大人」が真逆の意味になってしまったのが今の世の中。
クリエイターなんて、「ウッシッシッこんなスゲーもん見せちゃうぞ~おどろけ民ども!」的な放火魔かソシオパス気質が必要なんだから。みうらじゅんが言ってたように、子供に適度なトラウマを与えて、内緒的な面白い子にするのが使命みたいなもんだぞ?
表現に気を使ったり配慮を行き届かせるのは仕事じゃない。クリエイターたるもの、ハブに対するマングースか、とにかく想像力不足な若者の情緒を掻き乱し精神的ブレイクスルーに導いてなんぼだ。
ようするに、永井豪を見習え。