L 卍 あるいは私はなぜ意識高い系を捨てて娯楽一筋になったか 卍
祝!はやぶさ2タッチダウン! 祝!50話!
50本でやめようと思ってたけど、ローマ数字ナンバリングが楽になったのでもう少し続けよっと。
昔々銀河の片隅で……
学祭実行委員であるワテクシ、筆者は、学園祭で上映する映画の選定に携わっていた。
私は主張した。「スターウォーズ!スターウォーズ上映しましょうよ!」
……が、先輩諸氏の多数決により上映作品は【雨に唄えば】と【明日に向かって撃て!】の2本に決定してしまった。
で、学園祭当日、映画の来場者は各作品たったのひとり……。
わたしはそのひとりのために16㎜映写機を操作して、孤独な映画祭を堪能したのであった。フィルムレンタル料は1本7万円。なんと贅沢な上映会なのか。
しかし許しがたいのは、その映画をチョイスした奴らのただのひとりも観に来なかったことである。
だったらなんで選んだ!?
(この問題点っていまの人には理解しかねるでしょうが、その頃はなんと!まだレンタルビデオ店がなかったのだ。【スターウォーズ】が観たくてもリバイバルか日テレが放送してくれるの待つしかなかったのです。なんて遠い昔々なのでしょう)
とにかく、この出来事は、その後のわたしの映画ライフにひとつの影を投げかけた。
名作を信奉する連中は、胡散臭い。上記2タイトルも娯楽映画だとは言え、高校生が選ぶものではない。どんだけ背伸びしてんだよ、という。
それが巡り拗れて、評論家が絶賛する映画なんてたいていはクソ。スピルバーグこそ至高!というのが2001年まで続いた。
いまでこそ意識高い系という便利な言葉があるが、とかく邦画界などはいまでも、『地味で、深い』映画を信奉する向きが見られる。リベラルだか左翼だか知らないけどそっち系というか、アカデミーよりパルムドールというか、ストレートな娯楽映画は三下扱いというか。
まあ国内だけではなく、ふた昔まえのアカデミー賞なんかもそんな感じでした。ヨーロッパ的な文芸映画がもてはやされ、若干27歳で【ジョーズ】を撮ったスティーブン・スピルバーグは「重要」と見なされなかった。あの【ET】がおもだった賞に引っかからなかったくらいだもん。
その16㎜事件後、フジテレビが夜中に【ミッドナイトアートシアター】という映画番組をはじめて、マイナーな文芸作品をたった一度のCMを挟んで完全放送した。「アート」と言うだけあって作品は【バグダットカフェ】とか【ストレンジャーザンパラダイス】とか【コヤニスカッティ】とか、そんなカンジよ。
作品を選んでたのは映画専門学校の大先生。その頃わたしはまだ洋画を見てお利口になろうとしていたらしく、夜更かしして一生懸命観ましたよ。3本600円で観れる名画座をハシゴしたり、【存在の耐えられない軽さ】なんかも観に行った。
その結果。
結論。……やっぱ娯楽映画だよ。
みんなさ、意識高い系で批評家のほうばかり見てないで、大勢が楽しめる映画作るべきなんだよ。邦画なんてそれで馬鹿にしてたアニメに逆転されたじゃん?
さらにその後【シンドラーのリスト】で露骨に賞狙いだしたスピルバーグにはガッカリさせられたけれど【ジュラシックパーク】と【プライベートライアン】で尊敬を新たにしましたし……
ただし【ET 20thアニバーサリー】で本気で失望させられたので、以降は「スピ公」に格下げしましたが(それが2002年の出来事)
とにかく教訓的な出来事でした。それが信念となり、読書遍歴も、創作姿勢さえも「まず娯楽たるべき」となった。
実際それが間違っていたと思うことはない。
文芸でもとりわけ私小説なモノに敵愾心を抱くのも、それが一部影響している。
なんて言うか……とかく日本では、文芸路線って耽美的優越、自己陶酔というか線が細い、ぶっちゃけオカマっぽい……うまく言えないんだけど。
まあ実態以上に自分を賢く見せたいって願望はクリエイターにも批評家にもあるから、しょうがないと言えばそうだが。とにかく、そういう輩は基本的にトレンドに敏感ないわば浮動層であり、作品推しは自らをアピールするツールでしかない場合があり、アテにならない。