XLⅧ 卍 スイッチ 卍
小学校でさ、ある特定の子が登校してきたとたんスイッチが入っちゃって、それでみんなでいじめを始めてたんだよね……あの脳味噌のスイッチが問題。
毎日毎日、よくもまああんな残酷なことを。その子が泣くまで、いじめ抜くんですよ。
あの頃の気持ちを顧みてみるとだ、きわめて娯楽的にやっていたと思う。それに儀式的。ルーティン化した行為の繰り返し。正直言ってそこで自意識は脇に追いやられ、得体の知れない脳内物質に酔ってたのだと思う。
学級という猿山における社会力学の構図。いまはスクールカーストと呼ばれてるがつまり、勝ち組に属するか、負け組か、わたしのような無自覚なボンクラにとってはその二択しかなかったらしい。
あの、いじめに加わっていた催眠術的な時間の薄気味悪さは、いま思いだしても胸糞が悪くなる。自分ではない別の生き物……したり顔でニタニタしながら大いに楽しんでいた無邪気な餓鬼。あれは誰なんだ?
しかし確かに自分自身だったのだ。
人格を破壊されたいじめられっ子の気持ちにいたっては、いくら土下座しても足りない。謝ったって許してくれなかろう。
そんな取り返しの付かないという気づきが中学二年生ごろにあって、わたしは一転内省的になった……いわばボス猿に迎合するのをやめた結果、いじめられる側にまわった。ホンに二択しかないんだわな。
おそらくそれでもうちょっとマシな自意識を獲得したので、いじめられはしなかったものの……客観視を獲得したおかげで人間関係はもっとしんどくなり、わたし自身も可愛げのない、いわゆる厨二病患者であったと思う。
いまに至るも人間関係の機微、近所的な社会力学を見極めるのがいわば趣味のようなモノになってしまった。まあ物書きにはちょうどいい気質だと思うけど。
それで、最近ひどく気分が落ち込むのは例の「虐待死」事件の数々。
あれがあの「スイッチ」なのは明らかだと思うのよね。
誰か特定の人間の顔を見たとたん入ってしまうスイッチが、「家」という個人空間で学校のような公的空間では効いていた抑制が無くなり、死に至るまで収まらない。
冷静に考えれば「これ以上やったら死んでしまう」くらいは判断できるだろうに、できないのだ。対象を人間として認識してないからどんな残忍なことでもやってしまう。小学校から精神的に成長できなかったボス猿タイプが、我が物顔で暴れた結果である。
そんなものはとっくの昔に心理学的に体系化できていると思ってたけど、そんな知識の応用も適わず。立派な大人が寄ってたかって構ってても阻止できないとは、いったいどうなっているのだ?誰が仕事サボってるんだ?