日本人にとっての芸人とは?
次に日本人にとっての芸人、芸術家というものを見てみよう。
日本においては同じ国の芸術家は評価せず外国の芸術を高く評価する、という外国礼賛の気質がある。
日本のアニメ監督でも有名な人物とは外国で評価された者、または海外で何らかの賞をとった作品の創作者であることが多い。
これはもともと日本人が芸術家、芸人というものを、その地位を低く見ているというものである。
これには日本の古来よりある身分制度がその原因である。
過去、日本ではサムライが支配階級であった。
そのサムライの下に町民、百姓、商人といった者がいる。
かつては士農工商という呼ばれ方をされていたが、近年の歴史研究によりサムライの下に人々は平等であった、ということが解ってきた。
医者や僧侶といった職につく者はまた例外ではあるが、今回は芸人について。
サムライの下に人々は平等である、とされてはいるがこの人々の下にもまた階級がある。
穢多や非人と呼ばれる階級である。
これは本来の身分制度から外された、人として扱われない、人では無いとされた人達の階級である。
人々からは人間未満の畜生同然の扱いを受ける人達の身分階級であり、これは地域により様々な呼び方がある。
この穢多・非人から繋がる部落差別は日本の年号で昭和、西暦1980年頃まで日本に根深く残る身分差別、地域差別のことだ。
1978年、当時60代の日本人女性の貴重な体験談を紹介しよう。
「――あそこら一帯ね、私もだけどね、みんなオンボって言われてたんよ。(オンボは非差別部落の呼び名のひとつであろう) オンボは犬ッコロと同じ。オンボは人間じゃ無いから、アバラの骨が1本足らんのやー、とか、言われてたんよ」
小さな島国の単一民族である日本人には人種的、民族的差別感情は無いという説がある。
しかし近年の歴史研究では、北海道では先住民族アイヌを奴隷として扱っていたことが解ってきた。
これは北海道を支配する松前藩が江戸幕府に隠れてこっそりとアイヌを隷属化して使っていたとされ、そのために歴史の表に出にくいものであった。
事実、和を持って貴しとする文化は和を乱す異物に対して強烈な差別意識を持つ。
これは今の日本人にも受け継がれている。
社会にとって役割を持たず、社会の役に立たないという者に対して、日本人は非情に冷たい。
事故や病気による障害の為に働けなくなった人に対しても過酷だ。
これは他の国に比べて生活保護の受給者への態度を見ると解りやすい。
また近年では生活保護の申請が通らずに餓死するケース。生活保護が打ち切られて餓死するケースも増加している。
生活保護受給者で鬱病を発症した若者の自殺も増加の一途を辿る。
その日本人が過去にその差別意識を向けたのが穢多・非人。
しかし、この穢多・非人と呼ばれた階級の中から、芸人が産まれたのである。
歌や踊り、語り、様々な手法の芸で人を楽しませ笑わせることができるものを芸人と呼んだのだ。
日本人にとって、芸人とは『芸を持つ人』では無く、『人を楽しませる芸を持つことで初めて人間として扱われる者』という意味なのだ。
人を楽しませる芸を持つ者であれば穢多・非人であっても人として扱い、時には尊敬を勝ち取ることもできた。
日本国内に置いてパスポートにあたる通行手形。芸人においてはこの芸が通行手形の替わりとなることもあった。
国境を守るサムライをその芸で笑わせる、または楽しませることができれば芸人として認め、通行手形を持ってなくても通行を許可されるなどの事例がある。
一流の芸があれば人として認められ人として扱われる。その芸が無ければ人間未満の犬畜生として酷い扱いを受ける。
これが日本人の芸能、芸術に対するスタンスである。
この精神を受け継いでいるからこそ、日本のアニメ業界、コミック業界で働く日本人はその収入が生活保護の金額に届かなくても、最低限度の人間らしい文化的な生活ができなくても、それを当然と受け入れて暮らしているのである。
逆にその環境が劣悪であればあるほど、より入れ込み努力を重ねるという、自虐的かつ克己心に富むのが日本人である。
収入も少なく、社会的にも地位が低く、海外に大量に輸出しても、国がそれを支援する訳では無い。
にも拘わらずアニメ業界、コミック業界には人が集まってくる。
この不可思議なメンタリティを支えるのが、日本人の逆転的な差別意識。
人を楽しませる一芸、娯楽を作り出すことで、人間扱いされたい。己をひとりの人間だと他人に認めさせたい、という感情である。
対人恐怖症を患う日本人が、その技術と一芸でもってひとかどの人物となり、他人に怯えぬように生きたいという願望が、娯楽作品の創作のモチベーションへと繋がるのだ。