漫才と落語
日本人はその精神の奥底に対人恐怖症という病理を秘めている。
その精神性から産まれた文化のひとつに漫才というものがある。
二人組のコメディアンが行う会話劇であり日本のバラエティーでは主流のものである。
ボケ役が勘違いや言い間違いなどを語り、ツッコミ役がその間違いを訂正することで笑いを産む日本の話芸である。
この漫才も歴史を辿れば日本の古典芸能の落語。
落語とはひとりの演者が行うものであるが、演者は『知ったかぶりのご隠居』や『うっかりものの大工』などをひとりで演じ、その会話を面白おかしく披露するものである。
いわば一人芝居の会話劇。
漫才はこの落語の一人二役を二人の人物が担当することで、テンポを早くし現代向けに形を変えたものと言える。
ここで注目したいのは、『二人の人物の会話劇』または『一人芝居の会話劇』という形式について。
我々が知るコメディアンはひとりの演者が客席に向かい、客に語りかけるものが主流である。
ときに客から飛ぶヤジに対して切れ味よく鋭く返すことで笑いを起こすのが一流のコメディアンとされる。
このタイプのコメディアンは日本では少数派だ。
一人で活躍するいわゆるピン芸人もいるが、客に向かって直接語りかけるのでは無く、一人芝居を見せるタイプの芸が多い。
この日本人に主流であるコメディアンの形に日本人の抱える対人恐怖症を見ることができる。
相手と面と向かうことを恐れる日本人にとっては、直接語りかけられるものよりも、目前で行われる二人の会話を聞く方が受け入れやすくストレスが少ないのだ。
議論、討論に弱く積極的に己の意見を口にはしない。そんな人と相対することを苦手とする日本人の精神性はこのような形で独自の文化の発展をとげる。
また、このような会話劇を受け入れやすいところが日本人が物語を読むことも作ることも優れるという民族だからなのだ。
古典的なマンガの表現に『悪魔の自分と天使の自分』というものがある。
ある男が道に落ちているお金を偶然見つけて拾ったとする。
その男の想像の中で悪魔の姿の自分が現れて囁く。
「ラッキー。誰も見てないんだ、拾って俺のもんにしちまおうぜ」
その悪魔の自分に対抗するように天使の姿の自分が現れる。
「お金を落とした人はきっと困ってる。交番に届けて落とし主に返してあげないと」
そして男の脳内で天使の自分と悪魔の自分が激しく議論を交わして男を悩ませる。
個人の欲と善意の戦いをコミカルに描く手法で、個人の葛藤を解りやすく演出するものである。
ここには欲と善意のふたつに仮初めの人格をあてがい争わせて意思決定をするという想像力がある。
本音と建前というふたつの人格を持つ日本人にとっては、これが想像しやすい。
この想像の中で別個の人格が会話する、議論する、ときに争いときには和解する。
特定のシチュエーションの中で仮初めの人格がどのような意見を語り合うのか、どんな会話を繰り広げるのか。
その思考方を自然と身につけ得意とするのは本音と建前というふたつの人格を持つ日本人特有のものである。
架空の独自の人格を持つキャラクターをイメージしやすいということだからだ。
この想像が容易であるということは、小説やマンガを読む上で物語を受け入れやすいという下地を作る。
また、二人の会話劇を想像しやすいということはその物語を作りやすいということでもある。
日本人が多くの物語を、小説、マンガ、アニメを愛し、また作り手としても素地があるのは対人恐怖症と民族文化性人格障害を持っているからなのだ。
また対人恐怖症というのは人と相対することを恐れるものである。
他人が自分をどう見ているか、そのことに気をとられる病でもある。
これは他者が自分をどう見てどのように評価しているか、という想像力に繋がる。
これは想定する仮初めの人格が他人を世界をどのように見てどんな感想を持つのか、という発想へと繋がる。
また、他人が人を世界をどのように見ているのかという興味にも繋がる。
日常的にそのような思索を行う生活は主人公視点の一人称小説を読む上でも、書く上でもそれに適した精神性、思考、想像力が養われる。
人と相対することに恐怖を感じながらも、独りは淋しく感じる感情が架空の人物達の会話をときに深く想像し、ときにドラマチックに妄想する。
対人恐怖症と民族文化性人格障害が人と直接相対するよりも、他人の会話を横で聞くような漫才を受け入れやすくし、また会話劇や物語を聞くことにも読むことにも書くことにも最適化された精神性と思考方を養っていく。
様々なジャンルで物語を作り、また物語を求める日本人の心理はこうして作られる。