対人恐怖症、日本人特有の精神疾患
小さな島国でありながら米という栄養価の高い食料を主食とし人口を増やした日本。
起伏に富む豊かな自然は高低さが激しく平地が少ない。
そんな国土に住む日本人特有の精神疾患がある。
対人恐怖症である。
この対人恐怖症は他の国、他の民族ではほとんど見られない。日本人だけの病である。
英語圏でも類似する症例が無いため翻訳の際にはtaijin kyofusho symptoms、略してTKSと表記される。
調和を大切とし、恥の文化を持つとされる日本人ならではの症例であり我々には理解しにくい。
歴史的に見てこの手がかりとなるものはサムライのハラキリがある。
あるサムライが罪を犯し、刀を取り上げられるという罰を受けることになった。
サムライにとっては刀を取り上げられるということは、支配階級の身分から転落し町民になるということである。
このサムライの同僚達が領主であるトノサマに訴えた。
このサムライは罪を犯したもののこれまで真面目に働いた実積がある。刀を取り上げられるのはあまりにも酷い。
罰を軽くしては貰えないだろうか、と。
トノサマはそのサムライのこれまでの行いを鑑み、またそのサムライの同僚の訴えを聞き入れた。
「ならば、刀を取り上げるは辞めよう。罪を一等軽くしハラキリを申し付ける」
件のサムライはこのトノサマの言葉と温情に感謝の涙を流し、ハラキリをして自決した。
サムライにとっては刀を取り上げられサムライの身分を無くすよりも、サムライとして自決するほうが良いという、日本人ならではの価値基準である。
今はサムライという身分階級は存在しないが、この精神が日本人の中に残っている。
社会での評価、他人からの評価などが落ちるよりも自殺した方がマシという考え方である。
このため日本人はその特有の心理から他人の視線や他人との相対する状況の中で、いかに評価されるか、どのように見られているかを想像し必要以上の緊張を強いられるという対人恐怖症を発症する。
また、社会の中でどのような立場にあるかを自分の命以上に気にすることから自殺率も高い。
この対人恐怖症を根底に持つ日本人が集団となり社会を形成するために抱えた人格障害がある。
その根底は境界例人格障害に似ている。
虐待など過酷な環境の中で自我を守る為に発症する境界例人格障害は、ひとつの肉体に役割を分担したいくつもの人格が産まれる。
日本人は本来の人格の他に公的な場で対応するための二つ目の人格を作り上げた。
我々はひとつの肉体にひとつの人格を当然だと考える。
ひとつの肉体にふたつ以上の人格など、多重人格障害をはじめとした人格障害の一種にしか思えない。
だが日本人にとっては状況に合わせてふたつの人格を使い分けることで、社会を形成し和を持って貴しとする文化を作り上げた。
この日本人特有の人格障害、民族文化性人格障害を日本人は患っている。日本人はこのふたつの人格に名前をつけてコントロールしている。
ひとつは『建前』、公的な人格、公の場で対応するための人格である。
もうひとつは『本音』、個人本来の人格であり親しい者にしか見せることの無い人格である。
このふたつの人格の2面性は日本人の今の社会でもその特徴が出ている。
建前では民主主義を理解し尊重する、と言う者が多い。
しかし、本音では政治の政策の責任を負いたくは無い。自分の生活と政治は関わりが無い。めんどうなことは嫌だ、と考えている。
そのため監視する者がいない状況では選挙の投票に行かない者が多い。
民主主義国家でありながら選挙の投票率が低く、また、外側は民主主義だが中身は理想的な社会主義と揶揄される日本独自の政治形体の2面性、その根底は日本人独特の精神疾患と人格障害が原因である。
日本の社会においてはこの特殊な民族文化性人格障害を発症し、ふたつの人格を持ち、それをコントロールできる者がまともな社会人と呼ばれる。
ひとつの肉体にひとつの人格の我々と同じ健常者は、和を乱す、空気が読めないと言われ社会不適合者、異常者として扱われる。
我々から見ればふたつの人格に分離した異常な精神を持つ者が、まともな日本人ということになる。
日本が精神疾患、人格障害の治療や医療において他の先進国に比べてその医療は50年は遅れている。
これは日本人特有の民族文化性人格障害を発症することを前提とした社会を当然とする文化が故に、その他の精神疾患、人格障害に対しては冷たいというものである。
精神の病と診断された者が入院する期間が異常に長いのも日本にしか見られない特徴である。
自分達と同じ病であれば同胞とし、違う病であれば社会から隔離して治療はしない、という日本人らしさがそこにある。
そのために日本では精神疾患と人格障害についての医療は半世紀と遅れているのだ。
これは対人恐怖症と民族文化性人格障害を病気と認めてしまえば、日本人のほとんどが精神を病んでいることを認めることになる。
そのことを日本人は恐れるからこそ、この分野での医療は進歩しないのだろう。