5話 彼女が消えてしまわないように
落ち着け。落ち着くんだ僕。とりあえず、落ち着け。
確かに冗談では無いのかもしれない。でも彼女は、栞はまだ狂ってはいない筈だ。
だって彼女の瞳はそれ程に澄んでいて、その彼女が狂っている筈がない。
だから僕は、確認するように彼女に問いかける
「………………いや、あのね、【一度】死んでみるっていうのは何?」
「何を言ってるのさ。そのままだよ。言葉どうり」
「それだと余計に困るんだよ」
「何がさ。君は言葉も理解できなくなってしまったのかい?」
「理解はしてる。でも、栞も分かってるだろうけど、一回死んだら生き返れないだろ?人の命は一つしか無いんだから」
何故僕はこんな話をしているのだろう。
「そんな事はやってみなければ分からないじゃないか」
ケロリとした顔で彼女は言う。
「やってみなくても分かるよ」
「そうかい?」
「そうだよ。君も何度も見ただろう。ゆるやかに狂って、消えていく人たちを!!」
僕が叫ぶようにそう言うと、彼女は驚いたような、いぶかしげな顔をした。
何を驚く事があるのだろう?僕の言っている事は、そんなにおかしいだろうか?
やがて栞は「ふむ、なるほど」と何かを納得したように頷くと、言葉を返す。
「…………………その件なんだけどね、茉莉君―――」
少しの、間があった。
「―――彼らは、本当に死んでしまったのかな?」
それが当然の事だと。
それが当たり前の疑問だと。
僕を誘導するように、
妖艶なその口唇で、
彼女は言葉を紡いでいく。
「【此処】から出て、【元の世界】に戻ったんじゃないかな?それだけの事なのさ、きっと。だから―――――」
もうこの世界で存在を保てているのは、僕たち二人だけだ。
他の人々は、狂いながら、悶えながら、死んでしまった。
否、彼女の言うように、正確にはそれを確認した訳ではないのだ。
ある日目が覚めると、当然のように彼、或いは彼女たちは、いなくなってしまうのである。
だから僕は、本当は、彼女の言わんとする事が分かっている。分かっているのだが、その決断は、取り返しのつかない結末を迎えそうで。
だから僕は、変わらないこの毎日を感受したくて。
彼女を引きとめようとしている。
でも彼女は、そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、笑いながらこう言うのだ。
「私、一回死んでみようと思うんだけど」
と。