21話 引き返す道
「茉莉ぃ!!お前なぁ!!」
僕の背中に降りかかる怒声。そのかすれ具合から、声の主が本気で怒っている事が如実に伝わってくる。
僕の体は震えていた。しかしこの震えは、怒声に対する恐怖から来るものでは無かった。恐怖から来るそれならば僕はよく知っている。しかしこんな感情は始めてだった。何故僕は震えているのだろう。
目の前で呻き声があがる。反射的に僕は身構えていた。大きく一つ、理由の分からない震えが起こる。右手がじんじんと痛かった。硬い壁を殴っても何とも無かったこぶしが、今は何故か無性に痛かった。
「く。うふふ。やれやれ、手加減してくれなかったらどうしようかと思ったよ。―――あぁ亜空君、無理しなくてもいいよ。君はもう限界なんだろう?」
手加減?手加減だって?そんなものをした覚えは無かった。壊すつもりで殴ったのだ。文字通り壊す―――殺す―――つもりで。そう考えると、収まりかけていた震えはまた大きくなった。体が震えるのを止めることが出来ない。どうして?壊す事は楽しく、正しい事の筈なのに。どうして僕は震えているんだ?
「ちょっと待てよ栞!!確かに限界だが、それでも―――」
答える亜空の声は、予想外に近い所から聞こえた。後ろを見ると、1メートル程の位置まで迫ってきていた。
「大丈夫だ」
「何の根拠があるんだよ」
「大丈夫だ」
「だから。お前は今殴られたんだぞ。分かってんのか?」
「大丈夫だ」
「……………」
「信じてくれ、私と―――」
「―――分かったよ。好きにしろ。どうなっても俺はもう知らないからな」
しばらく言い争いを続けていたが、やがて亜空の方が折れ、吐き捨てるようにそう言うと、亜空は壁に背をつけて座り込んでしまった。
「さて。茉莉君………おっと」
呼ばれて反射的に首を向けると、栞が口を手の甲で拭っていた。血が薄く紅を引いた。
「あ……栞………それ」
自分の声とは思えないほどに情けない声が、自分の口から漏れた。
「これ?血だよ」
「…………う。痛くないのか?」
「馬鹿な事を聞かないでくれ。そりゃ痛いよ。殴られたんだからね。場合によってはこうして血も出るだろう。というか第一、こうしたのは君なんだよ?茉莉君」
「そう……だけど」
「だけど?だけどなんだい?言い訳があるなら聞いてあげるよ」
言い訳など無い。ある筈が無い。
「思いつかないかい?ならはっきりと言ってあげるよ。君は私を殴った。この事実は揺るがない」
右手がずくずくと痛み出す。
「ま、もう少しのダメージは覚悟していたから、この程度で済んだことには驚いている。だから褒めてアゲルヨ。この程度で済ませるなんて凄いね、ありがとう、茉莉君」
褒め、御礼を言ってくる栞だが、その表情は少しも変わらない。怒っているのか、悲しんでいるのか、笑っているのか、分からない。でも今の言葉が皮肉である事はなんとなく分かった。
「あ、僕、は、うう」
「そうだ、君が殴った。威力の大小は関係ない。私を、人を、女を、君は殴ったんだ」
「う、うう」
「それはもう消えない。事実だよ、茉莉君。受け入れるんだ」
右手が、というより右手を媒介として心が震えた。とても痛かった。
「……痛いかい?茉莉君。でもそれは受け入れるべき痛みだよ」
「く」
「人を殴ることができる人間は、どこかしらおかしくなってしまっているんだ。それが一時的なものか永久的なものか、先天的なものか後天的なものか、等々の違いはあれど、何かしら壊れてしまっている。殴り合いの喧嘩だって、それが起こった段階で、双方共に文字通り「キレ」ている訳だからね。」
「ううう」
「人を殺す手段にしたってそうだよ。「殴り殺す」なんて手段は滅多なことでは選択されない。何故だか分かるかい?手に感触がリアルに残るからだよ。それが楽しいなんて人は、これはもう本当に壊れている」
僕は、思ってしまった。今はともかく、実際に殴る前までは、それはとても面白い事だ、と。つまり僕は壊れているのか?そうなのかもしれない。それならばいっそ―――
「茉莉君。君はまだ戻れるよ」
「―――え」
心を読まれたようだった。
「あいにく私は、女を殴る奴は無条件で最低………なんてフェミニスト的な考えを持っていない。確かに褒められた行為ではないが、それには理由があったのかもしれないし、男女問わず、一発殴って目を覚ましてやった方がいい人間がいくらでもいる。…ま、そういう人種にそんな事をしたら、キレてしまってどうしようもなくなるが。だからまぁ、そういう意味では、殴ったのが私でまだよかったね」
「……………」
「いいか、君は、まだ、戻れる。戻って来い」
戻れるのか?許してくれるのか?僕は、君を。
「茉莉君。本を、手放せ」
左手を見る。禍々しい雰囲気を放つ本。さっきまでとても愛おしかったのに、今ではとても醜く見えた。へばりつくように手から離れない、否、僕の手が頑なに開こうとしなかったが、それでもむりやり、僕は手から引き剥がした。
心を縛っていた重苦しい何かが剥がれた。ような気がした。憑き物が落ちたような気分だった。
同時に僕の体から力も抜けていく。力が全く入らない。あ、だめだ。これは倒れる。受け身――も取れそうにないな。
前のめりに倒れる僕の体を、しかし誰かが受け止めてくれた。
包みこむ温かい手の持ち主に向かって、僕は心から言った。
「……………ごめん。それと、ありがとう。栞」
栞も何か返事をしてくれたようだったけど、それを聞く前に僕の意識はそこでとぎれた。