アンク
「マスターから許可が下りたから、最低限の説明をする!」
冬川が走りながら言う。八尋はそれについて走りながら、ぜぇぜぇと息を荒げていた。
「あなたのお姉さんには命の危険が迫ってる! 私一人では力不足だから、結城八尋、あなたの力を貸して欲しい!」
「さっき、もう七海は大丈夫とか言ってなかった?」
「普通ならもう大丈夫だった。だけど、敵が策を講じてきたということ……」
「敵?」
八尋は訊ね返したが、冬川はかぶりを振った。
「細かいことはどうでもいい! 今は必要最低限のことだけを教える! 時間がない!」
「は、はい」
その剣幕には逆らえなかった。七海の命がかかっているとなれば、冬川の失礼な態度も我慢できた。
「私たちが倒すべきは、さっき戦った蜘蛛のような化け物の親玉よ。この迷宮の奥で羽化する準備に取り掛かっているはず」
「羽化……」
「蛹魔は羽化をすると大量の卵を産み落とす。卵が迷宮に着床すると、もう手遅れ。結城七海は蛹魔の幼生に食い殺され、死ぬ!」
冬川の言葉に衝撃を受けつつも、八尋は必死に頷いた。
「どうすればいい! どうすればその蛹魔とかいう奴を倒せる!? 俺に手伝えることがあるんだろ?」
「あなたのアンクを覚醒させる」
「アンク……?」
「アンチクリサリス、略してアンク。私が使ってる、この熾剣フェニックスが、そう」
冬川が鞘に収まっている燃え盛る小剣を指差した。
「その剣が……」
「詳しい説明は無事に敵を殲滅してからするけど、この熾剣は私専用の武器なの。あなたにはあなた固有の武器が存在する。それを今から呼び覚ましてもらう」
「固有の武器……!?」
「私の見立てだと、あなたにはアンクの適性がある。それも私以上のね。覚醒さえすれば、戦闘経験がなくても、十分戦うことができるはず」
「俺に冬川さん以上の適性って……。どうしてそんなことが分かるの」
「簡単に言うと、容量の問題。でも今は説明している暇がない。早速アンクを覚醒させてもらうわ。本来なら入念な準備をして、安全に配慮し、事故が起きないようにする。アンク適性のある人間自体希少だけれど、夢の中で戦う動機を獲得するに至る人間はそれに輪をかけて希少なの。だから覚醒には万全を期す。けれど今はそんな暇はない」
「覚醒って、具体的にどうすれば」
冬川はここでぐっと顎を引いて黙り込んだ。ほんの数秒の沈黙だったが随分長い時間に感じられた。
「……分からない」
「分からない?」
「覚醒の手順は人によって違うの。すんなりアンクを発動できる人もいれば、私のように、ちょっと苦労する人間もいる」
「……冬川さんはアンクを覚醒するのにどれくらいかかったの」
「一年」
冬川は言った。それを聞いた八尋は眩暈がした。
「一年? 冬川さんがそんなにかかったことを、俺にあと数分以内にやれとか言うわけ!?」
「私は特別遅かったの! 普通はもっと早いわ。さっきも言ったけど、あなたには私以上の適性があるはず。だから案外すんなりいく可能性もあるし、何より、あなたがアンクを覚醒させない限り、結城七海は死ぬわ! それだけは確かよ」
何なんだよ……。八尋はうんざりした。七海は助けたい。しかし、分の悪い賭けに興じている気分だった。
「……もう一回聞くけど、具体的にどうすれば?」
「アンクを覚醒させたいと願うこと。蛹魔を倒すと強く決心すること。こんな武器を遣いたいと想像すること。強くなりたいと思うこと。リラックスしたほうがいいかもしれないし、とことん自分を追い込んだほうが良いかもしれない」
「どっち」
「分からない」
何なんだ。よくもまあそんな曖昧な説明ができるものだ。それで覚醒させないと七海が死ぬなんて。八尋は自分の右手に意識を集中させた。
こんなんでアンクとやらが出て来たら苦労はない。夢の世界なのだから何が起きても不思議ではないが、話を聞く限り、これは八尋ではなく七海の見ている夢らしい。となるとあまり自由は利かないかもしれない。
いや、七海とは双子なんだ。どこか深いところで繋がっているはず。だからこそこうして七海の夢に引き摺り込まれている。
「七海……、病室で幾ら呼びかけても返事はなかったけど、ここなら聞こえるよな、俺の声」
八尋は走りながら呟いた。冬川はそんな八尋をちらりと見たが何も言わなかった。
「ここはお前の夢だ。だから俺に力を貸してくれ。お前を助けてやる。苦しいんだろ。分かってるよ、俺だって、胸が疼くんだ。お前の苦しみの何百分の一か分からんけど、とにかく、その苦しみが伝わってくるんだ」
「……そろそろ着くわ。蛹魔の居場所に」
冬川が言う。彼女の言う通り、樹海の迷宮を抜けた先に開けた場所があった。とは言っても見通しはすこぶる悪かった。蜘蛛の巣のような白い糸が四方八方から伸び、そこに蜘蛛の蛹魔が何十体もたむろっている。
そんな蜘蛛の巣が張り巡らされた場所の奥に、ひときわ巨大な蜘蛛がいた。この蜘蛛だけは足が10本かそれ以上ある。他の蜘蛛の脚が四本しかないのでかなり目立った。胴体も巨大で、大きく上下に膨らみ、足が胴体をかなり高い位置で支えているのに、その下部が地面に擦れている。その巨大な胴体の中に何が詰まっているというのか。
「あの一番でかいのが、親玉か……!?」
「そういうことね。あなた、まだアンクは出ないの?」
「無茶言わないでくれよ」
「だったら私一人で戦うしかないか。勝つこと自体は難しくない。けれど卵が着床するのを防ぐのは難しいかもしれない」
「それってつまり七海は死ぬ可能性が高いってことだよね……!?」
「そういうことになるわね。もしあなたがこの夢の世界に迷い込んでなければ、私の他にもう一人か二人、援軍が期待できたんだけどね」
八尋は唇を噛み締めた。
「……もし、この夢の世界で死んだらどうなるんだ? 夢から醒めるだけ?」
「私の場合は、そう。他人の夢に自分の分身を送り込んで、介入しているだけだから。ショックで三日くらい寝込むことになるけど」
「俺の存在が、冬川さんが仲間を呼べない理由になっているというのなら。俺が今すぐやられてこの夢から退場したら、援軍を呼べるんじゃないか?」
「たぶん、そうね。けど、あなた、たぶんただでは済まないわよ」
「え?」
冬川は溜め息をついた。
「あなたは結城七海と深い繋がりがある。だから結城七海が見ているこの夢の世界での死は、現実世界のあなたの肉体にも悪影響を及ぼしかねない」
「な、何だよそれは……! ついさっき冬川さん、俺を殺そうとしてたじゃねえか……! マジで危なかったのか。じ、じゃあ、俺は……」
八尋は、もちろん自分自身が死ぬことは嫌だった。恐怖心もある。
だが冷静になって考えてみろ。八尋は自分が死ぬことで七海を救える立場にいる。どうせこのまま生きていても、ろくに社会貢献せずに冴えない人生を送っていくのだろう。七海ならきっと輝かしい立派な大人になる。多くの人を助け、笑顔にできるパワーがある。そういう奴だ、七海は。
第三者が、七海と八尋、どちらを生かすべきか公平に判断したなら、よほどの偏屈か女性を蔑視する人間でなければ、七海が生きるべきと結論するだろう。それほど人間性の差が二人の間にはある。
ここで自殺すれば七海が助かるならそうすべきだ。八尋は、これまでの人生で自殺しようだなんて考えたことは一度もなかった。そんなことを想像したこともなかった。同年代の少年少女が自殺したというニュースをたまに聞くたび、辛いことがあったら逃げればいいのに、なんて他人事のように考えていた。
まさかこんなカタチで自殺の可能性について考慮する瞬間が訪れるなんて。人生ってのは分からないものだ。
八尋は俯いた。悩んでいる暇はない。夢の世界の出来事だ、もしかすると死なないかもしれない。二卵性の双子である七海と八尋なら、他の双子と違って、繋がりが薄く、夢の影響もそれほど受けないかもしれない。そうだ、そう信じて――
『馬鹿な真似はよして』
女の声。しかし冬川の声ではない。八尋は振り返ったが、冬川はその声が聞こえなかったらしく、怪訝そうにしている。
「どうしたの?」
「いや、今、声が」
そのとき目の前に白い靄がかかったように思えた。そして声が降ってくる。
『本当、馬鹿だね、八尋は。死ぬことなんてないのに』
「で、でも、七海!」
声の主は見えない。しかしこれが七海の意識であることは分かり切っていた。必死に呼びかける。
「俺がここで退けば、冬川さんの味方が援軍を送ってくれるらしい! お前は助かるんだぞ! 死ぬのが怖くないのか」
『死ぬのは怖いよ? でも、今は安心してる』
「な、何で!?」
『八尋が助けてくれるって、信じてたからね。ほら、その剣で』
八尋は右手がずしりと重いことに気付いた。いつの間にか、八尋は全体が光り輝く短剣のような武器を持っていた。
「こ、これは……!」
『八尋はちょっと不器用だからね~。私が手助けしてあげたの。感謝してね』
「な、七海……!」
『その剣でぱぱっとクモを蹴散らしてよ。入院するのもう飽きたからさ』
七海の声が遠のいていく。八尋は自分が手に持っている短剣を凝視した。これがアンク。八尋固有の武器。本当にこんなちゃちな武器で戦えるのか? しかし悩んでいる暇はない。
「――冬川さん!」
「覚醒したようね。じゃあそろそろ突撃するわよ。私は蛹魔の卵が着床しないように、卵だけを攻撃する。あなたはあの親玉を攻撃して倒して」
「は!? 俺があのでかいのを倒すの!? 逆じゃなくて!?」
「私のアンクは威力があまり高くないの。だから大物を倒すのには向いていないし、あなたは戦闘経験に乏しいから、あの小さな卵を的確に破壊していくのは厳しいでしょ。一つでも卵を壊し損ねたら、結城七海は死ぬのだから、仕方ないでしょう」
それしかないか……。八尋は頷いた。
「でも、親玉以外の蜘蛛もたくさんいるけど、あいつらはどうするの」
「無視。どうしても邪魔だったら各々で対処する。いいわね。そろそろ行くわよ!」
冬川が蜘蛛の巣が張り巡らされた部屋に突撃した。八尋はそれに続いた。自分が持っているこの光り輝く短剣……。本当にこれは役立つのだろうかと疑念を抱いていたが、今は信じるしかない。もし八尋だけでこれを発現していたら、不安に襲われていただろうが、七海が手助けしてくれた。七海が関わったのなら間違いはないだろう。
だから安心して戦うことができる。この短剣で敵を倒せるはずだ。八尋はそう信じて、果敢に蛹魔たちに挑んでいった。




