迷宮
ここが夢の中の世界だということは分かり切っていた。なにせ眠りに落ちる瞬間のことを憶えている。これから自分が夢の中に入り込むということを強烈に認識しながら、ここに来た。
ここに来たのは初めてではない。六度目か……、あるいは七度目。もしかするともっと多いかもしれない。ただ自分が憶えていないだけで。
そこは森の迷宮だった。黒い木々が枝葉を伸ばし、凄まじい密度の壁を形成している。鬱蒼と茂る木々は隙間なく並び、木々の間をすり抜けようと思っても恐らくは不可能であろう。それでいて綺麗に枝葉を剪定したかのように通路が確保され、移動するのには全く問題なかった。
まるでここには人の手が入っているようだった。テーマパークによくあるような巨大迷路。密林を刳り貫いて造り上げた迷宮とでも言うべきか。そのような印象を持った。
八尋はその迷宮のただなかに一人、佇んでいた。パジャマ姿のままだった。髪も湿っている。眠りに落ちたときの自分の状況だった。裸足で通路を踏みしめると、落ちている小石や枝が足の裏に刺さって少し痛い。しかし我慢できないほどではない。密林の中とは思えないほど、通路は踏み固められ、整備されている。
「思い出した……、俺はここで」
夢の世界から現実の世界に引き戻されるときに、ここであった出来事を全て忘却してしまうようで、先ほどまで何も分からなかった。しかしここに来た瞬間、全てを思い出した。
この迷宮には化け物がいる。八尋のような迷宮を彷徨っている人間を襲う、巨大な怪物が。
夢の中で逃げ惑う八尋は、幸いにも、これまで怪物に捕まることなく無事にやり過ごしてきた。もしあの怪物に捕まってしまったらどうなるのだろう。夢の中の自分は殺されてしまうのだろうか。すると現実の自分はどうなるというのか。
これがただの夢ではないことは明らかだった。拳を握り締めて掌に食い込む爪の感触を確かめる。これは現実と変わりない。もしまたあの怪物に襲われて、今度こそ逃げられなかったら――凄まじい痛みを味わうだろう。それだけで済むならまだいい、現実世界の自分まで死んでしまうのではないか。そんな恐怖があった。
八尋は迷宮の中をそろりそろりと歩き始めた。上を見上げると暗い空が広がっている。しかし星の光は全くない。暗黒の空。もしかするとそこには黒い天井があるだけなのかもしれない、意外と天井は近くにあるのかも。しかしぱっと見て感じるのは、どこまでも広がる漆黒の虚空。じっと見ていると吸い込まれてしまいそうだった。
「何だってんだよ、ここは……!」
八尋は呻いた。気分が悪い。しかし胸の疼きは収まっている。ふと気づくと、体調自体は、起きているときよりマシだった。起きている間にずっと感じていた吐き気も何もなく、普通に歩くことができる。
枝葉が折り重なって形成される迷宮の壁に手を這わせながらゆっくりと進む。ふと、遠くで何かの音を聞いた。ミシミシと何かが軋み、そして切り裂かれる音。
八尋はぞっとした。そして恐怖心に負けて走り出す。
これがいけなかった。
音源がみるみる近づいてくる。明らかに八尋を狙っている何かがいる。慌てて走り出したことで気配を察知されたのか。
「来るんじゃねえ、来るんじゃねえ、来るんじゃねえ――!」
呪文のように唱えながら走った。しかし音はむしろ近づいている。迷宮の壁に阻まれ、ジグザグに進むしかない八尋に対し、音源は一直線に接近してくる。
この密林の壁を破壊しながら近づいている――音源の正体は明らかだった。
間もなく、目の前の木々が鋭利な爪に引き裂かれ、木片と埃を巻き上げながら「それ」は現れた。四本脚の蜘蛛。簡単に説明するならその表現が最も的確である。胴体が上下に膨らみ赤い複眼が前部にくっついている。胴体から突き出た四本の脚は複雑に屈折しながら地面に突き刺さるかのようにその巨大な体躯を支えている。幅広の口吻から紫色の液体が泡となりながら吹き出し、それらが付着した木々は赤茶色に変色しながら腐り落ちていった。毒液だろうか。
八尋は恐怖した。この蜘蛛の化け物――出会うたびに巨大になっている。初めて八尋がこの蜘蛛と出会ったときは、目線の高さがほぼ同じだったのに、いまや遥か頭上にその複眼が見える。
巨大になるにつれて、当然、移動速度も増している。八尋は今度も逃げ切れるかどうか、全く自信がなかった。足が震えている。後ずさりながら、蜘蛛の挙動を見守っていた。
蜘蛛の脚は尖端が巨大な鎌のようになっている。それを振り回し、八尋のすぐ脇にあった大木の幹をいとも容易く切断した。枝葉と蔓で複雑に繋がった大木は倒れてくることはなかったものの、八尋を絶望の淵に叩き落とすには十分だった。
よろめき、尻餅をつく。蜘蛛がザクザクと地面を掘り返しながら接近してくる。八尋は悲鳴を上げようとしたが声も出なかった。恐怖のあまり喉が塞がっている。まともに息もできない。
「だ、誰か……」
やっとの思いで発した声がそれだった。あまりに弱々しい。仮に近くに人がいたとしても、こんな声では聞こえなかっただろう。蜘蛛の口吻から毒液が噴出、足元に降りかかる。飛沫が足先にかかったように思う、熱湯を浴びたかのような刺激が襲いかかり、足を引っ込めた。
それが気付け薬代わりになった。急に体が動くようになり、素早く立ち上がった。
「来るんじゃねえ――!」
叫びながら走り出す。蜘蛛が猛然と追いかけてくる。迷宮の壁を派手に吹き飛ばしながらの猛追。八尋は何度も転びかけながらも、転んだら死ぬ、転んだら死ぬと自分に言い聞かせて踏ん張った。そして全速力で迷宮を駆け抜ける。
必死だった。必死ではあったが、蜘蛛の接近速度は自動車にでも追いかけられている感覚だった。逃げ切れるはずがない。八尋は頭のどこかでそれを意識していた。
ただ、なかなか追いつかれることはなかった。八尋は自分でも驚くほどの速度で蜘蛛から逃げていた。単純に、自分の走る速度が尋常ではないのだ。夢の中なのだから何でもアリなのは分かっているが、それにしても凄まじい逃げ足だった。我ながら感服する。
「――見つけた」
頭上から声。八尋ははっとして上を見上げた。次の瞬間、目の前に赤い閃光が舞った。雷のような軌道を描いた幾筋もの閃光は、蜘蛛の真上で交錯し、弾けた。
そこから先はスローモーションだった。蜘蛛の胴体がぱっくりと両断され、内臓と思われるどろどろとした流動物が零れ落ちた。ドォンという衝撃音が鳴り響き蜘蛛の体躯が通路に横たわる。
八尋は唖然としていた。蜘蛛の骸の前に降り立った一人の少女が、右手を掲げる。するとその右手に炎が巻き起こり、炎の中から刃渡り50cmほどの小剣が出現した。
その小剣をだらりと垂れ下げながら少女が振り返る。年齢は八尋よりやや上か。高校生くらいの女性だった。肩まで伸びた黒髪が風もないのに靡き、ややきつめの印象を与える目元と、引き締まった口元が、この殺伐とした世界によく馴染んでいる。少なくとも八尋は、この女性に助けられたことを認識してはいたが、まだ緊張を解いてはいなかった。
顔を見れば分かる。この女性は、八尋に対しても敵意を抱いている。
「――随分と間抜けな夢喰いがいたものね。武器も持たないでここに乗り込んでくるなんて」
女性は言った。八尋は息を荒げながらも、首を傾げる。
「わ、ワンダー?」
「しらばっくれないで。悪いけど、容赦しないわ。無抵抗だろうがなんだろうが、他人の夢に巣食う亡霊はここで討ち滅ぼす――!」
「ち、ちょっと待て! 何が何だか分からないんだけど! 他人の夢に巣食う亡霊? 俺はちゃんと生きてる!」
八尋の訴えに、女性は表情を動かさない。
「へえ……。生身のワンダー。それならますます遠慮はいらないわね」
女性がその燃え盛る小剣を振りかぶる。八尋は慌てて手を振った。
「待ってくれよ! ここって夢の中なんだよな!? それで斬られたらどうなるの!? 俺死ぬの!?」
「……白々しい。そうやって無害な人間を演じようとしたって無駄。この世界に出現した時点で、もはや他人に害悪を及ぼす悪霊も同然」
女性がじりじりと近づいている。八尋は茫然としていた。なんだ。どうしてこの女性は自分を殺そうとしている? 蜘蛛に殺されそうになっていた八尋を助けてくれたのではないのか? もし八尋を殺したいのなら、蜘蛛を殺さずにただじっと状況を見守っているだけで良かったはずだ。おかしいじゃないか、こんな……。
そのとき女性のほうからピピピという電子音が鳴った。よく見ると女性の耳のあたりに小型の通信機らしき装置があるのが分かる。女性は舌打ちした。
「――はい。こちら冬川。蛹魔の撃破は滞りなく完了しました。入り込んでいたワンダーにこれから対処します。武器も何も持っていないようなので、私一人で問題なく――はい?」
女性はちらりと八尋のほうを見た。
「……はい、はい、そうですね、しかし……。ちょっとそこのあなた」
女性がいきなり八尋に話しかけてきた。
「な、なに?」
「名前を言ってごらんなさい。あなたの名前」
「な、名前……? 結城八尋だけど」
「漢字は」
「結ぶ城の、八つの尋問」
「――なるほど」
女性は通信機に手を当てながら、燃え盛る小剣を鞘に収めた。
「結城八尋……。この夢の主の双子の弟か。ターゲットのパーソナルデータなんて役立たないと思ってたけど、認識を改める必要があるようね……」
「な、なんだよ。意味分からないぞ、さっきからあんた……」
「失礼したわ。あなた、この夢にたまたま紛れ込んできただけなのね。双子のお姉さんの夢の中に……」
「姉――って、七海の夢の中なのか、ここ? 俺の夢じゃなくて?」
女性は首に手を置き、軽く頭を振った。
「説明すると長くなるから省略するけど。私の名前は冬川恵。あなたのお姉さんである結城七海は、今、健康状態に問題を抱えている。そうでしょ?」
「に、入院中だよ。多臓器不全だとかで……。もしかして七海の病気は、この夢が関係しているのか!?」
「まあ、簡単に言えば、そう。でも安心して。きっとあなたのお姉さんは、これで快方に向かうはず」
「ほ、本当に!?」
あまり夢の中での話を信用するのもどうかと思うが、素直に喜ばしい話だった。
冬川は頷く。
「この蜘蛛――蛹魔っていうんだけど、これがあなたのお姉さんを苦しめていた原因よ。あと少し対処が遅れていたら、間違いなく命はなかった。危ないところだったわね」
「そ、そうなんだ、ありがとう」
「これが仕事だから、お礼なんて結構。お金をくれるっていうんなら喜んで受け取るけど、夢の中での金品の授受は不可能ね。残念」
そう言って冬川は微笑んだ。八尋は曖昧に笑い返し、それからふうと息を吐いた。
「よく分からないけど、これでもう、危険は去ったってことだよね」
「そうね。私もそろそろ帰還し――」
そのとき再び通信機が鳴った。冬川は鬱陶しそうにそれに出る。
「はい、こちら冬川。いつアンクフィールドを解除しても構いませんよ。こちらの仕事は全て――何ですって?」
冬川の表情が一変した。そして蜘蛛の死骸を振り返る。
「はい、はい。確かにそうですね。小型ではあります。……子供? しかし既に卵が植えつけられていたなら、とっくに夢の主は死んでいるはずでは? はい、ですけど……。……なるほど、それなら確かに」
冬川がキッと八尋を睨みつけた。八尋はどきりとしてしまった。そんなに激しく睨まれたら、何もやましいことはしていないのに、何か悪いことをしてしまった気になる。
「な、何だよ」
「結城八尋。あなた、今すぐここから去りなさい」
「え?」
「夢の世界から出なさいと言っているの。説明すると長くなる。ほら、早く!」
「いや、そんなこと言われても……。無茶だよ。どうやって夢から醒めろと」
八尋は困惑した。冬川は苛々と辺りを見回した。
「人手が足りない……。かと言ってキャパシティを超過するわけにはいかない。しかし卵から孵化した蛹魔がここまで成長しているとなると、もはや事態は一刻を争うわけで……。しかも次の夜も、結城八尋が干渉してくる可能性が高い。となると私一人で……。敵の数も見えないのに」
ぶつぶつと冬川が言っている。
「でも……、結城八尋はワンダーではなかった。軽量級の私がやっと入り込めるだけの残容量。結城七海が弱っているとはいえ、これは」
冬川がじろりと結城八尋を再び見た。さすがに苛立った八尋は、声を荒げた。
「な、なんだよ、その眼は! 俺が悪いみたいな……。さっきから感じ悪いぞあんた」
「人の命がかかってる。大目に見て」
冷然と述べた冬川は通信機に手を当てた。
「……マスター、提案があります。結城八尋は固有のアンクを持っている可能性があります。彼を試させてください」
アンク? 八尋はきょとんとした。冬川が何を言っているのかまるで理解できないが、妙な方向で目をつけられてしまったということは、何となく分かってしまった。




