夢
結城八尋はカナヅチだった。泳ぐことが全くできない。だから学校のプールの授業は毎度憂鬱だったし、仮病で見学に回ったことは一度や二度ではなかった。
それに対し、双子の姉である結城七海は、泳ぎが大の得意だった。二卵性とはいえ、双子なのにここまで差があるとは、八尋にとっては忌々しい事実だった。
泳ぎだけじゃない、勉強だって七海のほうができる。運動神経も、男と女で安易に比較はできないけれども、七海のほうが優れていると言えるだろう。容姿だって、七海は男子からも女子からもモテモテだったが、八尋は特に優れているわけではなかった。
両親は七海を自慢の娘として扱っていた。両親が八尋に対して辛辣な態度を取ったことはないけれども、それでもやはり扱いには差があった。優等生で友人の多い七海と、平凡な成績を維持するのが精いっぱいの八尋とでは、どちらが優遇されるか。分かり切ったことだった。
両親は七海を褒めることに飽きると、八尋に対して説教をすることがよくあった。
「八尋! お前はなー、苦手なことから逃げてたら、何事も上達しないぞ。七海だって、最初から何だって出来たわけじゃないんだからな」
「そうよ、ヒロくん。ナナちゃんも、頑張って頑張って、少しずーつできることを増やしていったんだからね?」
「お前も頑張ればできるようになる! お前と七海は、双子なんだからな!」
双子だから何だっていうんだ。違う卵子から発生したのだから普通の姉弟と変わりないじゃないか。八尋はよくそれを思う。
確かに八尋にはサボリ癖があった。その自覚はあった。中学三年の夏、プール授業の季節が到来し、八尋にとっては憂鬱な毎日が始まろうとしていた。プール授業に参加する為には、朝に体温を計り、それが正常値でなければならないが、この体温を誤魔化してプール授業の見学に回ることがよくあった。
だから……。
「体調が悪い?」
プール授業のある日の朝、八尋は悪寒に襲われていた。リビングで母親にプールカードなる問診票を差し出した八尋は、今日はプールに入れないと訴えた。
しかしいつもの仮病だと判断した母親は、まともに取り合ってくれなかった。
「さっき体温計ってたけど、36.5度だったでしょ。仮病戦法は認めませーん」
「体温は正常だけど、なんつーか悪寒がするんだよ」
「はいはい。本当に具合が悪いんなら先生に言って見学させてもらいなさい」
八尋はうんざりした。八尋のサボリ癖は体育教諭にも知れ渡っている。問診票で親からのプール参加の許可が下りたのに見学に回るというのは、なかなか厳しい。鏡で自分の顔色を窺ってみたが、いたって健康そうな血色だった。とても病人には見えない。
しかし悪寒がするのは事実だった。今日だけは仮病ではない。ぶるぶる躰が震え、ぞわぞわと鳥肌が立つ。腹の調子も少し悪い。朝食を食べる気になれなかった。
「あれ、七海は?」
リビングでトーストのジャムを塗りたくりながら、父親が言った。
「いつもならそろそろ家を出る時間じゃないか?」
父親の言う通りだった。バレーボール部に所属する七海は、早朝六時に家を出る。今はもう、六時五分を回っていた。今朝はまだ部屋から出てくる気配がない。
母親が首を傾げている。
「おかしいわね。今日は部活、休みなのかしら?」
八尋はそうではないことを知っていた。今日は何の行事もない、普通の日だ。部活がないということは考えにくい。
母親が七海の部屋まで様子を見に行った。八尋は体調が優れなかったので、そのままどこかでうずくまっていたい気分だったが、どうも胸騒ぎがした。双子ならではの超感覚とでも言うべきか。母親の後ろについていき、七海の部屋まで様子を見に行った。
「七海ちゃん。入るわよ?」
母が七海の部屋のドアを開ける。八尋は部屋の中を覗き込み、息を呑んだ。七海がベッドの上からずり落ちている。寝巻が捲り上がって肌を露出、下着まで見えていた。剥き出しの肌に奇妙な痣が浮かび上がっている。一目見た瞬間、八尋はぞっとした。この状況が普通ではないことを直感で悟ってしまったのだ。
「な、七海ちゃん!? 七海ちゃん!」
母親が慌てて駆け寄る。八尋はその場に立ち尽くすことしかできなかった。声を聞いた父が慌てて駆けつける。
「どうしたんだ、七海がどうした!」
「七海ちゃん、目を覚まして! ねえ、起きて!」
しかし七海は目を覚ますことがなかった。八尋の悪寒が強くなる。強烈な胸の疼きで吐き気さえする。揺さぶられても反応しない七海の青褪めた寝顔を、八尋はじっと見ていた。
「救急車! 救急車!」
息をしていないわ! 母親の叫び声が、脳裏にこびりついている。
*
実際には、七海は弱々しくはあったが、息をしていた。動転した母親が七海の息を感じ取ることができず、息をしていないと勘違いしてしまったのだ。
七海は救急車で病院へ運ばれた。そのまま入院。意識は回復せず、昏睡したままだった。
病名は多臓器不全……。何らかの原因で肝臓や腎臓など複数の臓器が機能不全に陥った。レスピレーターによる呼吸補助がなければ死んでしまうような重篤な症状だった。腎臓へのダメージも酷く、人工透析が必要とのこと。複数のチューブに繋がれた七海は、数日前までの元気な姿から一変、機械の檻に閉じ込められた儚い人形となってしまった。
「どうしてこんなことに……」
集中治療室から出てすぐ、父に縋りつきながら母が言っていた。父は返事ができず、ただ母を支えるのみだった。八尋は壁に凭れ、胸の疼きと戦いながらも、七海の容態を心配していた。
まさかあの完璧超人の七海が、このまま死ぬなんて、許されない。何の前触れもなく、このまま逝ってしまうなんて。こんな理不尽なことが罷り通ってたまるか。八尋は怒りにも似た感情と戦った。
*
七海が倒れてから、毎日見舞いに向かった。七海は返事をしなかった。反応も何もなく、この声が届いているのかどうか。それでも見舞いは欠かさなかった。
多臓器不全を引き起こした原因が何なのか、はっきりとは分からなかった。どこかを怪我したわけでも、感染症を引き起こしたわけでも、どこかが膿んで敗血症に至ったわけでもない。ただ、体表に奇妙な痣が確認できるとのことで詳しい検査を実施していた。結果、色素胞の異常増殖が認められたものの、それ自体は有害ではなく、多臓器不全との繋がりは分からなかった。
七海が倒れてから、八尋は悪夢を見るようになった。しかしそれがどんな内容だったのかはまるで思い出せない。強烈な不快感から逃れ、なんとか夢から醒めたとき、その内容はすっかり抜け落ちていた。ただ目覚めたときの夥しい発汗と胸の疼き、悪寒、吐き気、それらが悪夢の存在を裏付けていた。
姉の七海がこんな状態なので、体調不良を両親には相談できなかった。父は狼狽しつつも、おおむねいつも通りに振る舞うことができたが、母はショックのあまり発熱し、家事も手につかなかった。冷凍食品で夕食を済ませるようになってから初めて、八尋は母の手料理の良さを思い知るようになった。
*
「七海ちゃんが入院って、なんで?」
学校に行くと、同級生からは質問攻めに遭った。学校では人気者の七海のことだから当然ではあったが、説明が難しかった。多臓器不全、と言って納得する人間は少数だった。どんな病気なの? いつ退院するの? 見舞いに行ってもいい? そんなことを次々と尋ねられた。ただ、誰も命に関わるような大病であるとは心配していないようだった。こんな身近に死人が出るとは想像していないのだろう。
「参ったなー。七海ちゃんがいなくなっちゃうと、クラスの雰囲気がねー」
七海と同じクラスの女子が言った。
「七海ちゃんじゃなくて、八尋くんが代わりに入院してくれればいいのに」
本人としてはちょっとした冗談のつもりだったのだろうが、さすがにこの発言には、八尋と同じクラスの男子が反論してくれた。八尋は居心地が悪かったし、具合も悪かったので、まともに相手をする気になれなかった。
悪夢は五日間、続いた。必然、睡眠不足になり、授業中に少しまどろむようなことがあったが、そんなときでも悪夢は襲ってきた。授業中で唸り声を上げて先生に叩き起こされるということも二度あった。姉が入院して精神的に不安定になっている、と見做されたのか、それほどきつい叱責があったわけではなかったが。
*
「なあ、八尋。お前最近顔色悪いな」
八尋の変化に初めて気付いたのは父だった。今夜の夕飯となるレトルトのハンバーグを電子レンジから出すとき、八尋に向かってそう言った。
「そう?」
「具合、悪いのか? 七海に続いてお前までどうにかなっちまったら、母さん、もたないぞ。病院行くか?」
「病院なら毎日行ってるよ」
「そうじゃなくって」
「分かってるよ」
八尋は嘆息した。
「大袈裟なんだよ。大丈夫、ちょっと疲れてるだけだよ」
「それなら、いいんだが。学校休むか?」
「過保護だなあ。大丈夫だよ。本当に具合が悪くなったら、自分から休みたいって言うさ。俺を誰だと思ってるの。仮病遣いの八尋だよ……?」
父は軽く笑ったが、すぐに真顔に戻った。八尋は正直言うと、七海が倒れたあの朝から、気分が優れなかった。学校に行きたくなかった。授業中もずっと寒気と眠気に抗い続けるのに神経を使っていて、授業を受けているときの記憶があまりなかった。
食卓に並ぶ惣菜、レトルト食品。それらを前にしてげんなりする自分がいる。食欲がなかった。結局半分以上残すことになり、父から具合が悪いのかと再び尋ねられるきっかけとなってしまった。
大丈夫。大丈夫だから。八尋はそう答えるしかなかった。しかし本当は大丈夫ではなかった。いずれ自分はどうにかなってしまうかもしれない。そんな予感が八尋の中にあった。
夕食を終え、軽くシャワーを浴び、髪を乾かす余力がなく、そのまま就寝するとなって、またあの悪夢に悩まされることになるのかと憂鬱になった。しかし眠気はしっかりあって、八尋はベッドに横たわった。
昔から寝付きだけは良かった。七海より優っていると断言できる数少ない長所だ。寝ようと思えば30秒以内に眠れる。ただ、今は乗り気ではない。胸の疼きが断続的に襲ってくる中、八尋は眠りについた。そして眠りに落ちる瞬間、自分が忘れ去っていた悪夢の内容を思い出す。ここ何日間も襲われ続けていた悪夢の正体が、みるみる姿を現す。
眠っちゃ駄目だ。
眠ったら今度こそ――
八尋は現実の世界から押し出されるように、夢の世界に入っていった。また長い夜が始まるのだと、絶望にも似た気持ちが襲ってくる。胸の疼きがいよいよ耐えられないほど強くなっていた。




