縁結びの糸って、なんで赤いのさ
恋バナ。というのが苦手だった。
いつからだろう。その手の話に浮かれなくなったのは。
少なくとも小中学生の頃の私は、恋愛に興味深々で、他人の色恋沙汰に首を突っ込んでは、お節介をやくような子供だった。
トラブルになったことも多いし、痛い目も見た。
今にして思えばうざいことこの上ない、迷惑な子だったと自省している。
そうして時は過ぎ、大学も二回生になり、サークルに新しく入った新入生の歓迎会で、通過儀礼のごとく避けられないその話題にあたふたする新入生を見て、私は居た堪れず適当な理由で新歓を抜け出してしまったのだった。
去年もそうだった。
明け透けに恋愛経験について根ほり聞いてくる先輩達に、小中と無茶苦茶していた反動で高校ではおとなしく地味なグループにいた私は困惑し、過去がフラッシュバックすると共に周りの人間すべてが過去の自分と重なり、これが大学生かと戦慄したものだった。
繁華街から駅への帰り道、疲れきった様子の働き盛りの大人達が、飲みや家路に癒しを求め溢れている。
お疲れ様です、と思いつつも、数年もすればあの中に自分も混ざるなんて、あまり想像したくないなぁ。
なんて、甘えと言われてしまうだろうか。
酔い冷ましにコンビニで水でも買おうかと、ふらりと立ち寄った店内で、私はドリンクケースのガラスの扉を開けて、ふわりと肌を撫でる冷気に手を突っ込み、ラベルに緑の葉っぱが描かれたペットボトルを取り出すと、後ろから男の声がした。
「あれ、もしかして、コロちゃん? 」
振り向くと、同い年くらいの優男風のイケメンが私を見つめていた。
その顔には見覚えがある。そしてコロちゃんというあだ名は、中学生のときの私のものだ。
だからおそらく中学の同級生なのだろうけど、でも何かが引っかかっていて名前が思い出せなかった。
答えに詰まっていた私に気づいたのか、彼は少し申し訳なさそうに聞いた。
「ごめん、もしかして違ったかな」
私は「あってるよ、十三丘中学だよね」と言うと、彼はパッと笑顔になり頷いた。
それでもまだ名前を思い出せないもどかしさと申し訳なさを声に滲ませて、私は彼に応える。
「ごめんね。顔は覚えてるんだけど、名前が出てこなくて」
私の、ボケたかな、なんて乾いた笑いに怒ることなく、彼は穏やかな微笑みを浮かべて話した。
「それはしょうがないかな。中学んときは俺、体弱くて不登校ぎみだったし。違うクラスだし。登校しても保健室に入り浸ってたから」
その言葉で、はっと思い出した。
中学生のとき、私は保健委員だった友達のカナちゃんの恋を応援しようといつものお節介をやいて、彼女の思い人であるナカイくんと保健室でどうにか二人きりにしようと躍起になっていた。
そして目の前の彼は、いつもちょうどいいタイミングで保健室のベッドで寝ていて、私の作戦を邪魔していたのだった。
「ああ! あのときの! そっかー」
もともと、色白で貧弱そうな体型とボサボサで伸びっぱなしの髪をどうにかすれば、顔立ち自体は整った奴だと当時から思っていたが、こうしてこざっぱりと身なりを整えた姿を見ると、こいつってこんなにイケメンだったのかと驚く。
しかしそこで、はて? と気付いた。
私のお節介を幾度となく阻止されたとき、保健室で彼とは何度も話してはいるのだが、肝心の名前を聞いたことがなかったのだ。
「あれ? そういえば、私、名前聞いてないよね? 」
どおりで思い出せないわけだ、と納得する私に、彼は慌てて口を開いた。
「えっ? マジで? 本当に? 忘れられてるかもとは思ったけど。そもそも知らなかったの⁉︎ うわー、やっちまったな俺」
顔を右手で覆っているあたり、かなりショックだったらしい。
まぁ気持ちはわからなくない。
私は内心で、ドンマイ! と思いつつ、このままではかわいそうなので、あらためて名前を尋ねた。
「あー、新城ルイ、です。くっ、なんかめっちゃ恥ずかしいんだけどっ」
顔を真っ赤にして目をそらす新城くんに対し、だろうなー、と思う私は意地が悪いだろうか。
しかしそれはそれとして(棚上げ)、こっちから名乗った覚えもないのに、なぜ彼は私のあだ名を知っていたのだ?
昨今は簡単にSNSで調べられるし、まさかストーカー⁉︎
なんて小説じゃあるまいし、直接聞けばいいじゃん。
「へー、君は新城くんだったのか。うん、すんごい今さらだけど覚えとくね。っていうかなんで私のあだ名、知ってたの? たしか言ったことなかったよね」
彼は眉をひそめて答える。
「あの時ベッドで寝てたのにお前らが保健室の外で、カナちゃんどうのナカイくんが悪いだの、全部コロちゃんのせいだの、勝手に修羅場ってるから覚えちゃったんだよ」
なるほど確かにそれは衝撃的だ。記憶に残ってもおかしくない。
——というか、そうだ。全部思い出した。
あの事件こそ、その後私が反省しておとなしくなるきっかけとなった、言わばトラウマだったのである。——
と、まぁこれから長々と過去の回想をしてもいいのだが、ちょっとここでもうひとつ思い出して欲しい。
ここはコンビニの中である。
彼は左手に弁当を持ち、私は右手にペットボトルを待ったままだ。
カゴに冷凍食品と惣菜を入れたおばちゃんが、鬱陶しげに私達を睨んでいた。
「……とりあえず、会計しよっか」
私がそう提案すると、新城くんは頷いた。
コンビニ袋を持って、二人並んでふらふらと歩く。
近くに小さな公園、というか自販機とベンチだけが置いてある静かな休憩所みたいなところがあったので、そこで話そうか、となったのである。
道中会話はなく、私はスマホを取り出しのメッセを確認したりしている。
やっぱり新歓を抜けたことを心配するのがいくつか来ていた。
面倒だなーと思いつつ人間関係大事って自分に言い聞かせ、適当に(!)リプ返ししていると、だんだんと今の状況を把握してきた。
なんか簡単に彼を誘っちゃったんだけど、よくよく考えたらヤバくない?
いや、この元貧弱ナメクジになにかできるとは思わないし、道を一本曲がれば人通りも多い。
なにも心配事はないのだが。
問題はそんなところではなく、私が異性と二人きりになるのをためらわなかったことなのだ。
あのトラウマの事件以降、私は自然と恋とかそういう話題になりそうなシチュエーションを避けまくってきたのである。
自意識過剰であることなんて百も承知だし、今現在酔っている自覚もある。
とりあえず落ち着こうと、たどり着いた小さな一つのベンチに座る。
そして当然、ベンチは一つしかないので、背負っていたリュックと弁当が入ったビニール袋を膝に抱え、新城くんが隣に座る。
……近いっ。このベンチ小さすぎてめっちゃ距離が近い!
弁当とは違うなんかいい匂いがするし、なぜ気付かなかった私!
慌てすぎて手がプルップル震えながらペットボトルの蓋を開けゴッキュゴキュ水を飲んで落ち着く。
いや落ち着かねーよ、なんだ今の醜態はっ。
「ぶはー」のあとからの「あー」の追撃とか、おっさんか!
恐る恐る彼の様子をうかがうと、案の定ちょっと笑いをこらえていた。
「ぷっ、くく。かなり酔ってたんだね。気付くべきだったよ。ごめんね。大丈夫? 落ち着いた? 」
彼は私を気遣って横から顔色を見ようと覗き込む。
だから近いって。わーお、まつ毛ながーい。
気分悪くなったらすぐ言ってね、と彼は心配するが、正直この状態がまずいんです。
「だ、大丈夫。今日は全然飲んでないし、ちょっと焦っただけだから」
私はもう気分的には提出日にレポートが真っ白な状況くらいテンパっていたが、それでもなんとか返事はできた。
だが、最早なにを話そうとしていたか頭の中からぶっ飛んでいる。
話題を見つけようと目をそらし無意識に髪の毛をイジイジしていたら、彼のほうから話しかけてきた。
「やっぱりあれ、ダメだったのか? 」
彼はいきなり本題に切り込んだ。
そうだ。
かの事件の結末は、すべての人間関係をぶち壊し、悲惨極まる惨めな最後を迎えたのだ。
思い出そうとするだけで怖い、だから記憶の底に眠らせていた。
話すことなんて、到底できそうもなかった。
辛うじてうなずくことだけはできた私に、彼はそれ以上追及しなかった。
「他にもいろいろやってたみたいだし、転けることもあるさ。気にするな、って言っても、今さら過ぎるか」
彼はガシガシと頭を掻きながら言った。
恥ずかしいセリフだったし、多分、相当照れてると思う。
だから、私もなんでもないように振る舞う。
ちょっと芝居染みた嘘っぽさが出てしまうだろうけど。
「そうだね。もう昔の話だし」
それでも、その慰めは、ちょっとだけ私の心を温めた。
「なんかさ、全然変わってないよな。ちょっと安心した」
あれのショックで引き篭もりになるかと思ってた。と彼は笑う。
「でも、ま。コロちゃんはコロちゃんか」
そう言いながら背もたれに寄りかかり、遠くの夜空を見上げる彼の横顔は、どこか大人びて見えた。
普通ならクサくて見てられないその仕草はとても自然で、イケメン特有のいい感じの空気を醸し出している。
——が、その発言は聞き捨てならない。
「うそだー、私、結構変わったと思うんだけど」
中学の頃と比べれば、断然身だしなみに気を使うようになったし、大学デビューというものをしたはずである。今日だって髪はバッチリカーラーあてて服もガーリッシュにキマってるはずだ、多分。ガーリッシュって詳しく知らんけど。 まぁそれっぽいカワイイ友達を真似たのだからあってるだろう。(暴論)
性格だって変わった。かつてのトラブルメーカーだった私を反省し、空気を読むことを最優先に行動している。おかげで知り合いの数はちょっと減ったが、その分すごく仲のいい(オタ)友達ができたのだ。
「なにかダメな思考を感じたんだが。まぁいいや。コンビニで見かけたときにさ、確かに最初は誰かわからなかったんだけど、なんか気になってさ。ほら、その靴」
そう言われて自分の足元を見る。今日はシックな色合いのスカートに合わせて白が基本のシンプルなスニーカーを履いていた。
ただ、その靴紐は左右で色が違う。
間違えたわけではない。母には靴履き間違えとるよー、と言われたが私なりのこだわりである。
「靴紐が左右で違うじゃん? それで思い出したんだ。こんなのどっかでいっぱい見たなーって」
中学で流行ってたよね。運動靴の紐変えるの。と彼は言った。
うん、それ私が学校に広めたんだ。
自分の好きな色に左右の靴紐を変えて意中の相手とお揃いになると、恋が成就するって噂。
あの事件とはまた別の恋の相談を(一方的に)請け負って暗躍していたのだ。
もちろん時系列的にはトラウマ事件の前の話である。
「それで顔見てさ、連鎖的に名前が出てきたんだよ」
なるほど、そういうことか。
「でもさ、なんか紐で名前を思い出すなんて、あの映画みたいだね」
あ、やべ。と思う間もなく。気付けば私はそう言ってしまっていた。
擬音で表すなら、錆びついた歯車のような、ぎぎぎ、という感じで彼のほうを向く。
「ああ、あのアニメか。俺も観に行ったよ」
セーフっ。さすが興行収入百億円突破作品。
しかしあれはかなり恋愛要素強めだったわけだけど、彼は誰と観に行ったのだろう。
やっぱり彼女?
ちなみに私は友達にあの監督のファンがいたのでその子に付き合っただけだから。(震え声)
よし、彼にそれとなく、それとなく誰と行ったのか聞こう。
「へーそうなんだ面白かったよね誰と観に行ったのー? 」
豪速球だった。
「ん? 三人ぐらい男友達と一緒に。いや、マジで面白かったんだけど、彼女作って一緒に観たかったわ、あれ」
彼女なし。ッケイ!
いや、別に深い意味はない。
「……あの映画さ、男のほうが土建屋目指してたじゃん? だから俺、すんげー感情移入しちゃったんだよね。俺さ、中学卒業して専門学校入って、いまは建築事務所で下働きしながら設計士の資格取ろうとしてんの。まぁ今はただの運転手みたいなもんだけど。いつか絶対建築士になってやろうって。だがら映画観てもうボロ泣きして、友達ドン引きだったわ」
前を見つめて語る彼の横顔は端正で、あのころより引き締まり、日々ぼんやりとしか生きていない私とは、まるで別世界の住人のようだった。
「……すごいね。ちゃんとやりたいこと、あるんだ」
これだけ近くにいても、遠い存在に感じる。
あの映画とはまるで逆みたいだった。
「そういえばさ、あの紐の色、覚えてる? 」
彼は思い付いたように切り出した。
「紐って、映画で主人公たちが持ってた? 」
彼は頷いた。
「そう、それ。俺さ、映画観終わったあと友達と感想語り合ってたんだけど。なんか話が噛み合わなくてさ」
——あの紐って、黄色だったよな。
はい? と私は首をかしげた。
「いや、縁結びの紐だし、赤でしょ? 」
「やっぱそう? 友達もそういってた。おっかしいなー。絶対黄色だと思ったんだけど」
彼は唸り続ける。
私は気になったので、ググってみた。
やっぱり予告の映像もポスターも、紐は赤かった。
それを、ほら、と彼に見せてみる。
「いや、それはわかってるし、実際ただの俺の勘違いなんだけどさ。でも映画観てるときはそう見えちゃったんだ。なんでかなーと思って」
もちろん視覚的な病気とか一切持ってないよ、と彼は念を押した。
私の中の好奇心がむくむくと育っているの感じた。
なので、とりあえず再度グーグル先生に尋ねてみた。
「ふーん、なんか運命の赤い糸って、もともと中国の、人同士の足首を紐で結ぶ仙人? みたいなのがいて、その老人に紐で結ばれた二人は婚姻するっていうのがはじまりみたい」
「へー、小指同士じゃないんだな」
いつのまにか彼も身を寄せて、二人でスマホを覗いている。
やっぱりドキドキする。
彼はどうなんだろう。
「でも、なんか似たような逸話は世界中にあって、縁結びの紐はだいたい赤いらしいよ」
そっか。といって彼は元の位置に座り直した。
サンキューグーグル、アンド、ウィキペディア。
「うわ、気付いたら結構話してるな。悪いな、時間取らせて」
彼は腕時計を見て、リュックとビニール袋を持ってベンチから立ち上がる。
名残惜しいけど、お開きかな。
せめて連絡先を交換できればいいけど。
「ううん。楽しかった。こっちこそごめんね、お弁当、冷めちゃったよね」
「そんなの全然気にしてないよ。また温めればいいんだし。っと、あれ? 」
彼は弁当の入ったビニール袋を、なんかすごい使い込まれた感のあるリュックに詰めようとしていたが、留め具が壊れているのか開かないようだ。
しかし、その古ぼけたリュックには見覚えがあった。
「あれ、もしかしてそのリュック、ずっと前から使ってる? 」
「んー、中学のときから使ってるよ。なんで? 」
リュックと悪戦苦闘しながら彼は答える。
「物持ち良すぎでしょ。買い替えないの? 」
あとダサいし臭そう。とは指摘しない。
「そうなんだけど、やたら丈夫なんだよなこれ。なんか使えるうちは捨て難くて。でもさすがに捨てどきかな、これは」
彼は弁当を一旦ベンチに置き、深呼吸すると力一杯リュックを引っ張り、パキッという音とともにリュックは全開になったが、同時にその中身もすべてぶちまけてしまった。
おわー、と彼は叫んだが、なぜか落ちたものをすぐには拾わず、リュックのほうを見つめていた。
「いや、リュック見てないで拾おうよ。私も手伝うから」
思わず突っ込んでしまったが、彼からは意外な答えが返ってきた。
「留め具が……。リュックにある二つの入れ口のうち、一つは中学卒業頃に開かなくなり中身は封印されていたが、留め具が壊れ、今ついにその封印が解かれたっ」
なんで厨二病風だよ。
っていうか突っ込みどころが多過ぎて逆に突っ込めないよ。
新城くんの株が目下大暴落中だよ。
返して、今までのなんかちょっとノスタルジックでキラキラした時間を返して。
もういいやさっさと落し物拾い集めて帰ろう。
と、スマホの明かりでベンチ周りや下を照らしながら、
二人でリュックから落ちたものが散乱した地面を、
「スマホの明かりじゃ見えにくいねー」なんて言いあいながら手でまさぐっていると、
——私の指先に、なにか紐みたいなものが絡みついた。
それは、色あせたボロボロの黄色い靴紐だった。
「こ……れ、は、——」
「お前、それ、って——」
私たちは互いの顔を見合わす。
そして、二人して私が今履いているスニーカーを見た。
左の靴は、買った時のまま、靴紐の色は変わっていない。
だけどもう片方の右の靴は、私がいつもこだわって、何度靴を買い替えても元の靴紐から新しく変えてしまう。
その靴紐の色は、真新しい黄色だったのだ。
——ああ、そうだった。
中学生の私が、靴紐の恋のおまじないを流行らせようと必死だったころ、体育の授業中、運動靴の右足の紐が切れて、盛大に転んだことがあった。
幸い怪我はなかったが、先生に念のため保健室で休めと言われて、私は保健委員のカナちゃんと一緒に保健室に行ったのだ。
そして、そこで初めて新城くんと出会った。
第一印象はなんて根暗そうな奴だろう、だった。
ベッドに腰掛けていた彼は、色白の肌に痩せ細った手足、ボサボサの伸びきった髪、気だるげな表情で、すべてが当時の私と正反対だった。
カナちゃんと私は、とりあえず湿布でも貼る? なんて会話をしていると、彼のほうから話しかけてきた。
「お前の靴紐、切れたの? 替わりのあげよっか? 」
俺、体育出れないし。と、たしかそう言ったはずだ。
彼のその言葉を切っ掛けに、私達は色々なことを話した。
カナちゃんのほうは彼に引いていたようだが、当時の私はなんでも首突っ込むガールである。
根暗だと思っていた彼は、話し始めると意外に饒舌で面白く、自分の靴紐をするりと解き、私の靴に結びなおす手つきも繊細で鮮やかに見え、人は見かけによらないものだと感心したのだった。
別に怪我をしたわけでもないのに大袈裟に湿布を貼って、体育の時間いっぱいまでずっと名前も知らない彼と話していた。
終業のチャイムが鳴り、途中から授業に戻っていた保健委員のカナちゃんが再度迎えに来ると、私は彼に名残惜しげにバイバイと言って教室に戻ったのだった。
それからの私はなんとなく保健室の前の廊下をうろうろ通り過ぎることが多くなったのだが、でも保健室に用事なんてないわけで、いつも中に入ることはできなかった。
そんなときだ。カナちゃんから恋の相談を受けたのは。
私がカナちゃんとナカイくんの二人を、保健室で会わせようとしたのは、カナちゃんが保健委員だったからではない。
私が、無意識に新城くんと逢いたがっていたからだ。
なら、あの相談が上手くいかなかったのも当然の結果だ。
私は無自覚なまま、カナちゃんの恋を利用していたのだ。
それを彼女が気付かないはずがない。
カナちゃんは自分で気付いて悩んで、私に恋を打ち明けてくれたのに、私は作戦が失敗しても保健室で新城くんと楽しげに話していたのだ。
私は他人の恋愛には首を突っ込むくせに、自分の恋心には全く気付いていなかったのである。
カナちゃんがぶちキレたのは当たり前のことだった。
けれど私はなぜ彼女が怒ったのか理解できず、さらに火に油を注ぎまくったのである。
当時の私は友達が多かったこともあって、あっという間に喧嘩は周囲に飛び火した。
これが、私の中学時代のすべての人間関係を隕石の衝突のごとく破壊し尽くしたトラウマ事件の顛末である。
そして今現在。
私が拾ったこのボロボロの黄色い靴紐こそ、新城くんと最初に出会ったときに交換した靴紐の片割れである。
ちなみに他にも散乱していた落し物は拾い終えた。
「…………これ、ずっと持ってたんだ」
私は確信を持って彼に尋ねた。
「ちがっ、あの、別に取っておこうと思ってたわけじゃなくて、えっと、えっと——
——いや、まぁ…………うん、そうだ。ずっと気になってたんだ」
彼は最初耳まで顔を真っ赤にして否定しようとしていたが、私と目が合うと、落ち着いて語り出した。
「中学んとき、俺、あんまり学校行ってなくて友達少なかったから。保健室でお前と話してて、すっごく楽しかったんだ。
初めて会ったとき交換したお前の靴紐は切れてたし、すぐ捨てちゃったんだけど。
自分の靴は、どうせなら左右の靴紐を両方新しいのにしようと思って買い替えたんだよ。
でも取り替えて残った片っぽしかないこの黄色い靴紐は、なんか捨てられなくて、リュックに押し込んで、そのまま忘れてた」
私が持つ黄色い靴紐を、彼は懐かしそうに見つめている。
「それからしばらくして、保健室の外の廊下で喧嘩が起きてさ。そのあとお前、全然会いに来なくなって。俺も体調崩して学校行けなくなって、ほとんど自宅学習状態でさ。そのままお前と話すこともできず中学卒業しちゃったんだ——
——でも、どこかでずっと気にしてた。だからきっと、壊れて一つ口が開かないのに、このリュックを使い続けてたんだ」
彼は真剣に、本当に純粋にまっすぐ私と目を合わせている。
なら、私もちゃんと答えなきゃいけない。
「私ね、あの大喧嘩のあと、学校中から白い目で見られてさ。友達なくして、新城くんにも会えなくて、どうしようもなくって。逃げるように遠くの高校に進学したの——
——いや、あれは実際逃げたんだ。なにもかも忘れて、一からやり直そうとした」
視界が歪んでいく、彼の顔が、ぼやけていく。
ダメだ。まだなにも伝えられていない。
流すな、こらえろ。前を向け。
ここでまた逃げれば、私は二度と彼の顔を見れない。
「自分がやってしまった過去を、全部投げ出して。
なかったことにした。
そうやってまた最初から始めれば、ちょっとはマシになるはずだって。
結構うまくやれたと思ったんだ。やれてると思ってたんだ。
もう過去の自分とは違うんだって。
でも、今日新城くんに、変わってない、って言われて、心臓を掴まれたみたいな気分だった。
その通りだと思う。私はあの頃から変わってない。
私ね。全部やりなおしたはずなのに、ずっと続けてた習慣があるの。
それは、右の靴の紐を黄色に変えること。
理由なんて忘れて、ただのファッションのこだわりだって言い聞かせて。
ただの慣習になっても続けた本当の理由は、
————あなたが好きだったから」
伝えたくて、伝えられなくて。
忘れられなくて、忘れたくなくて。
だから続いた、私のこだわり。
最後まで、彼を見つめ続け、涙は流さなかった。
「…………そっか、そういうことだったんだね」
新城くんは、すべて納得したように頷いた。
私は、ボロボロの黄色い靴紐を持って、彼の足元にしゃがんだ。
「へ? な、なにしてんの! コロちゃん⁉︎ 」
ん?
なぜここで彼はうろたえるのだ?
あー、そういうことか。
まったく、男は。
「靴紐! 結んであげるから右足出して! 靴脱いで! 」
そう言うと彼は落ち着きはしたが、換わりに疑問を口にした。
「右足? こっちの紐はもともと左の靴のでしょ? それにこれもうボロボロだし、結んでもすぐにほどけちゃうよ、多分」
そんなことはわかっている。
でも理由ならちゃんとある。
「知らないの? もう一つの靴紐のおまじない、というかジンクス」
私は上目遣いで、いたずらっぽく彼を見上げる。
「右の靴紐がほどけるとね、恋が成就するんだよ」
彼も私も、ぷっ、と吹き出し、しばらく笑いが止まらなかった。
空を見上げると、流星が落ちたり、満天の星空、とはいかなかったけど。
雲のあいだから顔をのぞかせるお月様は、それはそれは綺麗だったと、そう思う。
私はこの別になんでもない普通の空模様を、生涯、忘れたくないと、強く願った。
笑いの発作が少しおさまったところで、私達はあらためて靴紐を結ぶ。
今度は逆の立場で、しかもわざとほどけやすく結ぶんだ。
ベンチに座りなおして、私は手慣れた手つきで新城くんの靴に紐を通している。
いつかの彼のように、新しく靴を買うたびに何度も繰り返していたあのときのように、ずっと心のどこかで想い描いていたとおりに。
「なぁ、この近くの映画館。まだあの映画上映してたよな」
彼は隣で、靴下むき出しの右足をプラプラさせながら私に聞いた。
私は作業したまま答える。
「うん、たしかそうだと思う。時間、調べられる? 」
もうやってる。と彼は答えた。
「今からなら、まだレイトショーに間に合いそうだよ」
予約は? と私が聞くと、もうした。と彼は応じる。
そこで靴紐を結び終えた。
新城くんに靴を渡し、彼が履いている間に、私はスマホを取り出した。
「ん? 予約はしたよ? 」
彼が不思議そうに聞く。
「ううん。ちがうの。中学の同級生の連絡先、どこにあったかなって」
なぜ? と彼は問う。
「カナちゃんと話したいの。一応、中学のときに友達だった人の中で、私にIDを教えてくれた人もいるから、そこから人づてに聞いていけば、なんとか辿れると思う」
便利な世の中になったものだ。
同時に面倒事も増えたが。
しかし文明の利器は問題を解決するためにある。
私はいままで、問題から目をそらし、宿題を増やし続けてしまっていた。
まさか今更あのときの答えが見つかるなんて、予期できるわけないじゃないか。
このままじゃ、あの大通りの疲れた大人たちの中に、将来自分が混ざった時、自信に満ちた顔を見せられない。
「……話して、どうする? 」
新城くんは、すべてを包み込むような優しい笑顔で問いかける。
私の答えは決まっている。
「仲なおりする。できなくても、ずっとカナちゃんとは付き合い続ける」
彼は大口開けて笑って、
「コロちゃんらしいね」
と言ってくれた。
とはいえ、さすがに今から連絡するのは厳しい。
映画も予約しちゃったしね。
ただ先ほど、中学のころ最後まで中立でいてくれた恩人の連絡先は発見できた。
削除してなくて本当に良かったと思う。
彼にもそれは雰囲気で伝わったのか、そろそろ行くか、といいながら立ち上がった。
私もそれに頷く。
「なぁ、いくらほどけてもいいからとはいえ、この靴紐ゆるすぎない? 転んじゃうよ」
先を数歩歩いた彼が振り返りながら文句を言う。
彼もまだまだ女の子の計算力を甘く見ている。
私は彼に追いついて、その手を握り、
「こうすれば転びそうになっても大丈夫でしょ? 」
と、ドヤ顔で言ってやった。
なぜかすごく残念なものを見たような表情をした彼には、あとでなにか報復を考えるとして、私達二人は映画館へ向かう。
実は、私は同じ映画を映画館で二回見るのは初めてだ。
だからもしかしたら、今度は私にも、あの紐が黄色く見えるんじゃないかって、ワクワクしている。
きっと彼もそう思ったから、私を誘ったのだろう。
昔の鼻緒が由来らしいが、靴紐が切れると、縁起が悪いという。
だからあのとき切れた靴紐は、同時に私とカナちゃんの縁を切ってしまった。
でも切れて、ハイそれで終わり。なんて風に現実はできていないはずだ。
新城くんとの黄色い靴紐が、時を越えても私達を結んだように。
もう一度、切れた紐を結びなおすこともできるかもしれない。
こうして幸せを感じている今も、カナちゃんと対面することへの恐怖が消えているわけではない。
それでも今この手に感じる温もりを守りたいなら、私達はずっと一緒に歩き続けるしかないんだ。
長編作品も書いていますので、よければそちらもどうぞ
http://ncode.syosetu.com/n2218dp/