15話前編「9月26日、土曜日」
小さな豆知識その31
浅海 奏もただ日々を過ごしているわけではなく、自宅では経営のノウハウ等の勉強を毎日している。
私が目を覚ますと、吐息を感じ取れる距離に空ちゃんの寝顔があった。
(…………可愛い)
長い睫毛、未だ幼さの強い目鼻立ち。目尻には涙の跡が残っていて、少しの腫れも見られる。傷ではないものは、空ちゃんが意識を閉ざしても消えることは無いらしい。とはいえ、傷が治る瞬間を見たことは私もないのだけれど。
「ごめんね……」
昨夜は少しやり過ぎたと、この涙の跡を見て思う。そんな罪悪感を和らげるのは、空ちゃんの安心しきった寝顔。
「……ん……すぅ……」
華奢な肩が、呼吸に合わせて上下する。隣で眠る、小さな小さな女の子。
私の隣では、この子は不安を抱えずに済んでいる。そんな自己満足のような、自分勝手な考えを抱かせる罪な女の子。
「…………」
頬に、小さく口付けをした。眠ったままの空ちゃんは反応を返すでもなく、夢の中だった。
「小説や漫画なら、寝言の1つでもあるのかしらね」
今本当に寝言で「お姉ちゃん……」なんて言われたら、私は昨夜を超えるようなコトをしてしまうかもしれない。だからそんな寝言は現実にはなくていい。
「好きよ……愛してる」
手を、包むように握る。私の手よりも一回りは小さな手。この暖かい感触を失うことが、私は怖くなり始めていた。ずっと、ずーっと握っていたい。空ちゃんさえいれば他に何もいらない。2人だけの世界に、行ってしまいたい。
(ダメよ……私には、やらなければならないことがある。この子のため、失わないためにも)
リスクを犯さないで何かを得られるほど、世界は甘くない。それが解らないほど、私は子供ではなかった。
(そういえば、今の時間は……)
窓から漏れる光で、日が昇っていることは解るけれど。私はベッドから抜けて携帯を手に取り、時間を確認する。室内とはいえ、裸では少し冷えた。
8時……。昨夜最後に時間を見たのが4時頃、その後すぐに空ちゃんが眠って(気を失って?)しまったため、私は4時間ほど寝ていたことになる。私もまだ眠たいから、何かの拍子に目が覚めただけのようだ。
8時ならまだ空ちゃんを起こす必要もない。それと、1通のメールも届いていた。私ももう少し眠るか考えながらそれを開く。美海からだった。
おはよう。ご飯の用意するから、起きたら着替えて食堂来る前にメールちょうだい。
あと、洗濯が必要そうなものは全部1ヶ所にまとめといてくれたら助かるかな。
それと、携帯おかしくなってない?昨夜変なメール来てたよ。
起きたら連絡を入れることと洗濯物に関してはともかく、昨夜のメールとはなんだろう。昨夜は美海の方からメールは受けたものの、私はそれに返信しただけ。そのメールがおかしくなっていたとか、そういう話かしら?
「まあ、いいわ。……もう少し寝ましょうか」
私は空ちゃんの隣に潜り込む。腕を背に回し、肌を重ねて甘えるようにして目を閉じた。
……夢を、見た。
色鮮やかで、けれども音のない、そんな夢。
私は空ちゃんと夕暮れの浜辺を歩いていく。
他には誰もいない海を。
手を繋いで、ゆっくり、ゆっくり。
いくらか歩いた所で空ちゃんははしゃぐように私の手を離した。
音はないけれど、空ちゃんは何かを言いながら嬉しそうに辺りを踊るように回った。
私はそれを見ながら微笑みを返した。
ひとしきり踊った空ちゃんは私に駆け寄り、不意打ちのキスをした。
驚く私を見ながら照れ笑いを浮かべる空ちゃん。
私は仕返しとばかりに空ちゃんにキスをした。
私達は求め合い、満たされるまでキスをした。
やがて空ちゃんが私から離れ、寂しげな笑みを見せたかと思うと。
空ちゃんは涙を目に溜め、笑顔のままその涙を一筋流した。
また、聞こえない何かを私に告げながら、空ちゃんは海へ入っていった。
空ちゃんが何をしているのか理解できない私を余所に、空ちゃんはどんどん沖へ沖へと歩いていく。
私から、離れていく。
私がようやく「止めなくては」と我に返った時には空ちゃんはもう遠くにいて。
私は慌てて追うけれど、空ちゃんは振り返ることもせずどんどん遠くへ遠くへ行ってしまう。
私は叫びながら、海へ消えていく背中を追う。
けれど私達の距離は開いていくばかりで。
結局、空ちゃんは見えなくなって。
残された私は泣くことしか出来なくて。
色鮮やかだけれど誰もいない、いくら叫べども音のない世界に、ただ独り残されて。
ただ、泣き続けた。
けれど、誰も現れることはなかった。
独りだった。
……そんな。
……救いの無い。
……夢を見た。
「……お姉ちゃん……お姉ちゃん!」
「…………ぇ……空ちゃん……?」
意識が覚醒する。目の前には裸のまま私を心配そうに覗き込む空ちゃんがいた。けれど私はまだ夢と現実が判別出来ず、空ちゃんを感情のまま抱きしめた。その暖かさに、ようやく私はさっきのが夢だと理解した。けれど頭では解っていても、さっきの夢はあまりに鮮明に記憶に焼き付いて胸を締め付け、不安を掻き立てた。
「空ちゃん……!嫌……行かないで……っ!」
「……うん。あたしはここにいるよ。どこにも行かない」
空ちゃんは子供をあやすように、私の背を優しく撫でる。私は少しずつ落ち着き、なんとか空ちゃんから離れた。まだ、手が少し震えている。
「怖い夢でも見たの?」
「……ええ。貴女が、いなくなる夢」
「そっか……」
夢と解っていてもかなりショックが大きく、まだ心は落ち着かない。けれど、空ちゃんの不安げな目を見ていたくなくて、私は気丈を装った。
「もう大丈夫よ。夢は夢だもの」
「でもすごくうなされてたし……」
「だいじょうぶ」
ゆっくり言い含めるように繰り返す。その言葉に空ちゃんはとりあえず納得してくれた。不安は拭いきれなかったのか、まだ表情に心配の色は残っていたけれど。
「なら、いいけど……それよりずいぶん寝ちゃってたけど、どうしよう?」
「今は何時?」
「10時だよ」
私が思っていたよりは早い時間だ。実は今日は予定がある。空ちゃんを連れて、行かなければならないところがある。けれど、それにも充分間に合うし余裕のある時間だ。
「とりあえず服を着ましょう。身体が冷えちゃうわ」
夢は夢でしかなくて、空ちゃんは今日も暖かい。だというのに、手の震えはしばらく止まらなかった。
「おはようございます。空野様。お嬢様」
「おはよう美海」
「お、おはようございます……?」
食堂に行くと、食事の用意は既に出来ていた。いつもながら素晴らしい手際。速度もさることながら丁寧でもあり、普段の美海からは想像もつかない仕事の出来だった。
「えっと、美海さんは今お仕事中……?」
「そうよ。堅苦しい口調と丁寧な対応だけれど、許してあげて頂戴」
「うん。……美海さん、メイドさんも堂に入ってて格好いいです」
「恐れ入ります」
美海は来客用の深めのお辞儀。けれど私は見逃さなかった。お辞儀をする直前、美海の鼻がピクリと動いたのを。直球で褒められたから、内心でかなり喜んでいるらしい。
「さ、食べてしまいましょう。美海は出掛ける用意をしておいて頂戴」
「かしこまりました」
背筋の伸びた綺麗な姿勢で美海が立ち去る。今日は美海も連れていくけれど、メイド服のまま外に出すわけにはいかない。
「「いただきます」」
とにかく、冷めない内に食べ始める。普段は晩にしか作らない味噌汁が今日は朝から作ってある。おそらく空ちゃんが緊張しないように。
「はぁ~美味しい~」
「ふふっ。おばあちゃんみたいよ」
「あったかいお味噌汁飲むとほっこりする~」
美海の狙い通りのようだから文句もないけれど。味付けも具材の切り方も私や美海の好みとは少し違う。美海なりに工夫したのだろうし、空ちゃんも満足そうだから本当に文句はない。
「あ、でもこんな時間にご飯食べたら変な時間にお腹減っちゃいそう」
「おやつでも持っていきましょう」
「ねえお姉ちゃん。その、そろそろ教えてほしいんだけど……」
空ちゃんはかなり不安な目をしている。無理もない。私は、これから彼女をどこに連れていくのかをまだ告げていないのだから。
「実は……ある研究室に行くのよ」
「研、究……?」
「……貴女に関わりのあるかもしれないところよ」
「っ!」
空ちゃんはビクンと肩を震わせ、食事の手を止める。沈み込むように視線を落とし、震えを止めたがるように自らの肩を抱く。
「そ、そこにあたしを連れていって、どう、するの……?」
「……出来れば、貴女の目で確かめてほしいの。貴女の生まれたところかどうか……」
無理強いはしたくないし、写真を撮ってくれば済むことかもしれない。けれど、そこには空野 幸人もいる。
彼には、研究の出来る環境を与えた。実際、短い期間でありながら既に成果と呼べるものを上げているとメイド長からも聞いている。
そして、彼が本当に優秀な研究者であると証明されたことで、私の中にはある可能性が思い浮かんでいた。
空野 幸人が、空野 歌撫という存在を創り出すのではないか。
最初から考えてはいたこと。その可能性があるのかどうか、確かめられるのは空ちゃんしかいない。彼女が研究所のような所で生まれたというなら、行くことで何かを感じ取るかもしれない。
何か感じ取るなんてファンタジーだと言われるかもしれないけれど、空ちゃんの存在自体が既にファンタジーなのだから今さら私は気にしない。
「もちろん嫌なら行くのはやめるわ。けれど……」
「あたしが行って、確めた方がいい……よね」
「……ええ」
「じゃあ、あたし行く」
意外にあっさりと、空ちゃんは承諾してくれた。表情は曇っていて、無理をしているのはすぐに解るけれど。
「お姉ちゃんと一緒だもん。大丈夫。それに、あたしのことなんだからあたしがやらなきゃ」
「……頑張れる?」
「うん、頑張る」
空ちゃんは自分を落ち着ける為か、食事を再開する。空ちゃんは1度美海の料理を口にすると、そのまま美味しそうにどんどん食べていく。
「美味しい」
「あとで美海に言ってあげて頂戴。きっと喜ぶわ」
空ちゃんの味覚に合わせて作ったであろう美海に感謝しながら、私も食事を再開した。
小さな豆知識その32
白澤 美海は最近自主的に苦手な漢字や語学の勉強を始めたが、誰にも内緒である。