12話その1「8月20日、木曜日」
小さな豆知識その25
「ん……?あれ……あ、そっか……今日カナちゃん達と遊びに来てたんだっけ…………なんだ、まだ5時前じゃん……寝よう……」
私は普段通りの時間……よりもかなり早く、5時に目を覚ました。目覚ましをかけていたわけでもないのに意識が自然と覚醒し、まず天井の違いに違和感があって、身体を起こしてみれば周りで空ちゃんと美海と境が寝ていて、そこで思い出す。私は今日、遊びに来ているんだったわね。
私は枕が変わると眠れない性質では無いけれど、普段より早起きになってしまうらしい。身体を起こしたせいか、二度寝も出来そうにない。
(……少し、陽でも浴びようかしら)
私は皆を起こさないようそっと部屋を出て、そしてそのまままっすぐ外へ出る。太陽はすっかり顔を見せていたけれど辺りは静まり返っていて、どこか違う世界にいるようでもあった。
「…………」
ここは山の中。木々が背の高い目隠しとなっていて、海どころか景色らしい景色は何も見えなかった。
木々の中に佇んで、私は考えてみる。
(空野 幸人……)
あれから調べたわけでもなければ、新しい情報が入ったわけでもないから、真面目な考察ではない。少し、整理するだけ。
高卒でありながら、以降独学で生物学を学ぶ。そして論文を発表して注目を浴びる。23歳ということは発表当時は大学生なら大学4年。まず間違いなく天才と言っていい。
研究を生業としたい者が何故大学等へ行くのか。先人の知恵をまとめたデータや論文等がそこにあるからというのもあるし、研究室や志を同じくする研究者、実験に必要な施設や材料が存在するから、というのも大きい。
誰もしたことのない新たな研究をするにしても、道具や設備や協力者が充実している所で行う方が効率的。当然のことだ。
しかし、彼はそれをしなかった。あるいは出来なかった。大学へは行かず、独学で研究……あるいは実験もしたのかもしれない。そうして論文を書き上げ、支持を得た。
真っ当な施設では無い所で挙げられたその研究成果に、研究者や研究者を志す者のモチベーションは高まったことだろう。
しかし彼は研究者にもならず、植物繊維を扱う企業を設立した。裏で何かしているのではないか、研究の足掛かりではないか、と囁かれていることと、それから大学へも行っていないことから、まず思い浮かぶのは彼が金銭的な余裕の無い人物であるという疑念。
家が貧乏なのか、あるいは美海のように両親を亡くして身寄りが無いのか。この辺りは調べなければ解らないことだけれど、その可能性は高いように感じた。
(あとは人物像ね……)
空野 幸人が空ちゃんをどうこうするような存在だと仮定したなら、人を人とも思わないほど研究に執着している人物……もしくは、空ちゃんを人とは見なさない人物。いずれの場合も、真っ当な感性の持ち主ではない。仮定だけれど。
そして、空ちゃんとの繋がり。空野 幸人と空ちゃんに繋がりがあるという確証が出てこない限り、全てが私の子どもっぽい邪推の域を出ることはない。
そもそも、空ちゃんはいつどこで生まれたのか。空ちゃんの言うこと……記憶が正しいものならば、彼女が生まれるのは来年になってからだ。
……私は、意外と空ちゃんの深いところを知らない。怪我をしても治るとは言うけれどその現場を見たことはない。生まれてから今までどんな人生だったのかも知らない。15歳というのが実年齢なのかどうかも定かではない。
私から訊くことを避けてきたのはあるけれど、彼女が自分から話してくれることもまた、無かった。
(私が思うほど、心を開いてくれてはいないのかしらね……)
仕方のないことだ。詳細を聞かずとも彼女の今までの人生は、人として扱われてこなかったに等しい。誰一人信じられないのが当然で、信じようと思っても心の底の底ではブレーキを掛けてしまう。誰にも心を開かないことで、自分を守る。心の傷が深い人間は、最後の一線は絶対に他人には見せない。
(…………)
寂しかった。空ちゃんは、私と……私達といてもずっと独りだ。そして、それはつまりまだ私を隣に置いてはくれないということ。
たとえキスや肉体関係を拒まれないとしても、そこに空ちゃんの本心は無い。無いからこそ、拒まないし怖がらない。……私の想いは、まだ届いてはいない。
(私は…………)
どうするべきなのか。
今は、空ちゃんが欲しくてたまらない。私の側にいてほしくて、彼女を感じていたくて、「私だけの」空ちゃんになってほしくて、肌を重ねることもたくさんしたい。気付くことの出来た私の本音は醜悪で、私も平凡な人種であることを証明するように薄汚く、恥ずかしさを伴うものだった。
そんなものでも、私の気持ちであることに変わりはない。空ちゃんの心に届くように、それは訴えていかなければならないものだ。
けれど、いつも壁が立ち塞がる。空ちゃんの心の傷。空ちゃんの目的。
…………邪魔だった。
さっさと解決して、空ちゃんを独り占めしたかった。
自分より他人を優先してしまう優しい心。ちょっと天然でズレた感性。つぶらで大きな瞳。小柄で華奢な身体。釣り合わない豊かな胸。可愛らしいソプラノを奏でる声。
私をお姉ちゃんと呼ぶあの子の心と身体、その全てが欲しい。今すぐ抱きしめて、もう離したくない。誰にも渡したくない。空ちゃんに、私の誇れるところも醜いところも、その全てを見てほしい。
……。
…………。
………………。
「……はぁ」
ため息をついた。誰に聞かれるでもないそれは、人知れず木々の中に溶けていく。
本音だけで生きられるほど、私は子どもではない。子どもではいられない。それが解っているからこそ、さっさと解決してしまいたいのだ。
時間をかけずに解決できる問題だったならどれだけ良かっただろう。悩むこともなく、どんどん先へ進めたなら。
「……考えても仕方ないことね」
私はその思考を打ち切る。ああだったら、こうだったら。そんなもしもは意味がない。
だから私は決めた。空野 幸人が怪しいと判断したなら、躊躇うことなく私は企業トップの座を取る。私の今夜の予定に、メイド長に連絡するという項目を付け加えた。
『空野 歌撫を救いたければ企業を発見した後も「行動」せよ』
「世界」からのメールにもそう記載されていたことだし、ね。
私は、今日は楽しもう、とも心に決めた。美海や境や鹿野君とこうして遊びに来れるのも、もしかしたら最後かもしれないから。
「……お姉ちゃん?」
「あら、起こしちゃったかしら。おはよう」
「うん、おはよう」
空ちゃんが、目をこすりながら姿を見せた。袖の余ったふわふわのパジャマは、彼女が背筋を伸ばして立っていてもちょこんとした印象を与えた。
「んーっ……自然の中は気持ちいいね」
「ええ。……ねえ、空ちゃん。私は、貴女の目的……未来を変える手がかりを掴んだわ」
「え……え?本当?」
私はさっさと話の核心を言う。彼女にとっては唐突極まりない話だろうけど、誰も聞いていないこの時間は私にとっては都合がよかった。
「本当よ。だから……貴女の事、貴女の知っている事を出来る限り詳しく教えて頂戴。貴女が……隠していることも」
「あ…………あたしの、こと……?」
空ちゃんの声は震えている。……空ちゃんの事を訊くということは、彼女が思い出したくないことを嫌でも思い出させるということ。それが解らないわけじゃない。それでも、私は「今の空ちゃん」を信じて訊いた。心臓を刺すような痛みは、あったけれど。
「今じゃなくてもいいわ。けれど……出来るだけ早く」
「そ、そうだよ、ね……必要だよね……」
「……ええ。未来の情報は、貴女だけが頼りだもの」
空ちゃんに嫌な思いをさせている事が、それも自分自身でしていることだというのが苦しかった。必要だから。彼女のためだから。そんな気休めを作ったところで、胸を刺す痛みは増すばかり。傷付いているのは空ちゃんなのに、自分を正当化するようで。気分が悪かった。
空ちゃんはほんの少し荒れた呼吸で、自分の身体を抱くようにして震えていた。その痛ましい姿を見ていると抱きしめてしまいそうになる。けれど今の私にその資格は、ない。
「お姉、ちゃん……あたし、お姉ちゃんになら言えるよ……頑張れるよ……」
「…………」
私になら言える。その言葉に無意識に独占欲が反応し、初めに感じたのは喜びだった。そんな私を責めるように、心が痛みを訴える。
「すぅ…………はぁ…………お姉ちゃん、あのね」
空ちゃんはまだ顔が青いけれど、話し始めた。呼吸は、少し落ち着いてきていた。……知ることのなかった空ちゃんの過去。
「あたしは、よく解らない研究室で生まれたの。多分……普通の人と同じように、赤ちゃんの状態で」
記憶も無いような小さな頃。そこに確信があるのかどうかは解らない。おそらく、資料や写真を目にしたとかその程度のものだろうとは思うけれど。
「研究室から出たことは無かったけど、3歳くらいの頃……もうその時には研究員の人達が、勉強を教えてくれてた」
「普通の人間と同じ知能があるかを確かめていたのかしら」
「よくわかんない……でも、研究室から小学校にも通ってたけど、付け加えて研究室ではそれより進んだ勉強を教えてもらってた。今も、高校の勉強にはついていけてるよ」
12歳にして、中学卒業レベルの学力があった、というところかしら。特別な技能が無くとも、不可能ではない。もちろん、元の才能はあったのでしょうけれど。
「それまであたしは、研究室で幸せに育った。必要な時以外はほとんど外には出られなかったから、本とか知識でしか外の事を知らなかったけど、研究員の人達は優しかったし、楽しかったよ」
「優しかった?」
私は、最初から空ちゃんは辛く当たられていたように考えていた。けれど、その認識は少し違っていたらしい。
「うん……お誕生日もささやかだけど毎年お祝いしてくれたし、ほとんど叱られたりもしなかった。……多分あたしは、研究室で人工的に造られた命。精密検査はしょっちゅうされたし、たまに変な薬も飲まされたけど……でも、それは必要なことだったから。あたしのためでもあるって解ってたから、全然平気だった」
叱られないことが幸せかどうかの議論は置いておいて、その扱いは研究対象というよりは箱入り娘くらいのものかもしれない。
「でも……でもね……」
堪えていた、今も堪えようとしている涙が、空ちゃんの頬を一筋濡らした。1度流してしまうと、涙は止まらなかった。それでも、健気に空ちゃんは震える声で話してくれる。
「中学1年生の春……あたしは大きな怪我をしたの。研究室での定期検査の時、高温になるから触れちゃいけないって言われてた機材に、うっかり触れちゃって」
空ちゃんはパジャマの袖で涙を拭う。あいにく、私も今はハンカチを持っていない。
「すごく心配された。傷痕も残るだろうって。……でもね、次の日には完治してたの。痕も残らなかった」
「それが、貴女の……」
「うん。そこから、研究員の人はあたしの体質の研究を始めた。その時は全然平気だったんだよ?痛いこともされたわけじゃないし……変わっちゃったのは、それについて世間に公表してからかな」
「公表?」
「研究室の人達は、あたしが大きくなるまで普通の女の子として世に出して、いずれ「実はこの子は我々が造り出したんです」って言って注目を集めるつもりだったみたい」
すぐには公表したりしない。成果を成果として見せるための手段として、きちんと成長する命を造り出したというインパクトが必要だったのだろう。
「でも……あたしの体質について研究が進んで、いざマスコミや偉い教授とかを集めて会見を開いた時、あ、あたしもいたんだけどね。その時、偉い教授が言ったの。「お前達は化物を生み出した。人の形をしていても、そいつは人間じゃないし、死なないものは命ですらない」って。大きな発表だったから、その発言も世界的に中継された」
酷い言い方をする……私は憤りを覚えた。そんなことを平然と言える人間……同じ目に遭わせてやりたいくらいだ。
「結局、教授の言うことが支持を得て、研究室の人達は世界中から罵られて、業界から追放されたの」
「空ちゃん……貴女自身は……」
空ちゃんは1度俯いた。表情にも影が射し、小さなため息をつく。……ここからが辛い話に違いなかった。私も気を張って耳を傾ける。
「あたしは……中学校に行っても気味悪がられた。毎日遊んでた友達、その親御さん、優しくしてくれた先生……誰もがあたしを避けて、怖がってた」
「…………」
「研究室……家に帰っても、抜け殻みたいな皆がいて……あたしは、せめてあたしを育ててくれた人達に元気になってほしくて、元気付けようと毎日お話しした。聞こえてたかは解らないけど、毎日毎日、学校での事を…………嘘を、ついて……」
どこにいても、救いは無い。息苦しい学校へ毎日通い、帰れば屍のような人々にあたかも楽しかったかのように話をする。……私には考えも及ばないような話だった。
「ある時、あたしが研究室で話してたら、その中の1人から反応があったの。初めてあたしの声に反応して、顔を上げてあたしの方を見た。あたしは嬉しくてもっとお話しした。……そしたらね、その人こう言ったの。「お前のせいで俺は全てを失ったのに、なんでそんなに楽しそうなんだよ」って。…………あたし、無神経だったな、って今なら思う」
「そんなこと!……そんなこと、ないわよ……」
ありふれた、慰めにもならない程度の言葉しか出てこなかった。空ちゃんの人生は突然真っ暗になり、突き落とされた。そのショックがどれほどのものか、幸福に育ってきた私では理解してあげることなんて出来るわけがなかった。
「ありがとう、お姉ちゃん。……それから、あたしは研究室に閉じ込められて、怪我をしても治ることを利用して色んなことをされた。最初は殴る蹴るだったけど、その内指を少しずつ表面から削がれたり、目を閉じられないように固定されて抉られたり、太ももをフォークで骨に達するまで刺されたり、お腹を開かれて腸にたくさんの釘を打たれたり、それから」
「もうやめて!」
私は耐えかねて耳を塞いで叫んだ。空ちゃんの言葉を聞いているだけで、その光景が浮かぶだけで辛かった。そんなビジョン、たとえ目の前で起きていることではないイメージだとしても見たくない。大好きな人がそんな目に遭う所なんて、見たいわけがなかった。…………空ちゃんは、下唇を強く噛んでから話を続けた。
「ごめんね、話が逸れちゃったね。それから、3年近くそんな生活が続いた時、あたしは研究室から脱走することに成功したの……でも、追いかけてきた研究員の人に追い付かれて、もうダメだって思ったんだけど、気付いたらこの時代に来てたの」
「…………ぅっ、……」
私は、空ちゃんの話の最後がほとんど頭に入ってこなかった。あまりに凄絶な彼女の過去を、感情がもう聞きたくないと拒否して、ついには私の方が泣き出していた。
ふわりとした感触が、私を包む。空ちゃんが私を抱き、頭を撫でていた。
「もう泣かないで。あたしは、お姉ちゃんがいるから大丈夫。だから、お姉ちゃんがあたしのために泣くことなんてないんだよ」
「…………っ、……っく……空、ちゃん」
「なあに?お姉ちゃん」
「キスぅ……」
「もう、最近のお姉ちゃんは甘えん坊さんだね?」
そう言いながらも、空ちゃんは私に口付けしてくれる。その暖かさで「ここに、空ちゃんはきちんと存在している」ということを確かめ、安心できた。私の方が慰めるべきだったのにとは思ったけれど、今は空ちゃんの感触を無くさぬよう、ひたすらに彼女と唇を重ねた。
小さな豆知識その26
「ん……?あれ……?カナちゃんとクーちゃんがいない……外?窓から見えるかな………………っ~~~!?!?」
「美海さん……?おはようございますぅ……」
「み、みみみみみーちゃん、ああああれ!」
「もう少し寝ませんかぁ……?」
「いいいいから、見て、見て!」
「なんですかもぅ…………あらー、これはまた朝から情熱的な」
「は、初めて見たよ……す、すごいね……」
「見てたっていうことは」
「もちろん内緒だからね……」




