1話「4月6日、月曜日」
※2015/10/23 00:45
脱字と、次話との矛盾点を修正。本筋とは関係の無い矛盾点だったため、話自体は変わっていません。大変失礼いたしました
「……」
4月の上旬。快晴の空の下。私は、たった今自販機で買ったばかりの缶コーラを開け、口に含んだ。
「……ケホッ」
顔をしかめ、少しむせる。最近メロンソーダが飲めるようになった程度の私に、まだコーラは早かったみたい。
私の目に映るのは、少女。
背が低くて、髪は黒く肩にかかる程度の長さの、制服の少女。制服は私が今着ているものと同じ。つまり、同じ高校の生徒。
少女は居心地が悪そうに、校門の前をウロウロしている。辺りを見回しながら学校の敷地には決して入ろうとはしない。
(……なにかしら、あれ)
私はその少女を認識した時点で立ち止まって、少し観察している。校門の前はすぐ車道が横切っていて、横断歩道を渡れば少女と接触出来るくらいには近いけれど。
最初はその不審な挙動から、不審者かと思った。けれど、ウチの制服を着ているからきっと違う。むしろ不審者なら、あんなに不審者然としないでもう少し隠すと思う。
ならなんなのだろう。校門には、「柏波高等学校 入学式」と書かれた安っぽい看板もある。現に新入生と思われる他の子達はその看板を一瞥し、間違ってないと安心した様子で門をくぐっていく。そんな中、その小さな少女だけは入ろうとしない。胸元に作られた拳からは不安が見てとれた。
私は、彼女が新入生の一人だと断定して声をかけることにした。一口しか飲んでいないコーラを手に、左右を確認してから横断歩道を渡る。ここ、横断歩道だけで信号機つけないのかしら。
「どうかした?」
「ひぇっ!?」
私が声をかけた少女は、飛び上がらんばかりの勢いで驚いていた。
……そんなに驚かなくてもいいじゃない。目線に合わせて少し屈むこともしたのに。少しショックを受けながらも、平静を装う。
「貴女、新入生でしょ?ウチの」
「……は、はい……」
緊張からか、強張った表情。学校指定の鞄を抱くようにしている。小柄なこともあって、見ている分にはとても可愛らしい。
「私、ここの生徒会長なの。一人が不安なら私と一緒に行く?」
「え、えっと、その……」
しかしこの子、声が小さい。男性相手に萎縮する子は何人か知っているけど、女性相手でもとなると珍しい。
私は少女の答えを待った。幸い、時間にはまだ余裕がある。昨日の内に準備を「完璧に」済ませてなければここで少女に声をかける時間も、飲めないコーラに挑む時間も無かったはず。
「はい……お願い、します……」
30秒は待った。けれど、この子は自分の意思を伝えられる子だった。
「ん、じゃあ行きましょうか」
まるで子供に接するように私は彼女と接した。入学したての子なんて、まだまだ制服に着られてる中学生に見えるもの。
彼女の手を取ろうとして気付いた。右手に鞄、左手に飲みかけのコーラ。
「ねえ、貴女」
少女はビクッ、と肩を少し震わせた。私そんなに怖いかしら……。っと、いけないいけない。つとめて冷静に。
「コーラ飲める?」
結局、少女もコーラが飲めなかったので手は取らずに校内へ。玄関で少女に「そっちが新入生受付。新入生はそこで名前を言って、まずは上履きを貰ってクラスを教えてもらう。そしたらそこで待ってて。私も行くから。……名前、言えるわね?」と指示を出し、自分の下駄箱へ。今どき下駄箱なんて呼び方、少しダサいのかも。
自分の上履きを取りだし、ローファーをしまう。鍵を掛けて、施錠を確認。なんでも、盗難、悪戯防止だとか。ラブレター送るのもハードルが上がったものね。さて。
少女を迎えに行く。本来一人でやることだし、そうしてほしいのだけど、あの様子ではそういうわけにもいかない。
「あら?」
新入生受付に、少女の姿は無かった。代わりに、
「おはようございます、会長」
眼鏡の少年がいた。私と同じクラスの男子で生徒会の副会長、鹿野だ。彼は新入生受付の受付係。教師がやるべきじゃないかと思わないでもないけど……。
「おはよう鹿野君。今ここに新入生の女の子来なかった?小動物系の」
鹿野は一度外を見て新入生が来ないことを確認すると身体ごと振り向いた。
「やたらオドオドした感じの子なら、不安だったんで境に案内させました」
「そう」
境、というのは生徒会書記、一学年後輩の女子。面倒見のいい子だから大丈夫でしょう。ちょっとうるさいのが難点だけど。……大丈夫かしら?
「ところで」
鹿野が眼鏡のブリッジを持ち上げながら言う。彼はこの動作がカッコいいと思っている。私に言わせれば彼も小動物系だから、ちょっと微笑ましい。
「会長、炭酸飲めないんじゃないですか?」
彼は私が炭酸が苦手なことを知っている。コーラが気になったようだ。
「ああ、これ?チャレンジのつもりでそこで買ったんだけど、コーラはまだダメね。一口しか飲んでないわ」
私はコーラを鹿野に押し付けた。勢いで受け取ってしまって驚く鹿野に背を向け、私は生徒会室へ向かった。
「それ、もったいないから飲んどいて。じゃあ、またあとでね」
「え、あ、はい!」
背中にかけられた鹿野の声は裏返っていた。
私の通う高校、柏波高校は、普通の共学の県立校。特別なカリキュラムもなければ、進学校でもない。最寄りの駅からは徒歩5分ほどの位置にあり、近くには2つほど高校がある。近所の子供は大抵、ウチを含めた3つの高校のどこかに通う、というありふれた高校。
私がここに通うことになったのも特に理由があるわけじゃない。近いから。ただそれだけ。中学の担任からは「お前ならもっと上の高校にいけるんだ、もったいないから柏波なんかじゃなくて美埜に行け」と散々言われたけれど、断った。学歴とか、成績には興味が無かったから。ちなみに、美埜っていうのは県内一の進学校、美埜高校のこと。
あまりに担任がうるさかったから、高い電車賃を払って文化祭を見に行くくらいはしたけれど、「模擬裁判」だとか、「哲学的観点から見た、ダイレクトマーケティングの研究発表」なんてものを出し物にしてたりして、本人達には悪いけど気が狂ってるんじゃないかと思った。あそこは私の住む世界じゃない。なんでマーケティングを哲学的に見るのよ。
とにかく、私は自宅から徒歩10分の柏波高校に入り、今では生徒会長をしている。今年から3年。そろそろ進学か就職かを決めないといけない時期。だというのに。
「……んー……」
あの、新入生の少女が気になって仕方なかった。これから入学式で読む予定の式辞の台本を手に、生徒会室で一人唸るくらいには気になった。
彼女が特別おかしいとか、怪しいと感じたわけでは無い。内気な感じの普通の子だろうと思う。
「ま、いっか」
考えても解らないなら今は考えないようにしよう。きっと女の勘とか、そういうものだ。そう思いながら、私は新入生に祝いの言葉を送るため、講堂へ向かった。
「お疲れ様です」
「お疲れ様でぇーす」
入学式が終わり、生徒会室へ戻ると鹿野と境がいた。
「境、パンツ見えてるわよ」
「いーんですよぉー、減るもんじゃないしぃー」
境は、入学式で長時間ジッとしていたのが堪えているらしく、脚を机に投げ出している。落ち着きのない子だものね。
「おい、僕もいるんだから気にしてくれよ」
「会長は女子だし、鹿野先輩はいいんですぅー」
「会長はともかくなんで僕はいいんだよ」
「ヘタレだからですぅー」
「なっ……!」
「境も女の子ね、鋭い観察眼」
「か、会長まで!」
そうやって慌てたり、どもるからヘタレって呼ばれるんじゃない?とは言わなかった。同い年の男性とは思えない可愛らしさね。
「そ、そうだ会長」
「なに?」
ごまかすように鹿野が切り出す。まだ少し顔が赤い。
「会長が戻る少し前に、女の子が会長を訪ねて来ました。今朝のオドオドした子です」
私は驚いていた。同じような言葉でも、虚を突かれたという方がより正確だろうか。妙に気になっていた子。それが私を訪ねて来た。入学式を挟んで気にならなくなっていたところにこれだもの。間が悪い。でも私は、それを表には出さずに返す。
「そう、何か用かしら?」
「さあ。会長はまだ戻ってない、と伝えたら去っていきました」
「今ごろホームルームしてる頃ですしねぇー」
確かにそうだ。その短時間で生徒会室を訪ねてこれたことの方が不思議だった。新入生は知らないはずなのに。
「まあいいわ。後は私がやっておくから、二人とも帰りなさい」
「会長、僕も手伝います」
鹿野が申し出てくれる。が、
「気持ちは嬉しいけど、彼女はきっとまた訪ねてくる。その時に男子がいると萎縮しちゃうと思うから」
「それくらいあたしでも解りましたよ、鹿野先輩はホントダメですねぇー」
「う、うるさいな。……わかりました。今日は失礼します」
「二人とも、お疲れさま」
「「お疲れさまでした(ぁー)」」
二人が部屋から遠ざかる。
「鹿野先輩クレープ奢ってくださいよぉー」
「なんで僕が!」
なんて掛け合いを残しながら。
境には、もう少しボリュームを抑えるように言った方がいいかしら。鹿野君もいつまで小動物系なのかしら。女性らしく、男性らしく、なんて言い方するとセクハラとか差別になっちゃうかしらね。
そんなことを考えながら、私は一人作業を始めた。
作業を始めてからしばらく。ふと時計に目をやると1時間が経過していた。腰を上げずに窓から外を見れば、帰宅していく新入生と、それを阻む部活勧誘。
「ほどほどにしときなさいよ」
誰に言うでもなく私は呟く。そろそろ来る頃かしらね、とも。
コンコン。
小さなノックの音。
「どうぞ」
それは、私の予想通りだった。いえ、きっと誰に予想させても当たったに違いない。
「失礼します……」
小さな声と共に扉が開かれ、そこにいたのはやはりあの小動物少女だった。相変わらず縮こまって……今朝よりもさらに小さくなっている気がする。
「何か用があるんでしょう?入って」
「失礼します……」
少女は繰り返すと、扉を丁寧に閉めた。私が座るよう促すと腰を掛け、
「…………」
黙って俯いてしまう。難儀な子ね……。
話の切り口をどうしようかと少し考え、無駄だと気付いた。情報が少なすぎる。まだ相手のことを何も知らない。相手も自分のことをさして知らない。ならまずやるべきこと。
「自己紹介からしましょうか。私は浅海 奏。3年で生徒会長よ。あなたは?」
あなたは?の部分で肩を震わせていた。訪ねてくる行動力があるところをみると、「話しかけられること」が特に苦手な子なのかもしれない。
「ぁ、あたしは……空野 歌撫、です……」
「同じ名前ね。どういう字を書くのかしら」
「歌に、撫でる、でカナデです……」
生徒会室に来てから今まで一度も目が合わない。俯いたままだから。大人に対してこういう子は何人も見たが、そういった子からも私はよく相談を受けていた。その時は皆私と目を合わせてくれていたものだけど……。まさか老けた……?思考が関係ない方向へ行きそうだったので今は横に置いておく。
「それで、空野さん。貴女は何か私に用があって来たのよね?今日は私もこれから予定はないし、自分の言いやすいタイミングでいいから話してくれる?」
絶対に話せないなら、ここまでは来ない。その前に躊躇ってしまうからだ。もしかしたらこの子……。
私は空野の挙動を見逃すまいと観察した。
空野は、微妙にこちらを窺うような仕草をする。チラチラ見てくる、というと解りやすいかもしれない。
目には少しの……怯え?私が歳上であることを抜きにしても少し過剰な気がした。
口を開いて何かを言おうとしてはやめ、言おうとしてはやめ。よほど言い出しにくいことらしかった。
それから、
(…………?)
首の付け根……左側の襟元の辺りに、傷があったように見えた。制服の構造上、一瞬見える程度だったけれど、そこに違和感のある何かが存在していた。
他に気になるような点はない。
強いて言えば、背が150センチに満たないのはほぼ間違いないこと。その割に胸はあること。制服の上からでも「胸がある」と解るのはこの歳ではかなり貴重だ。髪の手入れや身だしなみは行き届いていること。やはり、少し内気な子なだけなのかもしれない。
10分ほど経った頃。ついに空野は声を出した。
絞り出すように。
しかしハッキリと。
まるで告白でもするような緊張感で。
私の、目を見て。
そう。初めて目を見て言葉を発した。
「ぁ、あたし……この学校を、辞めようと思ってるんです!」
……私は初めて自分の耳を疑った。ついでに動揺していた。色んな考えが、頭の中を駆け巡る。
今日は入学式で、ここは生徒会室で、目の前にいる女の子は私に用があると訪ねてきた新入生で、その子の口から「学校を辞める」?
……冗談も良いところね。今日は入学式よ?入学式の日に学校を辞めたいなんて、聞いたことがない。しかもそれを何故教師でなく私に?最近は入社式で辞めるいい加減な新卒がいる、なんて聞くけれど、この子も似たようなものかしら。
……それにしては。
「…………」
真剣さを感じる。言い切った後はギュッと目を閉じているので、結局目を見られた時間は少なかったけれど。
適当に言っている風でも無いし、私はもう少し詳細を聞いてみることにした。極力感情を抑えて、けれども威圧することの無いように。
「貴女が学校を辞めたい、それは解ったわ」
空野は、ゆっくり目を開いた。伝えるべきことが伝わって、一応は安心したように。
私は続ける。
「けど、それはなんの冗談?まだ入学してから何もしてないのに辞めたいなんて、冗談で無いなら人間性を疑うわ」
私は、この子の人間性を疑ってなどいない。「あくまで一般的に言えば」人間性を疑われる可能性もある、というだけ。私はまだ彼女のことを全然知らない。何か事情があるのだろうとは踏んでいた。
私の言葉に対して空野が見せた表情は、「諦め」だった。
……マズイ。
私は、確信を持ってそう思った。一瞬、背筋に悪寒が走る。
今まで、教師や親……大人に言えないことを私に相談してくる子はたくさんいた。高校入学以来2年間、月に6人は私に相談しにきた。ついでに中学時代も似たようなものだった。内容は様々で、告白する勇気がない、成績が上がらない、なんて可愛らしいものもあれば、彼に妊娠させられた挙げ句捨てられた、なんてものもあった。もちろん、私に処理できないものは大人に任せたし、出来る限り相手を納得させてからことの報告に臨んだ。
けれど、私も子供。それは今だってそう。失敗もたくさんしてきた。私を頼ってくれた子を傷付けたことも何度もある。
だから私は知っている。
「一般論」を言われて諦める子は、反論する元気もないことを。
下手をすれば自殺する可能性もあることを。
今回私に話しにきた空野という小さな少女。この子はそういうタイプだ。外に発散するのではなく、溜め込んで溜め込んで……いずれ壊れてしまう。
それを悟った私は、言葉選びを間違えないように頭をフル回転させながらも、すぐに言葉を続けた。
「そんなことを言う連中が多かったでしょうね」
「えっ……?」
空野は顔を上げた。うっかり目が合ったことで慌てたように視線を反らしたが、一瞬覗かせたその顔には、少しの期待が見えた。
……良かった。まだ間に合うみたいね。私も少しだけ安堵する。
「私は、そんな無責任なことは言わない。けれど、貴女の事情を知らないままでは掛けられる言葉も無いの。……それは、解ってくれる?」
「……はい……」
苦々しい顔。
話さなければならない、話さなければ進まないという「理屈」は解る。けれど話したくない。出来れば私に、「解ったわ、退学届けを用意するから待ってなさい」と言われるのが一番楽だった、といったところかしら。
尚も慎重に、私は言葉を選んでいく。
「教師に言っても無駄だと思ったから私のところに来たのよね?そうやって私を頼ってくれた人を私は無下に追い返したりはしないわ」
俯いたままの空野。人によってはここで突き放すこともする。でも今のこの子は精神的に参っているように見える。突き放してしまったらどうなるか、その先が怖かった。
だから私は、人と話す時は目を見なさい、とすら言わずに、
「だから、明日も明後日もその次も、放課後はここに来なさい」
そう、言った。
すぐに解決するものでもない。私が代わりに退学届けを貰いに行ってもいいけれど、結局は彼女の保護者の印もいる。私もこのことを教師になんと説明すればいいのかよくわからない。
「明日も明後日も、放課後私はここに来るわ。あ、生徒会の活動は無いから安心して」
まずは、この子を知ること。そのために、私に心を開いてもらうこと。それが必要だった。
「別に話したくないことは言わなくていいわ。私からも訊かない。ただ、もう少し私と関わっても良いと思えるなら、もう一度ここに来てほしいの」
空野は、やはり俯いたままで、そして黙ったまま。正直、これが通用するかは賭けだった。何度も言うようだけれど、情報が足りない。出来る限り優しく……言い方を変えれば地雷を踏まないようにはしたけれど……。
長い、長い沈黙が緊張を誘う。私の言葉でヒステリー起こされて事件起こしたり死なれたらかなわない。……だからあまり相談とかされるのって好きじゃないのよね……。
「……はい。また来ます……」
「……そう。待ってるわね」
やっとのことで紡がれた言葉に、私は心底安心した。詰めていた息が漏れてため息のようになったけれど、バレてないかしら?
「あの……」
「何かしら?」
空野が、少し緊張を解いたように話しかけてきた。目線はまだチラチラとしていて真っ直ぐ私を見るものではないけれど、そのせいで上目遣い。なんだ、可愛らしい顔も出来るんじゃない。
「……ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
短く返す。正直、疲れていた。ベテラン奏先生の相談室でも、御新規様は神経使うのよ。
「……今日は、帰りますね……」
「ええ、気を付けて」
こうして、空野は帰っていった。
「ふぅ……」
息をつく。学校を辞めたいに始まって、得られたものは、まず彼女の情報。
「一般論」だとか「常識」が通用する子じゃない。正しくは、「今の彼女には」。推測でしか無いけれど、普段はきっと優しくて穏やかな子なのだと思う。それこそ常識的ないい子でしょう。
けれど、今のあの子は弱っている。…………何か、常識では計れないものを抱えている気がする。私ではどうにもならない、それこそ大人の力が必要な何か。私は所詮高校生で、出来ることは限られる。そんな大きな問題を抱えているとしたら、私はどう動くべきなのか。誰を頼るべきなのか。それも考えていかなくてはならない。
それから、彼女からの簡素な信頼。全幅の信頼ではないけれど、敵対心も無さそうだった。とりあえず今すぐには学校を辞めないで、後日来てくれるみたいだし。本当なら詳細を聞いて事態を把握するくらいのことはしたかったけれど……まあ、仕方ないわね。悪い方へ進まなかっただけ良しとしましょう。
……もう、人を死なせるのはごめんだから。
……。
…………。
………………。
……………………。
「……私も帰ろうかしら」
外は綺麗な夕焼けだ。昔を思い出して、少しだけ泣きたい気持ちになったのは、燃えるような茜色のせいだと思いたい。茜色ってオレンジ色では無かったかしら?でも、
「今日も綺麗ね……」
校舎4階に位置する生徒会室からは、海が見える。東側だから朝の方が綺麗なものが見れるのかもしれない。それでも、夕焼けを鏡のように映す水面は美しかった。何も考えず、ただ眺めることが出来る。
自然の中に身をおいて、自然と一体になる……。ふふっ、新手の宗教みたい。夕焼けは嫌なことを思い出すのに、それが海に映ると気持ちが晴れるのだから不思議なものね。
私も、帰宅することにした。ソーダでも買ってみようかしら。そんなことを考えながら。
「「「おかえりなさいませ」」」
「ただいま」
自宅に入れば、メイドが迎えてくれる。ソーダは……もったいないけれど3割ほど捨ててしまった。
私の家は、金持ちだ。
敷地面積は一般的なものより少し広い程度だけれど、使用人を複数人雇っているし、セキュリティ関連も高いレベル。どう近道をしても、自室に入るまでに5つのセキュリティを抜けなければならない。
両親はいない。共に生きてはいるものの、別々に海外で働いている。
だから、家にいるのは私と、メイド達だけ。その中でも住み込みなのは1人だから、夜は基本女2人。セキュリティに感謝する時でもある。外には警備員もいる。家に両親がいなくても、心配することなど何もない。
ちなみに、金持ちだからといって「○○ですわ」なんて話し方はしないし、社交ダンスも踊れない。あくまで一般的に金持ちなだけ。両親はそれぞれ別々の会社を経営しているけれど、どちらも会社の次期社長は会社の中から出すらしい。実力主義なのはきっと会社にとっていいことだ。私の方も特に跡を継ぎたいとか、そういう願望はない。
女2人で暮らすには広すぎる家。8人家族くらいなら丁度いいんじゃないかしら。そんな家を私は慣れた足取りで歩く。まずはお風呂かしらね。
「お嬢様、お風呂になさいますか?」
メイドの1人が的確に問い掛けてくる。それもそのはず。私は浴室に向かっているのだから。
「ええ」
「かしこまりました」
メイドは引き返していく。バスタオルや着替えを取りに行ったのだろう。
これでも、以前は遠慮したものだった。私は生まれた時からこの家で暮らしていた。けれど、幼い頃は両親もさすがに家に居たし、頼るのはまず両親だった。両親が海外へ行ってからしばらくは、歳上の人間に身の回りの世話をさせるのは気が引けた。
「私達はそれでお金を貰ってるんですから、気になさらなくていいんですよ」と、至極真っ当なことを言われて以来気にしないようにし、今はそういうものだと思っている。
両親が海外へ行ったのは私が中学校へ上がるのと同時。それまでは日本で著名な企業の社長が集まるパーティによく連れ回された。幼い頃から私は大人しい方だったし、「人に合わせる」スキルは高かった。おかげで両親の株は上がり、私は「よく出来た娘」「落ち着きのある、大人っぽい子」の肩書きを得た。
相手がどうしたら喜ぶか、どうしたら親の利になるのか。その辺りを心得るのに時間は必要なかった。それが特に苦痛なわけでもなく自然とこなせたし、学校にも普通に通いながら、普通は出来ない経験もしていた。人生経験という意味では、得るものばかりだったとも思う。
『浅海 奏は「自分の意思」を失っていることに、まだ気付いていない』
泳げるほど広い湯船に浸かりながら、私は彼女……空野 歌撫のことを考えていた。
「……そらの、かなで」
私は下の名前が同じことに運命を感じるほどロマンチストじゃないわ。せいぜい名字でしか呼びづらいな、程度のもの。要点はそこじゃない。
彼女は、扱いに困る子だ。何せ話に来たのにその話をしてくれない。これは彼女のペースで少しずつ話してくれればいい。
それに、接し方。今日は地雷を踏んでいないけれど、いつ踏むともしれない。かといって腫れ物に触るような態度はダメ。ああいうの、される側は解るし、あまりいい気分はしないのよね。彼女が気にしないタイプの可能性もあるけれど。
今日の感じを見ると、私からグイグイ行くのは逆効果かしらね。話しかけられるだけでビックリする……いえ、怯えるような子だもの。話をする時は待つスタンスが良さそうね。
それから下調べも必要ね……。細かな個人情報までは調べないつもりだけど、クラスの担任その他に昨日の様子だけでも聞いておく必要があるわね。
下調べに関しては、私に対して言っていることと、それ以外の人に言っていることに矛盾が無いか、嘘が無いかの確認。これは悪戯でないことの証明はもちろん、悩みがある場合、どれほど近しい友人にまで相談を持ちかけているのか。これは一つの指標になる。
誰にでも言えるような悩みなら私は基本的に相手にしない。例えば、「クラスの友人と大声で話せるような内容」は、クラスの誰に聞かれても困らない。そう、困らない。人は、大事な悩みや重大な事ほど隠したがる。「打ち明けられる人物が少ない」事柄ほど重要性は増す。
……今回は入学してから日の浅い子だから調査は継続的に行わないと解らない。それに、まだ誰にも話してないでしょうから後回しね……。
こうして、リラックスした状態で大まかな方針を決めていく。少なくとも、明日の方針は決まった。とてもシンプルに。
心を開いてもらわないと解らない。
しばらくは、この方向で動くことにしましょう。今日の事で突拍子もないことを言い出すのは解ったし、次に会って何を言われても驚かない自信がある。……あ、でも来てくれるかしらね。それだけが心配だわ。
4月6日は、そうして過ぎていった。




