童話の好きな殺人鬼の話
生きているものの気配がしない街灯の少ない路地を、一人の女性が息を切らして走っていた。その数メートル背後からは別の人物の足音が追いかけてきていて、女性は怯えた表情で時折振り返りながら一直線に明かりの多い方へと向かっている。
しかしそれも長くは続かなかった。追いかけてくる人物を撒こうと左折した先が行き止まりだったのである。隠れられそうな場所もその周囲にはなく、女性は顔を強張らせてへなへなとその場に座り込んだ。
「やっと追いつきました……まったく、逃げ足が早くて困りますね」
女性の背中に声をかけたのは、黒のコートに身を包んだ髪の長い青年だった。走ったせいで斜めにずれたシルクハットをそっとかぶり直し、呼吸一つ乱れていない青年は己とは対照的に息を切らしている女性の横に移動すると、少し屈んでその細い顎を掴んで無理やり自分の方に向けた。
「逃げたりしちゃ駄目ですよ。時間がなくなってしまうでしょう?」
「あ……あぁ……」
恐怖で言葉が出てこないのか、女性の口からはか細い声が漏れるだけだった。青年は値踏みするように女性の顔を眺め、やがて満足したような表情で一つ頷く。
「うん、やはり赤い靴がお似合いですね……」
青年の視線は赤いピンヒールを履いた彼女の足元に向けられており、それをチャンスと思った女性は掴まれていた顔を左右に振って拘束を解き、右手で拳を握り青年の顔面めがけて振りかぶった。しかし拳が到達する直前で青年は上半身を反らして回避し、次いで伸ばされた腕を掴んで上空へねじり上げた。
「……おっと、すみません。大事な『作品』の一部に傷をつけるところでした。痛くなかったですか?」
肩の痛みに小さな悲鳴をあげた女性を労わるように声をかけ、持ち上げた手をゆっくりと下ろし解放する。青年の言葉の意味を理解しようと真っ白な頭の中で反芻していた女性は、次の瞬間相手の懐から取り出され地面に寝かせられたものを見て再び思考を停止させた。
月明かりに鋭く輝くそれは、刃渡りが20センチくらいあるであろう使い込まれたハチェットだった。素人目にも切れ味が抜群であると分かるほど綺麗に研がれ磨かれたそれに釘付けになるあまり、青年が自分の口に厚手の布を巻こうとしていることに女性は気付くことができなかった。
抵抗虚しく為すがままに口を塞がれるも、女性は大声を出して辺りの人間に助けを求めようと試みる。しかしただでさえ人通りの少ない道であり、口を覆う布が思ったよりも厚かったこともあって駆けつけてくる者は誰もいなかった。
「貴女はとても幸運な方だ。これから私たちの『作品』の一つとして生まれ変わるのですから」
嬉しそうに話す青年の瞳が細められ、その手が女性の頬を愛おしそうに撫でる。口以外の拘束はないはずなのだが、女性はただ震えてその行為を受けることしかできなかった。
青年の手が女性の顔からハチェットの柄に伸び、その刃が天高く掲げられる。次の瞬間、振り下ろされたハチェットが獲物を捕らえて赤い水たまりを作り、塞がれた女性の口からくぐもっているものの甲高い悲鳴が漏れる。激しい痛みを生み出している己の足には目もくれず、逃げ出そうと暴れるも青年のもう片方の手が頭を掴んで地面にねじ伏せられた。
視線だけ動かして青年の方を見やると、興を削がれたと言わんばかりに表情を曇らせている。
「ちょっと、そんなに暴れないでよ。手元が狂っちゃうでしょ?」
真紅に濡れたハチェットの先端が女性の眼前に晒され、錆びた鉄の臭いが鼻先を掠める。それが女性の最後の記憶となって脳裏に刻まれる。
「安心してください。おとなしくしていただければ、すぐに死ぬことはありませんから……」
うっとりと微笑む青年の声は、失血によって既に意識のない女性の耳に届くことはなかった。
暗く淀んだ空気に満ちた室内に、一迅の風と共に一人の男が入ってきた。冷たい外気から身を守るため厚手のコートを着ており、薄く雪の積もった帽子の下から険しい表情が見え隠れしている。暗闇の中、壁に立てかけられた黒い棺たちが天井から吊るされた燭台に灯ったろうそくの薄明かりに照らされ、施された銀の装飾を輝かせてささやかに存在を主張していた。
「――やぁいらっしゃい」
それまで無人と思われていた部屋の片隅からのんびりとした声が発せられる。次いでカンテラを持って現れたのは、いかにも寝起きですといった出で立ちの年若い青年だった。乱れたショートヘアと長い前髪を手櫛で整え、紺碧の瞳を瞬かせると訝しげに自分を見つめる男ににへらと笑みを見せた。
「大家じゃないってことはお客さんか。よくこんなところに来ようと思ったね?」
「……貴様が、葬儀屋なのか?」
「んー、そう名乗れって言われてるけど、その呼び方好きじゃないんだよね……悪いけど、アンバーって呼んでもらえる?」
やる気なくカンテラを揺らす青年・アンバーに、明らかに彼より年上の男は一つ咳払いをすると驚きと呆れとを混ぜたような声音で話し始めた。
「えっと……アンバー、実はお前に棺桶内部の装飾を頼みたい」
「……驚いた。自分でも頭イかれてるって思ってるこのボクに、本当に仕事を依頼してくる奴がいるなんて」
「死んだ女房の遺言でな……。で、頼まれてくれるのか?」
「その奥さんの写真は?」
「…………は?」
突然の意外な問いかけに男は思わず気の抜けた声を漏らし、アンバーはやれやれと肩をすくめて緩く腕を組む。
「内部装飾をするんだろ? ならその中に入るっていうあんたの奥さんの顔くらい先に知っててもいいと思うんだけど」
ふてぶてしい物言いをするアンバーに若干苛立ちを覚えながらも、その言い分に少しだけ納得した男は懐のポケットからカードケースを取り出し、中に収めていた最愛の妻の写真を引っ張り出してアンバーに寄越す。受け取ってひとしきり眺め、アンバーはまるでおもちゃを見つけた子供のように目を輝かせて男を見上げた。
「あんたの奥さん、『人魚姫』が似合いそうだな!」
「そ、そうか……?」
「ああ! この間作った『作品』よりもいい出来になりそうだよ!」
嬉々として写真を男に返したアンバーは、突然飾られていた棺の一つに向かうと蓋を開けてその近くにあった燭台にカンテラから火を移していく。徐々にその周囲が明るくなっていき、やがて棺の内部がはっきりと分かるようになる。
一面を草花で埋めた中に横たわっていたのは、両足首が切断されたブロンドの長い髪を持つ女性だった。純白のドレスを優雅に着こなし、その失われた足は赤いピンヒールの中に収められて彼女の両側に配置されている。
悪趣味な内装ではあるもののどこか惹かれるものがあり、男の足は自然とアンバーの隣へと進んでいた。
「最近展示用に作った『作品』なんだけど、これもなかなかだろ? 人形相手に作るのがちょっと惜しいくらいいい出来になったから困ったもんだよ」
「あ、あぁ……」
「この人形は一目見たときから『赤い靴』が似合うと思ったんだ。あんたもそう思うだろ?」
「それはともかくとして、よくできた人形だな。まるで……」
まるでついさっきまで生きてたような――と続く言葉を飲み込み、男はおもむろに棺で眠る人形の方へと手を伸ばす。しかし触れるか否かというところでアンバーの手が男の腕を掴み、「ダメですよ」と強い力で押しとどめる。
「私たちの最高傑作に触れないでください。壊れたら一から作り直しなんですから」
「そ、そうだな……すまない」
態度が急変した相手に、男はたじろぎながらも腕を下ろす。アンバーはこれまで見せていた無邪気な笑顔ではなく、とても妖艶な微笑を見せて口を開いた。
「ところで貴方、『赤ずきん』に出てくる猟師の姿をしたら、さぞかしお似合いでしょうね……」
そのカンテラを持つ手の反対側では、丁寧に研がれたハチェットが男から見えないところでぎらりと牙を剥いていた。