第五章 歯車が動き始める
ホームルーム終了を告げる鐘が鳴る。
それを聞いた周りの者は嬉々としながら、教室を出ていく。
だが衣更月は違った。
動きたくなかった。
ため息を一つこぼす。
(これから、仕事って考えると憂鬱だ…………)
昨日髪の毛で攻撃された顔を片手で押さえ、項垂れた。
(三十分近くやるなんてありえない。逆に三十分耐えた俺を褒めたい)
昨日のことを思い出すと、痛みなどとうに引いているはずなのに、疼く。ほのかに熱い。
古傷が疼く怪我人の気持ちが今とってもわかる。
はあーっと一つため息を吐く。
「衣更月くん、大丈夫……?」
頭上から落ち着いた声聞こえ、視線上げるとそこには弥生が立っていた。
「バイト、忙しいの? 大丈夫?」
心配そうに問いかける弥生に、疲労を隠すように小さく笑った。
「大丈夫、大丈夫」
「本当に? 顔がほのかに赤い気がするけど……、疲れているんじゃないの? 熱とか……」
「あ―……、これは仕事で、な」
ハハ、っと空笑いをする。
普通の人間には理解できない思考の持ち主の女がやったと言えず、誤魔化すように笑った。
「心配してくれて、ありがとう」
「い、いやっ、そんなんじゃないよっ! そんなヤマしい気持ちで心配したんじゃなくて、ただ単純に心配したんだよ! ちがうんだよっ!」
顔をリンゴのように赤く染めながら、両手を振って焦る。早く振りすぎて手が見えない。扇風機ぐらいの風が起こる。
「……言っている意味がよくわからないが、とりあえずありがとう」
「そんなにお礼言わないで、恥ずかしくなる……っ! 私滾っちゃいます……っ」
弥生は片手で顔を隠しながら、激しく手を振っていた手が衣更月の机に入ると、いきなりばきっという派手な音が教室で響いた。
机が一刀両断。二つに割れた。綺麗に。
驚きはしたものの、弥生は日常でそれをよくするものだから必要以上に驚くことはなかった。
「とりあえず、直しておけよ」
冷静に言葉を返すと、弥生は申し訳なさそうに小さく頷いた。
「……じゃあ、俺はバイトだから行くな」
マイ工具箱を出した弥生に向かって声をかけると、席を立った。
「……あ、待って……っ!」
衣更月を呼び止める弥生は、ポケットから何か取り出した。
「これ貰って……」
恥ずかしげに言葉を発しながら、衣更月に渡す。
そして渡されたものをみて、予想外の出来事に衣更月は眉を顰める。
「お守り?」
「そう、お守り。探偵さんって色々と大変そうだし、心配だったから、近くの神社で拾ったの」
「……そうか、拾ったのか、スゲー嬉しい」
最後の語尾はわざと強調した。
「あ、でも中はちゃんと入れ替えたよ! 効果あるよ!」
(何に?)
落ちていたということはその時点で本来の効果はない。その上何を何に交換したのかは知らないが、素人が交換することでより効果を無くすのではないだろうか、お前は一体何がしたいのだ、馬鹿なのか馬鹿なんだろ、と考え高速的にめぐったがそれ以上何も言わなかった。無駄な体力は使いたくなかった。
「どんな効果があるのか分からないが、ありがとう。効果がなくてもありがとう。もういろんな意味でありがとう」
意味の分からない言動に乾杯、いや、完敗と皮肉めいた思いを込めて礼を言った。
「そんなにお礼を言わないで! 恥ずかしくて、煮え立っちゃう!」
だがそれを真っ直ぐに受け止めた弥生は頬を染めて喜び、更に机を一つ崩壊させた。また一つ修理する机が増えた。
それを冷ややかに見つめながら、じゃあ、と言ってその場を去った。
弥生から貰ったお守りのようなものから、和服専用の樟脳の臭いがした。
そして重い気持ちで事務所に訪れた。
事務所の階段を上る前に喫茶店を軽く覗くが暗い。いつも通るが未だにオープンしているところを見たことがない。そんなことを思いながら、事務所に入る。
「おい、どうなんだぁ!」
すると鼓膜を破るような大きく低い声が聞こえた。
思わず背中が反る。
よく見るとソファーには真っ黒いスーツを着こなした男三人の姿があった。
男一人はソファーに座り、その周りを囲むようにいがぐり頭の二人が立つ。
背中しか見えないが、纏っている雰囲気が堅気ではないことをすぐに察した。
(なんで、こんな奴らいるんだ――…………)
寂びた嘘くさい探偵事務所にどうして堅気ではない人間が出入りしているのか、そんなことを考えると、現事務所の主である睦月が吠えた。
「だから、私たちも捜索中だ。手がかりは一切ない!」
「嘘つくとどうなるか分かっているんだろうな! 朝日拝めなくなるぞ!」
「私は大体遅めに起きるので朝日は拝まない」
「そんなことじゃないわ! 比喩だ、ドアホ!」
衣更月から見て左の男がドスのきいた声を睦月に吐き捨てる。
すると右にいた男が小馬鹿にしたように喉を鳴らした。
「これだからゆとり教育はダメなんだ。周りの空気や言動も読めず、話を進める。嘆かわしい世の中になって」
「ゆとりなめるな! ゆりとはのびのびと教育しようっていう方針の下で行われたシステムなんだ! 詰め込み教育で得られなかったであろう道徳心や経済経験を行うことで心が穏やかに、そして豊かになるようにとだな……」
「別にそんなこと聞いてねえんだよ! 話がいちいちズレてめんどくせえな」
「……右近、左近、黙りなさい」
飢えた獣のように吠える二人を艶やかな声が制止する。
「部下がうるさくてすいません。非礼はお詫び申し上げます」
「本当だよ、まったく……」
ふん、と鼻息を吐きながら怒ると、中央の男が落ち着いた声で、再び詫びた。
「……でも本当に情報を得られていないんですね?」
「ああ、そうだ一つもない。ここ数日捜索しているが全くない。……それより、どうして君たちがチェリーを捜索しているんだ」
チェリーという単語で衣更月は息を呑んだ。
(…………猫を、探しているのか――――…………?)
一体何故このような輩がここにいるのか思っていたが、その言葉でやっと理解できた。
しかしそれが解決しても次に疑問は残る。
どうして猫を探しているのだろうということが。
「それは内緒です、あまり公に出来ないことなので」
「…………で、わざわざ龍虎組の幹部さんが来たということはそちらも捜索が行き詰っているのか? それとも釘を刺しに来たのか?」
睦月の言葉に幹部さんと呼ばれた男はゆったりと答える。
「鋭いですね、そのどちらもですよ。この件は私たちが引き受けますので、これ以上介入してこないで下さい。痛い目をみたくなければ」
深みのある落ち着いた声を発するが、言葉の端々に脅しのような緊張感が宿っていた。
部屋の温度は一気に下がり、緊張状態へと変わる。
それを第三者である衣更月も肌で感じだ。
「…………わかった、手を引こう。私も命は惜しい」
「賢明な判断痛み入ります」
少し間を置き答えた睦月の言葉に、男はにっこりと笑って答えた。
「では私たちはこれで退散します。お邪魔しました」
そう言って立ち上がると、玄関に向かって歩き出した。
衣更月は慌てて玄関から離れると、男と目があった。
灰色に近い髪はふわりとし、瞳も色素が薄い。線が細く、柔らかい顔立ちだが、感情の乗らない瞳とメタルフレームの眼鏡が冷たさを演出している。優しいが、怖い。ヤクザに見えないが、見える。そんな不思議な男だった。
その男が衣更月に気づくと、軽く会釈をして、部屋を出て行った。それに続いてゾウの足のような首を持った厳つい男二人が部屋を出た。
三人が通った場所がやけにひんやりと冷たく感じた。
度胸はある方だと自負していた。
クラスメイトの前で歌うことになっても普通に歌うことが出来たし、中学からやっているフェイシングの全国大会でも緊張したことはなかったし、知らぬ人でも話しかけようと思えば普通に話しかけられる。
だから何があってもド緊張という体験はしないと思っていた。
だが、今は違う。
己の脈が耳元で聞こえるぐらい緊張した。
衣更月は跳ねる心臓を抑えながら、定位置に座る睦月に元へ寄った。
「…………おい、大丈夫なのかよ、この依頼。あいつら、ヤクザだろ。ヤクザが関わっているなんて普通じゃない」
衣更月の姿を見ると、来ていたのか、という言葉を吐きながら言葉を続けた。
「まあ手を引けば安心だろうな。あいつらも不用意に堅気には手を出さないだろうし」
睦月は冷静に答える。同い年ぐらいに見える睦月がヤクザに怖気づくことなく、対等に話していたのも凄いと思った。肝が据わっていると。愛が大好きな電波女からしたら、ヤクザという職業屁でもないのかもしれない。
(そうだとしても、俺は大丈夫じゃないっ!)
ヤクザが絡んでいる仕事などやりたくない。何があるか分からない。何かあってからでは遅いのだ。
「手を引けばって、もちろん手を引くだろ! 無論引くよな! 引く以外の選択肢はないよな!」
「君は何を言っているんだ。引くわけないだろ」
腕を組みながら、当然と言わんばかりに告げる。
「お前さっきやめるって言っていただろ!」
「あんなの嘘だよ、うそ! ここまできて引けるわけないじゃないか! 真実が私を待っているんだからな!」
「ここまでって、何の情報も得られていない状況は引けるだろ。お前ただカッコよく言いたかっただけだろ」
「そ、そんなことはないぞ! 本当にそう思っているんだっ!」
予想が当たっていたのか睦月はしどろもどろになりながらも、言葉を続けた。
「……実際、あいつらが絡んでいるってことが大きな情報だな……。それに真相だって気になる」
顎に手を置き考え込む睦月を見て、衣更月は焦った。
確かに気にならないわけじゃない。
どうしてヤクザが猫を捜索しているのか。どうして猫の手がかりが一切見つからないのか。様々な疑問は残る。
(それでも、我が身がカワイイ――…………)
危険に関わるかもしれない依頼などこれ以上続行したくない。東京湾に沈められたり、銃撃戦を目の当たりしたくない。死にたくない。
いくら度胸があると自負していても、所詮子供。限界がある。
「俺はこれ以上の捜索はしないぞ。危ないことはしたくない」
「ああ、もちろん、君にはこれ以上関わってもらう気はない」
拒否され、粘られると思ったものだから、驚いた。あっさりとしていた。
「君に危険が及んでは友人や親御さんたちが心配するからな。君には事務処理をしてもらう」
(そこまであっさりとしているのなら、俺を解放してくれ)
迷惑をかけたくないと言うのなら、中途半端に介入しない方が良いのではないかと思った。
そんなことを考えていると、事務所の窓からミーが飛んできた。それに気づいた睦月は窓を開けミーを中に入れる。
「捜索は私が行うから、心配するな」
何をしていたのか分からないミーの顎を撫でながら睦月は答えた。
「……聞き込みもろくにできないのにか?」
「何を言っている、聞き込みは完璧にこなしているぞ! 手当たり次第動物たちに声をかけたり、情報を得てもらったりだな……」
「動物だけじゃなく、人間にも声をかけてくれ」
「かけているぞ、かけているが、何故か避けられるのだ! ……どうしてだと思うミー?」
顎を撫でながら問いかける睦月に再びため息を吐いた。
(お前という人間が理解できないからだっ)
これでよく探偵なんてやってこれたな、と心底思った。聞き込み一つ出来ない探偵など聞いたことない。まるで、血が苦手なのに医者になった人間のようだ。
だが込み上げるツッコミを口にするのも面倒だったので黙った。
「……だがまあ、こんなに探しているのに目撃情報一つないなんておかしいな……」
優しく撫でるミーと会話するように見つめる睦月が、話を始めた。
「情報一つない状況をどう思う、ワトソン君……?」
「……俺は別におかしいとは思わないが、それをおかしいと考えるなら、……もしかしたら外に出ていないのかもしれない……、例えば室内にいるとか……」
「室内?」
「だから姿が見えず、情報もない。……と考えると普通だよな」
「とすると、捜索するのは大変だな…………」
「大変どころじゃないだろ、無理じゃないか」
外にいるなら何かしらの情報が得られるのかもしれないが、
「……あと気になったが、生きているっていう保証はあるのか? 以前お前が言っていただろ、死期を悟った猫は主人の前からいなくなるって」
「そう、その考えもあるんだよ……」
衣更月の言葉に睦月は首を動かしながら唸る。
「室内という仮定にしろ、死亡と言う仮定にしろ、それらの情報をどうやって収集するかだ、な」
「……匂いとかで捜索できないのか? チェリーが使っていた物を使って犬とかに捜索してもらうっていう……。まあそんなこと本当にでき」
「それだっ!」
出来るはずないよな、と衣更月が告げる前に睦月が大きな声を出し、指を指した。
ナイスアイディアと言わんばかりに目を輝かせる。
「その手があった! それにしよう! 早速的場さんに連絡してみようっ」
ふふんという鼻歌もどきを口にしながら、速攻事務所の黒電話を手に取ると、依頼主に電話をする。
「おい、本当にできるのか? そういうあてがあるのか?」
「ある。だがそれは犬ではないがな……」
「どういう意味だ?」
「ミーがやってくれる」
そう言うと、通話が繋がったのか、待てと言うジェスチャーをすると、話し始めた。そうですか、ありがとうございます、それでは失礼致します、という言葉を返すと、電話を切った。
すると睦月は満面の笑みを浮かべて親指を立てる。了承がおりたらしい。
そして今からチェリーの匂いがついたものをとりにいくのか、帯を取り出し巻き始めた。
「でもカラスって嗅覚良くないだろ」
カラスだけなく、ハゲタカ以外の鳥類全般は基本的に嗅覚が鈍い。それなのにミーの鼻を頼るのはいささか不安だ。
すると睦月はちっちっと言いながら指を動かす。
「ミーは特別だから嗅覚が利くぞ。しかも犬並みに」
どうだ驚いたかとでも言いたそうな表情をしながら胸を張る睦月に、冷ややかな眼差しを向ける。
犬並みなどありえない。嘘にしてはオーバーすぎる。
ホントかよ、と思ったと同時に、少し興味がわく。
そして睦月は支度を終えると、ドアノブに手をかけた。
「留守を頼む。定時になれば勝手に帰っていいから…………って言うと思ったか! 君も一緒に行くんだよ!」
「はあっ!?」
シニカルな笑みを浮かべる睦月に、素頓狂な声を出す。
「君一緒に行くんだ! でも心配するな、本当に危なくなったら守ってやる」
「おいおい、お前は俺の身を案じてくれたんじゃないのか!」
「あれは嘘じゃないぞ、本当にそう思った。でも君がいると何かと仕事が捗るんだ! 少しで良いから付き合え」
そう言って問答無用で衣更月の襟元を掴むと引っ張った。男一人易々と。
「いたい、いたいっ……!! 離せばかっ!」
叫びながらも睦月はむふふと笑うだけで一向に耳を貸さない。
「お前の言葉は絶対に信じないからな!」
(少しだけ、少しだけ睦月と言う人間を良い奴だと思った気持ちを返せっ!)
苦しさに餌付きながら大声で叫んだ。
****
「ミー、頼んだ」
的場の家に訪れチェリーが使っていたと言われるタオルを取りに行った後、早速ミーに嗅がせて捜索を開始した。
チェリーの匂いを追って、捜索する。それを睦月が追いかける。
その光景を見つめながら、衣更月はため息を吐いた。
(…………一体、何をやっているんだ、俺は…………)
何度か逃げ出そうと試みたが、結局捕まってしまった。
睦月から逃げ出すのは不可能であった。
(でも絶対逃げてやる! ある程度捜索したら絶対帰る!)
心に決めながら、捜索するミーの後を追う。
数十分ぐらい歩いた。
閑静な住宅街を過ぎ、人通りや建物が少なくなっていく。人や建物がない物悲しさではない、張りつめた冷たさが肌を触れた。雰囲気が寂しく、厳か。
日が沈み始めていると言うのもあるが、それ以上に街の雰囲気が落ち着きすぎていた。風も冷たい。
「……本当に、ここにいるのか……?」
辺りを見渡す。
そしてあることを思い出した。
「ここって確か…………」
と言おうとした刹那、目の前には言葉にしようとしていた場所が目の前に現れた。
石造りが規則正しくずらっと並ぶ。その石造りには様々な名前が刻まれている。
(……墓地、…………)
予想と同じ光景が目の前で広がる。
ミーは明らかに底を目指している。温度のない石が沢山並ぶ場所へ足を進めながら、前を歩く睦月に声をかけた。
「死んでいるっていうことじゃないよな……」
「それは分からない……、だがついて行ってみよう」
空は燃えるような茜色で染まる。赤々と墓石を染め上げる。
重い静けさが墓地にはあった。
そこを歩いていると、前を歩く睦月が足を止めた。
「……あ、……」
「……いたのか?」
突然止まった睦月に問いかけると、睦月は頷いた。
「……いた」
墓石を指差した。
指を指すんじゃないとツッコミは面倒臭かったので言わなかったが、その代わり睦月の手を弾いた。すると痛いっという睦月の声が聞こえた。
そして衣更月は睦月が指していた場所を見る、するとその墓石の前に白い猫がいた。墓石をただ見つめる猫が。
「……どう見たってあいつじゃないだろ、身体の半分の毛が刈られているし…………」
よく見ると、毛並みは汚れ、身体の片方の毛が抜けていた。
(……弥生が言っていた猫か……?)
弥生が言っていた言葉を思い出した。
「いや、チェリーだ。ミーもそう言っている」
衣更月の言葉を即答で返しながら、指を弾いた仕返しとばかりに衣更月の脇腹を殴る。
地味な攻撃を無視しながら、首を傾げる。
(そうは言っても似てない……。というか、ミーが言っているって、お前は動物と会話が出来るのか……)
睦月に冷ややかな眼差しを向けながら、様々な思考が巡る。
「チェリーっ!」
突然睦月が猫の名を呼んだ。
すると墓石にいた猫がぴくりと動き、振り返る。
瞳は青い。
それでも写真の上品溢れる雰囲気は一切ない。殺気と緊張に満ち、野生の猫のようだ。
猫は二人の姿を捕えると、慌てたように逃げた。
「逃げた! 追うぞっ」
「おい、マジかよ」
写真の猫には全く見えないがそれでも切羽詰まったように言われると追わずにはいられないので、とりあえず言われるがままに走った。
その時にチェリーのいた墓石の前を通ったときに、ちらりと横目で刻まれている名を見た。
城ヶ崎之墓と刻まれていた。
「ミー追いかけてくれ!」
先にミーが猫を追いかける。その後を睦月と衣更月は追いかけた。
「あれは本当にチェリーなのか? 俺には全く見えなかったぞ」
「おいおい、分からなったのか、君は。本当に言っているのか? 冗談だろ? あれがチェリーじゃなければなんだと言うのだ。君の目はおかしな……、いや、君は元々おかしい」
「とりあえず後でお前の膝小僧の皿をぱりんと割ってやる」
小馬鹿にしたように話す睦月に苛立ちながら走る。
だが俊敏な猫に追いつくはずもなく、距離が離れていく。それに焦った睦月は歯を食いしばって速度を上げた。
「絶対逃がさないぞ!」
睦月は叫びながら、加速する。
人間の出せる速さを優に超え、獲物を追うチーターのような動物的速さ。大会に出れば悠々と優勝どころか、世界もとれるのではないかと言うぐらい早い。アホみたいに速い。
みるみるうちに衣更月と距離が出来、猫に近づく。
だが猫は、墓地の敷地内に設置された小さな小屋の下に勢いよく入っていった。人間が入ることが出来ないぐらいの小さな隙間に潜り込んだ。
先に後を追っていたミーが何度か入ろうと試みたが、逆に奥深く入り込み逆効果になった。
それを遠くて見ていた睦月と衣更月がやっと追いついた。
睦月は屈み込み中を覗き込むが、出てくる気配はなかった。睦月は何度か手を伸ばしたが届かない。
「……おい、どうするんだよ」
息切れしながら問いかけると、屈み込んだ睦月がん~……、と唸りながら考え込む。
「ミーが入れても引っ張り出すことが出来ないからな……、それに人間は手を入れるだけで精一杯……、どうしようもないから、ずっと見張っていよう! ……君頼んだよ!」
「おい! なんだその理屈は!」
衣更月は一つため息を付きながら、羽織が汚れることなどお構いなしに中を覗き込む睦月を見つめながら話を続けた。
「……で、猫が出てくるまでずっと待っておくのか?」
「……そうだな、しばらくは待ってみよう」
そう言って睦月は猫が入り込んだ隙間の横にそのまま座り込んだ。走った所為でよろけた羽織は土でより汚れる。大きな金魚の絵があしらわれた薄水色の羽織がもったいないと思いながら、衣更月は立ちながら口を開いた。
「……でもあの猫はチェリーの面影はなかったぞ」
「いや、面影はあった。ただ原形ではないだけだ」
あれが本当のチェリーであると仮定するのなら、確かに見つけるのは困難だろう。
それは見た目ということだけではなく、あの場所にずっといたと考えたら、墓地などそうそう訪れない。出来ることなら避けたい場所だ。
だから情報がなかったのかもしれない。
「そうだとしても、あそこまでになるか? 毛並みは薄汚いし、その上体半分の毛がむしったのか刈られたのか知らないが…………」
「そのどちらでもあるんじゃないか。チェリーは家猫だから、カラスや野良猫にやられた可能性もある。それにストレスっていう線も……。……いや、もしかしたら、その可能性の方が高いのかもしれないぞ」
「ストレス?」
衣更月が問うと、睦月は一度閉じた口を開いた。
「憶測だが、チェリーは元々あの家の猫ではないんじゃないかと思う。そしてあの奥さんに邪険にされているんじゃないかとも思う」
「だが憶測だろ」
「そう、憶測だ。だからはっきりとは言えない。……だが一つ言えることは、チェリーには何かが絡んでいるということ」
(絡んでいるも何も、チェリーにはヤのつく職業の人たちが大きく関わっているんだがな。引っかかって欲しくない奴らがかかっているんだがな)
内心ツッコミをいれながらも、話を続けた。
「絡んでいたとしても、今ここでチェリーを捕まえればそれで万々歳だろ。渡せばこっちには関係ない」
「君は真相が気にならないのか?」
淡々と答える衣更月に睦月は怪訝な視線を寄越した。
それをちらりと見ると、視線を外した。
「ならない。関わらなくても良いことには関わらない主義だ。面倒事はごめんだ」
ヤクザが絡んでいるなら尚のこと。
これ以上の介入はしたくはない。危険なことはしたくはない。
危険だと分かっていてここまで来たことだけでもすごいことだ。
「君は愛が足りない」
睦月は強い意志が宿る眼を細めて言った。
「愛の問題じゃないだろ、依頼人のプライベードに関わることだ。無理に介入するのはおかしい。それにヤクザが絡んでいるかもしれない依頼に興味を持つことなんて危ないだろ」
「そうだったとしても、気になるのが普通だ」
「俺は普通じゃないから気にならない。関係ないから興味もない。どうだっていい」
「関係ないわけないだろ、もう関わりを持ってしまった。チェリーと君は。交わってしまったんだよ」
「そこに縁がうまれていたとしても、俺はそれを無視する。無関心でいる」
目を瞑りながらそう言うと、睦月は不服そうに眉を顰めた。
「だから君は寂しいんだ」
「寂しくて結構」
衣更月は短く返す。
これ以上の話しても無意味だと思った衣更月は話を逸らした。
「……ってか、俺たちがいる間絶対出てこないと思うぞ」
これ以上の会話は不問だと思った衣更月は話をすり替えた。
「だったら交代制でチェリーが出てくるのを待つか、一時間交代で、最初は衣更月で、次も衣更月で、次も衣更月で……あれ? だったらずっと衣更月が見張った方がいいな……」
「あれって、何だ、あれって。偶然にも三回連続だったみたいな言い方するな。見張りはお前がしろ、俺は帰る」
衣更月は踵を返した。
すると衣更月のズボンのポケットから弥生から貰ったお守りが落ちた。
「……おい、君、何か落ちたぞ」
地面に落ちたものに睦月は気づくと、衣更月を呼び止めた。
すると突然軒下にいたチェリーが少しだけ顔を出した。
鼻先だけをだし、衣更月が落としたお守りをくんくんと嗅ぐ。
すると突然身体がふにゃりとへたる。気持ちよさそうに目が落ち、喉がごろごろと鳴る。
「チェリー、どうしたんだ?」
少し慌てたような声を出す睦月の声が耳に入った衣更月は振り返る。
チェリーは地面に背中を擦りつける。
「何だ、これは……?」
チェリーに近寄った衣更月は眉を顰めて見つめる。
先程張っていた警戒が完全にとけている。
睦月は落ちたお守りを手にし、匂いを嗅いだ。
「……この足裏のような臭い、中身はまたたびだな」
「またたび?」
足裏の臭いとはどんな臭いだと思いながらもそれ以上に、どうしてまたたびがお守りの中に入っているのかと疑問に思った。
だがすぐに、弥生がお守りの中を入れ替えたという言葉を思い出した。猫捜索で必要になると思って気を遣ってくれたのだろう。それと同時に気を遣いすぎだろと思った。
「間違いない、猫はまたたびに弱い。だからチェリーが寄ってきたんだろう。それにエサもまともに食べていなかったから、より効いているのかもしれないな……」
そう言って睦月は少し骨が浮き出た身体を撫でる。
するとチェリーはぴくりと身体を動かし、恍惚とした瞳が少しばかり警戒の色を宿した。
そんなチェリーを落ち着かせるように、睦月は優しく撫でた。
「大丈夫だ、危害は加えないよ……」
落ち着いた声でそう告げる睦月の声を聞き、徐々に気を張っていた瞳の色が薄れる。
そして睦月は来ていた羽織を脱ぐと、優しくチェリーを包み持ち上げた。
「行くぞ」
睦月がチェリーを抱きかかえると、衣更月に声をかけた。
有無を言わせない睦月の言葉に衣更月は渋々ついて行った。その後を追うように木にとまっていたミーが飛ぶ。
墓地を抜け、睦月は足早に歩く。その速さに衣更月も合わせる。
「的場さんのところに行くんだよな?」
またたびを嗅いで未だに目がとろけているチェリーを抱きしめる睦月に声をかけると、睦月は真剣な顔つきになる。
「一応そのつもりだが、多分それは阻止されるかもな……」
何を言っているんだ、と聞こうとした刹那、
「走れ!」
睦月は大きな声を出した。突然のことに問うことが出来なかった上、突然走り出しため、走るという選択肢しかなかった。
「なんなんだ、一体!」
「追ってきているからだ!」
何がだ、と言おうと発する前に、背後から複数の足音が聞こえた。
振り返るとそこには黒スーツを着た男が複数いた。
明らかに堅気ではない。
それを見て、数時間前に事務所に来ていた龍虎組の人間なのかもしれないと悟った。それと同時に、睦月についてきたことを深く後悔した。
(なんで俺がこんなことに巻き込まれなくちゃいけないんだ!)
猫の依頼を引き受けなければ、睦月と出会わなければ、こんなことにはならなかった。深く運命を恨んだ。
もしコンクリートが入ったドラム缶に入れられ、東京湾に沈められたら、睦月と神と言う存在を恨む。
「なんであいつらがいるんだっ!」
「こっちが聞きたいっ!」
後ろを気にしながら走る。
大きな道を選んで走るが、夜の為人はいない。それに墓地に近い所為か、元々住宅もなければ人もいない。
懸命に走るが、いつ捕まっておかしくない。
「もう猫を渡せば良いだろ!」
「そんなことするわけないだろ! 馬鹿か、君は!」
「馬鹿はそっちだろ! 自分の命と猫どっちが大切なんて天秤にかければすぐにわかるだろ!」
「比べる次元が違うだろ! 自分の命と違う命を天秤にかけるなんておかしいだろ! それに両天秤かけた時点で自分が優位なんだから公平性はない!」
羽織に包まれた猫を大切に抱えながら睦月は走る。
「だから私は天秤なんてかけないぞ! 損得よりも守りたいものを全力で守るだけだ」
「それでもどっちも捕まったら意味ないだろ」
「捕まらないさ」
何を馬鹿なことを言っているのかと思いながら睦月を見ると、睦月は自信ありげに笑った。
「そんな根拠のない自信どっからくるんだ」
「だって日頃の行いがいいのだから、悪いことは起きない! ……って気がする」
「とりあえず、精神病院行け」
「なんだ、君は失礼な奴だな!」
睦月はむすっとした表情をする。
「今はそんなことはどうだって良いんだ。これ以上走っても埒が明かないぞ。追いつかれる」
すぐそこまで近づいてくる黒づくめの男たちを横目に懸命に走る。
だがいつ捕まってもおかしくない。それに増員もあるかもしれない。今逃げなければ捕まってしまう。
「ジグザグに走るぞ、ついて来い」
睦月はそう言うと、小さな路地に入り込む。
そして人の敷地内に入り込んだり、庭を通り抜けたりと、道なき道を通り抜ける。そして何度も角を曲がり追ってから逃げる。その間木の枝が肌を刺し、当たってくるのは、目の前を走る睦月が意図的に行っている。
時折ニヤケた睦月の横顔が目に入る。多分、先程の病院に行けという言葉にムカついてわざと危ない道を選んでいるのだろう。その地味な嫌がらせに、絶対何かの形で報復してやろうと思った。
そして角を何度か曲がり、草が生い茂る庭を通り抜け、目の前にあった人間一人が入れるぐらいの大きなごみ箱を二つ発見し、急いで入った。
息を顰める。
「……ちっ、あいつらどこ行ったんだっ!」
「見失ったら組長に怒鳴られるぞ」
近くで低い男の声が聞こえた。
足音が近い。
「くそっ……!」
焦りと怒りが宿った声が聞こえると同時に、かんっという足で缶類を蹴ったような甲高い音が響いた。音が近い。
衣更月は息をつめる。
恐怖が背中にのしかかる。
「俺はこっちに行くから、お前はあっちを見て来い」
「分かった」
すると足音が遠くなった。
音が消える。
衣更月は恐る恐る、ゴミ箱の蓋を少し開ける。
辺りを見渡す。
薄暗い景色が広がる。誰もいない。
「…………行ったか?」
「ああ、行ったみたいだ」
顔を出した睦月の問いに衣更月は頷くと、ごみ箱から出た。
幸いゴミが入っていなかったため、身体は汚れずに済んだ。だが念のため服をはたいていると、ごみ箱から出てきた睦月が口を開いた。
「君、携帯電話持っているか?」
「持っているが」
「貸してくれ」
どうして貸さなくてはいけないんだ、と思いながらも渋々携帯電話を渡す。
「というか、お前ケータイ使えるのか?」
いつの間にか寝てしまったチェリーを衣更月に渡す。
そして携帯電話を受け取った睦月は器用に操作し始めた。
以前黒電話が事務所にあるから携帯電話は持っていない、と言っていたことを思い出し問いかけると、睦月はにかっと笑った。
「君の操作を見ていたらわかるさ」
親指を立て笑うと、電話が通じたのか視線を反らした。
「……的場さんのお宅ですか?」
誰に電話するのかと思ったら、的場だったのか。
衣更月は腕の中にいるチェリーを抱き直した。
『……そうですが、どちら様ですか?』
「神無月探偵事務所の睦月です」
『睦月さんですか、こんばんは』
「早速ですが、チェリーちゃんが見つかりました」
『本当ですか!?』
電話越しでなくても的場の喜んだ声が衣更月にまで聞こえた。
「ですが、今龍虎組に追われています」
『っ!?』
「とりあえず、逃げ切ったら改めて連絡させていただきます」
そういうと、言葉を添えた。
「……あと一つだけ質問なんですが、城ヶ崎という方をご存知ですか?」
城ヶ崎と言う言葉を聞いて、先程見た墓石を思い出した。
『……どうしてそれを……』
「城ヶ崎という墓石の前にいました」
『墓石に……? どうして……』
「それは分かりません……。それより城ヶ崎という人間に知り合いはいないのでしょうか?」
睦月の言葉に、言葉を詰まらせる。
そして少し間をおいて口を開いた。
『城ヶ崎百合という女性とは親しかったです……』
「……城ヶ崎さんと的場さんはどういう関係なのでしょうか? 差支えなければお聞きしてもよろしいですか?」
『………………』
その言葉に的場の言葉が詰まる。
重い空気が流れる。
『……チェリーは、私の猫ではないのです……』
そしてやっと的場が重い口を開いた。
『……チェリーは、彼女、城ヶ崎百合の猫なんです…………』
「それをどうして預かることになったんですか?」
『それは…………』
「それは的場がお嬢と付き合っていたからです」
突然背後から声が聞こえ、心臓が凍る。
反射的に背後に視線を向けると、そこには笑みを浮かべた男が立っていた。その後ろには厳つい男たちが立つ。
「っ――……!?」
「水無月っ!」
事務所にいた眼鏡の男だった。
睦月に水無月と呼ばれた男は、薄い唇を緩めて笑った。
「あれほど釘を刺したのに依頼を遂行しているなんて、困った人たちですね……」
困ったと言いながらも表情は全く困っていない。むしろこの状況を楽しんでいるかのように笑う。
男の登場に衣更月は死を覚悟した。
「でも猫を捕獲してくれてありがとうございました。この子がチェリーですね」
衣更月の手に抱えられた猫を見つめながら頷く。
「これじゃあ、見つからないはずだ。大分写真と違う。……だが首輪は一緒だな……」
猫の首輪を見つめながら目を細める。
そしてまだ通話中だった携帯電話を睦月から取り上げた。
「何をするんだっ! 返せ! これは私のだ!」
(いや、俺のだ)
というツッコミをしながら、取り返そうと両腕を使う睦月の頭を片手で押さえ攻撃を止める。腕のリーチが違いすぎて、攻撃が届かない。
そんなコミカルな風景を恐ろしい気持ちで見ていた。刺激していつ殺されるか分からない。
「…………的場さん、こんにちは」
突然睦月ではない声に的場は驚きながらも、その相手が水無月と呼ばれる男だと気付いたのか、的場は水無月さん……、と声をもらした。
「今から一時間後にA市のB倉庫に来てください。貴方のせいで子供たちの命の火が消えてしまわぬように、ね」
ゆったりとした口調で告げると、電話を勝手に切った。
そして携帯電話を睦月に返すと、薄く笑った。
「さ、一緒に来てください」
有無を言わせぬ台詞に衣更月は息を呑んだ。チェリーを抱きしめる腕に力が入る。
(人生で一番最悪だ――――…………っ!)
己の人生を深く呪った。