第八話
始業式が終わり、生徒達は講堂を出て教室を目指す。
学年ごとに講堂から出るとはいえ、人数の多さから出入り口は多少詰まり、講堂から排出される生徒達は自然に人の川となっている。それを横目にコウは少し離れた場所を歩いていた。
遅れて始業式に参加したので、列の最後尾、つまり出入り口の一番近くにいたので、すぐに講堂から出ることが出来たのだ。
(とりあえず総合掲示板を見に行かないとか)
クライニアス学園には複数の掲示板が存在する。学科ごとに掲示板があったり、学園側からの連絡などを掲示するものと様々だ。
コウが見に行こうとしている総合掲示板には、学科など関係なく、全ての生徒に関係する連絡などが掲示されている。この時期は、生徒がどのクラスに配属かの情報が掲示されているはずだ。
(この時点で自分のクラスを知らない奴は、ほとんど居ないみたいだな)
当然かと思いながら、コウは人の川の流れと逆に向かって歩く。総合掲示板がある場所は、教室が多く存在する方角とは真逆の位置にあった。
周りを窺えば、同じ方に行く者は見当たらない。普通は始業式前に確認するものだからだ。コウは寮の部屋を出た時点で、遅刻が確定していた。だから、掲示板を確認する時間などなかったのである。
現在、コウは一人だった。
始業式が終わるのと同時にロンは「赤っ恥かいた!」と叫ぶと、全力で何処かへと走り去ってしまったのだ。そんな彼のことをコウは気にしないことにしている。
(しばらくしたら何事もなかったように帰って来るだろうし)
コウは歩く速度を少し速める。流石に担任と最初の顔合わせになるHRに遅れるのはまずい。
そう考えて急ごうとしたところで、人の川の方に知った魔力の波長を感じ取り、コウは歩みを止めて振り返った。
目は二人の少女を捉える。一人は心に抱くものが読み取れない無表情、もう一人は護衛中の騎士であるかのように緊張感を持った真剣なものだった。
(んー……)
それを見てコウは総合掲示板に確認をしに行くより、二人と顔を合わせることを優先することにした。
二人は少しずつ他の生徒達から離れるように動いているようだ。コウは生徒の流れに混じりながら、二人へと近づいていく。近づいていく途中で、ふと気づいたことがあった。
それは彼女達に向けられる生徒達の目つき。正確には無表情な方に対するものだろうか。何か嫌な感じのするものである。
それを確認した上でコウは笑顔を浮かべて二人に声をかけた。
「二人ともおはよう」
そう言った瞬間、リーネは僅かに体を震わせ、アヤが身構えた。気づくには余りにも小さな挙動だった。しかし、コウはそれを見逃さなかった。
最初に振り返ったのはアヤの方で、その表情は険しく、そしてやはり緊張が見て取れた。次いで振り返ったリーネは、遠目から確認した通り表情は薄い。
「おはよう」
コウは改めて言った。
ここでようやく背後から来たのがコウだと知ったようで、二人は明らかに安堵した様子を見せた。リーネに至っては、劇的とも言えるくらいに表情が柔らいでいる。
その様子をコウはしっかりと記憶に留め、そして一連のことに気がついていないかのように振る舞う。
「おはようございます、コウ」
「おはようございます、コウ殿」
声を揃えて挨拶し、ほぼ同時に頭を下げた二人にコウは吹き出した。
「息がぴったりだな」
その言葉にリーネはやんわりと微笑み、アヤは照れくさそうに頬をかいている。
「アヤとは長い付き合いになりますから」
リーネが何処か嬉しそうに微笑みながら言うと、アヤも同種類の笑みを浮かべた。まるで姉妹のような二人をコウはまじまじと見る。
二人は先日会った時とは違い、学園の制服を着ている。アヤはあの時制服を着ていたと言えば着ていたが、軽鎧を着込んでいたので印象としては初めて見るようなものだった。
白いローブの下から覗く制服は、ローブと同じ純白であり、左胸の辺りには校章がある。袖口や襟元に深い青色が入っているのもローブと共通している。
ブレザーに関してはコウも同様のものを着用しているので、変わりはないのだが、やはり性別の違いを簡単に思わせるのはスカートだろう。
赤い布地に少し暗めの茶色の線が走っており、それに白と黒の線が編み込むように交差している。純白の制服によく映える赤いチェックのスカートだ。男子生徒はただ白いだけのズボンなので、女子生徒の制服と比較するとあまり面白みがない。男子生徒は学年カラーのネクタイを、女子生徒は細い紐のようなリボンをつけている。
ちなみに制服の下に着るシャツは、生徒の自由だったりするので、数少ないお洒落をする箇所として各人違いがある。
「どうかしました?」
コウが動きを止めて見ているとリーネが聞いてきた。そこに不快感のようなものはなく、ただ不思議に思って口にしたようである。
「ん、二人は制服がよく似合ってると思ってな」
まるで入学したばかりの子供に言うような台詞だが、学園の制服は見栄えの良い作りになっており、その高級感から「服に着られている」というような生徒も少なからずいるのだ。
故に、コウの言葉は単純な言葉の意味以上に、服の高級感に負けていないと褒める意味合いがあった。
言葉を受けてリーネは少し驚いた風に口を開けてから、照れつつも嬉しそうに微笑んだ。アヤもまんざらでもないようである。
「コウもよく似合っていますよ」
「そりゃ、どうも」
照れた笑みを浮かべたまま返したリーネの言葉にコウは軽く返す。
男子生徒と女子生徒の制服やローブの作りは、ほとんど一緒なので違いはスカートかズボンくらいしかない。コウは個人で違いの出る唯一のシャツは質素な黒色のものを着ていた。
コウは我ながら似合っていないと思っているので、リーネの言葉を社交辞令として受け取ったのである。
そんな風に受け止められたと気づいたのか、リーネは不満そうに何か言おうとするが、この場に留まっていると、次から次へとやってくる生徒の妨げになる。そのことに気づいたのか、人の川の流れに合わせて歩き始める。
「コウ殿は何組なんですか?」
三人で歩き始めると今度はアヤがコウにそう聞いてきた。
コウにとってアヤはリーネの知り合い、友達の友達くらいの感覚である。それはアヤも同じなのだろう、会話をしていても薄い壁が存在するような距離感があった。
コウはそれを認識しつつ、大げさに両手を挙げて困ったように首を振る。
「実はまだ知らないんだよ」
ついでに始業式に遅れた事と、その理由も伝えておく。
アヤは知らないと聞いて驚いていたようだが、説明を聞いて直ぐに納得したようである。
「まったく、あの男は本当に仕方がない」
先日の事もあってか、随分と気に入らない様子だ。本人の知らぬ所で好感度が下がっていくロンのことを、ほんの少しだけ哀れに思うコウだった。
「ところで、自分が何組か分からないのなら、掲示板を見に行かないで良いんですか?」
憤りを収めながら、アヤが至極当然なことを言った。コウもそれを言ってくるだろうと思っていたので、用意していた答えをなんの問題もないという風に返した。
「仕方がないからサボる」
現在リーネ達に合わせて歩くコウは、さっきまで行こうとしていた総合掲示板とは、正反対の方向へ歩いている。人の川を遡るのは面倒なことになるだろう。
「……それは仕方がないと言うのでしょうか」
「ん、俺的には苦渋の決断だよ。というわけで、ここら辺で。じゃあな」
呆れた、というのを隠すことなく表情に出すアヤを尻目に、コウは冗談ではなく本当にサボることにした。二年の教室がある建物とは違う方へ歩き出す。しかし、それを止める者がいた。
「リーネ?」
背を向けて歩み出そうとしたコウのローブを、リーネが笑顔でしっかりと掴んでいるのだ。
コウ達は人の川から少し離れた位置に立っている。周りの生徒達が次々と怪訝そうな目を送っては通り過ぎていくが、それに気がつく様子もなく彼女は笑みを浮かべている。
笑顔のまま怒っているというわけではないようである。まるで驚かそうとしていることを、隠しきれていない子供のように無邪気なものだ。
何も言わないでにこにこしているリーネに、コウはどうしたのかと再び名を呼ぼうと口を開きかけるが、それを遮るかのように彼女は言った。
「一緒ですよ」
「ん?」
「はい?」
コウが首を傾げ、それに次いでアヤも不思議そうにしている。どうやらアヤも分かっていないようだ。二人に構わず笑顔でリーネが言葉を加えた。
「私たち、同じクラスですよ」
そこでようやくコウも言葉の意味を理解した。どうやら彼女はコウのクラスも確認してくれていたらしい。
「なんだ、会って間もない俺のクラスまで見てくれたのか」
出会ってようやく一日を過ぎた程度の仲の自分を、気に懸けているとは思いもしなかった。だから、自分のクラスを知っているかと聞こうともしなかったのである。
そんなコウの考えを否定するかのように、リーネは何度も頷きながら、はにかんで見せた。
「コウとは仲良くなりたいと思っていましたから、つい、クラスを確認してしまいました」
クラス分けの情報は掲示板に張り出されるので、難なくどのクラスなのか調べることが出来たのだろう。リーネは恥ずかしそうに俯き、コウは思わず苦笑した。
そこで、ふとアヤの様子がおかしいことにコウは気がついた。アヤはまるで信じられないものでも見るかのように、リーネを見つめている。横にいるコウにどんな顔を見せているのか、それすら気づいていないようである。
何故、そんな顔をするのか疑問に思うコウをよそに、立ち位置の関係でアヤの様子に気づかないリーネが、再び口を開こうとした時だった。
コウの背後から突然手が伸びてくる。
それは肩を叩こうとするような軽いものではない。明らかに害意を感じる鋭さのあるものだった。
リーネとアヤはコウの対面に立っている。コウの背後から急速に近づいて来た者をすぐに確認したが、コウと不意打ちをしてきた者との距離は既になくなっていた。警告するには余りにも時間がない。
伸ばされた手がコウに触れる。
ここでようやくリーネが何か言おうとしているが、相手は次の動作に入っている。コウのローブを掴み、そのまま体当たりを仕掛けようとしているようだ。
その瞬間、コウが僅かに動く。
「へっ? って、のわあああああぁあああぁぁ!?」
気の抜けるような悲鳴が辺りに響く。
声の主は誰もいない空間に顔から突っ込み、三回ほど廊下を転がった後、壁にぶつかって下半身を乗り上げるようにして止まった。顔がこちら側に向いており、視線が定まっていないように目が動いている。目が回ったようだ。
「おかえり、ロン」
「……ただいま」
不意打ちをしてきた相手の正体は、始業式が終わって早々に飛び出したロンだった。
コウは笑顔でロンに近づく。その笑顔はリーネの見せた無邪気なものとは全く異質のものである。
「それで? なんでお前は少しばかり殺意を持って襲ってくれたんだ?」
「いやだって、コウなんかが女の子と仲良くしてるとか、気にくわ――いえ、嘘ですごめんなさい」
途中まで雄弁に理由を喋っていたロンだったが、話してる途中でコウが笑顔を深めると、目を背けながら慌てて謝った。逆さになり、下半身を壁に預け、ひっくり返ったままの謝罪に、どこまで誠意があるのかは謎である。
「まったくお前という奴は……」
コウは呆れながらそう言ってから、自分に対する視線へと意識を向ける。リーネとアヤが驚いた様子で見ているのだ。
リーネはコウの戦いぶりを直に見ているので、コウが背後という死角からやってきたロンを見ることもなく避けて対処したことに、驚きが半分と感心が半分といった様子である。
――――しかし、アヤは違う。それだけではなかった。
コウがロンにしたこと。それはリーネの目に、単純に避けて足を引っかけた程度にしにか映っていない。それが普通だったが、アヤは一連の出来事を違う視点で見ていた。
それは剣士としての見方だった。
アヤから見てコウはロンが背後に現れた瞬間、体を僅かに揺らすように動かした。それはロンの狙いを誘導するためだった。
相手が一流の者だったら、そのような事は無意味である。身体を揺らす程度なら、攻撃の軌道を修正出来る誤差の範囲だからだ。しかし、ロンの身のこなしは、少なくとも体術に関しては、素人に毛が生えた程度であることが簡単に見て取れる。その程度であれば効果はあるだろう。
そして、コウは避ける瞬間、ただ足をかけるだけでなく、ロンの踏み込んだ足を正確にすくい上げている。
極めつけに、バランスを崩し、踏み止まろうとするロンを肩と腕を使って、脇を押し上げるように飛ばしていた。
これは確実に転ばせるためと、リーネと衝突するのを防ぐためだった。
そうでなければ、いくら勢いをつけて走って来たとはいえ、三回も転がりながら壁にぶつかったりしないはずである。
「今、その男のことを確認もせずに対処しましたよね……?」
何より、その一連の動作をロンのことは見もせずに、やってのけたことがアヤを一番驚かせているようだった。
問いかけからロンが転び飛んだことをアヤはどう見たのか、それを察したコウは何を言っているのか分からない、という風な態度を取る。
「いや、なんかリーネが驚いていたから、何事かと思って振り返ったら、ああなっただけだぜ?」
そう言ってもアヤの懐疑的な視線は変わらない。
(面倒なことになったな……)
コウは表情には一切出さずに心の内で呟く。
普段であれば、コウは人前でロンがいきなり何かしてきても投げたりなどしない。今回そうしなかったのは、勢いよく突っ込んできたロンとコウ、リーネの立ち位置が直線上にあったからだ。
ロンがコウの背後へと突っ込んできた速さを考えると、不意打ち気味に後ろからぶつかられたことも加味して、リーネにぶつからないようにロンを受け止めるのは不自然であった。
そのため、何もせずに立っていれば、どうしてもリーネの方へコウとロンの二人が勢いよく倒れることになった。
そうなればリーネも無事で済むはずがなかったので、コウはなるべく周りから見て分からないように投げたのだ。しかし、やはり突然のこともあり、ある程度戦いにおいて実力のある者が見れば、見抜かれてしまうくらいには粗があったようである。
(ということは、アヤは剣士として無能ではないみたいだな)
昨日、学園の門の前でアヤが帯刀していたことを思い出しながら、コウは密かにそう思うのだった。
コウはちらりとロンを見る。そこに先ほどまでひっくり返っていたまぬけな姿はなく、ふと見回せば、遙か遠くを走る、裏切り者と化した悪友の背をコウの目は捉えた。
(逃げやがったよ……)
コウはがくりと項垂れる。しかし、それで事態が好転するわけもない。
(どうすっかな)
と、考えたところで鐘が鳴り響く。そのタイミングはコウに福音のようだと思わせたくらい絶妙であった。
「ほら、この鐘、HR開始五分前のやつだろ? ここにいると遅刻するぞ」
もちろん、これで誤魔化せるはずもないが、今は場を動かす必要があるとコウは考えた。だから、かなり強引なこの方法を採用したのだ。
結果は何とか成功し、二人はしぶしぶとだが動き出す。しかし、依然としてリーネからはただただ不満を、そしてアヤからは警戒するような、張りつめるような気配を感じる。
コウはこの先の展開がどうなるか予想して密かに溜息をつき、そうしてからリーネにクラスを聞いて移動するのだった。
リーネから聞いた自分のクラス「二年A組」に着くと、そこにはHR開始直前なので当たり前だが、ほとんどの席を埋める生徒達がいた。
遅れてきたコウ達がクラスに入った瞬間、生徒達のほとんどがコウ達に注目する。その様子を見れば、コウ達を見てこそこそと話をしていたりと、感じの悪い反応ばかりのようだ。
その類のものは最初リーネ達に集中していたようだが、それは徐々にコウの方へと移り始めた。そこには小馬鹿するような雰囲気が感じられる。
コウの背に隠れるように立っていたリーネが、そっとコウのローブを掴んだ。
「私の所為で、ごめんなさい……」
そんなことを悲しげな声でささやいてくる。横を見ればアヤは悔しそうにきつく手を握っているようだ。
コウは昨日から今に至るまでのことを思い出す。
昨日、魔物に襲われてもリーネは助けを求めなかったこと。帰りの馬車でのロンの反応。その時見せたリーネの表情。今朝、始業式を終えた後に見た、何かを警戒するような姿。そして、リーネはクラス全体の異様な雰囲気を自分の所為だと言う。
リーネは何かを抱えている。そのことをコウは昨日の内から察していた。しかし、それは予想以上に深刻なものであるようだ。
リーネはクラス全体から向けられる悪意の混ざる視線が、コウに向いたことを自分が一緒にいる所為でそうなったと思っているようだ。
コウはそれに気づき、顔が苦笑を作ってしまうのを感じながら否定する。
「この状況は別にお前だけの所為じゃないから」
「私だけの所為じゃない……?」
言われたことの意味が分からないのだろう、リーネから戸惑う気配が伝わってくる。
どういうことなのか真相を話そうとするが、そこでコウは何者かが近づいて来るのを感じ取り、開こうとした口を閉ざしたままにする。
「貴様達、何をしている? 邪魔だから早く席に着け」
その横柄な言い様はまるで男性を思わせるが、意外にも声の高さは女のものであった。コウは少しの驚きと共に振り返る。そこにはやはり一人の女が立っていた。
その女の目から熱というものは感じられなかった。纏う空気は相手を威圧しているわけでもないのに、まるで責められているのかと錯覚してしまう鋭利さがあった。
髪は金色。肩の辺りでばっさりと切り揃えられており、いわゆるショートヘアーなのだが、前髪の右側だけがとても長く、右目を隠しそうなほどである。銀縁のメガネをかけていて、全体としては冷静沈着といった雰囲気だ。
男に放っておかれないような容姿なのだが、冷たさすら感じる目を見れば、進んで口説こうとする者は勇敢な者か、無謀を承知で挑む者だろう。
そして、女の見た目で、次いで目を引くのはその服装だった。女はスーツを着ていた。
スーツ自体は一種の礼装であるため、教師が着ているのは珍しくことではない。しかし、それは性別が男の場合であり、女が着ることは全くないわけではないが、かなり少数派の珍しい部類と言えた。
豊満な胸元が服装の上から分かるので、男装をしているわけでもなさそうである。
「聞こえなかったか? 私は席に着けと言ったぞ」
コウが女を観察していると、その対象から再度警告のように注意を受ける。それを聞き、慌ててリーネとアヤが空いた席へ小走りに向かう。だが、コウはそれでも落ち着いた様子で教室をぐるりと一度見渡した。
教室はなかなか広い。
席は四人掛けの机が一列ごとに段差ごとに配置されており、一列ごとに高低差をつけて、前の生徒が邪魔で黒板が見えないということにはならないよう工夫されている。机は一つ一つが長く、一つの机に椅子が四つ備えてあり、机を共有して使うようになっていた。これに生徒達は黒板や教卓と対面するようにして座るのだ。ちなみに椅子と違い、机は床に固定されおり、移動出来ないようになっていた。
一つのクラス約五十人であるが、少なくとも窮屈さを感じるようなことはなさそうである。
「……これが最終通知だ、席に着け」
のんびりと教室を見ているコウに痺れを切らしたのか、はたまた無視されていると思ったのか、スーツの女が睨み付けながら、なかなかドスの効いた声で言ってきた。
それに対してコウは先に席に座ったリーネ達に「この人なんで怒ってんの?」と口に出さずとも分かるように、大げさに肩をすくめて困ったような笑みを浮かべた。それを見たリーネ達は顔を青くして、早く来るように身振り素振りでコウを急かしている。
そんな彼女達を見て、コウはようやく移動を始めた。
「貴様、ずいぶんと態度が大きい……む?」
突然何かを思い出したかのように、スーツの女は顔を顰めながら手元にある資料を捲った。すると、ある資料のところで手を止め、コウと資料を見比べるような仕草をする。どうやら、生徒に関する資料であるようだ。
「教師にすら不遜な態度を取る生徒……貴様、もしかしてコウ・クラーシスか?」
そう訊ねられたコウは足を止め、特に表情を変えることなくスーツの女を静かに見返した。
二人のやり取りを聞いていた生徒達がざわつき始める。所々で「あの噂の……」だとか「例の奴……」などと言ったことが断片的にコウの耳に入る。
ざわつきを鎮めることもなく、スーツの女は資料に書かれたことを読むとコウに言う。
「学年最下位の貴様が、よくも教師に生意気な態度が取れるものだ」
そう言って呆れと感心が混ざったような表情で、コウのつま先から頭の天辺まで無遠慮に見てくる。その様子を見ている生徒達は、人を見下す時に作る特有の馬鹿にした笑みを浮かべ、隠そうともせずにクスクスと笑い始めた。
コウには自分が笑われていることを堪えるという感覚はない。むしろ、嘲笑されている中で、何もないかのように自然体である。
生徒達をコウは見回す。
その中でリーネが困惑の表情でコウの事を見つめていた。リーネの隣では、アヤが何故か先ほど廊下で見せた、警戒した様子で顔を険しくしている。それを確認したコウは、これから面倒な事になりそうな気配を感じ取り、誰にも分からない程度に溜め息をつく。
そんな何処か混沌とした状況で、生徒達のざわめきが大きくなろうとした時だった。
「大衆に紛れて人を笑う貴様らは何様なんだ?」
先ほどまでが嘘のように教室が静まりかえる。
その声は怒鳴るでもなく、語尾を強めたわけでもない。ただ静かに言っただけだ。それなのに生徒全員の耳に届き、間違えようのない怒りを伝えていた。
今の発言はスーツの女だ。彼女が怒ったことをコウは意外に思っていた。コウが侮蔑の視線に晒される切っ掛けを作ったのは、間違いなく彼女だったからだ。しかし、よくよく考えてみれば彼女は一度もコウを馬鹿にはしていなかった。コウに「最下位」と言った時でさえ、ただ事実を告げたに過ぎない、といった様子であった。
「……ふん、始めに言っておく。貴様らの中には親が貴族だったり、有力な商人だったりする者もいるかもしれない」
そこでスーツの女は言葉を句切ると、生徒一人一人を睨み付けるように見回した。それだけで教室内の温度が数度下がったような錯覚すらしてしまう。
「だけどな、この学園にいる間、貴様らはただの学生だ。上も下もなく私は扱うつもりだから、そのつもりでいろ。文句、嫌味、反発など大変結構。勝手にしろ。それ自体は咎めない。それらは貴様らの権利だ。ただし、それが親の権力を振りかざした時のように、簡単に通るとは思うな」
このクライニアス学園にはとある事情から、様々な地位の親から送り出された子どもが集まっている。それは貴族だったり、平民だったりだ。
そして厄介なことに、自分たちは平民の子供より優遇される、贔屓されるのが当たり前だと思っている貴族の子どもは結構いるのだ。先ほどの言葉はまずそれを否定したのである。
スーツの女は生徒達を見回し終えると今度はコウを睨みつける。
「貴様にも言える事だ、コウ・クラーシス。私は貴様の成績など考慮しないで教鞭を振るうつもりだ。成績を考慮して手心を加えろ等の泣き言は、一切受け付けないからそのつもりでいろ」
そう言ってからコウに席に座るように促すと、自身も教卓へと向かうスーツの女。コウは何とも思っていなかったが、一応生徒達からの侮蔑の目から庇われた形になったので、特に何もせず素直にリーネ達の所へ向かった。
一年生の時からずっとそうだったのだが、今年も席は固定ではなく、空いていれば生徒の自由に座っても良いようだ。とても何か言いたげなリーネに構わず、音を極力立てないようにして彼女の隣に座る。
そういえば昨日会った時、彼女の方もコウがある意味有名であるのにも関わらず、知らない様子であった。
故に「学年最下位」と聞いていろいろと聞きたい事があるのだろう。密かにこの後の質問攻めを覚悟するコウである。
コウが席に着いたのを見届けると、スーツの女が口を開いた。
「自己紹介が遅れたな。私は貴様らの担任を受け持ったミシェル・フィナーリルだ。主に魔術系の授業、特に攻撃魔術を担当することになっている。これからよろしく」
スーツの女――――ミシェル・フィナーリルは宣言するようにそう言った。
その姿は緊張とは無縁であるかのように堂々としている。
「それでは、出席を取る」
ミシェルがそう言うと、教室内はようやくホームルームらしい光景となり、ミシェルに睨まれ萎縮していた生徒達が緊張をほぐす。二年A組のとある一人を除く全員が、ミシェルを決して怒らせてはいけないと思うのだった。
(なかなか面白い教師だな)
(なるほど、面白い生徒だ)
そんなことをコウとミシェルがお互いに対して、同時にそう思っていた事は誰にも分からないことだろう。
ミシェルを怒らせてはならないと思わなかった「とある一人」。これが一体誰なのか、それをわざわざ言う必要はなさそうである。
2011/01/08 3:36
一部文章と誤字・脱字を訂正致しました。
2012/07/02 1:56
一部文章と誤字・脱字を訂正致しました。