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第三十二話

 秘密の場所で行われた模擬戦を終えて、コウ達は男女別に分かれて寮へと戻り、各々の時間割をこなすために授業を受けていた。

 現在は二限目の授業が始まる時間帯となっている。


 高等部二年生から始まる選択授業に「王国史A」という授業がある。

 その内容は字面から読み取れる通り、ガルバシア王国内で過去に起こった出来事を学ぶというものだ。

 千年とは言わずとも、数百年の歴史を持つ王国の歴史は遥か遠い昔まで遡ることができる。

 王国の歴史は建国前の騒乱を始まりとし、「王国史A」はその前後に起こった出来事を取り扱う。


 クライニアス学園では初等部より歴史の授業を学ばせるが、中等部二年生までに大まかな歴史の流れを、中等部三年生から高等部一年生では各時代の詳しい内容を教える。

 そして、高等部二年生からはこれまで詳しく教えた内容を、より深く突っ込んだ内容を教えることになっていた。

 ――――しかし、歴史の流れや重要な出来事は、高等部一年の終わりには全て教え込まれているのだ。高等部二年生になってから、選択授業でわざわざ履修してまで学ぶ必要はない。

 完全に趣味である場合や強い知的欲求を満たすために選択する授業。

 それが学園における「王国史A」という授業の位置づけとなっていた。


 コウは現在そんな授業を学ぶために、教室の席の中で一番隅となる場所に座っていた。

 指定された教室は普段HRなどで使用するものと同じ環境で、机や席などの間取りが学園で最も多い種類の教室の一つとなっている。

 リーネ達の姿はない。彼女達はそれぞれ別の授業に臨んでいるはずだ。


 自分の時間割をほぼ武術と魔術に二分するコウであるが、現在受けている授業のような歴史に関するものをいくつか受講していた。 

 と言っても、習得できる単位というのは、学年ごとに上限があるので、二年生前期でコウが受ける歴史関係の授業は「王国史A」と他数種のみに限られた。

 それ以上数を増やすと絶妙なバランスで組まれた「武術と魔術の両方を極めようとする愚か者」というコウの象がぶれてしまうからである。


 学園にて、コウは必要最低限の成績を何とか獲得して、捻じ込むようにして進級した程度の劣等生であるということになっている。

 そんなわけでこの授業を受けるのは、表向き「きまぐれ」、「余った時間があったので、考えなしに時間割へ組み込んだ」、「時間割申請の書類提出の際に何か間違った」、「友人と一緒に受けようとしていたのだが、手違いで他の面子が受講するのをやめたことを知らなかった」という風になっている。

 ロンの協力のもと、様々な噂を流して授業を受けているのだ。

「王国史A」を受け持つ教師が、時折菓子などを持ち込むので、それ目当てであるという見方もできるようになっていた。


 そうやってたくさんの予防線を張り巡らせてまで、歴史の授業を受ける理由。

 それはコウ自身が歴史に興味を持っているからである。

 アヤはコウに対して「学園で学ぶことがない人」という感想を持っているが、コウからすればそんなことはない。

 仮に、武術などを学ぶには学園レベルでは物足りないとしても、学べることなどいくらでもある。

 現にコウがこうして興味を持って、歴史の授業を受けていることが、その証明になっているだろう。


 故に、コウは表に出さないものの、内心結構楽しみにしながらこの授業に臨んでいる。

 五十人が席に着くことのできる一室に、半分にも満たないどころか、十数人しか集まらない程度の人気しかない授業であっても。

 数少ない生徒達が夢の世界へ簡単に脱落するような、眠気を誘う授業であっても。

 コウは週を越えてこの授業の日がやって来る度、今日は何をやるかなど想像しながら、この教室にやって来ている。

 そして、「どうして進んで受講しているはずなのに怠そうなのか」と思われるような態度を取る、という面倒なことをしながら、実は熱心に聞き入っていたのだ。


「えー」


 だからこそ、教室の扉を開いて入ってきた人物に、コウが非難がましく白い目を向けるのは、決していつものように「教師に対して不遜な態度を取る劣等生」を演じるためではない。

 コウはその人物の登場を本気で嫌がっていた。この授業を受け持つ教師ではなかったのだ。

 これでは歴史の授業が始まらないではないかと憤慨すらした。


「クラーシス……貴様な、人の顔を見てまずそれか」


 非難に返された声は、冷気すら孕んでいそうなものであった。

 途端に教室内の空気が凍りつく。

 あまり人気のない授業を受ける変わり種、あるいはコウが装うのと同じ理由で、授業に参加していた運の悪い生徒達が気持ちを一つにしたのだろう。「お前、本当、何してくれてんの!?」というのを視線に乗せて、一斉にコウへ見開いた目を集中させている。しかし、コウはそれら全てを無視して、非難を具体的な言葉にした。


「だって、先生は攻撃魔術が担当ですよね? だったら、俺の大好きな歴史の勉強ができないじゃないですかー」


 それを聞いて教室にやって来た人物、コウの担任教師であるミシェル・フィナーリルは片眉を上げる。

 そして、眼鏡越しに見える瞳に意外そうな色を灯した。

 彼女はこめかみの辺りを伝う軟らかそうな金色の髪を、右手で軽く払いながらコウを見据える。随分と様になった姿だ。

 主に男性が礼装とする黒色のスーツを着こなしながら、豊満な胸が魅惑的な身体の曲線を描く姿は、恐れられながらも男子生徒達に人気だという。


「……教師である身としてこのようなことを言うのは、本来許されないかも知れない。だが、あえて言おう。貴様の口から『大好きな勉強ができないじゃないですか』とこぼれる日が来るとは思いもしなかったぞ」


「本当に教師にあるまじき言葉ですね。俺ほど勉学に対して真面目な生徒はいないというのに」


 底の底から心外だと、コウは極めて真面目くさった顔で言う。全体の成績が最下位である者の言動ではない。

 対して、ミシェルは「この氷のような教師に、そのような表情を作ることができたのか」、と教室にいた全員が同じ感想を抱いただろう、たおやかな笑みを浮かべた。


「校外授業に合わせて出した、集団戦における適切な攻撃魔術の選択とその効果と考察のレポート。一昨日に締め切りが過ぎたぞ?」


「さ、授業を始めましょう! ラグトル先生ではなく、フィナーリル先生が来たことは謎ですが、この際そんな些細なことは気にしません!」


「……調子の良い奴だな。それと、ラグトル先生を軽く扱うな馬鹿者。この学園の年長者の一人だぞ」


 言いながら浮かべていた笑み(作り笑顔だったようだ)を消し、ミシェルは教卓へと足を運ぶ。

 彼女の手には紙束があった。どうやら何らかの理由で授業を代わりにやることを頼まれて、この場にやって来たようである。

 恐らく、紙束は授業の代わりに行う課題のようなものだろう。


 コウを除く他の生徒達は、ミシェルが教卓で紙の束を広げたのを見て、ようやくその推測に辿り着く。

 授業の担当ではない教師が来た時点で、真っ先に思い浮かべそうなことであるが、コウとミシェルが始めた「当人達以外が精神的な被害を受ける」という、迷惑極まりないやり取りのせいで遅れながら理解したようだ。

 生徒達は慌てて筆記用具などを机に広げていく。

 その雰囲気が全体に達するのを狙ったタイミングで、教卓の前に立つ彼女は全体へ向けて言葉を放った。


「改めて伝えるが、ラグトル先生は急遽用事が入られた。それで代わりにこの時間を受け持つことになった……一応、自己紹介しておく。攻撃魔術などの授業を主に担当するミシェル・フィナーリルだ」


 自分が受け持ったことのない生徒がいるのを目敏く確認したようだ。

 ミシェルは簡潔に名乗った。しかし、高等部二年生以上の学年で、彼女の名を知らない生徒はいないだろう。


 コウはロンから聞いたここ最近で彼女が行ったことを思い出す。

 ある時、富裕層の生徒が彼女のやり方が「厳しい」だの「うるさい」などと、甘ったれた苦情を言いに来たことがあったそうだ。

 どうも親の権力をチラつかせれば、公平を唱える彼女でも発言を覆すだろうと、安易な発想に囚われていたらしい。

 彼女は黙って生徒の話を聞き、最後まで喋らせた後に「それで?」と突き刺さるような一言と、抉るような零度の視線を放って退散させたということだ。


 またある時の話。

 相性がとことん合わなかったのか、中等部の頃からずっと仲が悪かった二人の生徒がいた。

 彼らが高等部二年生に進級してから、何度目になるか分からない諍いを起こした際に、彼女は争った二人を呼び出した。

 すると、彼女は数時間に及ぶ説教と言う名の何か(、、)を行った。

 誰が何を言っても顔を合わせるだけで喧嘩をする二人だったが、その日以来、学年の中で有名な仲良し二人組に変貌したと言う。

 それはもう、周囲が気味悪がるほどである。

 多くの者が一体何があったのか聞くが、二人は何も答えないという。


 コウがロンから聞いたこれらの噂は、最近のものに限ったものである。

 これほど濃厚であるのに、一部分でしかないのだ。

 過去を遡れば彼女の武勇伝と言うべきそれは数多く存在するのだった。

 ――――もっとも、退屈や暇をこじらせて、噂好きである学園の生徒達が囁くことだ。どこまで信憑性があるのかは謎ではあるのだが。


 そんな女教師に相応しくないだろう武勇伝を持つ彼女だ。自己紹介など今更だろう。

 生徒達は全員、余すことなく彼女のことを知っていることは間違いない。

 噂のことはともかく、ミシェルは自分のことを生徒達が知っていると判断したようだ。

 彼女は名乗りをそれだけで済ませると、前列の生徒に紙束を分けて渡していき、後ろに回すように指示を出して全員に配っていく。


 学園で作成される課題や連絡事項を告知する紙は、『転写筆』と呼ばれる魔導具によって量産される。

 その機能は名の通りで、紙にある字や絵を別の紙にそっくりそのまま書き写す(或いは描き写す)というものだ。

 使い方は複製した紙と白紙を重ね、その上に魔力を籠めた転写筆を乗せるだけ、という簡単な仕様だ。

 あとは勝手に筆と紙が見えない手に動かされる様に、ひとりでに宙を舞って複製される。

 見た目は筆そのもので、その形で普通の筆との違いを判断することはできないだろう。魔導具の動力となる魔石の存在を感じ取って、ようやく見分けがつく程度だ。


 コウは配られた紙の内容を確認する。

 ざっと見ただけで分かる、記憶に新しい内容の文章。その中に含まれる空欄。次々と配られ、増えていく紙の枚数。

 明らかに前回までの授業を復習するだけの穴埋め問題式の課題である。

 『転写筆』が一枚の複製を完成させる速度は、人よりもずっと早いが枚数は多いほど時間がかかる。

 ラグドルの急用がいつ入ったのかは分からないが、事前に用意するまでの猶予は多くなかったに違いない。

 十数人しかいないこの授業だからこそ、全員分の用意が間に合ったのだろう。


 劣等生という姿とは裏腹に、興味を持って歴史について学ぼうとするコウである。課題を見つめてどうでもよさそうな顔をしながらも、これには内心落胆せざるを得ない。

 周りを確認するとこれを楽と捉えるか、苦であると捉えるかによって、生徒達の反応は二つに分かれているようである。


「全員の手元に行ったな? では、始めろ。……あと、終わった者から退室していいとのことだ」


 が、継ぎ足された言葉を聞いた途端、分かれていた反応が一つにまとまった。

 生徒達がはりきって筆記用具を握り締めたのだ。

 現在行われている二限目はお昼前の授業だ。授業を早く終えることができれば、食堂や購買などですぐ売り切れる定食やパンを手にするのに、有利となるのは言うまでもないことなのだろう。


 コウも不満を溜めても仕方がないと諦め、課題と向き合うことにする。

 始める前に改めて内容をざっと確認すると、空欄は迷いなく埋めていけるものであった。しかし、劣等生としてはそんなことをするわけにはいかない。

 ゆっくりと文章の穴を埋めていく。


 余裕のある思考であるためか、書き込みながら違うことを考えてしまう。

 コウは今朝のことを思い出していた。




 模擬戦を終えた後にやって来たかと思えば、ロンは「みんなで部活に入ろう!」とコウとリーネ、そしてアヤに言ってきたのだ。

 コウはまた何か変なことを言い出した、と慣れた呆れを覚えたものだが、言われた側の他の二人はコウのように軽い反応を見せなかった。

 リーネは「みんなで部活」と数度呟いたかと思えば表情を曇らせ、明らかに拒否を示していた。

 それを敏感に感じ取ったアヤはロンを見た。

 突然言い出したことを責める様に。提案を否定するように。

 ロンを睨みつけたのだ。


 コウはその二人の反応に疑問を感じたが、しかし、それはわざわざ口に出して訊ねる必要のないことであった。

 考えればすぐに分かることなのである。

 校外学習で忙しかったこともあり、忘れがちではあるが、リーネを取り巻く学園の環境と言うのはかなり危うい。

 最悪の一歩手前であると言ってもいいくらいである。


 悪い噂が負の感情をばらまき、負の感情が悪い噂を呼び込む。

 それは循環ではない。身体に蜂蜜を塗りたくって、森の中を駆けて戻ってくるようなものだ。

 甘い匂いに誘われる虫のように、生徒達の関心はどんどん群がっていく。

 集められた負の感情と悪い噂は鎖のように連なり、彼女という存在を縛っているのだ。


 今のところ、直接的な手段を用いて傷つけられることはないという。しかし、それは慰めでしかない。

 いつまで「今のところ」が続くかは分からないし、直接的な行為を及んでいなくとも、リーネ自身が生み出したわけではない悪評がのしかかり、彼女の心は確実に蝕まれているのだ。


 コウとロンという異分子が周りに現れたことで、彼女に向けられる冷たい目は、現段階では何処か遠慮がちだ。

けれども、それも時間の問題だろう。人は総じて慣れることが得意だ。

 コウ達が傍にいる彼女という対象に慣れた時、果たしてどうなるかは分かったものではない。

 考えようによっては、コウ達という新しい刺激があることで、好き勝手な妄想が助長される可能性は十分にあるだろう。


 そして、だからこそのリーネとアヤの反応だった。

 そんな中、彼女達――――特にリーネが何処かの部活に入部すればどうなるか。

 答えは簡単だ。目立つ。嫌なくらいに目立ってしまう。


 いや、リーネが何かの部活に入部することを拒否するのは、それ以前の問題で、もっと単純なのかも知れない。

 何をしても目立つだろう彼女。何をしていようと悪評に繋げられてしまう彼女。

 そんな厄介を受け入れてくれる部活など、果たしてこの学園に存在するのか。仮にあったとして、そんな部活をどうやって探すと言うのか。

 ――――普通の生徒だったのなら、知ることのなかった断られる痛みを、何度味わえばいいと言うのか。

 リーネの拒否とアヤの憤りは、その一点にあるのだろう。


 校外授業後から静かにしていていた間、考えていたことはそんなことだったのか、とコウはロンを見る。

 リーネの不幸な想像を如何に融解させ、アヤの内で湧く怒りをどう鎮めるのか、目で訴えかけたのだ。


 ロンは自分が懸命に考えた提案が受け入れられなかったどころか、否定されたあげく睨みつけられるとは思っていなかったのだろう。非常に焦った表情を浮かべてコウに助けを求めてきた――――ということにはならなかった。

 彼はリーネ達の反応を知り、受け止めながらも、企みを暴露するときに浮かべる特有のにんまりとした笑みを崩していなかったのだ。

 それを意外に思うコウを余所に、彼はそのまま口を開く。


「二人が言いたいことは分かるよ。それはきっと難しいことだし、それは確実に誰かが傷つくことだと思っている。……だから、別に部活は探さない」


「探さない?」


 ロンの言うことがそれほど予想外だったのだろう。アヤは怒りを一度引っ込めて不思議そうに呟き、リーネは首を傾けている。

 そんな二人とは対照的に、コウはすぐにその意味を察した。自然と溜め息がこぼれる。


「ちょくちょく姿を消していると思ったらそういうことか。……それで、大よそのことは調べてあるのか?」


「お、さっすが、コウ。俺の親友だけあって話が早い。条件とそれを達成するための情報は集まっているよ。あとは地道に作業して成果を手に入れるだけ」


「そうか……なら、行動は早い方がいいな。今日の昼休みに集まった際に話を詰めて、放課後から始めよう」


 コウの言うことに、ロンは一度懐中時計を確認してから頷いた。


「う~ん、そうだね。時間もそろそろあれだし、みんな一旦寮に戻った方がいいか。話はちょっと長くなりそうだしね」


 二人でやり取りし、そのままそそくさと隠し通路へ向かおうとすると、


「ちょ、ちょっと待って下さい!」


 と慌てたようにアヤが呼び止めてきた。その隣ではリーネが目をぱちぱちと瞬かせている。

 コウは止めたことに対して、そろそろ戻らないと時間的に辛くなってくることを告げるが、ここは流石に譲れないのか彼女は尚も疑問をぶつけて来た。


「二人だけで話を進め過ぎて、こっちは一体何のことだが分かりません! 説明を求めます! 部活に入るけど探さない? 作業? 行動は早い方がいい? どういうことなんですか!?」


 叫ぶようなアヤの訴えかけを聞いて、ロンはようやく説明していなかったことに気づいたのか、「おぉ」などと思いっきり呟いている。

 コウは知りながらも悪戯心で黙っていただけである。

 むくれる彼女に対して、ロンが慌てたように何か言おうとするが、時間がないのでそれを遮る。


「居心地のよさそうな部活がないなら作ればいい。それだけのことだよ」


 コウが淡々と言い放ったことに、リーネとアヤは呆気に取られ、その後に目を丸くして驚愕を叫んだのだった。




 今朝の出来事はそこで途切れる。

 時間も差し迫っていたので、詳しくは昼休みの時間、つまりはこの二限目の授業後にすることになっていた。

 朝の段階でいろいろと言って来る二人を無理やり寮へ戻したことを考えると、昼休みはどうなるだろうかとコウは愉快な気持ちと共に想像する。

 そして、その思考をつくように呆れ声が降ってきた。


「あまり空欄が埋まってないようだが、授業終了時までに終わらせないと宿題にするからな?」


 顔を上げる。そこにはコウの書き入れる課題を、少し机に乗り出すようにして、無感動に覗き込むミシェルの姿があった。

 授業中に教卓で陣取ることなく「質問があればすぐ聞くように」と言って、生徒が座る席の合間を緩やかに縫っていたので、すぐ横に彼女がいても特に驚くことはなかった。

 だが、コウは「げっ」と声に出さないでも、顔を顰めて目の前にあったものから視線を外す。

 無頓着なのだろう。顔のすぐ傍に大きな胸があったのだ。


「ここ、分からないのか?」


 その様子に気づかないミシェルは、コウが埋めていない空欄を指差している。

 生徒を委縮させる空気を発することで勘違いされがちだが、彼女は教育者としては熱心な部類で、生徒に対しては真摯な対応をする。それが生徒側にとって良いか悪いかは別として。

 高等部二年生になって一ヶ月と少し経ってからそれを知り、コウとしては良いところだとは思う。しかし、この時ばかりは都合が悪かった。

 椅子を目一杯活用して、彼女から距離を取るように試みる。


「……どうかしたのか?」


「いや、何でもないです。それより、時間はかかっていますが、とりあえず分からない問題はないっぽいのでお構いなく」


 何とか誤魔化すように口にする。

 不審そうに見て来るが、真面目な姿勢で取り組んでいる姿を維持すると、ようやく納得したのか空欄を指差す手を退けた。

 これで他に行くだろうと思い、微かに息を吐くコウだが、その予想に反してミシェルはこの場から動こうとする素振りを見せない。


(え、なに、このひと)


 ここで全体を見回しているのかと思い、横目で確認するとばっちりと目が合った。

 客観的な視点で見れば、お互いに程度の差はあるだろうが、同じように不思議そうな顔を浮かべているのだから謎である。

 本当に何なんだと思いながら、コウは仕方なく口を開く。


「あの、どうかしたんですか?」


 コウが尋ねるとミシェルは特に慌てることなく、むしろ落ち着いた調子で感慨深そうに言葉を吐く。


「いや、な。不良生徒の一人として職員会議で名が挙がった貴様が、こうして授業を真面目に取り組んでいる姿というのは、なかなか興味深いものだな、と」


 真面目な顔でそんなことを言って来るが、本人を前に不良生徒と言うのは如何なものかとコウは思わざるを得ない。


「……初耳です。それ」


 コウは本気で驚いたがよくよく考えてみれば、ロンという悪友と騒いだり、教師に対して不遜な態度を取るというのは、確かに不良生徒と言えなくもないかも知れない。

 噂話を娯楽の一つとする生徒達の中に属しているのに、リーネに絡みつく悪評を全く知らなかったくらいなのだ。周りに対しての興味が薄いので、教師達から自分がどのような評価されているのか、気にしたことがなかった。

 ぼんやりと良い目では見られていないだろう、くらいにしか思っていなかったのだ。

 だからこそ、そのようなレッテルが貼られていることすら知らなかったのである。


 そういえば校外授業の際に、ミシェルが成績的に優等生であるリーネ達が、コウ達と組んだことを教師達は驚いたと言っていた。

 後々そのことを知ってみると、この観点からの理由が大きかったのかも知れなかった、とコウは今更のように思う。


「ふん、大人はすぐに子どもを枠にはめたがる。そんなの理解できないし、そういうのが、子どもが持つ未来の可能性ってやつを潰してしまうんですよ」


「お前はいきなり何を言ってるんだ?」


 心底どうでも良さそうな顔をしながら、一応、ミシェルがそう口にしてくる。

 コウはそんな彼女を邪魔そうに見上げ、追い払うように手の甲を向けてしっしと振る。

 今更ながら教師にしていい態度ではない。


「ただの未成年視点からの主張ですよ。それより、俺が真面目なのは伝わったでしょう。だったら、早く他のやつの様子を見に行ってください」


 こんなことをしているから、教師に対して不遜だとか言われるのかとも思ったが、構わずコウは手を振った。


「……貴様な。せっかく人が褒めていたのにいい度胸だ」


 案の定と言うべきか、ミシェルが氷のような視線でコウを縫い付けてきた。

 その気配を敏感に察した他の生徒達が、「そんなもんこっちに流そうとするな!」と必死な形相を向けてくるが、コウは気づかないふりをする。


(というか、褒めてたか?)


 などと遅れて思いつつ、コウは反抗するように口を開く。


「俺、歴史の授業好きなんですよ。だから、先生の手を借りないでも大丈夫です」


「ほう、言うじゃないか。なら、私が今から問題を出すから答えて見ろ。そうしたらこの授業中、貴様に構うのをやめてやる」


(…………この人、もしかして暇つぶしに俺を使おうとしてる?)


 真摯な態度で生徒と接する教師だと評価したばかりなんだけどなぁ、とコウは思いながらもささやかな抵抗を試みる。


「先生って攻撃魔術を担当しているんですよね? なら、歴史とかあんまり分からないんじゃないんですか?」


 コウがそう言うと完全に観客と化している他の生徒達も、近くの者と顔を合わせて何かしら気になっているような素振りを見せた。

 瞬間的に言葉を返そうとしていたミシェルだが、教室に流れる空気を感じ取ったのだろう。一度開いた口を閉じて、顔を少し顰めながら腕を組む。

 それから、見せつける様に配った紙と同じ物を軽く掲げた。


 その仕草に胸が強調されて男子生徒達が何故か不自然に居住まいを正し、一部の女子生徒達が自分の胸と見比べているが、深く言及することでもないだろう。

 スーツ着用のくせにネクタイは首に結ばず、胸元が開いているのは果たして何か理由があるのか、とコウは疑惑の眼差しを向けるが、彼女は気づかないまま弁論する。


「確かに私が主に担当するのは攻撃魔術だが、別にそれだけしか知らないわけじゃない。貴様らがこうして学んでいるように、私だって他に学んでいることなどいくらでもある。……この課題だって私が作ったんだからな」


 言いながら得意げに胸を逸らすのだから、余計に一部分が強調されている。本人に自覚はやはりないのだろう。あっても問題ではあるが。

 それよりも言われたことに対し、コウは小さくない驚きを覚えていた。

 てっきり来られなくなったラグトルが用意したと思われていた課題だが、それをミシェルが作っていたとなると見方も変わってくる。


 生徒に対して何の告知もなく代わりの教師が来るくらいだ。事前にできた打ち合わせなど高が知れているのは間違いない。

 いくら前回までにやった内容を聞いていたとしても、その授業を実際に行うか受けるか、どちらかの立場にいなければ完璧な把握はできない。

 授業を行った者と別の人間が課題を作れば、その内容に差異は僅かでも出てしまうだろう。


 それなのに今回の授業で配られた物は、急遽作成した割には、前回までの授業を踏襲した課題として完璧である。

 それはつまり、歴史の一分野であれば、授業を行った者と同程度の知識を持っていることを、意味していることになるのではないだろうか。

 少なくとも既存の資料と睨み合って何とか完成させたような、全く知識がない状態で作成されたものではない、と断言できる出来栄えであった。


「教師だからまさか勉強ができないということはないにしても、ここまでちゃんとしたものが作れるのは意外かも知れない」


「クラーシス。そういう独り言はせめて聞こえないように呟け」


 校外授業を開始する前、コウ達との会話で意外な一面を見せたミシェルだが、日に日に意外な一面が更新されていくのは気のせいではないだろう。

 改めて、変な教師だとコウは抱く印象を修正する。

 そんな良い事なのか悪い事なのかが微妙なことをしていると、彼女は挑発するように口の端を僅かに上げる。

 今回は作り笑顔ではない。本心から生まれたものであるようだ。

 こんな場面でそんな貴重なものを晒していいのか、と思いながらコウは印象の修正を更に続ける。


「どうするんだ? まぁ、時間切れまで粘るのも結構だが、それはそのまま宿題を持ち帰ることになるぞ」


 問題を受けなければ、ずっと絡まれることは目に見える展開だった。

 コウは首を縦に振るしかない。勝負を受けることを示すと、ミシェルは満足そうに頷いた。

 やっぱりこの教師、暇つぶしをしたいだけなのではないか、という疑念が深まるばかりである。


「では、第一問」


「第一問って、え、もしかして複数あるんですか?」


「さて、どうだろうな。第一問。今のガルバシア王国のトップの名と役職名、その人物が何年前にその地位に就いたのかを答えろ」


 思いっきり現代のことだった。

 繰り返して説明することになるが、コウが受講している「王国史A」は建国前後の数百年前の出来事を学ぶものである。


「……古代とかもっと昔の問題じゃないんかい。それに、一問と言いつつ実質三問じゃないですか」


 試験であれば穴埋め問題だろうと論述問題だろうと、各一点で合計三点は獲得できそうである。


「これも立派な歴史だろう。後々の人々が過去を振り返れば、その全てが歴史であることに代わりはない。あと、細かい事は気にするな」


 それは確かにそうかも知れないが、意表を突くために適当な問題を出した感が凄まじかった。

 コウは少し前に遭遇したことのある、押し売り販売をする怪しげな商人との対話を思い出しながら、ミシェルを見る。嫌になるくらい楽しげだった。

 こうなれば仕方がないと、相手が飽きるか頃合いが生まれるまで付き合うことにする。


「……はぁ。ゲルシュアン・ガルバシア。お仕事は国王代理で、始めたのは二十三年前」


「仮にも国王代理の名を溜め息交じりに答えるな。あと後半の言い方が軽すぎる」


「いや、仮にもとか言っちゃってる先生も大概ですから」


 それもそうか、とミシェルが言い返してくる。

 やり取りだけなら一見、教師と生徒の風変わりな談笑である。しかし、それを周りで見る生徒達は凍り付いていた。

 ミシェルから発せられるお馴染みの威圧的な空気は現在ない。乾いた笑い声を上げるコウを不憫に思ってのことでもない。

 その話の内容が、生徒達が息をするのを忘れさせていた。


 ゲルシュアン・ガルバシア。現ガルバシア王国の国王代理。

 就任した当初、彼は救国の英雄と民から謳われた。

 振るわれた手腕が自国で頼もしさを示し、他国に警戒心を打ち込んだ。

 迅速な対応に誰もが舌を巻き、全員が口を揃えて流石だと称賛した。

 民衆の前に姿を現した際の豪華絢爛を威風堂々と身にまとう姿は、見る者全てを平伏せさせた。


「第二問。王国のトップが何故国王代理なのか。その理由と国王はどうなっているのか」


「正当な系統者であり、ゲルシュアン・ガルバシアの兄であるルベラス・ガルバシアが暗殺されてしまったから。国王の席は現在空いていて、前国王様はお墓の中でおねんね。……あれ、新国王が誕生するまでは、まだ現国王はルベラス様のままでしたっけ? ややこしいな」


「現国王はルべラス様で合っているが……王宮に巣食う老人達が聞いていたら、貴様は間違いなく怒鳴り散らされるだろうな」


「それで済めばいいですけどね。というか、先生もだと思います。何で自分の物言いは大丈夫だと思ってる風?」


 ガルバシア王国には外敵が存在する。

 味方ではない存在。中立でもない存在。明確に敵という存在だ。

 この国では戦争があった。五十年にも及ぶ長い戦争だ。敵対関係にあった国の名はヴェグイム帝国。

 交易は当然のようになく、交流は戦いという獰猛な手段しかなかった。


 種火は小さなものだという。先代の国王――――暗殺された現国王ルべラス・ガルバシアとその国王代理である弟のゲルシュアン・ガルバシアの父親が、まだ国交があったその時代の帝国の王と、諍いを起こしたのが始まりだった。

 それは実に些細なこと、それこそ本当にあったのかどうかも分からない、吹けば消えるような小さな種火だったという。

 だが、その熱は燻ぶるようにじわじわと消えることなく存在し続け、そして最終的には戦争へと燃え広がった。


 先代の国王の死後も現国王へと引き継がれた戦いの歴史。と大げさに言っても、五十年間毎日のように激しい闘争を繰り返していたわけではない。

 国の間で行われるやり取りを悪習であるとして根絶して、国境付近で睨み合いや小競り合いを繰り返していた程度だ。

 静寂に響いた雑音。それがこの戦争に対する一般的な認識である。


「第三問。国王代理が救国の英雄と称えられた理由とは?」


「現国王様が暗殺された際に、動揺を隠せない王国首脳陣を国王代理が迅速にまとめたこと。隙を狙ってきた帝国の進撃を自ら指揮を執って止めたこと。帝国との間に休戦協定を結んだこと。……あと何かありましたっけ?」


「ふむ、まぁ、そんなところでいいだろう」


「さいで。……ここまでのって一般常識程度の問題ですよね? 学園に通わない平民の子どもでも知っているレベルだと思うんですが」


「そうだな。だが、それがどうかしたのか?」


「この授業は王国史Aの時間だと、誰かこの教師に教えてやってくれ」


 教室内の他の生徒に駄目元で助けを求めてみるが、案の定というか視線を向けた全員に逸らされた。

 これが一人ぼっちの寂しさかとやさぐれながら、コウは逃れるために仕方なく自ら切り出す。


「次は――」


「先生、好い加減にこんな時間ですから、そろそろ俺に課題をやらせてくれませんかね?」


「む、もうそんな時間か?」


 言ってミシェルは壁にかけられた時計を見る。

 魔導具の一つであり高価なものである時計だが、学園では至る所で見ることができる。

 と言うのも、学園創立当初は数か所に大きなものがあった程度だが、ある時から魔導具関係の授業で作成した時計を学園に寄付するようになったのだ。

 小型の物は困難で話は別だが、大型や中型の時計は魔導具の中で比較的作成が容易であったこともあり、学園では教室に最低一つの割合で設置されていた。

 魔力を操る才を持つ者が多く集まる場所なので、魔石が力を失うことはほぼないと言っても良い。


「宿題にするって脅すんですから、当然、勉学に勤しむ生徒の邪魔なんかしませんよね?」


「別に私は邪魔をしようとしていたわけじゃないんだが……」


(暇つぶししようとしていただけですもんねー)


 その心の声を聞いたわけではないだろうが、ミシェルは流石に分が悪いと思ったのだろう。一瞥してから「まぁ、いいだろう」と呟き、ようやくコウを解放した。

 他の生徒の様子を見て回りながら教卓へ向かうようだ。


 これで終わらせられると、コウは課題と改めて対面する。

 残り時間はすらすらと問題を解いていけば余裕であったが、やはり劣等生らしく振舞うのであればそれはできない。時間ぎりぎりを見計らいながら問題の空欄を埋めていく。

 そこで再び彼女の声が聞こえた。


「意外にも早く終えそうな者が多そうなので、クラーシスにやらせたように、他の者にも口頭で伝える問題を解いてもらおうか」


 当然、コウを除く生徒達が露骨に嫌そうな雰囲気を発する。

 それもそうだろう。授業初めに課題を終えた者から退室して良いと言われたので、生徒達はやる気を出したのだ。

 相手がミシェルでなければ、不満の声が鳴り響いていてもおかしくはない状況である。

 彼女もそれは分かっているのだろう。生徒達の反応を受けて激昂することなく、苦笑いを浮かべている。


「そう嫌そうな顔をするな。度を超えて早く授業を終わらせると、他の先生方に注意を受けてしまうんだよ。私も、貴様達もな。ま、時間の微調整だ。どの授業よりも早く終えることは約束するから、悪いが付き合ってくれ」


 ミシェルだけではなく、自分達にも被害が及ぶと言われれば、従うしかないと思ったのだろう。生徒達は沈黙のまま教卓前に立つ彼女へ目を向ける。

 受け入れられたことを確認した彼女は、生徒達へ順に問題を出題していく。

 それを聞き流しながら、コウは淡々と問題を解いていく。だが、やはり余裕があるので、問題に目を通していても考えることは別の事だ。


 ミシェルがどうかは定かではないが、彼女の暇つぶしに付き合うため問題を受けていた時、生徒達の様子が変であったことにコウは気づいていた。

 彼らは緊張していたのだ。二人が行うやり取りを聞いていて。

 内容だけを考えれば、別段息を呑むようなことはない。しかし、それは今に繋げると話は変わってくる。

 ガルバシア王国では現在、根強い階級差別が存在している。その始まりは王国のトップが代わってからだ。


 つまり、ゲルシュアン・ガルバシア国王代理が、国の先導となってから狂い始めているのである。


 民が救国の英雄として受け入れた人物は、国を治めるのに必要な力を手中に収めると改革を行った。

 至当であるかのように、提示された全てが国王代理にとって都合の良い案件ばかりだったのである。

 ゲルシュアン・ガルバシアは言った。国を守るため、我が全てを動かす、と。

 独裁政治の始まりだった。


 自分達の英雄が行うことに目を丸くし、声を上げる間もなかった。

 民達が気づいた頃には、目を伏せなければ反抗的と見なされ、非難の声を上げれば処刑される世界へと王国は変貌していた。

 一番酷い時期では国王代理の陰口を言うだけで罪に問われた。

 罪の名は侮辱罪。国家を侮辱し、仇なす敵は許さない、という名目の国王代理にとって、都合の悪い存在を法的に消すための罪。

 もちろん、国王代理の改革後に加えられたものである。


 こうなって来ると、ここまで列挙した国王代理の華やかな活躍にも疑いの目が向く。

 話が出来過ぎているのではないかと。

 そもそも今は亡き国王ルベラス・ガルバシアの死にも謎は多いと言われている。


 その日、ルベラスは気分転換も兼ねて、十数人の従者と共に狩りへ出かけた。

 日帰り旅行にもならない数時間の狩りの最中に、毒の矢を受けて死を迎えたのだが、彼が矢を受けるところを誰も見ていないのだという。

 連れ立った従者達には偶然、狩人の仕掛けた罠にかかり、偶然、野盗が現れ、偶然、魔物に襲われ、偶然、助けを求める女がやって来るということが起こっていた。

 それらが偶然、同時に起こってそれぞれ対応に追われていたのだという。


 明らかに作為を感じる出来事だが、その真相を追及することは不可能だ。

 事件を詳しく知っている当事者である従者達は、国王を守らなかった責任を取らせるためにと言って、弟であるゲルシュアン・ガルバシアが全員処刑してしまっているからである。

 ルベラス死後、国王代理はまるで(、、、)知っていたかのように(、、、、、、、、、、)、混乱する王国首脳陣を冷静にまとめ上げ、迅速な対応を持って迫る帝国を追い払った。


 それが、国王代理が治め、国が狂い始めてから噂として知れ渡った話である。

 独裁政治という性質故か、国王代理に擦り寄るものは後を絶たない。侮辱罪などという罪は得点を稼ぐための恰好の力だ。

 富裕層は国王代理にとって邪魔な有力者の弱みを見つけ、それを密告することで排除する。そうすることで気に入られれば、安全な場所にいられるというわけだ。

 そして平民層は隣人との潰し合いである。王国代理の名をかざしてやってくる、役人や下級の騎士達からの追求から逃れるため、隣人を売るのだ。

 自分はこれだけ国のために働いている。だから、見逃してくれと訴えるのだ。


 それは子どもの集まる学園でも同じことである。

 子が言う国王代理の悪口は親が教えたこと。そんな図式に組み込むことで、生徒同士の間で行われたやり取りでも侮辱罪となってしまうのだ。

 王国の首都から離れた学園であっても、迂闊に国王代理の悪口を言っていれば、熱心な親(、、、、)を持つ生徒が親に伝え、密告されてしまう。


 権威から遠い場所にあるはずの学園ですら、このようなことが起きているのだ。

 国王代理側に取り入ることが容易な富裕層の人間が上位の存在となり、階級差別が着実に濃くなっていった結果が現在である。


 生徒達がコウとミシェルの会話を聞いていて緊張を高めたのは、そういった経緯があってのことだった。

 擦れ擦れの所で問題になるようなことは言っていないが、先を読めない者からすれば危なっかしいことこの上なかっただろう。

 国王代理の話は暗黙の了解的に一種の禁忌に等しいのだ。

 話題だけでも緊張を高めるには十分なのである。


(そう考えると、問題とは言えよくもまぁ、ぶっこんで来たよな)


 時間を調節しながら大よその空欄を埋めたコウは、ちらりと顔を上げてミシェルの様子を窺う。

 彼女はそんな際どい話をしていたとは思えないくらい、至って普段通りである。

 生徒達はそんな自然体な彼女の姿を前にしているからだろう。高めた緊張を緩めて、今は出題されるのをちょっとした遊びのように捉えて楽しんでいるようだ。


 流石にコウの時のよう下手に突けば破裂するような問題は控えているようで、今は単純な近代の問題、特に一連で触れた国王代理が伸し上がる切っ掛けになった、戦争についてやっているらしい。

 威圧感を振りまく彼女だが、何も悪さをしなければ視線がきついだけの美人教師なのである。


「正解。五十年に亘って続き、二十三年前に休戦協定が結ばれた戦争は国境防衛戦争という。通称は防衛戦争でも通じるが、大多数は国境戦争を採用している。試験の際には通称の略でなく全て書かないと減点だろうな」


(ロン曰く、みんなに恐れられながらも、何だかんだ言うことに筋は通っているから人気はある、だっけか)


 一部のちょっと変わった嗜好を持つ男子生徒は、好きな異性の名を挙げる時、女子生徒ではなくミシェルの名を出すのだという。

 そんなことを思い出しながら、コウは課題との睨めっこを続ける。

 作業みたいなものだ。残りの時間を考えれば大丈夫だろうと判断し、ここからはさっさと空欄を埋めていくことにする。

 そして、迷いなく動かされていた手が、


「次、隣の貴様だ。問題。国境戦争終了直後の時期、国のトップが変わるごたごたの中で、一時的に国家の機能が麻痺した」


 新たに出された問題を耳にしてぴたりと止まる。

 休戦直前、帝国との間に起こった最期にして最大の闘争。

 ルベラス・ガルバシア国王が暗殺されて混乱する王国の隙を狙い、国境を踏み越えてきた帝国との間に激戦が起こった。

 一時は英雄と評された国王代理の功績に、帝国を追い払ったというものがあるが、それも簡単に押し返したというわけではない。

 押したり引いたりの膠着状態は一ヶ月続き、削り合うような戦いの末の勝利である。

 かなり深くまで踏み込まれ、一応、国王代理が軍を率いなければ、国家滅亡の一歩手前まで追い込まれたかも知れない。

 喉元に刃を押し当てられた。そう言われるほどのものだ。


「それは国が最も果たさなければならない治安維持にも及び、当時は秩序が崩壊することも懸念された。だが、実際はぎりぎりの所で保たれたどころか、迅速な早さで回復していった。それは何故か答えろ」


 戦争というものは終わってから始まるものがある。荒らされた領土や低下した治安を向上させたりなどの戦後処理だ。

 ガルバシア王国も休戦直後は国境付近へ行けば行くほど、そう言った処理が必要な地域は広がっていった。


 ミシェルの問題はこの観点から問われている。

 試験で得点を得るには「国王代理の指導の下、治安維持部隊が設けられたため」となるのだが、実在する部隊ではあるものの、停戦後から驚くべきことに五年もの時間を置いた後に、ようやく新設された部隊であることは国民の誰もが知っている。

 英雄の正体が暴君であったことを知ってしまった人々は、表向きに用意された答えであると知っているのだ。「国王代理の指導の下~」などと答える者は皆無であると言ってよい。


 では一体どうしてなのか。何が正しい答えとなるのか。

 それはささやかな抵抗。

 偽りの可能性の疑惑を募らせる英雄に、一矢報いるための小さな希望だ。

 問題を投げかけられた黒い髪の男子生徒は、少し迷った素振りを見せた後に、目に輝きを灯しながら堂々と答えた。


「人々を悪から守る存在。正義の味方が現れたからです」


 気づけば教室は静まり返っている。ミシェルの授業であるということもあり、元々騒ぐ生徒はいなかったが、強制される静けさ以上のものがこの場に訪れていた。

 男子生徒はあくまで問題に対して用意された答えと違うものを、間違えを言ってしまっているだけという形である。

 例の不遜罪的に白か黒かで言うところの灰色だ。即断で罪に問われることではない。

 だからこそ、あえて男子生徒は胸を張る。自分には非がないことを訴える様に。自信満々に間違えていることを主張するように。


 正義の味方。

 まるで小さな子供に読み聞かせる絵本の登場人物。おとぎ話にのみ存在する勲章の名だ。

 だが、教室内にいる誰もが答えた生徒を笑わないどころか、同意を含ませた眼差しを集めている。


「正義の味方、か。次、更にその隣の貴様。この答えを補足しろ」


 ミシェルも否定するわけでもなく、むしろその逆であるように促す。

 指名された金髪の女子生徒は、怖いと噂の教師を相手におどおどとしているが、しかし、それを口にすることは厭わなかった。


「えっ……と、私の乳母に聞いた話になるんですけど、……その方達は国に属さず、個人の下に留まらず、常に悪意のある場所に身を置いていたのだとか」


 女子生徒の乳母は「正義の味方」について詳しく知っていた上に、何度も話して聞かせていたようで、彼女はなだらかに話を続けていく。


「その方達は皆の味方であり、悲劇を嫌っていたと言われています。同時に、皆の敵であり、悲劇そのものであったと言われています」


 そこで彼女は一つ息を吸う。これから話す内容をまとめる内に、生じた熱を誤魔化すように。ゆっくりと吸った。


 彼女は万感の思いを込めてこう語った。


 彼らは戦乱の波から逃げ惑う民達の盾になりました。

 不安に駆られて暴徒となった民達を叩き伏せました。

 自分達より数十倍の規模の帝国の大群に、決死の覚悟で挑む王国騎士達を勝利へと導きました。

 争いのどさくさに紛れて、民家を襲う王国の騎士達を切り捨てました。

 仲間に見捨てられ、死にかけた帝国兵を救ったこともありました。

 悪戯に死を運ぶ帝国兵達を壊滅させました。


 彼女に蓄積された逸話は止まらない。

 話の中にはそれが正しいことだったのかと、そもそも本当の話なのか疑問に思うようなこともあった。

 全てが痛快なものではない。時に、眉を顰めながら聞かねばならない話もあった。

 話しごとに共感を覚える者、反感を覚える者の比率は変動する。

 だが、教室内の熱気は上がっていった。それこそ、無垢な子どもが英雄譚を聞いて心を震わせるように。

 生徒(子ども)達は徐々に沸き立っていく。


「俺、小さい頃は悪さする度にかーちゃんから言われた! 良い子にしないとお仕置きされちゃうぞって!」


 我慢できなくなったのか、興奮した面持ちで一人の生徒が高らかに言うと、塞き止めていた川が氾濫するかのような勢いで、他の生徒達も好き勝手に語り始めた。


「君の家もそうなのかい? 僕もばあやによく言われたよ。きちんとしない子どもの所にやってくるってね!」


「私の故郷は国境が近かったけど、その当時は誰も怯えていなかったそうよ。だって、危険が迫ったらきっとあの人達が来てくれる。みんなそう信じていたから!」


「自分の父はどうにか接触できないかと思い悩んでいたそうだ。まさか、来てもらうために悪さをするわけにもいかない。そんなことをしたら、そのまま罰せられてしまうとね」


 最後の生徒が言った言葉に教室中から笑い声が響く。

 不思議な光景だった。ミシェルを相手に委縮していた生徒達が、彼女の存在を忘れたように騒ぎ出し、普段は富裕層、平民層の隔てがあって目も合わせもしないのに、今は笑顔を浮かべて談笑すらしている。

 彼らは思いを共通のものとしているのだ。

 それを見守るミシェルの表情は何処か軟らかい。


 二十三年前に停戦した国境防衛戦争。

 今この場にいる年代の生徒達どころか、今年度学園に在籍する全生徒達にとって、それは生まれる前に起こった出来事だ。

 学んだ内容を想像することでしか、戦争というものがどんなものなのか把握出来ない。


 王国の歴史から見れば少し前のことになるが、二十年にも満たない生涯しか送っていない生徒達からすれば、それはずっと前のことになってしまう。

 日頃の学園生活で少し前まで戦争があったことなど、意識することは僅かにもないことだろう。

 そもそも激しい戦争ではなかったから、多くの大人だって、遠い異国で起こっていることを聞くように、うっすらとしか戦争を体験していない。


 だからこそ、と言うべきだろうか。この場にいる生徒達だけじゃない。多かれ少なかれ、多くの子どもは語り継がれる、戦争が生んだというその存在に夢を見てしまう。

 なまじ助けられた人が多くいるからこそ、憧憬を抱いてしまうのだろう。

 正義の体現者。悪のある所に在る者。弱者を救う存在。

 それはこれ以上ないくらい格好いいことなのだ。


「……教師という立場として、貴様らの答えを正解と言うわけにはいかない。けれども、王国の治安部隊が正式に活動を始めるまでの間、争いの場には決まってとある人物達の姿が確認されている、という王国側が否定する噂があることは確かではある」


 そんなあやふやな回答を用意するミシェルだが、彼女が否定しないでそんな風に答えたことが、彼女自身がどう思っているのか示しているのだろう。

 彼女らしくもなく、騒ぐ生徒達を諌めないまま時計を確認すると短く言った。


「そろそろ良いだろう。課題を終えた者は提出した後に退出を認める」


 わっと生徒達が更に沸き立ち、次々に提出すると興奮が収まらぬまま、話を途切れさせないで教室から出ていく。

 コウはそこでやっと自分の手が止まっていたことに気づき、ミシェルの注意がこちらに向いていないことを確認の上で、素早く全ての空欄を埋めた。

 そして、何とか終わらせたという風に、緩慢な動作で教卓に立つ教師の下へ向かう。

 提出したらさっさと行こうと思っていたのだが、そこで声をかけられた。


「さっきの話、貴様は参加していなかったな?」


 熱にうなされた様に言葉を交わしていた生徒他達の輪に、加わらなかったことだろう。

 コウは恨みがましくミシェルを見ると、これくらいは許されるだろうと嫌味で返す。


「先生が授業中盤に絡んで来たから、俺が後半余裕なく課題をやるはめになってたんじゃないですか」


 そういうと担任教師でもある彼女はきょとんとした顔をして、それからにやりと笑った。


「そういえばそうだったか。ははっ、まぁ、その点に関しては少しだけ悪いと思っているよ」


「少しって時点であんまり反省してないことが見え見えなんですが」


「それより」


 強引に話を断ち切られてしまった。

 もうコウの中では生徒を暇つぶしに使っていた説が、確固たるものへとなっている。

 そんなコウの心情など素知らぬもので、ミシェルは悪戯を仕掛ける子どものように言う。


「話に参加してはいなくとも、聞いてはいただろう? 件の正義の味方。数々の目撃情報は上がっているが、正式に存在は認められていない。それは何故か、くらいは知っているな?」


「それは……はい、知ってます」


 話を誤魔化されていることは承知の上で、コウは静かに頷く。

 多くの人々がその存在を知っていながら、正式には分からない。

 それはどういうことか。


「活動範囲が王国領土のほぼ全域である上に、毎日十件は起こっていたと言われる当時の事件の九割には姿を見せていたから、ですよね?」


 「正式に存在を認められない」というのをもっと具体的に言えば、その正体を断定できないということだ。

 背格好ぐらいは分かったが、顔はもちろんのこと、性別も歳も確定できず、また、それらしい恰好をして名声を奪って活動する偽物も一時期は登場したので、しっかりとした情報が掴めていないのだ。

 広範囲故、複数人で行われていたというのが通説だが、結局それも仮説の域を脱せず、単独による行いだったという物理的に不可能な説や、一人の人物が分身したという馬鹿げた説(そんな魔術は存在しない)、仕舞いには人の手によるものではなかったという話もあった。

 つまり、その正体は謎に包まれたままなのである。


「そうだ。そこで、聞こう。クラーシスは件の人物が実在していたと思うか?」


「……これも、授業ですか?」


「いいや、これは教師としてではなく、私自身からの単なる質問だよ。ただの会話、と言ってもいい」


 コウはミシェルの視線を受け止めながら、少しの間考える。

 授業でなければ答える必要はないが、逆に答えない理由も見つからない。

 授業後も付き合わされることを若干鬱陶しく思いながら、ありのままの考えを言葉にする。


「いたんじゃないですか? 結局の所、目撃件数が多いことは事実ですし。一番存在を否定しているのが、治安回復の功績を我が物にしたい王国代理側であることはみんな知っている」


「そうだな。私もそう思う」


 さらっとミシェルが同意したので、コウは目を細める。


「良いんですか? 教師がそんなことを言って。王国の意向を考えると教師がここで頷くのは不味いのでは?」


「そんなの貴様が他言しなければ良い話だ」


「……随分と高く買っていただているようで」


 この誰もが恐れる担任教師から、気に入られるような出来事があったか首を捻る。

 あったとすれば校外授業くらいだが謎である。

 そんなコウに対して、彼女は意味ありげに含み笑いをするだけだ。


「それで、存在するとした上で聞くが、貴様、正体は何だと思う?」


「世のお偉い学者や評論家があれこれ言い合って結論が出ないのに、俺みたいな成績最下位の生徒が分かるわけがないじゃないですか」


「別に、究極的な正答を求めているわけじゃない。象徴的な答えで構わないさ。漠然とした想像。貴様が描く像を知りたいだけだ」


「そんなの聞いてどうするんですか。研究しているわけでもないでしょうに」


「物のついでだよ。生徒(子ども)の視点から見えるものを知ることも、時には重要なこともある」


「未成年視点の主張、ですか」


 コウは一度言葉を受け止め、それから黙って自分が座っていた席に戻る。

 筆記用具などをしまいながら考える素振りをみせることで、この質問で最後にして欲しいという意思表示だ。

 片づけている間、ミシェルは何も言わなかった。言葉を継ぎ足さずに黙って待っているだけである。


「……先生、正義とは何なんでしょうか?」


「正しいことだ」


 荷物をまとめたコウが聞くと、即答が返ってきた。

 様子を横目に見てみる。意気込みのない彼女から察するに、心からそう思っているというよりは、一般的に知られている定義を示しただけのようだった。

 コウは続けて投げかける。


「では、正しいって何ですか?」


「……定められた規則に準じた行動、だろう」


 二つ目の質問は少し言いよどんでから返って来た。

 正しいというのは様々な意味がある。「正義」という単語を通して考えると、答えたものが適していると思ったのだろう。

 それでも、ミシェルはやはり自分の考えというよりは、一般的な答えを返したという風である。

 そんな彼女を見て、コウは静かに笑った。

 感情を乗せずに答える。


「じゃあ、分かりません」


 これで問答は終了だと、教室の出入り口を目指し、ミシェルに背を向けて歩き出す。

 その背に再び問いが来る。


「どういうことだ?」


 戸惑いはなく、ただ疑問に思ってのことだろう。

 医者が患者の言うことに理解を深めようとするように。冷静なまま問いかけられた。

 教室から出る瞬間、顔を傾ける様に僅かに振り向く。


「未成年視点の主張ですよ。大人は何でも枠にはめたがりますが、子どもにはそんなの分からないんですよ」


 そう言葉を残して、コウは教室を後にしたのだった。



 お読みいただきありがとございました。


 2012/11/13 23:35

 一部文章と誤字脱字を訂正致しました。

 2012/11/23 00:55

 一部文章と誤字脱字を訂正致しました。

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