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第二十九話

 コウはギュラローブスと睨み合ったまま、その異変に気付いた。

 リーネ達を送り出した後も、彼女達の現在位置は『感知』によって、可能な限りまでそうしようと、しっかり追っていたので、彼女達の動向は把握していた。


 そして、制限された索敵範囲ギリギリの所で、三人が足を止めていたことに対してまでは、大よその推測はつけていた。

 慌てて逃げ出すことになったので、支援魔術なり少し話すなりして、体勢を整えているのだろうと。しかし、三人は支援魔術を施すなどのやり取りをする様子もなく、この状況の休憩にしては、随分と長くその場を動かないでいたのだ。


 唸り声と共に振り下ろされる、ギュラローブスの針だらけのような太い腕を躱し、時に手を出して注意を引きながら、コウは一体どうしたのかと訝しんでいた。

 そんな状態がしばらく続き、一度『念話』を展開しようか考えた所で、ようやく動き出したかと思えば、何故かコウがいる方へ戻って来ているようなのだ。


「なぁ、お前、どう思う?」


「ヴァァアアアアァ!」


 コウが話しかけるとギュラローブスは、呑気に話しかけられたことが腹立たしいとばかりに、咆哮をぶつけながら飛び掛かってきた。

 暴走した馬車のように巨体が勢いよく突っ込んでくるが、コウは左右や後方へ避けたりはしない。迎えるように走っていき、迫りくる大きな体躯の下へ、潜り込むように身を小さく屈めた。

 そして、地面を滑るようにして移動しながら、ギュラローブスの腹へ手を伸ばす。針金のように硬い体毛が手や腕を抉る感触を覚えるが、構わず手を握り締めて数本の体毛をまとめて掴んだ。


「ヴァッ!」


 大樹へと頭から飛び込んでいくギュラローブスが短い悲鳴を上げた。

 すでに辺りはコウが相手する凶暴性を有する魔物の手によって蹂躙され、周りは疎らに木を残して開けてしまっていた。


「ヴゥゥウウッ!」


 残り少くなっていた木を更に減らすことになったギュラローブスは、腹を摩りながら、ダメージを感じさせない様子で立ち上がった。

 そんな相手に対して、コウは軽い調子で声をかける。


「しかし、あれだな。ずいぶんと涼しそうになったじゃないか。ダンムル山脈の上の方は、雪が吹雪くような凍てつく場所。それに引き替えこの森林は少し蒸すからな。その体毛は寒さ対策も兼ねているんだろうけど、ここじゃ、ちょっと暑かっただろう?」


 言いながらコウは手に握っていたギュラローブスの褐色の毛を放る。

 毛は引き抜くと何か別のものであるかのように、硬さを少し失わせながら、ふわりと漂うように落ちていく。

 緑葉によってほぼ同一に染まる辺りには、褐色の線がまばらに降り注いでいた。その様子をギュラローブスは忌々しそうに見ている。


「ヴァァ……! ヴァアアア!」


 個人で戦うのは絶望的と言われる凶暴性を有する魔物は、多大な警戒心と、そして少しの怯えを露わにしていた。

 その姿は全身体毛で覆われていたはずだが、まるで動物が何かの病気にかかってしまったかのように、所々が禿げ上がっていた。

 剣で斬りつけには十分ではないが、矢などは刺さりそうな、その程度の大きさで禿げている。


 コウの与り知らぬところで、ロンよりリーネ達へ話された通り、コウは下級攻撃魔術までしか扱えない。

 対して、高い防御力となる体毛を全身隈なく生やすギュラローブスは、下級攻撃魔術程度の威力では、その体毛によって阻んでしまう。

 そして、当然のように斬撃も効かない。ならば、打撃を試せばいいとなるが、筋肉を含めて身体がかなり軟らかいので、衝撃が上手く伝わらず、ほとんど意味がなかった。


 コウはどうするか思案し、まず目を潰すことを考えた。しかし、本当かどうかは定かではないが、噂でギュラローブスは目を潰しても正確に対象を識別するし、しかも凶暴性が増加すると聞いたの思いだしたので、試す気にはなれなかった。

 そんな相手をどうすれば良いかと更に考え、そして出た答えが、毛が邪魔なら抜いてしまえばいいという発想だった。


 生物である以上、毛は生え変わるものなので、身体の構造的には確かに抜けるようにはなっていた。

 故に、簡単ではないものの、ギュラローブスの今の姿を見れば分かる通り、その考えは間違いではない。


(まぁ、これ以上は無理そうだけどな)


 コウは自身の両腕を見る。元々は普通に肌色だった自分の腕は、真っ赤に染め上っていた。

 その赤色が何によるものなのかは、対峙するギュラローブスは毛が抜けているものの、傷など負っていないことからも分かるし、何よりも腕中に存在する、抉ったような傷から止め処なく溢れる体液を見れば一目瞭然だった。


 ギュラローブスの体毛を抜くという発想は、確かに間違ってはいなかったかも知れない。

 堅牢な防備である体毛が抜かれた箇所は、なんとか刃が通じるようになったのだから。しかし、素手で実行するというのは、針がひしめく細穴に手を突っ込むようなこと。明らかにそれは間違ったやり方だった。

 ――――もっとも、そのための準備をする時間など当然なかったのだから、傷つくこと覚悟で毛を無理やり抜き取る以外、コウには選択がなかったのではあるが。


 コウは肩から指先に至るまで力を抜き、腕をだらりと垂らす。

 腕は酷いの一言に尽き、腕の輪郭は不出来な線画を見ているようだ。指先を少し動かそうと僅かに筋肉を動かすだけで、連鎖的に腕中から血が溢れだすような状態だった。

 これが人の腕だと言うのを躊躇してしまいそうな有り様である。


 ギュラローブスの体毛を抜き続ければ、こうなることは容易に想像出来たことだった。

 それでもコウがやり続けたのは、リーネ達が逃げる時間を稼ぐ為が故だ。


 言語を操るようなことはないが、それなりの知性を持つこの魔物は、コウに打つ手がないと知ると無視しようとしたのだ。

 当初、リーネ達が追える距離から完全に脱するまでの時間を稼いだら、コウも力による非合理な語り合いなどやめ、そそくさと退散すつもりでいた。

 だから、コウは面倒だと叫びたくなるのを抑えなくてはならなかったくらいである。

 そして、気を引き続けるには、傷を負うことなど二の次にした、このやり方を選ばざるを得なかったというわけだ。


「ヴァォ! ヴァォオ!」


 その甲斐あってと言うべきか、ギュラローブスはまるで親の仇であるかのようにコウを睨み、鼻息荒く興奮した様子で吠えている。

 術者のいない魔術で操られているので、強制力がやはり弱いようだ。この様子ならリーネ達ことなど忘れてすらいるだろう。


(まぁ、そんな俺の努力も全て水の泡か……)


 コウは腕に関してとは違う意味で、身体から力が抜けていくのを感じる。

 苦肉の策を採用してまで逃げる時間を作ったのに、その対象達が何故か戻って来ているのだから仕方がない。

 もしかしたら、何か不慮な出来事があった可能性もあるかと考えながら、コウはせっかく走って稼いだ距離の三分の一は、ふいにした彼女達に話を聞くことにした。


『何でお前ら戻って来てるんだ?』


 コウはギュラローブスを視線で牽制しながら、まずはロンだけに『念話』を飛ばした。

 三人へ同時に話しかけることも可能だったが、見えない複数の相手といきなり会話をするのは、少し面倒があったので、とりあえずいろいろと任せたはずの彼を選んだのである。

 急に話しかけられるとは思っていなかったのだろう。少し間を置いてから彼より『念話』が返って来た。


『コウ、無事なのか!? 怪我とかないか!?』


 頭に直接声が響くのだから叫ぶなよ、と思いながら、コウは自身の両腕の凄惨な姿を一度ちらりと見て、それから真面目くさった声音で答える。


『問題ない。それより、どうして戻って来てる。何かあったのか?』


 「問題ない」というのは、コウの主観であって、普通ならどう考えても問題だらけである。

 微妙なところで嘘ではないが、詐欺まがいな言葉選びだった。


『いや、それは、その……』


 どうにも歯切れの悪いロンの様子に、コウは嫌な予感を覚えるが、急かしても仕方がないので黙って答えを待つ。

 待つ間、そういえばあの魔物使いである老魔術師が、展開した大規模な術式陣。あれはギュラローブスを召喚したことで注がれた魔力を大分消費したようだが、それでもまだ形成を保っているようだ、ということをコウは頭の隅に置いておく。どんなものでも情報というのは大切なのである。


 『念話』という名称の魔術だが、頭の中での呟きや思考が、筒抜けになるということはない。しっかりと相手を意識しなければ伝わることはないのだ。

 そして、だからこそ、ロンが話すことを整理するまで待つ必要がある。コウとしては距離を保っているとは言え、ギュラローブスと緊迫したままなのだから、早くして欲しいところである。


「ヴァ!」


 そんなことを考えているのが伝わったわけではないだろうが、ギュラローブスが短く吠えて身体を大きく逸らした。威嚇なのだろう。

 コウはそれを察して、何も反応しない。

 ギュラローブスは少しの間、逸らした体勢を保ったが、コウの余裕のある態度を見て思い止まったようだ。身体を元に戻して膠着状態を延長させた。


『お前を、助けに、来たんだ』


 ギュラローブスと静かなやり取りをし終えた頃合いに、ロンが小さな声で言ってきた。

 頭の中に直接声が届く『念話』だからこそ、辛うじて聞こえた、そんな弱々しい声量だった。


『助けに来た?』


『……ああ』


 ロンの様子は、叱られながらも懸命に、自分の意見を主張しているかのようだった。

 コウは言われたことに小さな驚きを覚えていた。戻ってきた時点で、その可能性があるとは思っていたが、実際に言われてみるとやはり驚きを覚えてしまうことである。


 彼はよく、コウを学園の外へ連れ出す。

 新しいカラクリ道具が作られたと噂で聞けば、その真偽を確かめるだけのために、飛び出していくこともあった。

 それは学園側が行くことを許していない治安の悪い街であってでもあり、コウが行動を――――半強制的ではあったが――――共にしたのは、普通に友人の付き合いとしてと、用心棒替わりを兼ねていた。


 そんな中、道中や街中を平穏無事でいられたわけがなく、幾度となくゴロツキや魔物を相手にすることもあった。

 リーネ達がずっと戦ってきた相手と比べると、ほとんどの相手は質が完全に劣るが、大小全てを含めれば、襲われた回数に限れば、もしかしたらコウ達の方が多いかも知れなかった。


 その点を踏まえて、今回が初の実戦経験と言うように、今までロンは参加すると言う意味で、一度も戦闘を経験したことがなかった。コウがその全てを一人で片づけていたからである。

 コウは一人でやらされたことになるわけだが、しかし、それに関して不満はなかった。出来る者がやればいいし、出来ない者は無理することはない、という話であると思っているからだ。


 彼はそういった意味では優秀だった。無理をしないのだ。

 下がっていろと言えば下がるし、隠れていろと言えば隠れる。戦闘に参加しようとしないのは、怠けるということではない。邪魔をしないということになるのだ。

 彼が変に格好をつけようとコウの言うことに逆らわず、無理をしないからこそ、全てがスムーズに片付いていたと言っても良い。


 そのロンがどうだ。助けに来たと言ったのだ。

 コウが例え身構えていても、やはり驚いてしまうのは仕方がないと言えるのではないだろうか。

 コウは驚きを抑えながら嘆息し、それから苦笑交じりに『念話』を飛ばす。


『まぁ、なんとなくこうなる気はしてたよ』


『……怒らないんだな。それに、来るなとも言わない』


『言ったら来ないか?』


『いや、それはないけど……』


『だろう? お前ら行かせたのは、この場から一時離脱させて、落ち着かせようとした面もあるしな、っと』


 ギュラローブスがにじり寄って来ようとするので、コウは大きく一歩踏み出して近づくふりをする。

 コウに対して警戒心を持つギュラローブスは、その動作に強い反応を示し、近づいて来た距離の分だけ飛びずさって距離を空けた。


『コウ、どうかした?』


『なんでもない。それより、全くお前らは……』


 コウは器用に溜め息を聞かせながら、ここで『念話』をリーネにも届くようにする。

 どうせならアヤにもと思ったが、彼女は魔術を扱わないということなので、一方的に話しかけるのも何なので一先ず置いておく。


『焚き付けたのはおまえだろ、リーネ』


 ロンの様子を見てリーネは構えていたのだろう、さして時間をかけず『念話』を返してきた。


『焚き付けたというわけではないのですが……私は思ったことをお伝えして、コウの下へ行くことを許してもらおうとしただけです』


『それは、焚き付けると言えるのではないだろうか』


 反応に困る限りだったが、そもそもコウが戻ってくる可能性があると思っていたのは、リーネの存在が大きかった。

 彼女だからこそ、普通はしないこの状況で、戻ってこようとする気がしたのだ。

 本来は追い返すべきであるはずなのに、こうして話を聞いてしまっている時点で、コウは説得しても無駄だと思ってしまっているのかも知れない。


『迷惑になってしまうことは分かっているつもりです。でも、それでも私はあなたの下へ……』


 リーネは小さな呟きのようにもらすが、『念話』によってそれは頭へ直接、はっきりと届けられた。


(あなたの下へ、か)


 コウは黙考してから、ギュラローブスがすぐそこにいるのにも関わらず、一度大きく溜息をつく。

 その様子にギュラローブスが怪訝そうに唸るが、構わないで二人に言った。


『……戻れだなんだとやり取りするのも、時間の無駄にしかならないからな。ここまで来たら手伝ってもらうか』


『いいんですか!?』


『いいのか!?』


 了承したことがそんなに驚くことなのかと、コウは苦笑しながら言葉を返す。


『むしろ、逆にこっちが聞きたいくらいだっての。お前たち、分かってるんだろうな。相手にするのはドリークやなんかとは比べものにならない大物だぞ?』


『もちろん、分かっています!』


『覚悟の上だぜ!』


 そんな風に二人が明るく言葉を返してくるので、コウはかえって不安になった。しかし、ここでやっぱり止めて、無理やり来られる方が危険な気がしたので、その点に関しては黙っておく。

 それから、二人に話始めるのだ。


『その代わり、指示通りに動いてくれ。とりあえずその場で立ち止まって話を聞いてくれな? あと、アヤにも後で伝えておいてくれ。まず――――』


 コウは時間を稼ぐ中、ギュラローブスを観察していたことで、分かったことを話しながら、いくつか質問しつつ、細々とした指示を出す。

 一人では傷を負うしかなかったが、複数で戦うのであれば、やりようなどいくらでもあるのだ。


 二人は話を聞き終えるとそれぞれ感想を言いながら、すぐに準備に入ると言って『念話』を終了させた。

 話し終えたコウはギュラローブスを見据える。


「さてと、またしばらく時間稼ぎに付き合ってもらうが……」


 そういえば怪我するとリーネが気にしそうだから、極力避けようと思っていたことを、コウは今更になって思い出した。しかし、どちらにしろ避けられないことだったので、何か言われるだろうことを思いながら、ぶらりと腕を下げたままコウは言う。


「ここからは逃げる為ではなく、お前を倒すため、攻めのための時間稼ぎだ。――――今のうちに覚悟を決めてもらおうか」


「ヴァァアアア!」


 その場から動かずに咆哮を上げるギュラローブスに、コウはゆっくりと近づいていく。

 いつまで続ければいいのか分からなかったさっきまでとは違い、今からは時間配分などがある程度出来る。

 そう考えれば気楽なものだと思いながら、コウは無理やり腕を動かすのだった。






 いろいろと指示を出してからしばらくして、ロンの威勢のいい声が届けられる。


『準備完了! こちらはいつでも大丈夫!』


『位置に誤差はないか?』


『言われた通りの場所だよ。あとはコウが行動を起こすだけ』


『ん、了解。じゃあ、十分くらい経ったら始めてくれ』


 そういって『念話』を終了させるのと同時に、コウは術式陣が発生する通常詠唱で、初級地属性攻撃魔術『石獣(せきじゅう)(きば)』を詠唱破棄による無詠唱によって展開する。


「ヴァッ!?」


 コウが相手するギュラローブスは以前人間と戦った経験があるのか、コウの前に術式陣が出た瞬間、敏感に反応を示した。

 身体を丸め、毛が覆われていない部分――――目や口といった部分を腕で隠してその場から後ろへと跳んだのだ。

 ついさっきまでギュラローブスが立っていた地面が膨張し、無数のひし形の石が弾け飛ぶが、すでに退いたギュラローブスには当たらない。

 コウはその後を追うように何度も何度も、それこそ執拗なくらいに『石獣の牙』を放ち、地面を爆ぜ飛ばしていく。


 やがて、ギュラローブスはコウが放つ魔術の威力が、自分を傷つけられる程ではないと気づいたのか、避けるのを止めた。

 そして、コウに向かって挑発するように吠えてきた。その最中もしっかりと禿げた部分を隠しているのだから、抜け目ない魔物である。


「ヴァッァアアァア!」


 コウは無言で何度も『石獣の牙』をギュラローブスの周りに集中して展開する。

 地面が何度も破裂し、そこにある土たち石へと錬成され、鋭利な形を成して爆ぜ飛ぶが、やはりと言うべきだろうか、ギュラローブスの体毛を貫くには至らない。

 それでもコウは同じ魔術を展開し続ける。何度も何度も何度も。それしかないのだとばかりに展開し続ける。


 第三者が見ていれば、間違いなく無駄だと思うだろう。

 それをコウは数分間続け、最後にギュラローブスのすぐ下、足元に一際多く魔力を消費して大きな術式陣を展開した。


「ヴァッ!」


 流石に足の裏は遠慮したいのか、地面が膨張した瞬間にギュラローブスはまた後ろに跳んだ。コウは宙を移動する魔物へ『石獣の牙』を殺到させるが、それも無駄で全てが弾かれた。

 無事に着地したギュラローブスは、コウに誇示するように両腕を上げて見せてきた。

 お前がやることは俺には通じない。お前に勝ち目はない。言語を操ることは出来ない魔物が、そう言っているように見えなくもない様子だった。

 コウはそれをちゃんと見ていたが、それで頭に血が上るような性格ではない。むしろ、油断している方が好都合だと思うくらいである。


 続けてコウは魔術を放った。選んだのは初級風属性攻撃魔術『風鳥(かぜどり)刃翼(じんよく)』。それをコウはまた幾重も放つ。

 『風鳥の刃翼』は不可視の鳥が翼を広げて、飛んでいくかのような攻撃魔術であるが、初級魔術程度の威力しかない。

 本能的にそれを悟ったようだ。ギュラローブスはさきほど凌いだことで、自信を持ったこともあるのか、迷うことなく自慢の防御力を持って受け止めんとばかりに身構えた。


 いくら体毛を抜き、所々禿げ上がっているとはいえ、まだまだ毛の生えた場所は多い。それこそ、その個所を隠そうと思えば隠せてしまうくらいである。

 よって、コウの放った魔術は何の意味もなかったことになる。


「それじゃあな」


 だが、コウの狙いはギュラローブスではなかった。

 コウは軽い調子で手を上げ、足に力を籠めると背を向けて走り出す。

 そして、その瞬間、放った『風鳥の刃翼』が、一度は宙に上がったものの、外れて落ちるだけだった『石獣の牙』という無数の石たちを粉々に砕いていく。


「ヴァ!」


 コウが背を向けたことにギュラローブスが驚く中、砕かれた石たちは形を崩して砂埃となる。木々が蹂躙され、見晴らしがよくなってしまった辺りに、茶色の靄が薄く広がっていく。

 完全に姿を隠すほどではなかったが、ちょっとした煙幕代わりだった。


「ヴァッ、ヴァッア、ヴァアッ!」


 それはギュラローブスにとって予想外な行動だったのだろう。

 そもそもこの凶暴な魔物は、物事を深く考える程の知性を持ち合わせていない。あくまで「そこそこ」程度だ。

 怯ませるには煙幕もどきで十分だった。

 もっとも、その「そこそこ」が凶暴性を助長させているからこそ、面倒ではあるのだが。


「ヴァァアアア!」


 コウの行動に驚き、呆然としていたギュラローブスだったが、すぐに薄まった砂埃の先で、コウの背が遠ざかっていくのに気付いた。

 それからは怯みから一転、憤怒の咆哮を上げると、その場を大きく飛び跳ねて追いかけてくる。


「はっはっは! ほれほれ、こっちだ!」


 コウは声を投げかける。

 不完全な煙幕を用意したことからも分かる通り、逃げて撒こうというわけではない。ギュラローブスを移動させること、それが目的だった。

 俊敏性もあることで知られるギュラローブスだが、コウだって負けてはない。むしろ、小回りも利くし、単純な速さでも上をいっていた。

 付かず離れずを保ちながら、コウは追いかけっこを始める。


「ヴァッア! ヴァァアアッ! ヴァッ!」


 木々を薙ぎ払い、巨体の口の奥から大気を震わせる咆哮を放ちながら、コウの何倍もの巨体が迫ろうとする。

 それは追いかけっこと表現出来るような生易しいものではないが、コウからすればその程度の認識でしかない。

 時に一度立ち止まってわざと攻撃させて、それを躱すことで挑発し、時に傷を負わせることが出来ないことが分かっていながら、攻撃魔術をぶつけて気を引き続けた。

 捕まれば最期。コウはそんな追いかけっこを数十分もやり続ける。


 どれだけ走っただろうか。

 コウの腕から滴った血を目印にするように、ギュラローブスはずっと追いかけてくる。


 コウは少しだけ身体に異常が現れ始めたのを感じていた。

 時折、視界が歪むような感覚があり、身体が倦怠感を訴え始めているのだ。

 それも当然なことで、腕の傷を処置することもなく、身体から血潮が体外へ止め処なく流れるままにしているのだ。

 しかも、安静にするどころか走っている。止まるどころか、余計に流れ出るに決まっていた。


(せめて止血ぐらいはしたいが……)


 そうは思っていても、止血するための布といった道具がない。

 清潔ではないことは覚悟の上で、シャツを破いて使えばいいかも知れないが、それも流石に走りながら出来るとは思えない。


「ヴァッアアッァア!」


 そして、それを背後から迫る巨体の魔物が許すとも思えなかった。

 常人であれば行動不能か、最悪すでに死んでいてもおかしくない状態で、コウは走り続ける。

 自分を助けたいと言った、友人達からの知らせをただ待って。


『コウ、出来ました! 終わりましたよ!』


 十二度目の気を引くためにする攻撃をした時だった。その鈴の音のような声が頭に響いたのは。

 コウはすぐに『念話』を展開する。


『おお、リーネか。分かった、今から行く』


『……コウ?』


 普段通りの調子を意識して、返事をしたつもりだった。しかし、リーネからは訝しむような声が帰って来た。


『あの、ロンさんから無事だと聞いていたのですが、……本当に怪我とかしていないのですか?』


 お前はどうしてそんなに鋭い、とコウは『念話』で声が飛ばないように注意しながら、心の中でそっと呟いた。

 リーネには「あはは」と乾いた笑いを返す。どうせ少ししたら合流することになるのだから、ここで嘘をついても意味がないように思えた。


『じゃあ、今からそっちに行くからな』


『どうして答えてくれないのですか? まさか――』


『……ちょっとだけな』


 束の間、リーネから念話が途絶えた。そのことから、向こうで彼女がどのような顔をしているのか、想像出来るような気がした。


『――――ッ! はやく、はやく来てください!』


『元よりそのつもりさ。すぐ着くから一度念話終了するぞ?』


『……待ってます』


 言いたいことをぐっと堪えたのだろう。絞り出した結果の言葉であるようだった。

 『念話』を終了させ、コウは肩越しに振り返り、ギュラローブスを見る。コウが体毛を抜いたことで、いくらか不格好になっていたが、その獰猛な雰囲気は保たれていた。


 リーネを襲うために召喚されたはずだが、今ではすっかりそのことを忘れたようで、頭の中はコウを殺すことでいっぱいなのだろう。

 血走った目はコウを捉えることをやめようとしない。


「お前と付き合うのもそろそろ終わりになりそうだよ」


「ヴァァッヴァ!」


 コウがぽつりと言ったことを聞き取ったのか、ギュラローブスが口をいっぱいに開いて叫ぶ。反応こそしたが、会話が成り立っているようには思えなかった。

 コウは仮に言葉が通じても、もはや話すこともないかと思いながら進路を変えて行く。


 コウが逃げる先に方向性を持ち出したことに、ギュラローブスは気づかない。さっきまでと同じように、木と木の間を抜け、藪を蹴散らし、時に魔術を放ったりする。

 そうしてコウは、その目的の場所に辿り着いた。


 視界が広く開ける。

 樹木が生い茂る森林内で、それは本来あり得ないことだが、この場所は例外だ。

 何故なら、ここにも元々は木々(、、、、、、、、、)があったが(、、、、、)巨体の魔物によって(、、、、、、、、、)蹂躙されてしまった(、、、、、、、、、)のだから(、、、、)


 そう、コウが目指した場所とは、リーネ達を逃がすために、ギュラローブスを足止めしていた所だったのだ。

 つまり、コウは追いかけっこを始めた場所に戻ってきたのである。


「ヴァァアアア!」


 ギュラローブスはそのことに気づいた様子もなく、足を止めずに腕を振り下ろしながら追いかけてきた。

 コウは向き直りながらそれを躱し、後ろへと下がっていく。


「ヴァッ! ヴァ! ヴァァ!」


 足止めした時と同じ状況に戻ったわけだが、ギュラローブスは関係ないとばかりに、変わらず腕を振るってくる。

 コウは時折左右に動きながらも、後ろへ飛びすさるようにして移動する。

 そして、その場所に着いたのを確認すると、ぴたりと立ち止まった。


 それを契機だと思ったのだろう。ギュラローブスは上半身を大きく後ろへ逸らしながら膝を曲げ、ためを作ると足元の土を吹き飛ばしながら飛び掛かってきた。

 自慢の体毛を引き抜かれた恨みか、或いはずっと手を煩わせられた怒りか。コウしか目に入らず、ずっと追いかけてきたギュラローブス。


 だからだろう。立ち止まったコウの背にある地面の色が、不自然に周りとは違うことに気づかないのは。


 コウは触れるか触れないかという、接触寸前まで引きつけてから、素早く横へ跳んで巨体を躱した。

 轟音。直後にギュラローブスの方から、何か硬いものが砕けるような破砕音が、連続して辺りに重く響き渡る。


「ヴァッアオアオオオアオオオオオ!?」


 現れてから何度目になるか分からない叫びだが、この日初めての痛みを訴えるものを、ギュラローブスが上げていた。

 ギュラローブスは大きな穴の中で、長い細木などを巻き込みながらもがいている。先ほど響いた破砕音は、あの細木などのものだろう。

 穴の中では破砕音とは別に、絶え間なく小さな破裂音が起こっていた。おそらく、それはロンが何か仕掛けたものだろう。


 威力の低い魔術程度なら物ともしないギュラローブスだが、穴の中で苦しみもがいていた。

 それは穴の中で起きている破裂音が、それほどの威力を持っているということではない。むしろ、あれはただ音がしているだけである。

 では、何故ギュラローブスが痛みを叫ぶのか。

 それはギュラローブスが持つ特有の身体構造が理由にあった。


 まず、ギュラローブスの防御力の源である、針金のような体毛だが、コウが強引に引き抜くと、剛毛だが普通の毛といえる範疇に収まる軟らかさになった。

 コウはそれを不思議に思って観察した。

 そして、気づいたのだ。ギュラローブスはどうやら毛が常に硬いわけではないらしいことを。

 凶暴性を有するこの魔物は、意識してか無意識なのかは分からないが、必要な部分だけを硬くしているようなのだ。


 そのことに気づいてみれば、それはある意味当然であることが分かる。

 ギュラローブスは全身隈なく体毛を生やしている。唯一の例外は目や口と言った外へ晒す必要がある部分と、毛以上に固いだろう剥き出しの角の部分だけだ。

 もしも、全部の毛が常に硬いのなら、腕や腹、腿と腿、足と足、関節などといった部分が擦れ、毛が自分を傷つけてしまうことになってしまうのだ。


 そして、だからこそ、ギュラローブスは痛みを訴えていた。

 わけもわからず穴の中に突っ込んでしまったことで、上下左右を失い、その中で身体が衝撃を覚え、咄嗟にギュラローブスは全身の毛を硬くした。それがあの魔物の防御反応だからだ。


 そんな混乱状態でロンの仕掛けた何かの破裂音に、驚き続けるギュラローブスはもがきつづける。そして、自分の硬い毛で自分を傷つけているのだ。

 ギュラローブスからすれば、音と共に痛みを覚えるのだから、何かされていると思い込んでいるに違いない。


「ヴァァアアアオ! ヴァオオオオォオ!」


 ギュラローブスの叫びを聞きながら、コウは一つ息を吐く。少し賭けの要素もあったので成功して何より、といった心境だった。


 ギュラローブスが収まるようなこの大きな穴。実はこれ、コウが作ったものである。

 追いかけっこを始める直前、あの時、傷を負わせることが出来ないことを知った上で、『石獣の牙』を放ち続けたのはこのためだったのだ。


 『石獣の牙』は土を鋭利な石へと形成して弾き飛ばす魔術だ。石となった土が飛び散れば、そこには同然穴が生まれる。

 コウが何度も無駄なはずの『石獣の牙』を放ち続けたのは、攻撃していたのではなく、煙幕を作るためでもなかった。

 それら全ては本来の目的の副産物。付近の土を何度も飛ばすことで、大きな穴を作っていたのだったのだ。

 そしてこの場から移動した後。コウから指示を受けていたリーネ達が、手筈通りに落とし穴を作った、というわけである。


「コウ殿!」


 アヤの呼びかけに振り返る。コウの背後側にあった、近くの薙ぎ倒された木陰からリーネ達が姿を見せ始めていた。

 独自の索敵能力を有するはずのギュラローブスが、こんな近くに隠れていた彼女達に気づかなかったのだ。どれだけコウに執着していたかが窺える。


「おー、三人とも久しぶり」


「いや、時間的にはそれほど経って、ない、じゃ……」


 軽口にロンも軽く返してきたが、コウの両腕を見て言葉が途中で消える。リーネとアヤは腕を凝視したままぴくりとも動かない。


(ああ、そういえば秘密にしてたもんな)


 コウは他人事のようにそう思いながら、既に状態を知っているものの、自分の腕を改めて見ることにした。

 腕はもはや人のものではないかのようだった。滅多刺しにしたように穴が開いてしまっていることは、もはや確認するようなことではない。色が人を連想させないものになっていたのだ。


 流れ出ている血液は決して鮮やかな赤ではなく、黒いとすら言えてしまいそうなもので、乾いた部分は更に暗かった。

 九割以上はその色で染まっているのだが、僅かに残る、暗い赤色で汚れていない部分は、肌色であるということはなく、むしろ九割を染める色よりも人間らしさを遠ざける。

 青いのだ。肌の色から赤の成分のみを抜き出したかのように、紫にも似る青色だった。

 素人目に見ても重傷と分かる有り様である。


「う……ぐっ……、お前、……コウ、おま、え」


 ロンが口元を抑えながら目を背けた。直視するに堪えられない姿に見えるようだ。

 そんな彼よりはまだ傷というものに見慣れているのだろう。アヤがまず聞いて来るが、しかし、その声は震えていた。


「どうして、そんな、……痛くは、ないのですか?」


「ん? ああ、もちろん痛みはあるぞ。アヤは変なことを聞くなぁ」


「……でも、それにしては」


 あまりにも平然としている。

 アヤが言葉を途切れさせたのは、果たしてどういう意味があったのか。

 それは彼女がコウの様を見て、何か不気味なものを見ているかのように、顔を強張らせていることから、分かるのかも知れなかった。


 コウは二人の反応を知って、誤魔化すように静かな笑みを作った。嬉しくないことに、そんな態度を取られることには慣れていたのだ。

 浮かべている笑みを見て、二人が気まずげに目を逸らすが、コウにはそれを気にかけている暇はない。

 今は優先すべきことを優先する。感情面での考え事は後回しだった。


「コウ……治しますから、腕を診せて下さい」


 コウの負傷を前にしても、リーネだけは普段とあまり変わらずに声をかけてくる。しかし、その傷を自分の所為だと思っているのだろう。二人とは違った意味で重い空気をまとっていた。

 コウはしかし、リーネを目で止め、改めて三人に向き直る。


「怪我の治療をする前に、役割を話す。手短に言うぞ」


 役割、という言葉に、三人が怪訝そうな顔をした。

 一体、何に対してだとばかりだが、コウは構わず言葉を続けていく。


「まず話す前に確認。ロン、あの破裂音はどれくらいもつ?」


「え? えっと……仕掛けたかんしゃく玉の数を考えると、あと五分もないんじゃないかな」


「そうか……なら、要約気味に話すぞ。あれ(、、)が出てきたら、アヤが前に出て意識を集中させ、ロンは遊撃として適度に注意を引いてくれ。んで、リーネはこの話を終えた後、すぐ二人に支援魔術を施しし直して、身体能力を強化してやってくれ。その後、俺と一緒にこの場より一時離脱。そうしてから俺の腕を速やかに治療。分かったか?」


 そう言うと三人が驚いたような顔をした。まるで、予想外なことを言われたかのように。この後の戦いなどないと思っていたかのように。

 コウは三人の驚き顔を見て、逆に驚いた。


「お前ら、あの程度の罠で倒せると本当に思っているのか? 確かに自分で自分を嬲って傷だらけになっているはずだが、言ってしまえばそれだけだぞ。倒すには至っていない。あの罠はただの時間稼ぎに過ぎないっての」


「そ、そんな……それじゃあ、打つ手がないじゃないですか!」


 目の前の戦いに集中することにしたのだろう。一端重い空気を強引に払しょくさせ、この手の事に関しては迅速な対応を取れるアヤが、コウの言ったことに対していち早く反応した。

 コウはそんな彼女に向き直りながら答える。


「打つ手がないわけじゃない。そのために三人には来てもらったんだ」


「それは、どういう……」


「その手段を実行するには、少し時間がかかる上に、腕を使える状態にしないといけないんだよ。だから、少しでも早く行動に移りたい」


 早口に伝えるとアヤは黙り、絶えず痛みを叫ぶギュラローブスがいるはずの穴を見やった。

 どうやら既に頭は対ギュラローブスへと切り替わったらしく、沈黙はそのまま思考を意味しているのだろう。

 コウはその様子を確認して、アヤは大丈夫だろうと判断し、続けてロンを見た。


「ロン、出来ないか?」


 思わずそう聞いてしまうくらいに、ロンの顔は青ざめていた。

 実戦経験の少ない彼が平然としていれられたのは、コウという絶大な戦力があることで、安全しきっていたが故だ。

 そのコウに怪我を負わせた魔物と、時間稼ぎとは言え戦わなければならないというのは、彼にとって酷な事だろう。


「コウ、俺は……」


 ロンが仕掛けたかんしゃく玉が尽きるまで、もう時間は残されていない。弱腰になっている彼に、コウが投げかけてやれる言葉は少ないだろう。


「ロン、無理なら無理でいい」


「えっ……?」


「アヤ一人にやらせるわけにはいかないから、お前が無理ならアヤにもやめさせる」


「そうしたら、誰があれの相手をするって言うんだ!」


 ロンは決心がつかないままなのに、食い下がろうとする。

 分かってはいるのだろう。ここで彼が首を縦に振らなければ、反撃の手段が失われるだろうことを。

 彼がそれを理解しているだろうからこそ、コウは口の端を上げて見せる。


「俺がやる」


「……だって、お前、その腕じゃ」


「やりようなんて、いくらでもあるさ」


 コウは本気で言ったつもりだったが、それがどうやらロンには強がりを言っているようにしか見えない。悲しげに眼を背けられた。

 そして、彼の視線は自然とアヤに向いていた。


「アヤ、ちゃん……」


 ロンの口から声が漏れる。アヤは何も言わずに彼を横目に見つめていた。

 怯えを隠せない彼を詰るわけではなく、決断出来ないことを責めるでもなく、ただ事の成り行きを見守っているようであった。

 そんな彼女の視線から彼は何を受け取ったのか分からないが、彼女の視線を受けた後、彼は俯いたかと思えば、次には弾かれたように顔を上げると笑って見せた。


「コウ、ここは俺達に任せて、早く腕を治してもらってきなよ!」


 はっきりとそういったロンの笑みからは、どう見ても無理していることがありありと窺えた。しかし、それを指摘するのは無粋というものだろう。

 コウは彼の笑みに力強く頷き返し、リーネに目で促す。


「二人とも、こっちへ」


 そう言いながらリーネが杖を構えたその時だった。


「ヴァルァアアガアアアァアア!


 破裂音が鳴り止んでいない。それにも関わらず、ギュラローブスが血を撒き散らしながら、穴より這い出てきたのだ。

 言語を操るに至らなくとも、学習能力がある。こういうのは本当に面倒だとコウは舌打ちをする。


「俺が時間を稼ぐ。リーネ、二人に支援魔術を」


 言いながらコウは初級攻撃魔術『風鳥の刃翼』と『石獣の牙』を複数同時展開し、ギュラローブスとその周りに放っていく。

 砂塵を巻き上げ、空気を切り裂く猛攻撃は、見た目かなり派手だが、やはり傷を負わせるには至らない。

 体毛が禿げた分に当たれば、一応傷にはなっているようではある。しかし、ごく小さな面積のそれを傷と数えるのは、あまりにも頼りなかった。


 魔術というのは集中力が物を言うものである。

 その集中力は敵が近くにいたりすれば、継続出来るものではないことは明白で、それ故に信頼出来る味方に身を守ってもらわなければ、術者は魔術を展開することもままならない。

 ギュラローブスという現段階で有効打を与えられない強敵を前に、果たしてどれだけの魔術師が平静を保ち、集中出来るのかという話である。

 だが、リーネは見事に支援魔術を施して見せた。


 ロンとアヤに施したのは体力増強と身体強化という、支援魔術の基本的なものであったが、短時間でそれらをやるリーネの技量も然ることながら、この状況下でそれらを成功させる集中力、ひいては足止めをするコウに対しての信頼感が凄まじいと言える。


「コウ、終わりました!」


「了解、じゃあ、二人とも頼んだ。無理なようだったら、こっちに引っ張って来い。いいな?」


 コウは魔術による攻撃を継続しながら振り返り、ロンとアヤに声をかけてから、リーネと共にギュラローブスとは逆方向へ移動を始める。


「お任せを!」


「とっとと怪我治して戻って来い!」


 刀を抜き、クロスボウを構える二人の返事を背に、コウは走り出す。その後ろをリーネが追従して来る。


「ヴァヴァアォオオオオオオオ!」


 突き抜けるような咆哮。そもそも召喚された理由であるリーネと、散々邪魔をしたコウに対して、それが向けられているような気がするのは、気のせいではないだろう。

 コウとリーネは振り返るなどの反応を示さず、背中を無防備に晒したまま走り続ける。

 そんな二人をギュラローブスは力任せに止めようと、血が流れ出るのにも構わず、身体をしならせ駆け出そうとした。


「はぁああっ!」


 それを遮るようにアヤの気合の声が聞こえる。

 特有の柔軟性を活かして、高い俊敏性と破壊力を発揮するギュラローブスである。全身に怪我を負った今では、かなり運動量も制限されているはずだ。

 コウ達の方を強引に追ってくる可能性もあったが、頭に血が上っているギュラローブスは、目の前を動き回るアヤと、ボルトを撃ってくるロンの存在が目障りで無視出来なかったらしく、その場に留まり咆哮を上げている。


 肩越しに背後を振り返り、その様子を確認して、やはり二人に任せても問題ないはずだ、とコウは判断した。

 なら、後は自分がいかに早く戻るかという話だろうと、薙ぎ倒された木を飛び越え、削られた大地を避けながら進む。そして、見晴らしの良くなったこの一帯から抜け出した。

 木々の中をしばらく進み、ロン達の奮闘が見えるか見ないかの位置で止まる。

 コウは近くの大樹の幹に背を預けると、ずるりともたれる様にして座り込んだ。その横へ素早くリーネが近づいて来て、最初は触らないまま、コウの投げ出された腕の状態を確認し始めた。


「酷い……」


 やはりその一言になるらしい。

 コウは苦笑を浮かべ、誤魔化すようにリーネの頭を撫でようとする。しかし、そんなことをしたら、自分の血で彼女を汚すことに気づき、腕を浮かしかけた所でやめた。


「動かさないで下さい! ……少し、触りますね」


 コウの小さな無茶を叱りながら、リーネはゆっくりと手を動かす。壊れ物を触るかのような慎重な手つきで、傷のない僅かな部分に触れて腕を持ち上げていく。

 その際に腕が痛みを訴え始めるが、コウはそれを無視して表情にはおくびにも出さない。


「凄い、熱い……。ごめんなさい、失礼します」


 そう言ってリーネはコウの額に手を伸ばし、前髪をすくい上げるようにして当ててくる。

 冷たい感触が心地よいと思うコウとは対照的に、その表情は深刻そうに歪んだ。


「身体全体が熱を持っているじゃないですか。動いていられるのが不思議なくらい……」


「リーネ、そういうのはいいから、腕を治してくれないか?」


「そういうのって、こういうことが大事なんですよ! ……そう言いたいところですが、今が緊急時であることくらい、私も分かってます」


 それを行動で示すように、リーネは額に当てていた手を下し、コウの腕を治すために杖を構える。

 コウは彼女が始める前に一度止める。


「とりあえず片手だけ使えればいいから、どちらかを集中して治してくれ」


「……分かりました」


 言われるまで同時に治そうとしていたらしく、リーネは杖を持ち直すと片手でコウの右腕を持ち、そして口ずさむように静かに唱えた。


「――見えざる力は救いの手 優しさは形となり この者に慈悲を与え 傷を癒し 悲しみ打消し この者の生が輝くための礎となれ」


 コウが初めて見る治癒魔術を感嘆と共に見守っていると、リーネの持つ杖から攻撃魔術などとは違う、優しく輝く線が生み出されていくのを目撃した。

 線が円を描き、円の中に線が走っていき、術式陣となっていく様は、他の魔術と同じはずだ。

 それなのに、全く違うものだと思えるのは、コウの主観的な問題なのだろうか。


「――治癒の光」


 かざす杖の先に展開される術式陣が一層輝きを増したかと思えば、コウの腕に添えられたリーネの手が同じ光をまとい始めた。


「少し違和感を覚えるかも知れませんが、害はないので動かさないで下さいね。……綺麗に治せるといいのですが」


 最後の部分だけは小さく、リーネは真剣な表情で傷口を見つめたままそう言った。

 コウは違和感と言われてもすぐには何のことか分からなかったが、光が当たる部分が不思議な心地よさを覚えることに気づき、ようやくこのことかと納得した。


 遠くからギュラローブスの咆哮が聞こえること以外は、治療は静かに進められていく。

 あの凶暴性を有する魔物が来たことで、付近の魔物の全てが逃げ出しているが故の静けさだった。

 そんな中、傷が塞がっていく様を二人でじっと見ているのも何だったので、コウは周りを窺って適当に時間を潰していた。そして、むず痒いような感覚を覚え始めたので、腕に目を落とす。

 思わず口からこぼれたのは、感嘆の声だった。


「おぉ、時間かかっていない割に、ずいぶんと綺麗に治ってるな」


 傷の全てではなかったが、全体の九割と言っても過言ではない割合で、腕は元の状態に戻りつつあった。

 コウはこれなら思っていたよりも早く、ロン達の下へ戻れそうだと考えながら、礼を言おうとリーネを見る。

 そこには何かを驚くように、目を丸くして唖然とする顔があった。


「リーネ?」


 何か問題があったのかと思い慎重に声をかけると、リーネは弾かれたように顔を上げ、表情を変えないままコウを見つめた。


「どうしたんだ?」


 再び声をかける。

 そうしてからようやくリーネは反応を示し、口ごもってから、とつとつと話し始めた。


「ちょっとびっくりしてしまって……こんな酷い怪我、早く治るとは思っていなかったんです。でも、コウの腕に光を当てた途端、見る見る治ってしまって。良いことなのですが、それが信じられないことだったから驚いてしまって」


 その口ぶりから、本来ならもっと時間がかかるものなのだろうと、コウは推測する。

 疑問のためか、自分でも意識してなさそうな動作で、リーネは傷が塞がった部分を恐る恐る撫で始める。その行動に深い意味はなさそうなので、コウは我慢せずに正直な感想を口にした。


「くすぐったい」


「あ、ご、ごめんなさい。……本当に不思議です」


 謝りながらもリーネは残りの治っていない部分に、光を当てながら凝視している。治癒魔術を扱う者として、よほど気になることなのだろう。

 本人に自覚はないようだが、作業効率が僅かに下がっているように見受けられた。

 コウはそこまで気になるものかと思いながら、仕方ないので思いついた仮説の一つを教えてやることにする。


「俺の身体はマナとの相性が良いから、多分その影響じゃないか?」


「マナとの? 魔力ではなく? そんな人がいるなんて聞いたこと……あっ!」


 コウが言わんとすることを理解したのだろう。リーネが言葉の途中で止めた。

 そんな彼女に頷き返しながら、コウは言葉を加える。


「まぁ、俺が隠していることが関係しているかもってことだな」


「そう、ですか……なるほど、です」


 リーネは頷くと押し黙り、黙々と治療を続ける。それ以上は聞いて来ようとしない。

 気になってはいるのだろう。しかし、そうしないのは、恐らく空で交わした会話が理由に違いなかった。

 彼女はコウが心を預けるその時まで、秘密について言及しないと言った。だから、今回も深く聞こうとはしないようだ。

 それが良いことなのか悪いことなのか。どう判断すればいいのか、コウは少しの間だけ黙考してしまう。


「コウ?」


 急に黙ったコウを不思議に思ったのか、怪我の治療に専念していたリーネが声をかけてくる。そして見てみれば、右腕の傷は、ほとんど完治していると言っても差支えのない状態になっていた。

 コウはこんな綺麗に治せるものなのかと、驚きの声を小さく漏らしながら、これならもう剣を握ることも出来るだろうと思い立ち上がる。

 そんなコウの肩にリーネが慌てた様子で手を乗せた。


「まだ終わってません! 右腕は済みましたが、まだ左腕の処置をしてないんですから!」


「いや、さっきも言ったと思うが、一先ず片腕だけ治してもらえればいいって。時間はあまりかけたくないからな」


「それでも、止血くらいはさせて下さい!」


 リーネは強引にコウを座らせる。

 コウとリーネの力の差を考えれば、いくら上から抑え込まれる形であっても抵抗は容易である。しかし、ここは言うことを聞いた方が良さそうだったので、コウは黙って従うのだった。


 彼女は何処からか包帯などの簡易な医療道具を取り出すと、コウの左腕に処置を施していく。

 一体何処からそんなものを取り出したのか、と疑問に思うコウをよそに、作業は手早く行われた。五分も経たない内に、コウは半袖の黒いシャツに、左腕には包帯を巻きつけ、右腕は剥き出しという少々不格好な姿となった。


「……それじゃ、改めて行って来る。怪我の治療、ありがとうな」


 ギュラローブスとの戦いに終止符を打つため、コウは今度こそ戦いの場へ戻ろうとする。

 だが、右の手首を握られる感触を覚え、歩みは再び止められた。


「リーネ?」


「……あっ」


 まだ何かあったのかと振り返れば、何故か掴んだ当人であるはずのリーネの方が、驚いたような顔をしてコウを見上げていた。

 どうしたんだ、と首を傾げ見つめれば、彼女は言葉を探すように俯き、そして、ややあってから弱々しく言葉を吐き出した。


「……いってらっしゃい。気をつけて」


 なんとか絞り出したと言う風に出てきた言葉は、わざわざ引き留めて言うことだったのか、と思うものだった。しかし、何かを耐えるかのように、リーネの瞳に悲しみが湛えられていると知れば、本来言おうとしたことを、呑み込んだのかも知れないことが窺えた。


 コウは治療し終えて傷のなくなった右腕を持ち上げ、今度こそ彼女の頭を撫でようとする。

 だが、流れ出た血などはついたままで、汚れていることに変わりないことに気づいた。中途半端なところで持ち上げたまま動きを止める。

 結局、上げた手を有効活用する方法が思い浮かばず、下ろそうとするが、そこで予想外なことが起こった。彼女が自ら動き、頭にコウの手を乗せたのだ。

 その行動にコウは驚く。彼女の絹のような感触を与えてくる美しい髪が、自分の血で汚れることを危惧し、腕を引こうとする。しかし、思っていたよりも血は固まっていて付着せず、何より彼女自ら触れさせたのだから、その必要もないかと思い直した。


 コウが手を乗せていることで、彼女の柔らかな髪は軽く押し潰れている。

 それにより前髪などが垂れ下がるので、やや俯き気味であることも加味されて、その表情がどうなっているかは分からない。

 けれども、やるべきことは明白だった。コウは緩やかに手を動かし、労るように頭を撫でる。


「もう、ここまで来たら、すぐ終わるからさ」


「……はい」


「だから、安心して待っててくれよ」


「……はい」


 短いやり取りだった。あまり時間を使うわけにはいかないので、コウは名残惜しい気持ちを抑えて手を離す。

 そして、振り向くと、何も告げずに駆け出した。

 これ以上、言葉はいらない気がしたのだ。リーネも何も言ってきたりはしない。


 コウは僅かな距離を走る。

 木々が薙ぎ倒され、見晴らしの良くなってしまった一帯に足を踏み入れる。目測で距離を測り、都合のいい位置で足を止めた。

 息を、大きく吸う。


「ロン、アヤ! 待たせたな! こっちに逃げて来い!」


 叫び、二人を呼び寄せる。

 戦いの最中である二人は返事をせずに、行動で了解の意を示す。ギュラローブスと一定の距離を作ると、コウの下へと走り出した。


「ヴァァアアアァアア!」


 遠く離れた位置にいるのにも関わらず、あの凶暴性を有する魔物の咆哮は、コウの所まで届いてくる。

 コウは腰に佩いている剣に手をかけ、一気に引き抜き、くすんだ銀色の剣身を露わにした。

 その瞬間、自分の中でこびり付くものが溢れる。コウはそれを無理やり押さえつけながら、ギュラローブスを見据えた。


 コウが剣を抜いた瞬間、遠くのギュラローブスが怯み、一度足を止めたのは気のせいではないだろう。しかし、コウから滲み出たものはすぐに消えたので、気を取り直したギュラローブスは駆け始める。

 俊敏なギュラローブスだが、怪我を負っていることに加え、ここら一帯は木々が薙ぎ倒され、大地は穴だらけになっている。身体が大きい分、逃げるロン達以上に動き辛そうだ。

 だからこそ、ロン達は逃げることが出来ていると言えるのであり、コウ達にとって好都合なことであった。


 コウは目を閉じ、意識を右手に持つ剣だけに向ける。

 何の変哲もない安物の剣だ。その剣に意識を向け、集中させ、そして、力を籠める(、、、、、)

 しばらくすると剣を握る手のひらが、熱を帯び始めたような気がして来た。熱は柄に浸透し、浸透した熱は、剣全体へと伝達されていく。

 赤々と熱せられた鉄の棒を持っているような感覚。鉄が振動しながら放つ、通り抜けるかん高い音のようなものが、鼓膜を震わせ始める。

 無機質な冷たい鉄の剣は、まるで生物であるかのように熱を保ち、産声を上げようとしていた。


 瞼を上げる。何かが視覚を刺激した。コウは右手から生える様に握られた剣を見る。

 眩しいほどに黄金の輝きを発する剣がそこにはあった。

 生まれ変わった己の誇示するように。その存在の真価を世界へ訴えるかのように。

 それはコウの手に握られていた。


「コウ、殿、それは……?」


 いち早く辿り着いたアヤが、唖然とコウの手に握られたそれを見つめる。

 コウはそれに応えず、笑みだけを返して駆け出した。

 ロンの横を通り過ぎる。彼が何か言うよりも早く、コウは前へと進んで行く。


「ヴァアアァアアアアァアアアアアア!」


 ギュラローブスは何か恐れのようなものを誤魔化すかのように、一際大きく咆哮を放ってきた。だが、それで怯むコウではない。

 駆けるコウの進路上に薙ぎ倒された木が横たわっている。コウはその木に、元は安物の剣だったそれを、振り下ろす。


 音はなかった。


 木は抵抗らしい抵抗を見せずに、それこそ、最初からそうであったかのように、二つに分けられ、コウの通る道となるために切り開かれる。

 切り開いて進み、ただ真っ直ぐに進む。ギュラローブスとの距離は時間をかけることなく縮まっていく。


「ヴァァアアア!」


 そして遂に、ギュラローブスが身体を捻り、腕をしならせてコウへと振り下ろしてきた。


 この時、ギュラローブスは、コウがこれを受け止めることが出来ないことを知っていた。だからこそ、この初撃は囮。本命の次の一撃をすでに放つ準備を始めていた。

 受け止めればそれで終了。躱せば、次の本命を当てて終了。

 ギュラローブスは勝ちを確信していた。


「ヴァ?」


 ――――しかし、結末は想像したどれにも当てはまらない。

 ギュラローブスは肘の先からなくなった(、、、、、、、、、、)()を見つめて、予想外の展開に行動を止めてしまう。


 対して、コウの動作は続く。

 下段から振り上げ、ギュラローブスの肘から先を斬り飛ばした体勢から、身体を回すように捻り、上段の構えへと移行した瞬間には振り下ろし、ギュラローブスの両足を膝の辺りからまとめて斬る。

 本来あるべき衝撃は一切ない。コウはまるで目の前の巨体など存在しないかの如く、素振りでもするかのような手軽さで、個人で戦うのは絶望的とされる魔物を解体していく。


 両足がなくなり、後ろへと大きな胴体を倒すギュラローブスだが、コウの連撃は終わらない。

 振り下ろした状態のまま、両断され、ゆっくりと倒れる二本の足の間を抜けると、胴へ向け、下から上へ抉るように突きを放つ。

 そうすることで、物体と物体がぶつかった衝突が生まれ、倒れようとしていたギュラローブスの身体が少し浮くはずだ。しかし、突かれ、黄金に輝く剣身がその胴を貫いても、衝撃を受けた気配すら見せず、そのままギュラローブスの身体は後ろへ落ちていく。


 コウは素早く剣を引き戻す。

 突いた剣は刺した対象の筋肉の伸縮によって挟みこまれ、抜き辛いものであるはず。だが、やはり抵抗らしいものはなく、難なくコウは剣を引き抜いた。

 重々しい音と、粘着質な音をない交ぜにして、ギュラローブスの巨体が、ようやく地面に辿り着く。


「ヴ……ァ……」


 自慢の体毛ごと難なく切り落とされ、呆然自失といった様子のギュラローブス。――――いや、そこそこの知性がある程度の魔物が、そこまで思っているかは定かではない。

 断言出来るのは強敵であったこの魔物が、コウの手によって呆気なく倒され、息絶えようとしていることだろう。

 コウはギュラローブスの横まで移動し、その一つしかない目を覗き込む。


「……ヴ……ァ」


 なまじ魔物だからこそ、生命力が高いのが仇となっているようだ。息絶えるのは確実なのに、すぐには死ねずにいるようだった。

 コウは剣を握り直し、掲げるようにして持ちあげ、剣先をギュラローブスの首へと向ける。

 黄金の光を発する剣だが、その輝きは徐々に弱くなってきていた。


「ヴァ……」


 意識しての行動かは分からないが、ゆっくりと、ギュラローブスの瞼が下された。

 瞼を下し、口を閉じた状態は毛玉のようだと、どうでもいい感想を抱かせ、コウの心に小さな何かを落とした。


「じゃあな」


 短くそう告げて、コウはひと思い突き立てる。衝撃も、感触もなく、剣は容易に地面まで貫いた。

 突き立てた瞬間だった。黄金に輝く剣が一際甲高い音を奏でる。そして、瞬く間に輪郭が崩れ始めた。

 剣という形を構成していた何かたちが、別の物へと変換されていくかのようである。端々から光の粒へと変化し、分解されていき、空気へ溶け込んでいく。

 最後には柄も含めて、まるで幻であったかのように、コウの手からは何もなくなった。


 コウは剣を突き立てた格好のままをしばらく維持する。

 完全に剣が消えてから、ごろりと転がる本当に毛玉のようになったギュラローブスの頭部を一瞥し、コウは後ろへと倒れこんだ。


「…………はぁ」


 大きく、様々を吐き出すように、深く息を吐いた。

 辺りに木がなくなったので、頭上も随分と開けていた。倒れたまま見上げると、青い空が広がっている。太陽の位置を考えると、日暮れも近づいて来る時間だろうかとぼんやり考える。

 終わった。長い長い一日がようやく終わろうとしていた。


「おーい! コーウ! 何処だぁ!?」


 戦いの終わりを知ったらしい、自分を探すロンの声が耳に届いた。

 コウは寝ころんだまま、右腕を持ち上げて手を振り、場所を示すが、周りには薙ぎ倒された木などが障害物として無数に存在する。これでは見えないかと考え直して身体を起こした。

 そうしてから改めて手を振ると、ロンの声が近づいて来た。


「ここか! よかった、無事だった……って、ちょ、コウ、何でこんな所で休めんの!?」


「ん?」


 慌てふためくロンの視線を追うと、そこには絶命したギュラローブスの凄惨な姿が横たわっていた。

 言われてみれば、確かにこんなものの横だと、普通は安らぐものも安らげないかとコウは思った。


「いや、悪い悪い。終わったと思ったらな」


「別に謝ることじゃないけどさ……。とりあえず、完全に倒したみたいだね」


 ロンはそう言って確認すると、後ろへ向き大きく手を振った。

 どうやら安全かどうか確認する役を買って出て、少女二人を後方へ待機させていたらしい。それは前衛であるアヤにやらせるのが得策だと思えたが、男として譲れないところがあったのだろう。


「うん、二人ともこっちに来てるね……これを見せるのはどうかと思うから、俺達も行かない?」


「あぁ、そうだな」


 あまり見ていて気持ちの良い物ではないのは確かなので、コウは素直に頷くと立ち上がった。

 そしてロンに連れられるように歩き出し、時間もかからず合流を果たした。


「コウ!」


 コウの姿が目に入った途端、リーネが駆け寄ってきて、治療していない左腕を避けるように、胸へ飛び込んで来た。


「コウ! コウ……! 無事で、本当に無事で良かった」


「おー、リーネ。言っただろう? すぐ終わるって」


 冗談めかしてコウはリーネに言うが、彼女は顔をコウの胸に埋めたまま言い続ける。


「怪我、して欲しくなかった。私の、せいですよね、ごめんなさい。でも、良かった、本当に良かった」


 気持ちが溢れていっぱいになっているのか、言葉は届いていないようだった。泣いてこそいないようだが、気持ちの高ぶりを抑えられそうにないようだ。

 リーネの呟きは、恐らくずっと言いたかったことなのだろう。戦いの最中に言うことではないと思い、我慢していたに違いない。

 抱き着いたまま離れようとせず、懺悔のように言葉を吐き続けるリーネに、コウは苦笑を浮かべながら頭を撫でてやる。


「終わった、のですね」


 二人のそんな姿を見て、そのことを噛みしめたのか、アヤが溜息と共に呟いた。

 先ほど見た時には気づかなかったが、彼女の様子を見てると、かなり疲弊していることが見て取れた。


 それはそうだろう。コウはギュラローブスが弱っていることを確認した上で、任せても大丈夫だと判断した。しかし、彼女からすれば、いくら弱っていると言っても、恐るべき魔物相手に囮役を務めなければならなかったのだ。

 その疲れは想像以上のものだろう。

 ロンも囮役ではあったが、一番前に出ていたことを考えれば、今回の戦いの立役者は、実はアヤであると言えるかも知れない。


「コウ殿、あれ(、、)は剣技だったのですか?」


 疲れた様子のアヤだったが、それだけは気になるのか聞いて来た。

 あれ(、、)とは言うまでもなく、黄金の輝きを発した剣のことだろう。


 この世界で剣技というのは、剣術の延長にあるものだった。

 魔力を操作出来るのに、剣を持って戦う変わり者達の必殺技。剣に魔力を付属させ、魔術の代わりに剣技を扱う。

 剣技とはその剣術を教える流派の奥義とも言えるものだった。

 効果は様々で種類は意外と多いが、奥義と言うからには、あまり内容を広く知られることは好まれず、秘匿する流派が大多数だった。

 よって、みだりに聞いたりするものではないのだが、疲れが思考を鈍らせているのか、それとも単にアヤらしく感情を抑えられなかったのか、彼女は普通に聞いて来た。


「お前な……まぁ、いいけどな。あれ(、、)は剣技と言えば剣技だし、そうじゃないといえばそうじゃない。そんなところだ」


「……秘密、ということですか?」


「そういうこと。……剣技と言えば、お前も剣技扱えるんじゃないか?」


 コウは話をしている内に、その昔、戦った刀を使う剣士が、剣技を使っていたことを思い出した。その剣士がどうやらアヤと関係するらしいので、その結論へと達したのだ。

 魔力は操れるのに、魔術は扱えないと言う点も、それを裏づけていると言える。


「あ、はい、使えますよ」


 返答を渋るか、誤魔化すと思われたが、アヤは呆気なく答えた。

 それはコウには知られても問題ないと思っているからなのか、それとも考えなしの行動なのか判断出来ず、なんともいえない感情を抱かせる話である。


「ですが、私はまだまだ未熟なので、扱える種類も少なく、使える場面も限られます。それに威力もそこまで期待出来ないのですよ」


 曰く、出せても下級攻撃魔術程度らしく、対人や一定レベルの魔物には有用ではあるが、それこそ、ギュラローブスの硬い毛などを切り裂くには至らない程度だろうということだった。


「なるほどな。ま、それは今度見せてもらうか」


「う……、お、お手柔らかにお願いします」


 そんなやり取りをして、場が和んだ頃合いに、ロンが両手を叩いた。


「はいはい、こんなところで休んでいても仕方がないし、早く森林から出て実習を終わりにしよう」


「そうだな。おい、リーネ。そろそろ行こうぜ」


 やっと帰れる。全員そう思いながら、移動を始めようとした――――その時だった。


 ヴァアォオオアアアオアオオオオオオォ!


 森林から、コウ達のいる開けた場所から遠く離れた方から、その鳴き声は聞こえてきた。


「うそ、だろ……」


 ロンの呟きは全員の心情を代弁しているようだった。

 この野太く力強い咆哮は、つい先ほどようやく倒したギュラローブスと間違いなく同じものだった。

 先ほど倒したものが蘇生したということはない。いくら魔術という現象がこの世界にあっても、蘇生などという常識外のことは行えない。見えない場所だが、すぐ近くにその死骸は残っているはずだ。

 それならば、考えられるのは一つだけだった。


「そんな……二体目だなんて……」


 それがやって来ると知っただけで、疲労の色を濃くするアヤの表情は、もはや絶望に染まっていると言ってもよい。

 コウはすぐさま『感知』を展開する。周辺の全てへと感覚を引き伸ばし、情報をかき集め、そして、知る。


「あのじいさんが残した大規模な術式陣は、消えているみたいだな」


 どういう仕組みなのかは分からないが、どうやら召喚された魔物の一体目を倒されたら、二体目が召喚されるようになっていたらしい。一体目が召喚された際に、術式陣がまだ残っていることは分かっていたが、まさかこのための布石だったとは思いもよらなかった。


 コウは素早く対策を立てる為、現状で使えそうなものを探していく。

 また例の黄金に輝く剣を使えば簡単に出来そうだったが、あれは剣をまるまる一本消費してしまう。

 だからこそ、コウはいざという時まで、剣を消耗させないために使わないでいたのだし、普段から安物の剣を使っているのだが、今はどうでもよい話だった。


 代案として、アヤの刀を使うことを考える。しかし、コウはいろいろな武器をある程度扱えるが、刀は例外に当たった。

 その独特の形状を持つ剣が、かなり珍しいものであるからだ。直剣や普通の曲剣と同じように扱うわけにはいかないだろう。


 では、倒した盗賊達の武器を拝借することを考えるが、場所が離れすぎていた。

 コウが全力で行った所で、この場にギュラローブスが到着する方が早いだろう。リーネ達を逆方向に走らせて取りに行くのも無駄であるように思われた。


「コウ……」


 胸にすがりつくようにしていたリーネが、不安げに見上げてくる。

 その頭を撫でながら、コウは周辺の情報を探す。


(……やはり俺が突っ込んで、時間を稼ぐしかないか?)


 最初に戻るような行動だが、もはやそれしかないと考え、コウは行動に移そうとする。

 その時だった。


「ん?」


 思わず呟く。


「コウ、どう……しました?」


「いや……」


 コウはぼんやりと虚空を見つめながら、リーネの肩にそっと手を乗せ、優しく身体から離す。


「コウ?」


 そんなコウの様子を心配げに見つめてくるリーネを余所に、コウは口の端を上げる。

 何か思いついたのかと、三人の視線が集まる中、コウは順に見回して頷き返す。


「どうやら俺達は恵まれているらしい」


「はぁ? どういうことだ?」


「すぐにわかるさ」


 コウは三人に背を向けた。また無理をするのではと、リーネが止めようとしてくるが、コウは手の平を掲げて止め、そして、新たなギュラローブスが来る方へ駆け出した。


「コウ!」


「大丈夫だ!」


 短くそれだけ返すと、地を蹴り、木々を避け、そしてコウは待ち構える様に、倒されることのなかった数少ない木の枝に乗る。


「ヴァアアアアァア!」


 乱立する木々の隙間から、二体目となるギュラローブスが姿を現した。

 コウは存在を主張するように大きく手を振る。見えやすい様に、大きく手を振るう。


「ヴァァアアアォオオオオオ!」


 コウの存在に気づいたギュラローブスが咆哮を上げながら、真っ直ぐに近づいて来る。当然、傷を負っていないギュラローブスの動きは素早く、すぐにコウの下へとやって来た。

 コウはまずリーネを狙う可能性を考慮していたが、この二体目の思考は視界に入ったものをとにかく襲う方向らしい。


「ヴァァア!」


 自分より上にいることすら憎らしいとばかりに、ギュラローブスはコウのいる木をどうにしようと掴みかかってきた。

 そして、それを確認してコウは『念話』を飛ばす。木に登って大きく手を振ったのは、ギュラローブスに自分を知らせるだめだけではなく、この『念話』を飛ばす相手にも、自分のことを伝え、囮に使うように示唆するためだったのだ。


『今です』


 同時に、枝を蹴り、後ろへ大きく跳んだ。

 ゆっくりと、ギュラローブスの目がコウを追う。――――そのためだろうか、ギュラローブスが自分の上空に浮かんだ大きな術式陣に気づかないのは。


 突如出現した術式陣は形成と共に激しい光を放ち、その輝きによってギュラローブスがようやく頭上の術式陣に気づく。しかし、その時にはすでにそれは完成していた。

 術式陣から一条の光が迸ったと思った瞬間には、大樹など比較にもならないほど太く、目も開けていられないほどの眩しい光が降り注ぐ。


「ヴァァアァアアアァアアァァァルバルヴァアァウルルウウピビャリヴァヴァヴァア!?」


 それはもはや絶叫だった。途中からはギュラローブスのものとは思えない鳴き声となっていた。

 目を焼きそうなほどの光は束となり、光の束はさらに束ねられ、幾条もの光は轟く稲妻へと昇華し、そして滝のように垂れ流れるが如く、光の奔流はギュラローブスを包み込む。


 一体どれだけの魔力が込められているというのか。ギュラローブスを包む光はなかなか収まろうとせず、数分に渡って包み続けた。

 ようやく収まった頃には、辺りには焦げた嫌な匂いが立ち上り、光に包まれ続けたギュラローブスは口などから煙を上げながら崩れ落ちる。


「……派手、というか、なんというか」


 コウも人のことを言えるわけではないので、深くは言えないが、明らかに必要以上のダメージを与えているような気がした。


 ギュラローブスを包んだあの光。

 正体は雷属性中級攻撃魔術『轟く光の雨』というものを変則的に放ったもので、本来のものは中規模の範囲へ雷を落とすものである。

 これを放った術者は落雷の範囲を限定させ、ギュラローブス周辺を飽和するように魔術を展開したのだ。

 普通に展開すれば範囲は広いものの、威力はそこそこにしかならないこの魔術を、強引な工夫によって高威力に変えてしまった術者の腕前は、凄さを通り越して何処か呆れてしまうものだった。


 コウは術者に改めて『念話』を飛ばそうとして、その異変に気付いた。

 倒れ伏し、明らかに事切れているだろうギュラローブスの真上に、再び大きな術式陣が展開されようとしていたのだ。


『って、先生! 待った! やめて下さい! もう、倒せてます、倒せてますって!』


『む、そうか? だったら早く言わないか。こちらからでは確認が出来ないのだ』


 すぐに中断したのだろう、虚空に生まれかけていた術式陣が静かに消えていく。

 一度展開した魔術を途中で消すのは、展開する以上に技術を要する。それを難なくやってのけるのは、流石クライニアス学園の教師というところだろうか。

 コウは素晴らしい技量を目の当たりにしたわけだが、しかし、それよりも気になることがあった。


『先生。遠視でこちらの状況とか確認して、魔術を展開してるはずですよね? なのに、なんで確認出来ないんですか? ……もしかして、途中から俺の立ち位置とかちゃんと把握してなかったとか?』


『……まぁ、倒せたならそれでよしだな』


『先生?』


『それじゃ、今からそちらに向かうので、班員を集めてその場を動かず待機しているように』


『先生?』


 『念話』をいくら飛ばしてもそれ以上の返事はなかった。

 コウは返答を諦め、一度溜息をつく。それから急遽、助っ人として登場した担任教師、ミシェル・フィナーリルの到着を待つために、リーネ達の下へと戻るのだった。


 お読みいただきありがとうございました。


 2012/10/10 05:37

 一部文章と誤字脱字を訂正致しました。

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