第二十六話
フィフス森林内の九割方の地面には、無数に存在する緑樹より散らばった草葉や樹枝などが、土の面を覆い隠すように敷き積もっている。それらを踏み抜きながら、コウは駆け抜けていた。
激しく動くことによって、相応の音が足元から生じるが、既に隠密行動が必要ではなくなっている。
今、必要なのは、一秒でも早くリーネ達との合流を果たすことであった。
身体を僅かに前へ傾けるようにして走りながら、コウは辺りの気配を探る。
魔物使いの老魔術師が展開した大規模な魔術。
一人でやったとは、信じられないような魔力を注ぎ込んで行われたそれは、フィフス森林広域になんらかの力を散布した。
効果は一体何なのかは判断出来なかった。コウは魔物を操るという技術に関して、完全に門外漢なので、それは仕方がないとも言える。
普段から常に持っている警戒心を、より一層強くして移動することが、唯一出来ることだろう。
(とりあえず現状で分かるのは一つ……)
それは移動を始めてすぐに気づいたことだった。
コウは確認のために、無駄とは思いながらも、何度目かになる『感知』を展開した。
瞬間、術式陣が展開されることもなく、淡い光の円が、コウの周りに出現すると弾かれるように広がった。
展開までの過程や光が走る速さは、文句の付けどころがない。しかし、何度やっても結果は同じだった。
(七百……いや、六百まで落ちているか……?)
コウが挙げた数値は、自身が現在『感知』で探ることの出来る範囲である。本来は数キロまで広げることが出来るのだが、現在は数百メートルまで効果が落ちていた。
その原因と思われるのは、森林中に散布された魔物使いの魔術だ。
あれが撒き散らされたことで、森林中のほぼ全ての範囲に、魔力の残滓が漂っているようなのである。
『感知』は感覚を広げ、領域内の魔力を探る魔術だ。
それは生物が保有する生命エネルギーである魔力のことでもあるし、魔術を展開したことによって放出された魔力でもある。
その特性のため、広域に魔力の残滓が漂う現状では、正確に探れる範囲が限られていた。
(森林って時点で面倒なのに、こうなるとかなり厳しいな……)
生物が持つ生命エネルギーが魔力である以上、当然木の一本一本や、草花も魔力を保有している。それに虫などの小さな存在もいる。
それらの保有量は、動物に比べれば微々たるものなので、普段ならほとんど無意識に省くことが出来た。しかし、森林のように多種多様な生物が群生し、高低差様々に魔力を発する存在が多くいる場所になると、数が多くなるので、意識して、探る対象から省かなくてはいけない。
そんな中、ぶちまけた様に魔力が漂っているのだ。
肉眼で見ることに例えるなら、遮蔽物が多くて遠くまで見通せないのに、その上、砂が巻き上がっているような状態なのである。
余計な情報がごちゃごちゃしているので、正確な情報が限定されてしまうのだ。
だから、範囲が制限されるのは仕方がないと言えた。
(他に異常もないから、判断が難しい……)
分かっているのはそれだけだった。
老魔術師が命を賭して展開した大規模魔術が、『感知』を妨害するだけのものとは思えない。しかし、現状は「何か」の副産物だと思われるが、それ以上のことは分からなかった。
コウはそこまで考えて、ならば、分からないことを考えても仕方がないと思い直す。
それなら、ともかくリーネ達と合流することを優先しようと意識を定めることにした。
(と言っても、果たしてあいつらは同じ場所にいるかどうか……)
リーネ達が同じ場所に留まっているとは限らないだろう。
陣形だけ組ませて、ほとんど放置してきたことになるのだ。彼女達が魔物と遭遇して戦闘になった場合は、戦いの過程として、場所を移動している可能性は大いに考えられた。
そうなってくると別れた場所はしっかりと把握しているが、このまま真っ直ぐ向かっても合流出来ないかも知れなかった。
『感知』が上手く機能しない現状は、やはり厄介なものだと再認識する。
コウは足を止めないまま考え、不特定多数を感じ取り見つけだす『感知』ではなく、条件を定めて特定のものを探す『探知』を試すことを思いつき、思いつくのとほぼ同時に試してみる。しかし、いくつか条件を変えてみたが、やはり『感知』同様、普段と比べて索敵範囲が半分にも達することはなかった。
(感知を展開しながら、足を使って探すことは出来るが……如何せん時間がかかり過ぎるな)
ウィールス平原とダンムル山脈の間に広がるフィフス森林は、まるで険しい山脈へ至るまでの門番であるかのように、広く迷いやすい。
コウは迷うことはないが、広さばかりはどうしようもない。
森林と言う木々が乱立する環境と合わさって、探すという行為に於いて弊害ばかりである。
この森林で展開された大規模魔術の効力が何なのか分からない以上、やはり一刻も早くリーネ達と合流するのが先決だろう。
コウはそう結論付ける。そして、その手段を考え、コウの中に一つ方法が浮かび上がった。
(それが一番手っ取り早いか)
コウは足に力を籠め、勢いよく跳躍する。木々の幹と幹の間を跳ね返されるようにして、上へ、上へと高さを稼いでいった。
そして、近辺で一番空に近づく大樹を定めると、足場にした若木のように、しなやかさを持つ大木の枝を撓らせ、一気に跳ね跳ぶ。
その瞬間、まとわりつくように空気がコウを包み込んだ。
まるで、速く宙を舞うのは危険だと、空気に諌められているかのようだが、それらを振りほどくようにして、身体は一直線に進んで行く。
コウは目を閉じた。それは無論、地上を見下ろす視点の高さに恐怖を抱いたわけではなく、一時の風となった自身の身体が怯えたからでもない。意識を集中するためだった。
コウは目を閉じたまま大樹のほぼ頂点、重みで折れないギリギリの太さの枝に左足を乗せ、右足は幹にかけるようにして重心を安定させると、強い風が吹き付けているのにも関わらず、その場で静止した。
そして、ゆっくりと瞼を上げていく。
「…………」
コウは首を巡らせながら目を動かし、遠方を含めて見渡す。
魔術によって何かを探すことが厳しい状況で、その行動は意味のあるものだとは言えないはずだ。しかし、コウはすぐにぴたりと動きを止め、その一点をじっと凝視する。
眼下に広がるのは、その身に青々とした緑葉を着飾る木々のお披露目会だ。緑色の水で満ち満ちた湖のような光景である。
勿論、人の姿など、その緑の群れが簡単に覆い隠してしまうだろう。それなのにコウの口角は上がっていき、遂には笑みすら作った。
(見つけた)
同時に、その場を蹴ると宙に踊り出た。衝撃を受けて、足場となっていた大樹は、特有の乾いた音を立てながら僅かに先端を揺らす。
その様は風と一体化したコウの後ろ姿へ、手を振って見送るかのようであった。
飛び降りてからもコウは大地に足を着けず、木から木へ、枝の上を渡って移動し続けていた。
その理由は、最初こそ意味のあるものではなかった。ただ着地地点に手ごろな枝があり、その上に着地したので、特に何か考えることなく、そのまま木から木へと移動したというだけだった。
あるものを発見していなかったら、恐らく適当な場所で降りていただろう。
発見したあるものとは、一匹の魔物だった。枝の上を行くのは、他の魔物に見つからないためだった。
見つけたのは枯茶色の毛皮を四本の足の先まで生やし、鋭い牙を覗かせながら、尖るように顔から突き出た口を持つ、狼型の魔物だ。
魔物使いの老人が連れていた他の地域に生息する狼型ではなく、この場にいて違和感のない、フィフス森林に生息する種類だった。しかし、それなのにコウは違和感を覚えていた。
(興奮状態……?)
コウは首を傾げる。魔物は一匹でいるのにもかかわらず、牙を剥き出しにしており、何もない空間に向けて、威嚇するように低く唸り声をあげている。牙からは泡立った涎が滴り落ち、目は見開かれて血走っているようである。
常に四本の足を小刻みに動かし、その場に留まることを知らないかのようにふらふらしている。
そして何より違和感を覚えるのは、鼻が利くはずの狼型の魔物が、木の枝の上にいるとはいえ、近くにいるコウの臭いを感じ取る気配がないことだった。
コウはその異常な状態を認め、まるで丸薬を呑みこんだ魔物使いの老人のようだ、と考えた所ではっと思いつく。
(まさか、これってあのじいさんの仕業か?)
魔物使いの老人は森林全体へ、効果の分からない魔術を解き放った。魔物が異常な様子なのは、それに何らかの関係があると思考が結びつくのは自然と言えた。
コウは一匹だけのケースでは、判断が出来ないと考え『感知』を展開。索敵範囲は制限されているものの、ないよりはましである。
付近に他の魔物を見つけられず、コウは狼型の魔物を放ってリーネ達の方へ移動しながら辺りを探った。
そうして暫く移動してリーネ達の下へ大分近づいた辺りで、突然多くの気配が感じ取れた。
(一、二、三…………七匹?)
小規模ながら群れといえる数である。入り混じるように移動する七匹の進行速度は遅いが、確実にリーネ達がいる方へと向かっていた。
それを知ったコウは足に力を籠めて一気に加速する。加速と共に地に降りて追いすがる。
そして、魔物たちに追いついたコウは驚いた。群れと言える数でまとまって移動していた魔物たちは、統一された種類ではなかったのだ。
狼型、鳥型、蜥蜴型のドリークといった様々であり、それらは互いに互いを攻撃し合いながら駆けていた。だから、進行速度が遅かったようだ。
それは妨害ありの競争を見ているかのようである。――――いや、まさにその通りなのかも知れない。
魔物たちは一つの場所を目指しながら、競争相手を潰そうとしているのだ。どの魔物も先ほど発見した狼型と同様に、普通の状態ではないようであった。
展開された大規模魔術が広範囲かつ無差別に巻き降らされたことを考えると、やはり魔物の状態が異常なのは、あれが原因だと考えた方がよさそうである。
(どういうことだ、これ?)
リーネ達の下へ向かっているのは間違いなさそうなので、詠唱破棄による無詠唱で『風鳥の刃翼』を展開し、最後尾にいた魔物を刻みながら考える。
知性の高い魔物というのは、かなり珍しい種類であり、ここにいる魔物たちの知性はかなり低く、本能で動くようなやつばかりだ。
一度敵と遭遇すればその本能に従って、戦うにしろ逃げるにしろ、何かしらの決着を着けるまで、目の前の敵に集中してしまうようなやつばかりである。
それならば遭遇する直前までに行っていた行動、今回で言うなら「目指す場所へ移動する」という行動は、他の魔物と戦うために一時的に中断されるはずだ。
それなのに、魔物たちは敵と戦いながらも、目指す場所へと移動することをやめていなかった。
(いや、そもそも本能のままに動く生き物が、ほとんど同時に同じ場所へと向かおうとしているのもおかしい)
例えば、狼型の魔物が何かの臭いを感じ取り、周辺にいる全ての狼型が集まろうとしているなら変ではない。そこに「狼型が集まる理由」があるのなら、むしろ集まるのは自然と言える。
だが、現状は狼型と同時に他の種類のものが、一つの場所へと向かおうとしていた。
それは明らかに不自然なことである。狼型が集まる理由の「臭いを感じ取った」は、他の魔物には出来ないことなのだから。
(あのじいさん、面倒なことを……)
狼型も鳥形、そして蜥蜴型も同時に惹きつける「何か」というのが思いつかない以上、そこには魔物の本能以外の理由があると考えるべきだろう。
その点を踏まえ、今こうして多種の魔物たちが一つの場所を目指しながら、敵を攻撃しているのは、魔物使いの老人からの「指令」、自分達を動かす生来より具わった「本能」による行動、その二つが同時に行われているからではないだろうか。それがコウの結論である。
本来は魔物を統制し、命令するはずだった魔物使いの老人が死んだことによって、「リーネの下へ向かう」という指令が中途半端に残り、このような状態を巻き起こしているのかも知れなかった。
コウは結論が出た所で魔物の殲滅に集中する。七匹という数はコウにとって問題になる数ではなかった。
拍子抜けするほど戦闘らしい戦闘にはならなかった。
コウは争う魔物たちの後ろから迫る形で倒していった。魔物たちは自分の近くにいる、別の魔物に対してばかり注意が向いていたのだ。
後ろから来るコウが魔術を放ち、その身に致命的な傷を受けてから、ようやくコウの存在に気づく、という形で全て片が付いた。
小魚の群れを大魚が呑み込んでいくように、魔物たちを後ろから順に倒していった。それもこれも魔物使いの老人が残した指令というものがあったからだった。
魔物たちは「リーネの下へ向かう」という指令があったために、ほとんどの意識が前へ前へと向いていた。残った本能の部分は、近くにいた魔物にしか向けられなかったようだ。
それによって最期までコウに対して意識が向くことなく、倒されることになったというわけだ。
(魔物たちにとっちゃ、ずいぶんとややこしい状態だな)
知性の低い魔物がそこまで考えるかは分からないが、二つの意識が無理やり同居しているようなものである。
その異常な状態は戸惑い以上の感覚を与えるだろう。だからこそ、口から泡を漏らすといった形で、見た目からして異常だと分かるようになっているのかも知れない。
(何て考えている間に到着っと)
魔物を倒しながら一気に進んだので、気づけばリーネ達の下へと辿り着いていた。
『感知』を展開したまま移動していたので、ほとんど自動的に情報を掴み取る。どうやら一匹の魔物と戦闘中のようである。
(戦ってる魔物から発せられる魔力の波長はそこまで強くない。が、今は油断出来ないな)
普段から油断などするつもりもないコウだが、改めてそう自分に言い聞かせる。弱い魔物とは思っても、異常状態が予想外を呼ぶことがある。
コウはそう考えながら草むらを掻き分ける様に飛び越え、気を引き締めながらリーネ達の前へ躍り出た。
「あっ!」
鈴を鳴らしたような涼やかな声が上がる。その声には驚きと緊張が混ぜ合わさったような複雑さがあった。
声の主はコウに対して隠そうともせずに、無防備な信頼を寄せるリーネのものだ。
(緊張?)
驚きはともかく、何故緊張しているのかとリーネを見れば、その視線はコウを見た後に別の方へ移動している。
その視線を追った先にあったのは、刀を振り下ろし、ドリークの胴体を裂いている少女の姿だった。
切り付け、確実に命を絶ったと思える状態である。しかし、それでも気を緩めず、心身共に構える姿には、戦いに対するきちんとした気構えがあり、コウの目から見て素晴らしいと言えるものだった。
(アヤがどうかしたのか?)
と、考えた所で、事は唐突に起こった。
戦いの余韻を残したまま静止していたアヤが、ぴくりと僅かに動いたかと思えば、コウの方へ素早く振り向く。そして流れるような足運びで、鋭く踏み込んできたのだ。
殺意、或いは敵意というものは感じられない。しかし、迷いのない動きは美しいほどに、正確な軌道を描いてコウの首を狙って刀を移動させた。
コウは彼女が振り向いた辺りから、黙って事の成り行きを見守っている。自身に向けて刃が煌めいても身じろぎ一つしない。
アヤが踏み込む直前に彼女と視線が交差した。
彼女の顔に浮かんでいたのは無表情で、それはリーネが学園で見せる感情を押し殺したものとは違った。余計な思考が取り払われて、心が静かに澄んでいるかのような、何処か穏やかさすら感じるようなものであった。
だが、視線が絡んだ瞬間、それは砂の城が風に崩されるようにして移り変わる。
無表情から新たに浮かんだのは驚愕。どうしてそこにいるのだと言わんばかりに、その目は見開かれていた。
いきなり攻撃を仕掛けておいて、それはないだろう。ぼんやりとそう思うコウとは裏腹に、アヤは強い焦りを見せる。
そして、ついに白刃は迫るに迫り、コウの首が飛ぶ――――のを見ていたリーネとロンに連想させたくらい、ギリギリで止まった。
首に刀を添えた状態でアヤは静止しており、顔だけ濃霧に突っ込んだかのように、額から汗を噴き出ていた。少なくとも、それは身体が熱を持ったからではないだろう。
「っぁは! はぁっ! はっ!」
今の今まで息をするのを忘れていたかのように、アヤは浅く何度も息を吸っては吐く。
そして、薄着のまま冷たい氷の世界に放り出されたかのように、身体をぶるぶると震わせ始めた。さっき見せたドリークを切りつけた後も、油断なく身構えていた姿とはえらい違いである。
コウはそれには構わずに、せっかくなので刀の刃と峰の境界となる波打つ線、波紋の美しさと妖しさを兼ね備えた独特の形状を眺め見る。
そんな呑気なコウの様子に気づかないまま、声も震わせながらアヤが言う。
「こ、コウ殿、わ、私……」
まともに思考出来ないでいるのか、困惑は混乱を招き、今にも泣きだしそう、というより既に目尻には涙が溜まり始めている。
それを見て大方の予想をつけたコウは、見る者に安心感を与える柔らかな笑みを浮かべた。
「アヤ」
名前を呼びながら、そっと手を持ち上げる。
「私、コウ殿を、き、斬ろうと……」
「おい、アヤったら」
声が届いている様子はない。自分がしたことに驚いているのか、事実を確認するように何やら呟いている。
コウはそんなアヤの額に手を持っていくと、中指を手の内側に丸めて、親指に引っ掛けるようにして輪を作り、ぐっと力を溜める。
思考に囚われているのか、眼前にコウの手があるというのに、彼女がそれに気づく気配はない。
「こ、殺そうと? わ、わたし」
そして、コウは首に刀が添えられているのにもかかわらず、笑顔のまま、中指を抑えていた親指を離し、溜められていた力を一気に解放した。
デコピン。それがコウの放った技の名前である。
「わたぴゃ!?」
おそらく「私は――」と何か続くはずだった言葉は強制的に中断された。
アヤは木製の空箱を思いっきりぶっ叩いたような、乾いた音を響かせて頭を、いや、それだけに留まらず、上半身ごと後ろへと仰け反らせた。
「お、刀は手放さなかったか。その点は偉いぞ、アヤ」
このあんまりな感想にアヤは何も反応を示さず、蹲って刀を持っていない方の手で額を抑えている。黙ってしまうほど痛いらしい。
コウはとりあえず一息ついて辺りを窺うと、見える範囲に八匹ほどドリークを含む数種類の魔物の死骸を発見した。
何匹かロンのクロスボウから放たれたボルトが突き刺さっているが、全ての死骸には刀傷が認められた。ロンが弱らせ、アヤが止めを刺すという流れが何度かあったらしい。
それから三人の様子を見て怪我をした様子もないことに安堵する。
「いやいや、お前なにやってんのおおぉおおお!?」
ここでようやくロンは事態の流れに思考が追いついたらしく、我慢出来ないとばかりに声を荒げた。しかし、コウは取り合わずに、リーネの方に向き直ると鋭く呼ぶ。
「リーネ!」
「は、はい」
リーネはいきなりコウに攻撃をしかけたアヤの行動にもそうだが、それ以上にそのアヤへデコピンを放った行動とその威力に目を丸くしていた。
コウはそんな彼女の下へ、手を伸ばせば届く距離まで近づくと、黙って手を差し出した。
リーネは意味が分からないとばかりに瞼を瞬かせ、とりあえず何かしようと思ったのだろう、杖を抱えるようにして脇に挟む。そうしてから、両手を使って差し出されたコウの手を包んできた。
彼女が治癒魔術を扱えるせいか、その光景は握手と言うより触診のようである。
コウはこの状態に対して首を静かに横へ振ると、真っ直ぐに目を見つめながら言う。
「こうじゃなくて、俺は手を繋ぎたいんだ」
「そうなんですか? ……間違えちゃいました。ごめんなさい」
「ん、俺の手の差し出し方も悪かった。謝ることじゃない」
何分、慣れないものだからと互いにやり取りしながら、今度こそコウとリーネは横に並び立ち、手を繋ぎ合わせた。
気をつけなければ腕と腕が触れ合うような、簡単に身体が密着してしまう距離である。
横に立ったリーネは、ちらりとコウの横顔を盗み見るように見上げ、視線を外すと恥ずかしがると同時に、照れながらはにかんだ。
重ねた手は触れ合わせただけのような、振り払えば難なく離れてしまうようなものだが、それでも今のコウ達は仲睦まじい恋人同士のようである。
学園では「最低カップル」と陰で囁かれる二人だが、「最低」の部分を抜きにすれば、誰もが納得出来てしまうような姿だった。
(小さな手だ)
コウは手にある感触に対して、そんな感想を覚える。
その小ささときたら、何とも頼りないものだった。しかし、コウは同時に、今まで触れてきた何よりも、心を落ち着かせる暖かさを感じていた。
武骨な自分の手を合わせることで、「何があっても守らなくてはならない規則」を破っているかのような、そんな言い知れない罪悪感すら覚えてしまうくらいだった。
(なんて風に考えるのは俺らしくないか)
心の内で誤魔化すように呟くが、罪悪感を覚えるのは、自分が小悪党と言うべき存在だからだろう、という思いは拭い切れなかった。
コウは深く思考の海に潜り、リーネは楽しそうに笑みを作って、何も言わないでいる。
そうしていると二人の立ち姿は、それが当然であるかのようであり、ますます誰が見ても恋人同士らしくなっていた。
それに待ったをかける様に声を上げたのは、鼻息を荒くするロンだった。
「いやいやいやいや、おま、何いきなり甘酸っぱい青春の一ページみたいなことしてくれちゃってんの! というか、何でリーネちゃんもすんなり受け入れてんの!?」
「え? ……コウにお願いされたことですし、それに、嫌じゃないので」
「従順! ちょっと心配になるくらい従順! というか、それなら俺もアヤちゃんと手を繋ぎたぁーい!」
後から付け加えた言葉から鑑みるに、抗議の声を上げたのは、男女関係の節度を気にしたからではなく、単に羨ましかっただけのようだ。彼らしいと言えば彼らしい発言である。
「えっと……」
対するアヤはいきなり話を振られたこともあってか、困惑気味な様子で手を見つめるものの、結局その手を差し出すことはなかった。
「うわぁーい、嫌そう!? くっそ、なんでコウばっかり!」
出会ったばかりの頃ならば問答無用で叩かれていた、という微妙な変化にも気づかず、検討の余地もなかったと勘違いして、ロンが羨ましいと猛抗議してくる。
これを片手で制してコウは言う。
「まぁ、待て、俺は真剣だ。これにはちゃんと理由がある」
「そんなこと言って、本当は適当に理由つけて、手を握りたいだけだろ!? コウの変態! 女の敵! むしろ男の敵!」
いつも女の尻を追いかけ、覗きを計画していた奴には言われたくない、とコウは呆れながら思ったが、時間が惜しかったので、無視して魔術を展開する。隠す必要はなかったので、通常展開で行った。
特に狙ったわけではなかったが、魔術を展開したことで、本当に何か意味があると感じさせたのか、途端にロンが神妙な顔つきになって黙った。
それをいいことにコウは作業を続け、『認識阻害』と『感知』の二つを展開した。通常展開で行ったのでコウの前に二つの術式陣が浮かび上がる。
ふと、手に感じる感触が強くなった。視線を手に落とせば、触れ合う程度だったリーネの手が、しっかりとコウの手を握っていたのだ。
横目に彼女を確認すると、コウを見るわけでもなく、前を向いたままである。どうやら緊張が高まって、無意識にやっているようだ。
コウは痛くならない程度に、同じくらいの力で握り返してやる。すると、リーネは驚いたようにコウを見上げ、次いで握り合う手を見て、自分が無意識に何をしていたのか気づいたようだ。
慌ててリーネは何か言おうと口を開くが、コウは顔全体を使って陽気に笑いかける。
何も言わないでいい。
それが言葉にせずとも伝わったのか、彼女は口を少し開けたまま静止する。それから口を閉ざし、ゆっくりと時間をかけて嬉しそうに微笑んだ。
「あれ、おっかしいな。やっぱりどう見ても、ただの青春の一ページにしか見えない気がする」
神妙な顔つきで黙っていたロンだったが、コウ達が何やら通じ合っているのを見ると、表情を崩して凝視してきた。
そんなロンをまたもや無視して、コウは制限された『感知』で辺りを探ると顔を顰める。
「不味いな」
コウはぽつりと呟くと、リーネの手を引いて歩き出す。
何が不味いのかと目で聞いてくるリーネとロンに、短く、そして分かりやすく説明する。
「魔物がここに集まって来ている」
事実、索敵範囲の狭まった『感知』には、コウが来た南側以外の方角から、数えるのも面倒になるくらい魔物の存在が感じられた。
南側から来ていたのはコウが倒したので、包囲網にそこだけ穴が開いているような形だ。故に、コウが進むのは来た方角である。
魔物が集まっていると聞いて、いち早く反応したのはアヤだった。蹲って項垂れていたが、危機が訪れようとしていると知ると、痛みに呻いている場合ではないと思ったらしい。その額はまだ赤い。
リーネとロンも驚きと共に、先ほどまでの平和的な空気を払拭させ、敵がいるという場に相応しい真剣な顔つきに変えた。
先を歩くコウとリーネの後に続くように、ロンとアヤがついてくる。その動きは前を行くコウに合わせて、既に早足だ。
「コウ、もしかして魔物が集まって来ているのは、少し前に昇った不思議な光が関係しているのですか?」
一応、障壁を展開して光に触れないようにしたが、効果が分からなくて疑問に思っていた、ということだった。
なかなか洞察力の高いリーネがそう聞いてきたので、コウは肯定した後に言葉を加える。
「細かいことは後で教える。今はなるべくこの場を離れたい、少し走っても大丈夫か?」
「はい、大丈夫です」
後ろを見やればロンとアヤも頷いている。
「あ、コウ、支援魔術はどうしますか? 私、まだ魔力には余裕がありますよ」
そういえばリーネはそれが使えたなと、言われてコウは思い出し、少し考えてから提案する。
「これから何が起こるか分からないから、魔力を温存するために、持久力のある俺とアヤはやらないでいい。自分とロンにだけやってくれ。アヤもそれでいいな?」
「大丈夫です」
アヤは少し声が小さかったが、嫌がる素振りを見せることなく、ほぼ即答で同意して見せた。支援魔術を施してもらえれば無条件で楽になるというのに、リーネの負担にならない方が嬉しいようである。
「分かりました。少し時間を頂けますか?」
言われて一度足を止める。移動しながらでも出来るのだろうが、やはり止まった方が集中でき、魔術の展開が早く済むのだろう。
「了解。周囲は俺が警戒しておくから、お前は術式の展開に集中していいからな」
コウがそう伝えると、リーネは分かっているとばかりに笑って頷き、それからロンの方を向く。
ロンは自分に支援魔術が施されると知って、表情は何処か嬉しそうである。
恐らく、初めての体験だろうから、好奇心旺盛な少年なので、切羽詰った状況だと分かっていても、その気持ちは抑えられないのだろう。
「それじゃあ、やりますね」
そう言ってリーネは一歩踏み出し、その状態で止まるとゆっくり振り向いて視線を落とした。
コウはその視線の先にあるものを見る。それは二人を結びつけている握り合う手だ。
「あの、コウ?」
どうして離さないのですか、とリーネは可愛らしく首を傾げた。
不思議そうにしながらも、彼女の方からも手を握っていたりする。コウの方から手を離そうとしない限り、自分から手を緩めるつもりはないらしい。
「ん、ちょっと離せないんだ、これが。理由は後で話す。それとも、このままじゃ集中出来ないか?」
「いえ、そんなことはないですが……」
そう言いながらリーネは頬を赤く染める。手を繋ぐことは照れないのに、コウが離そうとしないのは、何か感じるものがあったらしい。
不思議な感性だとコウは少しずれた感想を持つ。
「こらー! 不味い状況とか言っといて、イチャイチャすんじゃない! 緊張感を持ちたまえ、緊張感を! ていうか、やっぱり青春の一ページだろそれ!?」
さっきまで初めての支援魔術と言うことで、上機嫌だったロンだが、目の前でコウとリーネが初々しいカップルのようなことを始めるので、途端に不機嫌になっている。その後ろではアヤも何やら複雑そうな表情を見せていた。
二人の反応を知ったリーネは誤魔化すように、慌てて杖を構えると、ロンに向かって支援魔術を展開した。
「――我が命 我が友の糧となれ 命は糧に 糧は力に 友よ 無尽蔵の力を持って明日へと渡れ 汝に寄り添うは我が命なり」
いつもは優しくて柔らかな印象の声だが、魔術を行使する際のリーネの声は、凛とした響きを持ち、何処か厳かな宣言を聞いているような気持ちを抱かせる。
彼女は真剣にやっているのだから、それがおかしいというわけではないが、不思議な感覚だとコウは聞く度に思うのだった。
「――活力の泉!」
リーネが展開した術式陣から光の球体が出現した。その光は彼女の優しい気質を表すかのように、見ていてほっとするような、穏やかな輝きを放っている。
光の球体は風のない日に舞い落ちる木の葉のような、緩やかな速度で移動すると、ロンの胸の辺りへと真っ直ぐ進んで行く。
「ちょっ、リーネちゃん、これどうすればいいの?」
初めての体験なのでいくら害はなさそうでも、どうしても慌ててしまうのか、ロンが焦りだす。基本的にへたれなのだ。
「そのまま何もせずいてください」
初めて目の当たりにする支援魔術に、戸惑いを隠せないロンを落ち着かせるように、リーネは温かく微笑んだ。その笑みに自信が滲み出ているのは、気のせいではないだろう。
笑みを受けたおかげで、ロンはある程度の落ち着きを取り戻したようだが、抵抗しないでも、ガチガチに硬くさせて身体を緊張させている。
そんな彼の視線の先で光の球体は真っ直ぐ進み、淡雪が朝日によって儚く溶け、大地に滲みていくように胸の中へと消えていった。
「おぉ! …………おー?」
ロンは自分の中に光が入り込んだのを見て、最初こそ驚きと戸惑い、そして興奮を顔に入り混ぜた。しかし、すぐに身体の至る個所を手で叩くと、怪訝そうな顔をリーネに向けた。どうやら、自覚出来る変化した点が見つからないらしい。
そんな彼の反応に対してリーネは笑みを崩すことはなかった。
「いいんです。それはそういうものなんです」
「そういうもの?」
ロンの疑念は晴れない様子で、リーネはどう説明しようかと言葉を選んでいるようだが、それを遮るようにコウは口を開く。
「効果は実際に体験しないと分からないってことだろ? なら、今は移動を優先しようぜ。リーネ、自分には?」
「もう済んでいます。自分を対象にする場合に限って、詠唱破棄でやれるんです」
「そうなのか? ……術式陣が展開されなかったみたいだが?」
「支援魔術は少し特殊なので……今は細かい説明を省きますが、簡単に言うと自分を対象にする場合は、身体の中で全て行われるので、体外に魔力を放出しません。だから、魔光といった現象が発生しないんですよ」
「……なるほどな」
魔術を使用した際に生じる術式陣。それを形成する線が輝く理由は魔光だ。そして、魔光は生き物が持つエネルギー「魔力」と自然界に漂うエネルギー「マナ」が混ざった時に生じるものである。
リーネの言う通りなら、そもそも魔力が身体から出ていないから、マナと合わさることもなく、結果として術式陣が発生しなかったというわけである。
「まぁ、詳しいことは別の機会ということでいいか」
コウはそう言いながらリーネの手を軽く引く。移動する意思が伝わったのか、リーネは戸惑う様子もなく自然にコウの隣に並び立つと歩みを揃えた。そして、すぐに歩みは早いものへと変わる。
そんな二人に釣られる様にしてロンとアヤがついてくるのだった。
ここまで来れば良いだろうとコウが足を止めたのは、フィフス森林の中心から見て、南西に位置する場所だった。現在は茂みに身を隠すように陣取って、休憩を取っている。
先ほどから随時展開中の『認識阻害』は、リーネを対象としたもので、ロンとアヤは対象に含まれていなかった。しかし、コウ自身を含めて近くにいればある程度効果があるので、しばらくはここで休んでいられそうだった。
休憩している他の三人を確認する。
移動の際に支援魔術が問題なく発揮されたので、横でリーネがロンに疑って悪かったと謝られている。
そして、アヤは疲れたのかどうかは分からないが、座り込んで静かにしていた。
コウ達がミシェルと校外授業開始時に別れ、森林へ足を踏み入れたのは、南東の方になるので現在位置は少し離れた形だ。
そのことに最初に気づいたのはロンだった。
素人目には同じに見える木たちが立ち並ぶ環境である。なので、しっかりと自分達の位置を把握しているわけではないようだ。感覚的なもので理解したらしい。
彼は道具などを作る材料を探しに、よくフラフラと出歩くのでそこら辺の勘が磨かれていた。
「そういえばコウ、こっちって先生達がいる所とは違う方なんじゃない?」
リーネに謝り終えたのか、思い出したようにそう聞いてきた。
「ん? ああ、そうだけど」
「そうだけどって、違う方に来てどうすんの……」
森林上空へと昇り爆ぜ散った魔術の光は、おそらく森林周辺にいた者たち全員が目撃しているだろう。
コウ達は当然のこと、ミシェル達、学園関係者も同様だ。
あの魔術に使用された魔力の量は相当なものだったので、教師達は学生が行ったものではないと判断し、警備隊の者達と連携して何かしらの対案を練っているはずだ。
そうなると、森林内にいるコウ達の安否の確認が求められるはずなので、校外学習の課題を済ませるよりも学園関係者と合流することが優先されるだろう。
ロンはそこまで考えた上で呆れ顔を浮かべていた。
そんな彼に対し、コウは反論のために口を開く。
「それもそうなんだけどな。俺もこっちに来たくて来たわけじゃないんだよ」
「どういうことですか?」
その言葉に反応をすぐに示したのは、二人のやり取りを聞いていたリーネだった。首を傾げながら聞いてくる。
まだ手を繋いだままなので、コウのすぐ横に彼女はいる。
そのため、首を傾げるという動作によって、ただでさえ身長差があるのに視点が下がり、上目遣いに見上げてくる形になっていた。
リーネは真面目な様子ながら、何が嬉しいのか口元をゆるませている。
その反立するべき印象が魅惑的に見えてしまうのは、彼女の類なき可憐な容姿が故だろうか。
思春期真っ盛りのオトコノコには、対象地域を蹂躙し尽くす戦略級大魔術に匹敵する破壊力をもたらす、見た瞬間理性を完膚なきまで吹き飛ばすようなそれだったが、女に無頓着すぎると言っても過言ではないコウは、小動物に抱くのと同じ程度の可愛いという残念な感想しか持たない。
「んっとな、実はこうやってることにも関係するんだ」
コウは言いながら繋いだ手を自身とリーネの間で、軽く振り子のように動かす。リーネは少し驚いた顔を見せたが、話を聞くために目を合わせたままコウと同調させて手を動かし始めた。
「ピクニックか! いや、コウ、もうその手を離せとは言わないから、さっさと理由を言ってくれ! じゃないと、俺、羨ましくてどうにかなっちゃいそうだ!」
ロンが血の涙でも流しそうな勢いで聞いてくる。
正直、羨んでいるが、女好きのくせに女に対する免疫が皆無と言っていい彼が、手など繋いだら大変なことになりそうではある。
とりあえずそのことは一先ず置いておき、コウは真面目な話をするために、頭を切り替えながら説明を始めた。
「まず、みんな気になってるだろう、少し前に空で散った光について、俺が知っていることを教える」
コウがそういうと三人がそれぞれ頷いた。
何が起こっているのかを知る鍵は、あの光だということを分かっているようだ。
「あれは敵……襲撃者が展開した魔術だ」
「それを知ってるってことは、やっぱりお前、襲撃者を倒しに行ってたわけか。俺は小悪党だ~とかなんとか、かっこつけたこと言って、いきなり消えたと思えば、まったく……」
ロンが呆れた顔をする。彼の言葉を受けてコウは思い出した。
そういえばリーネ達と別行動を取る際に、詳しいことは何も言わずに飛び出したのだった。
あの時は一秒でも早く撃退に向かいたかったので、余計な言葉を交わさなかったのだ。
かっこつけていたということに関して、コウは何か言おうとしたが、それよりも考えるべきことがあることに気づいた。
それはルフェンド達のことだ。
彼らと接触したことで、いろいろと得るものがあった。
知ったことをリーネ達に教えれば、コウとは違った意味で彼女達も何かしら得られるものがあるだろう。しかし、気になるのはルフェンド達が彼女達と顔を合わせていないらしいことだ。
リーネ達はリーネの命を狙う人物に、心当たりがあるらしい。
それなら「心当たりの人物」が送ってきたルフェンド達のことを、彼女たちは知っている可能性がある。
互いの存在を知っているからこそ、ルフェンドは直接手を下さずに、ならず者に依頼するといった、間接的で面倒な手段を用いていたのかも知れないのだ。
(だったら、ここで俺が話したら、あいつらの頑張りが全て水の泡になるのか……)
それはなるべく避けてやりたかった。長い間、苦労を重ねてきたのに、いくらなんでもあんまりである。
コウはその辺を考慮して、一部を誤魔化して話すことにする。
(いや、果たして本当にそれが理由か?)
話そうとして生まれ出た自身への疑念。
当初コウはリーネの事情を襲撃者から聞き出そうとしている。
結果から言って、それは実現されていない。しかし、負い目というものは無視出来なかった。
ルフェンド達のことを話さないのは、自分の行いを知られないためなのではと、コウの中にある善とも悪とも判断出来ない部分が語りかけてくる。
(本当に、中途半端だな)
コウは何度目かになる自分への嘲りを、ロンに対する誤魔化しの笑みに混ぜた。
それは結果に対するものでもあるし、自分に対してでもあった。
「あの時は少しでも時間を稼ぎたくて急いでたんだよ。それより、光の正体だった魔術だが、あれは規模がかなりのもので、注がれた魔力は平均的な魔術師五十人分はくだらないだろう」
「五十人分!? それほどの数が集まっていたのですか……」
リーネが愕然とした様子で聞き返してくる。コウの言葉を疑ってのことではないだろう。彼女にとってそれだけ耳を疑うような数だったのだ。
大規模な魔術と言うのは、多数の人が集まって、ようやく一度展開することが出来るというのが普通の認識である。
そのため、コウの言うことを言葉通りに受け取れば、リーネの発想が自然なものであった。
彼女の認識は事実とは異なるので、コウは否定のために首を横に振る。
コウの否定を確認して、彼女は緊張をほぐした。しかし、否定の後に続けなければならない言葉は、再び彼女に衝撃を与えることになる。
「あれは一人の老魔術師の手によって起こされたことだ」
「ひ、一人……!?」
絶句。そんな表現がまさしく合うような表情をリーネは浮かべた。
ロンとアヤも同様のものを顔に浮かべて硬直している。三人からは隠しようもなく、恐れが見て取れた。
個人が保有する魔力総量が平均の五十倍といえば、数十年に一人の逸材と評される数値である。
それがその道の熟練者を連想させる老魔術師となれば、どれだけ名の知れた人物なのか、と考えてしまうのは当然と言うべき連想だ。
そんな人物が敵として近辺にいるかも知れない、と想像した三人が戦くのは無理もなかった。
「安心しろ、その老魔術師はもう倒してる」
そう伝えると反応は二つに別れた。
難敵を既に倒したということで、目を見開いて驚くリーネとアヤ。僅かに眉を顰めたロン。といった具合だ。
言葉を選んだ言い方だったが、倒したというのは、つまり殺したという意味である。ロンの反応はそれを察してのことだろう。
そもそもコウが襲撃者を迎撃しに行き、無事に戻ってきた時点で、人が死んだという意味である。
今までコウはロンと行動を共にする中で、何度か本格的な戦いをしたことがある。そのどれもが、必要がなかったので、命を奪うまでに至っていなかった。
故に、今回はロンにとって、コウが人を殺してきたという事実を、初めて直面する事例となった。
今の世を生きているのだから、殺しにやって来た相手を逆に殺したということを、ロンも咎めるつもりはないはずだ。しかし、人を殺すという行為を完全に肯定出来るほど、彼には戦いの経験はなかったし、何よりも若かった。
「ロン、それでいいんだ」
いつもと変わらぬ調子で校外授業に参加していたロンだったが、リーネ達と行動を共にするというのは、こういうことがあるというのを分かっていたはずだ。
だから、コウが言ってやれることは少ない。
「……何が?」
「慣れるな、葛藤しろ。それは無駄なことじゃない」
「…………」
どうやら意味は伝わったようで、複雑な表情を浮かべてロンは黙り込んだ。
こればかりは個人個人が解決するべきことだろう。手助けが必要になるまでは、他者が働きかけられることはない。それがコウの考え方だ。
今後としては、彼の前で人を殺めなければならない場合、その時どんな反応を取るのか、その点を注意しておいた方がいいかも知れない。そう、コウは心の隅に置いておく。
ちらりと横を見れば、ロンが心の中でもがく理由を察したのか、リーネ達が心配げに彼を見つめている。
そんな二人を見てコウが思ったのは、彼女達はどうなのか、ということだった。
二人は長く戦い続けて来たと聞く。
その中で人を殺めたことがあるのか、彼女達の中で敵対者に対する処置は何処までやったのかが気になった。
コウは聞こうかと口を開きかけるが、今この場で考えるべきことではないし、何より思い悩むロンに二人の意見を聞かせるのは、得策ではないと考えてやめた。
場の雰囲気が少しだけ硬く重いものに変わる。それをロンは自分のせいだと思ったのだろう、表情を一変させると、努めて明るい調子で喋り始めた。
「まぁ、ともかくとして、しっかしコウ、ずいぶんさくっと倒したんだな。流石と言うか何というか。頼りがいがあるよ、全く……あれ、そもそも大丈夫なのか、な」
最初は驚いたような様子で、そして次には安堵したように語るロンだったが、すぐに顔を曇らせた。
「大丈夫なのか」というのは、倒す、殺してしまってという意味だった。
殺した老魔術師が有名な人物で、何かしらの組織に属していたとすれば、その組織内で上位の役職にいた可能性が高い。魔力総量が五十人分の老魔術師というのは、そう考えるのが妥当な存在だった。
もしも何処かの組織の幹部だったりしたら、大きな問題になりかねないだろう。
無意識に考えた結果かも知れないが、地位などを想像したのは貴族の息子であるロンらしい発想である。
「まぁ、そういう考え方も出来るんだけどな。今回の場合、ちょっと違うんだよな」
「違う?」
目を瞬かせるリーネに頷くと、コウはかいつまんで何があったのか話す。ルフェンド達に関しては言わないことにしたので、適当にぼやかして説明した。
リーネ達は話を聞いている内に、さきほどまであった雰囲気を払拭していた。そうさせるだけの内容だったのだ。
「丸薬、ですか……」
「ああ、まぁそれに関しては時間がかかりそうだから、詳しく考察するのは学園に帰ってからでいいだろう。それよりも、話の続き何だが」
言って、コウはリーネと繋いだ手を前に出し、握り心地を確かめるように力を入れたりしながら説明する。
「どういう仕組みなのか分からないが、さっき言った老魔術師が展開した大規模魔術の効果は、領域内にいる対象の下へ魔物を集める、みたいな感じらしいんだ」
「その対象がリーネちゃんってこと?」
「そうだ。状況から考えて、それは間違いないだろう。だから俺はこうして手を繋いで認識阻害を展開し、リーネのことを隠してる、ってわけだ」
コウが全力で展開する『認識阻害』は、「存在を認識出来なくして、姿を見えないようにする」という常識外れの効果がある。しかし、それはあくまで対象が一人だけに限る場合であり、対象が複数であれば、全員の姿を認識させないなんて芸当は出来ない。
そう考えれば手を繋いでいることは、無意味に思えるかも知れない。しかし、「複数の人間の姿を認識させない」ということが出来ないだけで、一般的な「魔術による索敵から逃れる」や「意識を向けられ辛くする」という使い方に於いては、高いレベルで行えるのだ。
コウはリーネと直接触った状態で『認識阻害』を展開することで、その効果を高め、老魔術師の置き土産である、謎の大規模魔術にリーネが見つからないようにしていた。
もしもリーネを探すのが人間か、人間と同等の高い知性を持つ魔物だったのなら、同じことは出来なかっただろう。
今回は相手が森林に住まう知性の低い魔物で、しかも術者が管理していない魔術によって、操られているからこそ有効な手だった。
「なるほどねー。本当に青春の一ページを満喫するためじゃなかったのか……」
話を聞き終えたロンが何処か残念そうに感想を漏らす。一体お前は何を求めていたのか、とコウは呆れ返りながら言葉を付け足した。
「それで先生達がいるのとは違う方に来たのは、なんかそっちに魔物が集まってたみたいだから、そっちに行くと面倒なことになると思ったからだ」
『感知』の索敵範囲が狭まっていたので、はっきりとは言えないが、コウがリーネ達と合流した際に感じ取った限りでは、学園関係者がいると思われる方角から、かなりの数の魔物がまとまるように向かってきていた。
恐らく、今回の襲撃の際に学園関係者達を足止めしていた魔物たちが、いきなり方向転換するようにやって来た結果だと思われた。
魔物使いが死ぬ直前まで「足止めをする」という指令で動いていた魔物たちが、魔物使いの死後、あの大規模魔術で「リーネを殺す」という指令に行動を上書きされ、足止めを放棄して一斉に動き出しのだろう。
リーネ達と合流した後、真っ直ぐに学園関係者達の方に向かっていれば、波のように押し寄せてくる魔物たちとぶつかり合う羽目になったのは間違いない。
だからコウは自分が作った南側の魔物がいない個所へ行き、なるべく魔物たちを避けて移動したのだ。
そして今いる場所に辿り着いたというわけだった。
「どうして隠れる必要があんの?」
ロンが疑問をぶつけてくる。その問いは、コウがどんどん倒してしまえばいいのではという意味だろう。
確かに、やろうと思えばやれなくもない手である。しかし、その選択を避けたのはしっかりと理由があった。
「面倒なことになるからだ」
コウは軽い調子で自分の考えを言う。
まず、魔物に姿を見られて時点で、『認識阻害』の効果がなくなること。味方であるロンとアヤに見られても問題はないが、探そうとしている魔物たちに見られれば、性質上それは避けられない。
見つかれば、一挙に魔物たちが集まり追ってくるだろう。
そうなれば仮に魔物たちの大群を強引に突破したとしても、森林の外まで魔物たちを引き連れてきてしまうことになる。
森林の外に出れば大規模魔術による支配から、魔物たちは解放されるかも知れないが、その魔物たちがウィールス平原に出ていき、近隣の村などに押し寄せることになれば大惨事になるだろう。
それなら姿を見せずに、例えばコウの展開を感じさせない特殊展開による魔術で攻撃して倒すとする。
そうすると、魔物の血が辺りに臭いを発することになるだろう。
結果として、狼型の魔物が集まって来て、その狼型に釣られる様にして他の魔物たちが集まり、最終的には強引に突破しなければなくなる。
つまり、前途と同じ展開になってしまうのだ。
「森林にいる魔物全部が押し寄せてくる……」
コウが軽く言ったことの内容を想像し、ロンは声を引きつらせた。
怪我人が出る程度で済む話ではない。下手をすれば地図からフィフス森林近くの村が一つ、二つ消えてしまうような事態だ。
コウが何となくやっている行動は、実は国を揺るがす大事件を防ぐものだったのだ。
「コウは先の先まで考えているのですね……」
話を聞き終えたリーネから、いつも以上に敬うような気配が伝わってくる。ロンも今まで見せたことのないような目を向けてきていた。そして、長く黙っているアヤは顔を青くしている。
「あくまでただの推測、というか想像なんだから、そこまで感心するようなことじゃないっての。リーネはともかく、ロンにそんな風に見られても気持ち悪いわ」
「気持ち悪いってなんだ、人がせっかく見直してたのに!」
「ついさっきまで、どんな評価だったのか気になる発言だなおい。……まぁ、ともかくこれで俺がリーネと手を繋ぐ理由は分かってもらえたはずだ」
そこで言葉を区切って見回し、三人が頷いたのを確認する。コウがリーネ達と別行動をして何をしていたのか、空に昇った光について知っていること、リーネと手を繋ぐ理由、学園関係者がいるのとは違う方に来たわけなどは話し終えた。
それら一つ一つを確認し終えたので、コウは気になっていたことに触れることにした。
「……それで、何でアヤは俺と目を合わせない? むしろ、露骨に避けてるよな?」
指摘すると、びくりとアヤが肩を震わせた。
思い返してみれば、合流後にコウと彼女が交わした会話は、リーネが支援魔術を行使することに関してのやり取りのみである。
コウには彼女がそうする理由が思い当たらなかった。
もしや勝手に別行動したことに対して、怒りを覚えているのだろうか。そうコウが考えたところで、アヤは向き直ったかと思えば、ふわりと身体を浮かせた。
そして、宙に浮いたまま素早く膝を曲げてたたみ、背筋を伸ばすと切羽詰ったような顔を見せる。
そこまでが宙に浮いたまま行われた動作であり、次に起こったのは着地だった。
アヤは足をたたんだ状態で、脛から地面に降り立つ。地面が土であることを考えても、普通に痛そうである。
一体何が始まったのか、と理解が追いつかない三人を余所に、アヤは空中で作った、正座の姿勢でコウを見上げると、腕をびしりと伸ばして膝頭の前に手を移動させる。
そして、指と指の間に僅かな隙間も許さないかのように、くっつけて伸ばすと、両手の人差し指と親指を触れさせて、手の間に三角形を作り地に乗せた。
決められた手順に沿うように、それら全てを準備として完了させると、アヤは腹の底から声を出すように、
「コウ殿、申し訳ありませんでしたああぁあ!」
と叫び、勢いよく身体を前へ曲げるように倒したかと思えば、手に作った三角形で受け止めさせるかのようにして額をつけた。
ここに至るまでおそらく数秒もかかっていない。
コウはまず、『感知』でアヤの声を聴きつけた魔物がいないか、数十秒かけて調べた。
次に、運よくいなかったことを確認した後に、リーネとロンのぽかんとした顔を見る。
そうしてから、ようやく彼女に言葉をかけた。
「……何してんの?」
アヤは顔を伏せたまま答える。
「謝罪です」
(それは土下座だったのか……)
あまりにも綺麗にまとまっている上に、動作が強い印象を与えたので、コウはてっきり最大の敬意を払った礼かと、本気で思ってしまっていた。もっとも、この場で最敬礼を示す意味も分からないが。
「何で謝ってるの? とりあえず、それ、やめようぜ」
「つまり、この程度では、許してもらえないということですね……!?」
「あれ、え、なに、面倒なスイッチ入ってんの?」
コウは既に疑問を通り越して困惑し、呆気に取られていた。
心当たりはなかったが、思い込みが激しい少女なので、コウが気にしていないことを気にしているのだろう、というくらいは何とか推測する。
隣にいるリーネに目で問いかける。こんな場合どうすればいいのかと。アヤに関しては彼女の方が、手馴れているだろうと思ったからだ。
彼女も呆然とアヤのことを見ていたが、コウが見る動作で自分に用があることに気づくと、すぐに目を合わせた。
そして、意図を汲み取ると、泣いている人に語りかけるようにして、アヤにゆっくりと話しかける。
「アヤ、そのままではコウが困ってしまうわ。まずは顔を上げて、それからあなたがどうして謝っているのか言ってちょうだい」
リーネが言うことで、渋々といった様子でアヤが顔を上げる。その表情は叱られている子どものようにしょぼくれていた。
もしも彼女に感情を表す尻尾か何かがあったら、間違いなくそれは垂れ下がっているだろう。そんな想像を思わずしてしまう姿だった。
そんなコウの妄想を余所に、ぽつりぽつりと呟くにして、彼女は語り始めた。
「その、仲間だって、と、友達だと言って下さったコウ殿に、わ、私はき、斬りかかって……!」
「お前それまだ気にしてたんかーい!」
ここでやっとコウは理由を知る。
合流した時、その際に敵と間違えたらしいアヤが、首に刀を添えてきた。
コウにとってそれは既に終わっていた話なので気づけなかったが、どうやらアヤはそのことを引きずっていたらしい。
「私、あの時、必死でやっていて、周りが見えてなくて……」
話を聞く限りだと、コウが別行動を取った後、襲撃者こそ来なかったが、魔物とは遭遇したらしい。死骸が数匹分あったので、それはコウも把握している。
最初に来た狼型などの魔物は難なく対処出来たが、蜥蜴型であるドリークが来てからは、そう簡単にはいかなかったらしい。
爬虫類が大の苦手であるアヤは、戦闘中にもかかわらず、ドリークが着た瞬間硬直。
前衛が動かなくなったことで陣形は崩れ、ドリークといった危険度の低いはずの魔物たち相手に、三人は苦戦することになったということだった。
実は戦闘経験がそれほどないロンは、囮なしで動いている相手にボルトを命中させられなかったし、リーネは血の臭いに誘われて集まり始めた魔物に気を取られ、魔術を上手く展開出来なかったらしい。
数が少ない内から苦戦していたのに、魔物は増え続け、三人は本格的に追い詰められた。
その時だったという。アヤの中で変化が起こったのは。
自分が不甲斐ないばかりに、苦戦するはずもない相手に苦戦し、危険な状況になっている。
それを強く自覚した彼女は頭が真っ白になり、気づけば次々と魔物を倒していたということだった。
コウが到着したのはその直後ということになる。
(あれ、これってアヤが爬虫類苦手なのを知ってたのに、投げっぱなしにした俺も悪いような……)
コウが真理に辿り着く中、アヤは恥じることを話すように、早口に捲し立てる。
「戦ってる最中は、何も考えられなくて、その、何て言えばいいのか、お嬢様とロンのことは守るとは思っていたのですが、周りの木もお嬢様達も見えなくなっていて、自分と魔物以外はいない世界に、いきなり放り出されたような感じで……」
アヤは自分のことなのに、上手く言葉をまとめられないようである。
恐らく、自分でもその時の心理状態を把握出来ていないのだろう。
そんな彼女に助け舟を出すように、ロンが口を開き、その時の様子を語る。
「あの時のアヤちゃん凄かったよ。何か、無駄がないっていうか、一つ一つの動作が計算し尽くされてて、全部の動きが繋がってるように見えたよ」
アヤとロンの話を聞いて、コウは合流直後、彼女に刀を首に添えられるまでに見た、無表情ながら、何処か穏やかさを感じたあの表情を思い出す。
そうして一つ思ったことがあった。
(もしかして、何も考えられなかったんじゃなくて、何も考えないでいい状態になっていたのか?)
それは戦う者が稀に体験する心理状態だった。
強敵と戦う時、負けられない戦いの時などに起こる現象で、自分の持てる全てを出し切っている時に、それは起こり易い。
全力で戦っているからこそ、相手の癖や自分が行うべき動作などを考えなくてはならないのに、頭は鮮明なまま何も考えられなくなる。
それなのに身体は何もかも分かっているかのように、勝手に動き、自分にとって最良の判断を一瞬よりも早く下すのだ。
無我夢中で、一点に集中しすぎているわけではなく、周り全てと自分が一体化しているような、戦いにおける理想的な状態。
アヤが戦ったのは強敵と言うには、あまりにも貧弱な相手だった。しかし、彼女にとっては身体の自由を奪う程の相手であった。
ならば、その境地に達していたとしても不思議はない。
「アヤ、お前は爬虫類系を見たら硬直するよな? それなのにどうして倒せたんだ?」
コウがそう聞くと、アヤは自分の感覚のことなのに、難しいことを訊ねられたような顔をした。
無理矢理捻り出すように彼女は言う。
「あの時は、苦手だとか怖いとか、あと焦りとかも忘れていました……」
コウは返答を聞いて、間違いないと判断した。
思わず苦笑を浮かべる。
「大体分かったわ。お前が俺に斬りかかった理由」
「え、理解して頂けるのですか!?」
驚いていることから見て取れるように、アヤはコウが理解するとは思っていなかったらしい。
確かに、普通に考えれば、仲間が斬りかかってきた理由が「何も考えてなったから」と言えば、到底理解は得られないし、最悪仲が険悪なものに変わる。しかし、戦いの道の、先の先へ行く者であればあるほど、理解出来ることでもあったのだ。
「……許して頂けるのですか?」
「俺は最初から怒ってないどころか、気にもしてないっての。むしろ、お前がそこまでのものだったことを知れて良かったよ」
「は、はぁ……ありがとうございます?」
コウの返答にどう反応したらいいのか分からない、という様子のアヤだったが、ともかく許されるのならそれでいいか、と納得したらしい。
そして、許されるついでに、一つ質問をしてきた。
「あの、疑問に思っていたのですが、私が斬りかかった時、どうしてコウ殿は反応しなかったのですか? コウ殿なら投げ飛ばすなり、受け止めるなり、簡単に出来たと思うのですが……」
これが並みの相手に対して言っているのであれば、皮肉にも聞こえるものである。
だが、アヤからすれば、コウは絶対的な強者だ。
それは先日の模擬戦で、彼女の中で揺るぎようのない事実になっている。だからこその問いかけなのだろう。
対して、コウの返答は至って簡素なものである。
「止まると思ったから」
「はい? いや、私、本当にあと少しでコウ殿の首を……」
「でも、ちゃんと刀は止まって、こうして俺の首はつながったままだろ?」
コウとしては思ったことを述べて、しっかりと回答したつもりだったが、アヤは口をあんぐりとさせて、何か信じられないもの見るような目を向けてくる。
そんな彼女の代わりを勤めるかのように、黙ってやり取りを聞いていたロンが声を上げる。
「出た、コウの謎理屈! こいつ、普段は物事を嫌なくらい客観的に見て、打算を働かせたりする癖に、時々こんな風に訳分からんことを言い出すんだよ!」
またこいつはとロンが指差してくる。
そんなことはないだろう、とコウは隣のリーネに顔を向ける。
そうしてから、年単位の付き合いというわけではないリーネに、そんな判断出来ないかと思い直した。しかし、予想外にも彼女は思い当たる節があったようである。彼女はコウを見返しながら、何度も頷いていた。
「確かに、コウはそういうところがありますよね」
「リーネ、お前もか……」
「私達とお友達になってくれたことも、コウの立場を考えれば、普通はやらないことですし」
コウはその言葉を受けて、そういえば実力を隠している以上、リーネ達とかかわることを考えた時もあったことを思い出す。
「ん、あー、……そんなことはなくないか?」
痛いところを突かれた気分だった。それに関しては自分で自分の行動に戸惑っていなくもなかったので、強く反論に出られない。
コウは強引に話の流れを変えることにする。
「いや、それはともかくとして、今回のアヤに関しては、ちゃんと理由があるぞ? アヤの実力なら大丈夫だと思ったから、俺は何もしなかったんだよ」
「……それは、私のことを認めて下さっているということですか?」
「ん? あぁ、剣の腕に関してはなかなかだと思ってる」
今回ごく短い時間ではあったが、境地に達したと知って、将来性はさらにあると思っていたが、それは彼女のためにもまだ言わないでおくことにした。
「そ、そうだったんですか……!」
アヤは隠しきれないのか、顔は喜色満面といった様子だ。純粋な喜びがそこにはあった。
コウは自分が褒めたくらいで、そこまで大げさに喜ばなくてもと思う。しかし、アヤからすれば、コウは畏敬の念すら覚える圧倒的強さを持つ存在だ。
そんな相手に認められていると知れば、誰であっても心を震わせるのに十分な理由だろう。
「コウがどさくさに紛れてアヤちゃんを口説いてるぅうう!」
「……何処にそんな要素があったよ。それより、片づけられる疑問とか問題は全部済んだから、そろそろ移動するぞ。ここもずっと安全ってわけじゃないんだから」
ロンがいきなり荒れるが、実際に余裕もないので、コウはさらりと流す。
ここに移動して来た時、リーネ達は魔物との戦闘後で、特にアヤの様子もおかしかった。
そこら辺を考慮して、長めに休憩の時間を取っていたが、そろそろ移動した方が良さそうだった。
いくら『認識阻害』の効果があるとはいえ、ここは魔物たちの領域なのだ。
すぐにやってくる魔物はいなかったものの、何だかんだ結構騒いだので、気配を感じ取る魔物も出てくるかもしれない。
ある程度会話をして、精神的に休めたし、身体も少しは休ませることが出来た。そろそろ頃合いだろう。
コウは先に立ち上がると、リーネの手を引いて立たせてやる。その様子を見ていた、ロンとアヤも立ち上がったようだ。
「話した通り、魔物に見つからないようにして進む。どうなるかは分からないが、一先ず森を出ることに優先して、教員達との合流は後回しだ。何か質問は?」
三人の顔を見回す。ロンが思いついたことを聞いてきた。
「今更かも知れないけど、コウ達は認識阻害で見つからないようにしてるんだよね? 俺とアヤちゃんは何もしないでいいの?」
「例の魔術はリーネだけに的を絞ってるみたいだから、リーネの気配を隠しとけば問題ないはずだ。魔物たちも探索力を魔術で強化されてるわけじゃないみたいだしな」
「ほー、なるほど、了解」
ロンが納得と共に頷くと、リーネ達も質問はないと同じように頷いて見せた。
三人が頷いたのを確認したコウは、自身が可能な限りの範囲を『感知』で探りながら歩み始める。
校外授業の終わりは、もうすぐそこのはずだ。
そう思いながら、コウ達は急ぎ足に終わりを目指して進むのだった。
お読みいただきありがとうございました。
2012/09/28 23:35
一部文章と誤字脱字を訂正致しました。