第二十五話
戦いに勝ち、相手を縛り上げたコウは息を吐く。一息ついた所で情報を整理する。
捕まえた二人の名は、戦闘を開始する前に様子を探っていた中で知っていた。
聞いた限りだと、青い光の鎖で地面に拘束している大男がルフェンド、最初に視界を塞いだ女がセシーナという名前だったはずである。
二人の髪は黒く、ボロ布を合わせたような衣服を身にまとっていた。
装備は所々擦り切れた革鎧という貧相なもので、様相は盗賊でも下の下であると思わせる典型的な格好をしていた。
――――しかし、ただの盗賊と考えるには、おかしな点があった。
まず、セシーナが魔術を扱っていたこと。
魔術を扱うには魔力を操る才が必要で、それは血筋によってほぼ決まると言っていい。
極稀に平民の家系から、魔力を操る才を持つ者が出生することもあるが、それは本当に稀有なことだ。
故に、魔術を扱う=貴族という考え方になるのだが、これにも貴族と妾の間にできた子、没落貴族の家系という考え方もある。
現にリーネは艶やかで美しい亜麻色という平民の証を持ちながら、魔術を扱っているし、コウだって髪の色で言うなら黒だ。
なので、彼女は珍しい部類にはなるが、別段あり得ないことを行っているわけではない。
問題なのは、彼女が小規模の盗賊団に所属しているということだった。
魔術は強力な力だ。盗賊という荒くれ者にとっては、喉から手が出る程欲しいものだろう。
そうなれば当然、魔術を扱えるなら、大規模な盗賊団などから引っ張り蛸である。
魔術を扱えることも珍しいが、小規模の盗賊団に所属していることも珍しい。
珍しいことが重なっていると、そこに何か必然性を感じてしまうのは、果たして考え過ぎだろうか。
次に考えるのは、大柄で強固な肉体を持つルフェンド。
彼の強さは並外れたものである。少なくとも下の下と評価するには間違いな人物だろう。
荒くれ者達は純粋な強さの下に集まるものだ。戦闘能力だけで考えれば、彼は大規模な盗賊団を率いていても、何ら不思議ではないくらいだった。
そして、何よりも気になるのは、彼の動きは洗練されていて、明らかに武術をしっかりと教わった者の動きだったという点だろう。
実戦で荒削りに戦い方を覚える者が、大多数の盗賊や傭兵とは明確な違いである。
考えれば考えるほど、二人はただの盗賊風情と済ませるには不自然であった。
(それに、なぁ)
コウはセシーナへと目を向ける。
彼女は木に背中を預けながら、視界を塞がれた状態であるのにも拘らず、忙しなく周囲に首を巡らせている。
恐らく、少しでも情報を掴み取ろうとしているのだろう。
その行動は彼女の真剣な様子と相俟って、見る者に落ち着きのない小動物を連想させてしまうのだ。
どうも細かいこと以前に、残虐非道が日常茶飯事な世界とは無縁に思えてしまう。
何事においても、見た目で相手を判断するのは愚の骨頂である。そう念頭に置いていても、ルフェンドはともかく、彼女が盗賊を名乗るのは、不自然を超えて無理があった。
(これが、リーネの命を狙う奴ら、何だよな……?)
思わず首を捻る。
コウは心が穢れている悪党に部類する者を見抜くことが出来る。
その観点から見ても、この二人組みは倒すべき敵であると判断し切れなかった。
(まぁ、だからこそ、面倒をしたわけだけども)
それ故に、コウは剣を抜かず、面倒を承知で無手の戦いを選び、殺さず捕縛という方法を取ったのだ。
多少二つの意味で骨は折れたが、何とか無力化することには成功した。
ここからは話を聞き出すだけである。
そう結論し、話しかけてくるルフェンドを無視するのをやめ、コウはそろそろ相手をすることにした。
「だんまりか。そういえば、戦いの最中も雄叫び一つ上げていなかったか」
ルフェンドは痺れを切らした様子もなく、ただ事実を確認するように呟く。そんな彼にコウは面倒だという気持ちが芽生えた。
コウが戦いの最中に雄叫びどころか、気合の声一つ上げないのは、ちゃんと理由があった。
それは自分の調子や具合を相手に悟らせないためであり、会話に対して取り合わないのは、情報を与えないと共に一種の挑発である。
こちらが優位の立場であることを教えるのと同時に、無視し続けることで相手を激昂させ、思考を単純化させて会話の主導権を握るのだ。
だが、ルフェンドは全身を縛られ、身動きも出来ない状態で、ストレスを与え続けているはずなのに、物事を冷静に見極めようとしていた。
だからこそ、そんな彼をコウは面倒だと評する。
戦士として一流ということは、荒事向きなのかと思いきや、高い知性を持ち合わせているようなのである。
これが面倒な相手じゃなかったら、何が面倒なのかとコウは内心呟く。
(こういう奴は搦め手を跳ね除け、脅しが本気かどうか見抜いたりするからなぁ……)
そうなると彼自身だけでなく、セシーナに危害を加えるなどの脅しでも、逆効果であると思えた。
小悪党的な行動としては、脅したりするのが手っ取り早いのだが、それが封じられているとなると、長期戦になってしまうかも知れない。
それは避けたい事態であった。
現在は校外授業の最中なのである。とっと聞き出して、さっさと去りたいのがコウの本音なのだ。
仕方ない、とコウは一つ魔術を展開させてから、ルフェンドの問いかけに構わず、こちらから切り出す形で声をかける。
ちなみに、コウの扱う「魔術の展開を悟らせない特殊な展開方法」だと、魔術師であるセシーナが、不審に思うと思ったので、二人の前では「普通に展開する通常の展開方法」で行った。
「あのさ」
コウの投げかけた声。それは少し低いハスキーと部類されるもので、聞く者に間違いなく女だと思わせるものだった。先ほど展開した魔術は、声を変えるものだったのだ。
コウは基本的に敵と言葉を交わさないが、仕方なく話をする時などは、この手段を使っていた。極力情報を与えないためである。
ルフェンドは今まで黙っていた相手が急に喋ったこと、そして声が女であるということに、二重の驚きを覚えたようだったが、会話することに意味を見出しているようで、余計なことを言ってきたりはしなかった。
「やっと交渉する気になってくれたのかな?」
地に倒され、身動き一つ出来ないはずなのに、この余裕を持った態度である。
さり気なく交渉の場を築こうとしているのだから、油断ならない相手だ。
コウはやはり面倒だと評価に上乗せしながら口を開く。
「こちらには交渉なんて面倒なことをやる気概も気力もないし、その必要性もないと思っている。こっちは問い、そっちは答える、それだけの話だと思うんだが?」
「一方的な要求ということかな? しかし、そうなると私も拒否したりするが、そこはどのようにお考えかな?」
「その場合は、耳、鼻、目、口、指の中から、なくなっても良い場所を選んでもらう」
コウはパンを見せて「この中で何が食べたいか」と聞くかのように、投げやりな調子で脅迫する。この人物を相手に有効な手段ではないと分かっているが、最低限逆らわないように含めているのだ。
それがどうやら伝わったのか、ルフェンドはなるほどと気軽に頷くと、一先ず口を閉ざした。
別に声量を抑えていたわけではないので、言った事が聞こえたのか、少し離れた場所にいるセシーナが短い悲鳴を上げた。
こんな適当な態度で言われたことに、過敏なほど反応しているのだから、彼女に関しては、「巻き込まれた一般市民」と言われた方が説得力ありそうである。
コウは一先ず彼女のことは捨て置くこととして、ルフェンドの方に問いかける。
「理解してもらったところで聞くけど、どうしてあの娘を狙うか教えてもらえるかな?」
「――あの少女から何も聞いていないのか?」
「彼女と直接の面識はない。とある人物に雇われて動いている、それだけの存在だからな」
実際は面識がないどころか、休みの日など関係なく、ほぼ毎日顔を合わせては、穏やかに談笑する仲だが、正体を隠すためにそう言葉を返した。
「なるほど」
コウの言ったことをとりあえず信じたのか、表面上は返した言葉にルフェンドは納得したようである。
その上で、彼の答えはきっぱりとしたものだった。
「回答を拒否する」
「……おい」
ずっこけそうになるが、これは喜劇でもなければ、仲の良い友人間の冗談でもなんでもない。コウにやる気はなくとも、脅し脅されという、緊迫した瞬間であるはずなのだ。
それなのに、この男は躊躇なく断って見せた。このことに、コウは呆れ以上の感想を抱けない。
「あのさ、さっきの脅しとかじゃなくて、本当にやるからな? 腕とか足とか普通に切るぞ?」
「理解している。この身、いくら刻まれようと、屈したりはしない」
「…………」
コウは二人がこちらの姿を見られないことを良いことに、思いっきり顔に手を当てて空を仰ぐ。
予想していたとはいえ、これは予想通りになって欲しくなかった、というのがコウの正直な感想である。
このままでは、この対話が長くなってしまう。それは簡単に予想出来る事態だった。
彼からすれば、コウは正体不明の相手なので、時間稼ぎが有効だと考えているとは思えない。しかし、コウからすれば、かなり嫌な手であった。
先にも言ったが、現在コウがフィフス森林に来ているのは、リーネを守る意味が大きいが、名目上は校外授業に参加した結果なのである。
授業である以上、時間制限があるし、そろそろリーネ達の下へ戻るべき頃合いを考える時間でもあった。
最悪、このまま不自然な盗賊二人組を放置してしまう、という選択肢もあるが、そうすると甘いやつだと認識される可能性がある。
それは今後のことを考えれば避けるべきことだった。そうなると、無傷で解放というわけにもいかない。
仕方がないとコウは息を一つ吐いて、先ほどまで持っていた軽い調子を消し去っていく。
「なら、一つ一つ切り落としていこうか」
持ったままだったルフェンドの剣の先を彼の眼前に見せつける。
コウがまとう雰囲気を変え、あからさまに脅しても、それでもルフェンドの態度は変わらない。
それはコウが本当はやらないと思っているわけではなく、覚悟を決めているが故であるようだった。
(ほんと、何でこんなのが盗賊ごっこなんてやっているのかね)
コウは内心そう愚痴りながら、剣を振り上げると、宣言するように最終通知を言い渡す。
「では、右腕から貰おうか!」
返事はなかった。ついに動揺を見せることなく、黙してその時を待つルフェンドの肩口目がけ、コウは剣を振り下ろそうとして、
「駄目ぇええええええぇえええ!」
それは突如割って入った声に中断される。
「セシーナ?」
ぽつりとこぼしたのは、驚いた様子のルフェンド。
コウも今まで沈黙していた彼女が、叫んだことに驚きを覚えていた。てっきり、怯えるだけで何もしないと思っていたのだ。
見れば、セシーナは真っ直ぐにコウ達の方を見ている。と言っても、依然として視界は塞がれたままなので、コウとルフェンドの声が聞こえた方を見ているという表現の方が、この場合は正しいのかも知れない。
「どうした、お嬢さん?」
年齢を不詳にするために、セシーナに対してコウはそう問いかける。
ルフェンドとの会話の際に、声量を抑えたりはしていないので、彼の腕が切り落とされようとしているのは、分かっているのだろう。
彼女は真剣、というか切羽詰った様子で声を荒げる。
「その方を傷つけないで下さい!」
セシーナはそう言いながら、ふらふらと危なげな足取りで近づいてくる。
その要求はこの場ではあまりにも稚拙だった。
今どういう状況なのか理解しているのであれば、不利な立場の者がそのような一方的な要求をしても、何の意味がないことは明らかなのだ。
それだけ必死ということなのかも知れないが、もう少し言葉に重さを加えられないのかとコウは思ってしまう。
「お嬢さん、これはこの人が選んだことだ。こちらは教えて欲しい、そちらはそれを断った。なら、切り落とすしかないだろう?」
「そんな乱暴な……! あなたには知性ある人としての誇りはないのですか?」
「誇りを持っていて相手を打ち負かせるなら、誇りを持つ。誇りを捨てれば簡単に相手を打ち負かせるなら、誇りを捨てる。それだけだ……お嬢さんとここで討論をするつもりはない」
そう断言するとセシーナは足を止め、唇を噛む。
やはりそれらしくない。話せば話すほど、盗賊という存在から遠のいていく。
むしろ、対峙するコウの方がよっぽどそれらしいくらいだった。
黙ってしまった彼女に、場の勢いがなくなっていくのを感じながら、コウはこれからどうするか考える。しかし、それよりも先にぽつりと彼女が言った。
「その方は、この国の未来のために必要な方なのです」
(国のため……?)
コウは首を捻る。
セシーナがルフェンドを庇おうとするのは、信愛のようなものからだとコウは思っていた。
それは間違いないだろう。彼と戦う前の彼女の様子を見ていた限りだと、そう言った感情があるのは確かなはずである。
更に上乗せするものがあり、その結果として「国」という単語が出てくるのは、流石に予想外だった。
「セシーナ! お前、何を――」
「今は彼女と俺が話をしているから、黙っていてもらえるか?」
コウは音もなく剣を振るい、ルフェンドの首元を極々浅く切りつける。
剣先を突きつけるだけでは黙らないと思ったので、襟元ごと切って首に染み出る赤い線を薄くつけた。
これには流石に肝が冷えたのか、ルフェンドは取りあえず沈黙した。
「お嬢さん、国というのはどういうことだ?」
コウがそう聞くとセシーナは、言ってはいけないことだったという風に、口に手を当てたが、それ以外に会話の材料がないと判断したのか、意を決したように言葉をこぼし始める。
「ルフェンド様は、この国の未来を明るいものに変えていくのに、必要不可欠なお方なのです」
「この国、というのは?」
コウは何処の国であるのか問いかける。
領土的に言えば、ここはガルバシア王国だが、他国の者である可能性を考えたが故だった。
これに対して答えるか迷ったのか、セシーナは束の間、口を閉ざしてしまう。
流石にそこは簡単に教えるわけがないか、とコウは苦笑を浮かべ、ふと、大人しくした足元の油断ならない大男を見た。
それは何か考えがあっての行動ではなかった。ただ、様子を見る程度のものだった。
――――しかし、コウの目がそれを捉えたとき、空間が悲鳴を上げるかのように凍りついた。
「…………」
コウは見つけたものをじっと見つめる。視界の隅でルフェンドの横顔が蒼白になっているが、それすら意識の中に浮かび上がらない。
見つけたのは先ほど彼を黙らせる際に、首元を薄く切り裂くのと一緒に裂いた襟の裏にあった。
コウは緩慢なほどの動きで、黙ってそれに手を伸ばして触れる。そして、容易く襟を引きちぎり、それを手に取った。
硬く冷たい金属性の物だった。
その硬さが、コウの心を硬く無機質なものに変え、冷たさが温度を奪っていく。
金属性の物体の正体は記章であった。
円の周りを小さな三角がいくつも囲むことで形作る銀色の太陽を、青と赤の色が入れ混じった盾が守っているというものだ。
小さくシンプルな記章であるが、だからこそ、この意匠は繊細で作り手に技術が必要であることが分かる。
コウはこの記章が形作る印の持つ意味を知っていた。
太陽は全てを照らすものであり、銀色は王国において尊い色。
盾は守護者を表し、青色は空のような無限大な心の広さを、赤色は炎のように果敢にして勇猛な意思を意味する。
つまり、銀の太陽は王国を導く王であり、青と赤の色が入り混じる盾は、守護する者である騎士を表していた。
その二つが一つとなっている記章が示すものを、王国内で知らない者はいない。
「……お前ら、王国近衛騎士団のやつらだったのか」
温度のない、平坦で冷たい声だった。
コウは声だけではなく、欠落してしまったように表情も無感情なものへと変わっていた。
「ぐぅ……!?」
「ひっ!?」
ルフェンドの額に大量の脂汗が浮かぶ。セシーナは意味のない口の開閉を何度も繰り返している。
それは受けた指摘の内容もあったのかも知れない。しかし、それ以上に、コウの発する圧倒的な空気が、二人を飲み込んでいたからだった。
場に漲るのは明確な殺意。敵意を超えたその気配が、セシーナどころか、歴戦の戦士を思わせるルフェンドすら完全に押しつぶしていた。
コウが一言、何か言うたびに、空間に負荷がかかるようだった。
(今日は、どうも不快になることが多い日みたいだな)
人を人と思わない盗賊団のことだけでも十分不快であったのに、コウにとって近衛騎士という存在は、それ以上に不快だと思わせた。
ふと、昔のことを思い出しそうになり、それを打ち消そうとコウは無理やり考える。
(悪人ではないようだし、適当に解放するつもりだったが……)
どうするか考える。そう、考えてしまう。
脳裏にちらつくのは「殺す」という選択肢。しかし、それはいくらなんでも早計だと、冷静な自分が言い聞かせてくる。
さっきまでは解放するつもりでいたというのに、彼らの素性が分かった瞬間、コウは容易に生か死かという考えた方になってしまっていた。
それを自覚しながらも、コウはその感情を消し去ることが出来ないでいる。それほどまでに、湧き出た感情は絡みつくように粘着質だった。
「……頼みがある」
ふと、コウの思考を妨げるようにルフェンドが話しかけてきた。
コウにとって無意識に漏れ出ている殺気に威圧される中、それを発する張本人に声をかけるなんて、とんでもない胆力を必要とするものだろう。
現に、彼は一言話しかけただけで、どっと疲れに襲われているようだ。
「何だ?」
コウの返事は簡潔だった。
女性らしさを感じる柔らかな声音であるはずなのに、低い声は何かを押し殺しているのだと思わせ、逆に聞く者に対して薄ら寒さを覚えさせる。
そんな威圧感の中、それでもルフェンドは絞り出すように言った。
「セシーナは、見逃してやってくれないか?」
それは死を覚悟した者の言葉だった。
「ルフェンド様!?」
驚いたようなセシーナの声。しかし、コウにとってその願いは予想外なものではない。
彼の冷厳な態度の中に見え隠れする、部下を大切しようとする姿勢を何となく感じ取っていたからだ。
そう考えると王国近衛騎士であるという理由だけで、殺してしまうには惜しい男なのかも知れない。そう考えて、コウは自分の中で、珍しく葛藤らしきものが芽生えるのを感じた。
王国関係者で、しかも王と直接的な付き合いがある者、という近衛騎士の肩書きで簡略に考えてしまったが、ならばどうしてそのような者が、リーネのことを狙っているのかという疑問が出てくる。
どうするか迷うコウだったが、そこで近づいてくる人物がいることに気がついた。
「聞くが」
「何だ?」
ルフェンドの頼みに対して返答せず、コウは逆に問いかける。答えを先延ばしにした形だが、死を覚悟しているからなのか、それとも持ち前の胆力故か、ルフェンドに焦りの様子はない。
「連れている最後の仲間。あれもまた近衛騎士か?」
コウの言葉を受けると、ルフェンドは小さく唸り、少し間を置いてから答えた。
「奴の存在に気がついていることに、今更驚くこともないか……。奴は違う。ただ雇っただけの奴、人間を魔物の餌だと思っているような屑だ」
「随分な物言いじゃないか。それに屑だと評する割に、そんな奴を雇っている」
「――そうだな。まぁ、私も堕ちるところまで堕ちようとしている、ということだろう」
ルフェンドは何処か自虐的であった。
コウはその姿を見て、これは聞きたいことが増えたと考えながら、ルフェンドから距離を取る。
「詳しい話は後にするとして……余計なことを言えば問答無用で殺す」
「……いきなり物騒じゃないか」
戸惑うルフェンドに構わず、再び認識阻害を展開する。
コウが姿を隠して少しすると、こちらに老人がやってきたのだった。
「馬鹿みたいな轟音がしたかと思えば、お主ら一体何をしている?」
それは魔物使いの老人であった。
コウにとって彼は初見であったが、先ほど交わしたルフェンドの言葉と、狼型、鳥型のフィフス森林に生息しない魔物を数匹連れていたので、老人が魔物使いであると容易に判断出来た。
老人はどうやら、コウとルフェンドの戦いで生じた音によって、この場へと招かれたらしい。
「なるほど、そういうことか」
ルフェンドが呟いた。コウが言った言葉の意味を理解したようである。
この老人にコウのことを話せばどうなるか、それが伝わっているのだろう。
「何が、なるほどなのじゃ?」
老人が怪訝そうにする。意外なのは、青い光の鎖に縛られるルフェンドと、視界を塞がれたセシーナの姿を見ても、彼が落ち着き払っていることである。
場馴れしているのだろうとコウは思った。
「いえ、何でもありませんよ。この状況は部下と戦いの修練を行った結果なので、構わず戻って頂けるとありがたいのですが」
ルフェンドがそんなことを言う。
首が固定されているため、姿を消す所を見たわけではないはずなのに、恐らく、彼はコウが姿を消した状態でこの場に留まっていることを推測しているのだろう。
老人に助けを求めることもなく、この場から遠ざけようとしていた。しかし、老人は額の皺の数を増やし、口元を歪めて言う。
「思っておったのじゃが、お主、わしと一緒にいるのを避けておらぬか? そんなにわしのことが嫌いかね」
「……そのようなことはありませんが?」
「いいや、ある! わしがそう思っている時点で、仮にその意思がなくとも、お主は無礼を働いておることになるのじゃ!」
めちゃくちゃなことを言ってのける、とコウは他人事ながら白けた顔でその様子を見ている。
ルフェンドが強い反論を示さないことから、思い当たる節があるのかも知れない。そんな風に推測していると、あまり否定しようとしない彼に腹を立てたのか、老人は当り散らすように地面を何度も踏みつける。
「わしは、人に蔑ろに、されるのが、大嫌い、なんじゃ! それなのに、お主はわしを虚仮にした! これは許せぬのぉ」
まるで油に火をつけたかのように、老人は急激に怒り狂う。それはまるで癇癪を起こした子どものようであった。
ルフェンドに向けていた血走った目を、老人はセシーナへぎょろりと向けた。
目を向けた途端、ぴたりと静止したかと思えば、老人はケタケタと笑い出す。
「そうじゃ、そうじゃ! あの小娘、お主の部下を頂こうかのぉ! 餓鬼と若い女の肉は、わしの子どもたちにとってご馳走なんじゃ!」
「なっ、それだけはご勘弁を……!」
まさかそんなことを言い出すとは思っていなかったのだろう。コウの言葉を並みならぬ胆力で受けていたあのルフェンドが、老人の暴挙に慌てふためいている。
その様子から察するに、あの時のコウとは違って、老人は本当にやるだろうと判断したようだ。
「いいや、決めた。わしは決めたぞ! わしの可愛い子ども達よ。あの女を好きに食らえ!」
魔物使いの老人が歩きながらそう命令すると、魔物たちは即座に反応を示し、牙を、爪を、嘴をセシーナへと殺到させるため、動き出す。
「やめろおおぉおおおおおぉおお!」
ルフェンドは叫び、魔物たちを止めようとする。しかし、魔物使いである老人に操られている魔物たちに効果はない。
そもそも、地に縛られるルフェンドのそれには迫力すらなかった。
セシーナは最早身体を強張らせているだけだ。それはコウの殺気に当てられたせいでもあるし、ずっと視界を塞がれていたからでもあるだろう。
光のない世界に慣れない者は、それだけで疲れるものなのだ。彼女の疲れはピークに達しているはずである。
「ひゃははははははっは!」
老人の狂ったような笑い声の中、ルフェンドの視線の先で、魔物たちがセシーナの姿を覆おうとする。ルフェンドは叫ぶことをやめ、ただ見つめていることしか出来ないでいた。
首が固定されていたが、目を閉じることは出来た。だが、彼は見続ける。
目の光を怒りと憎しみ、そして絶望に染めていきながらも、それが最後の責任であるとでも思っているのかも知れない。
(不器用な男だ)
実はずっとルフェンドの傍らに立っていたコウは、今の彼を見てそんな感想を抱く。
故に、とも言えるだろう。この行動を起こしたのは。
コウは魔術師であるセシーナがいることを考え、魔力が感じ取れるように魔術を通常展開する。
(――風鳥の刃翼)
詠唱破棄で放ったのは、初級風属性攻撃魔術。しかし、初歩とは言え、それは魔術だ。老人が連れる魔物たちには十分であった
「ピギャ!?」
「ギャギィ!?」
魔物の中で、狼型だったものは四肢を切断され、鳥型だったものは両翼がもがれた。
「はっ、ははっ――は?」
笑いを中途半端に止め、ぽかんと何が起こったのか理解出来ていない老人。ルフェンドも、そしてセシーナも同様のようである。
この中で一番に何が起こったのか理解するであろうルフェンドが、思い当たるよりも前にコウは動く。
魔術による風の刃で魔物たちの首を落すと、通常展開で魔力が漏れたことにより、認識阻害の効果が下がっていたので、一度解除してから再び展開しなおす。
そうしてから老人に近づくと、その腹にルフェンドの剣を突き立てた。
剣を介して触れたことで、コウが展開した認識阻害の効果が再びなくなるが、目的は達したので問題ない。触れた部分から効果がなくなっていく。
老人は自分の身に生じた違和感に気づき、ゆっくりと腹へと視線を落とた。そして、自身の腹から剣が生えているのを見て驚愕に染める。
出現していく剣を、それを握る手を確認しながら、徐々に瞼を上げていき、そしてコウと目が合うと、老人はこれ以上無理だろうというくらい目を見開いた。
「お主ぃばぁ……!」
言葉の途中で老人の口から、粘着質な音と共に赤い塊が飛び出て、前に立つコウのマントをべっとりと汚した。
コウはその様子を見ても、このマントはもう捨てなきゃ駄目だなと、その程度にしか思わない。
半ばまでしか刺さっていなかった剣身を、最後まで差し入れるために、コウは腕に力を入れる。
「おごっ……おぉぉ」
抵抗するつもりらしく、老人が手首を掴んでくるが、力は感じられず、難ともせずにコウは柄まで剣身を押し入れた。
戦闘職は様々あり、その職種ごとにメリット、デメリットはあるが、魔物使いのデメリットは魔物がいなければ非力な存在であるということだろう。
今の状況はそれを表していると言えるかも知れない。
手を離すと老人は後ろによろめいていく。
老人は両手で柄を掴んでいるが、コウから見て抜けそうな気配はない。老人自身もそう思ったのか、諦めたように膝をつくと弱々しくコウを見てくる。
「おぬし……したのだ、な」
老人は一部分が聞き取れないほど、弱々しく何か呟き、そしてゆっくりと体を横たえた。
コウはちらりと一瞥すると、ルフェンドの下へと戻る。
「……どうして助けた?」
辺りには湧水が染み出るように、ゆっくりと、しかし確実に、血の匂いが立ち込め始めている。
位置的に見えなかったルフェンドだが、何があったのかを推測しなくても、コウが何をしたのか理解しているのだろう。
故に、彼の問いかけは、セシーナに迫る魔物を倒したことに対してであるだろうし、老人のことに対してでもあるに違いない。
老人を手にかけたことに関して、何も感情を見せないことから、ルフェンドも老人に対して思うところはあったようである。
コウは問いかけには答えず、老人が来る前に思いついた、聞きたいこと尋ねる。
「どうしてあの娘は生きている?」
「どういう意味だ?」
「俺はお前のことを高く評価しているよ。近衛騎士ルフェンド」
「何?」
唐突に、しかも敵であるはずのコウから褒められたので、ルフェンドは困惑しているようだ。どういうつもりか判断しかねているのか、憮然とした様子を見せている。
コウはそんな態度には構わず続ける。
「そんなお前に狙われているのに、あの娘が生きていることが俺は不思議だ」
王国近衛騎士というのは、ガルバシア王国に於いて騎士のエリートを指し示す。
リーネが命を狙われ続けているのは数年に及ぶと聞く。つまり数年もの間、襲撃は失敗に終わっているということだ。
それは護衛役であるアヤの奮励の結果であるだろうし、リーネが心痛に耐え続けて来たからだとも言えるだろう。しかし、果たしてこの近衛騎士というエリートが全力で挑んでいたのなら、言ってしまえば、たかが小娘達を相手に数年も失敗を重ねるのだろうか。
それは尤もな疑点であるはずなのだ。
コウの指摘に合点が行ったのか、ルフェンドはぶっきらぼうに答える。
「それはその評価が勘違いで、私が無能だったというだけの話だ」
「仮に戦士としては一流だが、指揮官としては無能だったとする。だが、お前がその気になれば、策など必要とせずに、ただの戦士として挑み、単身であの娘の命を奪うくらい出来た。違うか?」
「……過大評価だな」
(何か訳ありか?)
一間置いて答えたのを見て、コウはそう考える。
いや、そもそも近衛騎士といえども、命令を受けて動く駒の一つでしかない。
個人の意思が命令の内容に沿うものでなければ、訳の一つや二つ出て来るだろう。
(原点回帰じゃないが、問題の根っこから考えるべきか?)
問題の根っこ。
それは何故王国がリーネを殺そうとするのかである。
国という大きな力が、たかだか少女一人を殺しにかかる意味を考えなければならない。
(いや、国単位で考えるのは違うか?)
国を挙げてというのは、大勢の騎士を集めて、大規模な討伐隊を組むようなことを言う。ルフェンド達は秘密裏に動く、少数精鋭という印象が強い。
「国」と絡めて考えていたが、どちらかというと、もっと狙いを絞って考えるべきだとコウは思った。
(そうなると……王家、将軍、大臣クラスか?)
基本的に近衛騎士というのは、王家直属の部隊だが、将軍と大臣にも指揮権が一応ある。
それは有事の際に王家の者と近衛騎士が分断されている際に、指揮系統をはっきりさせておくためだ。
勿論、王家側、将軍と大臣側のどちらの指令が優先されるか言えば、王家の方ではあるのだが。
コウはまともな回答が返ってこないことを覚悟で質問を投げかけていく。
「お前らは誰の命を受けて動いている?」
「答えられんな」
「お前の目的は?」
「答えられんな」
「あの娘が生き延びていることに関しては?」
「答えられんな」
「今朝何食べた?」
「……答えられんな」
少し茶目っ気を入れると、ルフェンドから戸惑いや呆れのような気配が伝わってくる。
コウは何となく出た自分の言葉に、最早彼らを殺す気が失せていることに気づいた。
所詮は肩書きに囚われ、漏れ出た殺意。失せるのはあっという間だった。
(俺も、まだまだお子様ってことかね……)
そんなことを思いながら、コウはいつもの調子を取り戻して語りかける。
「訳があるなら話してくれないか? もしかしたら力になれることもあるかも知れない」
最近こんなことばかり言っているような気がする、と思いながらもはっきりと言う。
「……私達は敵同士だぞ?」
「今はな。今後もそうである必要はない」
「…………」
沈黙。しかし、それは拒否ではなく、迷いから来るものであると思えた。
それを破るには、まだ説得する必要があると感じたが、それは意外な形で終わりとなる。
「ルフェンド様、良いのではないでしょうか?」
声に張りはなかった。それは疲労困憊であるが故だろう。しかし、それでもルフェンドが連れている唯一の部下、セシーナはそう進言してきた。
「セシーナ?」
反応したルフェンドには、気遣いと驚きが見て取れた。疲れ切った彼女が、ここで会話に加わってくるとは思っていなかったのだろう。
それはコウにしても同じだった。話しかけても威圧してしまうだけだろうと思ったので、もう彼女はいないものだと思うことにしていたのだ。しかし、彼女は自ら口を開いた。しかもコウを肯定する形で。
弱々しい印象しか抱いていなかったが、彼女はやはり不屈にして一流の戦士である、ルフェンドの部下なのだとコウは評価を改める。
「ルフェンド様もお気づきなのではありませんか? 今のままでは限界が近づいているということに」
「……お前も、そう感じていたのだな」
「はい。……個人的な意見ですが、その方は武と知を兼ね備えており、只者ではないと感じています。味方となって頂くのに、これほど心強い方はいないと思います」
「それは、そうだが……」
セシーナの諭すような言葉にルフェンドが唸る。
一見、全てをルフェンドが考え、指示し、行動しているのかと思っていたが、今のやり取りを見ると、そうではないのかも知れないとコウは感想を抱く。
セシーナがコウに対して抱く像は、卑怯者で狡賢い者、そして恐ろしい者であるはずだ。コウはそういう戦い方や話し方をしているという自覚がある。
それなのに客観的に物事を判断し、感情に囚われずに主観として説き、こうして引き込もうとしている。
(あまり彼女の存在を蔑ろにしない方が良いかも知れないな)
戦う前に戦闘能力を奪っていたので、あまり注意を向けていなかったが、セシーナもまた有能な者であるようだった。
「武と知を兼ね備えた、か」
黙考していたかと思えば、ルフェンドがぽつりと呟いた。
そして続けられた言葉は、コウにとって少し予想外なものである。
「もしや、あなた様はゼウマン・クライニアス様では?」
「あんな実存する偉人が、小娘のお守りなんぞするわけないだろう」
コウはその問いかけに間髪いれずに答える。
数々の伝説を残す彼の人物は、既に教科書に名前が載っていたりするのだ。
ルフェンドの冗談か本気なのか分からない言葉に、コウは呆れながらつっこむように軽く返す。
コウは知る由もなかったが、彼は今回の件にゼウマン・クライニアスが絡んでいると思っているので、思考が何かしら結び付けやすくなっているのだ。
そして、ここで学園長の名前を出すあたり、彼は対話するコウが声を変えている可能性を十分考慮していることが発覚する。つくづく抜け目ない男である。
「それもそうか……」
その通りだと思ったのか、それ以上ルフェンドは言葉を重ねたりはしなかった。
彼は地に伏せられたままの状態で考え込んでいる。束縛から解放してやってもいい気はするが、コウはあまり積極的に正体を晒したいとも思わないので、結局はそのままでいてもらっていた。
「訊ねたい」
「何だ?」
そろそろ説得を再開しようとしたところで、先に口を開いたのはルフェンドの方からだった。
コウはどんな問いかけが来るのか、僅かな時間の中で様々な推測を立てていくが、彼の口から出たものは、どれにも当てはまらないものだった。
「お前は、あの少女の味方か?」
その突然な問いかけに、一瞬意味が分からなかったが、すぐに答えを口にしようとする。
「味方だろう? 現にこうして――」
「一過性のものではない。今後どんな時も、あの少女を裏切らないか?」
しかし、言葉は途中で遮られ、その上、それは重い問いかけであった。少なくとも正体不明の相手にする類のものではない。
コウの素性を知らない彼からすれば、相手は雇われの身なのかも分からないのだ。故に、その問いにはそうであって欲しいという願望もあるに違いない。
問いを受けて、コウは何となくアヤの事を思い出した。彼女も真に味方である相手を欲しているようであった。
それほどまでリーネには味方がいないということなのだろうか。そう、コウは考える。
「……仮に俺が答えたとして、お前はそれを信頼するのか?」
「信頼しよう」
「即答かよ。情報を引き出すために、思ってもいないことを言う可能性を考慮しないのか?」
「それでも、私は信頼しよう」
コウは卑怯な方法で彼に勝利している。そんな相手の言葉を信頼するという彼が信じられなかった。
「何故だ? お前の部下を助けたからか? それだって情報を引き出すための一環かも知れないじゃないか」
コウは見ることはなかったが、そこでルフェンドは自信ありげにニヤリと笑った
「勘だよ。私の勘はよく当たるのだ」
「……それは随分と理論的じゃないな」
一度そう否定したが、すぐにコウはニンマリと笑みを浮かべる。
「けど、そういうのは嫌いじゃない」
お互いに相手の顔に浮かぶものは見えていないのに、この時ばかりは不思議なことに何故か想像出来た。
同種の笑みを浮かべ、ひとしきり笑うと、コウは声に真面目な調子を戻す。
「あの娘には可能な限り手を貸してやるつもりだ」
「それは裏切らないということか?」
「少なくとも、手が貸せない状況になっても、あの娘が不利になるようなことはしない」
「確かに聞いたぞ?」
「確かに言ったさ」
断言すると、なるほど、とルフェンドは呟くと少しの間黙り込む。
そうしてややあってから意を決するように口を開いた。
「……私達は、とある人物から、あの少女を亡き者にするよう命を受けた」
(誰なのかは流石に言わないか……)
言わないのは最後の義理みたいなものなのだろう。
それは仕える者として立派なことではあったが、コウとしては固いと言わざるを得なかった。尤も、そんな彼だからこそ好感が持てるのだが。
「私は騎士だ。命を受けたならば、それを遂行するのが仕事。だが、私は騎士であるからこそ、あの少女を殺すことが出来なかった」
どういう意味なのか思わず聞こうとして、寸前でそれを飲み込む。今は彼の話を全て聞こうと思ったのだ。
黙って最後まで聞こうとするコウの意図を理解したのか、ルフェンドは語り続ける。
「だから、私は守ることにした。しかし、ただ命令に背く形で動いても、後続の者がやって来る。なら、命令に背かず守ればいいと考えた私は今、この時までやって来た。そのせいで多くの者に――特にセシーナには私が思っている以上の苦労をかけただろう」
「そんな……私はルフェンド様の部下であることに誇りがあります! ですから、貴方とやってきたことを苦労だと思ったことはありません!」
聞き捨てならないとばかりに、すぐさまセシーナが反応している。
そのやり取りを聞きながら、コウは目を閉じ、聞いたことを反芻させていく。
亡き者にせよという命令に背かずリーネを守る。
それはつまり、任務を受けながらもわざと失敗し、近衛騎士というエリートでありながら、叱責を受け、詰られ、信頼をなくしていきながらも、今日という日まで耐えてきたということなのだろう。
近衛騎士という肩書きがあったからこそ、数年にも及んで失敗が許されたという面もあったのかも知れない。
それは彼らが「限界である」と言っていたことから想像出来た。
ルフェンドは淡々と語っているが、今に至るまで何度辛酸を舐め、どれほどの屈辱を受け入れ続けたのか、コウには想像も出来そうになかった。
「だが、それも限界が近づいてきている。私からの依頼は犠牲を伴うと、この手の話を受ける者達の間で噂になり、人を雇うことが難しくなってきているのだ。そして、何よりも、そろそろ上に私のことが怪しまれ始めた」
「むしろ、よく今まで怪しまれなかったのかが不思議だよ」
思わずコウがそう言うと、ルフェンドは苦いものを口にしているかのような声音で言う。
「……私には敵が多くてな。その連中に失敗を重ねることを喜ばれた結果だ。皮肉なことに、いつもなら私の行いを批判する者達の後押しがあったおかげで、今日まで繋げることが出来た」
「なるほどな」
ただでさえ、階級差別などが根を張り始めているのに、国を運営する一翼たちがそんな風で、これから先どうするんだとコウは一度考えたが、だから国が腐り始めているのかと考え直した。
呆れつつ、コウは話を聞いている内に思ったことを訊ねる。
「聞きたいんだが、この前あの娘にドリークたちをけしかけたのもお前らなんだよな? あれは少しやばかったと思うんだが、毎度あんな感じだったのか?」
そう指摘すると、ルフェンドは大きく溜息をついた。
「あれは私が考えた作戦ではない」
「何? ……つまり、お前ら以外にも、あの娘を狙う動きがあると?」
「正確には動き始めている、だな。私に見切りをつけようとしているのかも知れない」
聞けば、あのドリークの件は、ルフェンドも後から知らされたらしい。
ルフェンドに指示を出す者が、なかなか成果を出さないことに業を煮やしたのだろう。
数年も我慢したことを褒めるべきか、それともそれだけの失敗が続いても、ぎりぎりまで許されたルフェンドを褒めるべきか、或いはその両方なのだろうか。
ともかく第二の刺客という言うべき存在が動こうとしている、ということだった。
「そいつは他にも何かやろうとしているのか?」
「分からない。私には誰なのかも教えられていないのでな」
「そうか……そうなると、今後はお前らの偽装襲撃に合わせて、本当に殺す気で襲撃して来る場合の二つがあるのか」
そうなると見極めが難しくなるので、結局どちらも全力で対処しなければならず、面倒なことこの上ないとコウは顔を顰める。しかし、その考えは杞憂であった。ルフェンドが断言したのである。
「その心配はない。今後は全て本気で襲ってくると認識していて欲しい」
「どういうことだ?」
まさか、コウという護衛役が増えたので、「手加減しないでもいい」などと考えたのではないだろうな、と勘ぐるが、彼が言うのは全然違う理由であった。
「私達はもう襲わない」
「うん? 理由は?」
「これ以上、今の肩書きのまま、あの少女を守るのは限界だろう。今回の作戦でそう判断した」
それは肩書きを捨てる――――騎士をやめるということなのだろう。ただの下っ端騎士であるならともかく、ルフェンドは騎士のエリートと言える近衛騎士。普通はそう簡単に捨てられるものではない。
コウはまさかそこまでするとは思っていなかったので、少なからず驚いた。
ここまで来ると、どうしてそこまで出来るのか疑問になってくる。しかし、肝心なことはリーネ自身が話すまで待とうという気持ちもあった。
コウはルフェンド達の下へとやってくる前に、自身の中途半端な偽善的行動を自虐したが、早くも綻びが生まれようとしていた。
少し話が聞ければいい程度の気持ちでやってきたが、予想以上に襲撃者から情報を聞き出せそうなのだ。
コウは選択に迷い逡巡した。ここで全て聞いてしまうか、それともリーネが話すのを待つのか。
そんなコウの葛藤を知らないルフェンドは、近衛騎士をやめる決心したことで、全てを話す決意を固めたようで、会話を始めた時よりも幾らか明るい調子で口を開いた。
「いいだろう。お前を協力者とし、全てを話そう……ここからは仲間として話がしたい。だから、拘束を解いてもらえないか?」
その提案を聞いて少し考える。コウはなるべく正体を晒したくはないのだ。
それは一種の警戒であるとも言えた。確かにコウは協力するつもりだし、信頼関係を築く上で、顔を見せるというのは、基本というか当然であることを理解している。
ルフェンドのことは結構気に入っているし、その彼が連れる部下であるセシーナも問題ないと思っている。しかし、それでもすぐに決められない一つの理由として、今までのスタンスがあった。
コウは実力を隠しているが、誰かの人命が脅かされるレベルの事態に遭遇すれば、全力で事に当たる。だが、それは逆に言えば、必要がなかったら実力を晒すことはないということだ。
隠す上で重要となってくる、自分の正体に関しては殊更慎重になってしまう。
そもそもコウにとって、リーネの出会いとその後の関係自体が予想外のものである。
今の関係について後悔はしないが、彼女との出会いにより、なし崩しにアヤにも実力などが、知られてしまっていることを忘れてはならないだろう。
秘密の強度と言うのは、知っている人間が少なければ少ないほど頑丈になり、多いほど脆くなる。
自分のことを知る人間が増えることに慣れるのは避けたかった。
そして何よりも、リーネに関して話を聞くか踏ん切りがついていないこと、それが顔を見せるか迷う、一番の理由であった。
メリット、デメリット、義理や礼節を考えて、どうするか検討するため頭を働かせる。――――だが、結論を出す前にコウは思考を中断させ、素早く背後を振り返り、突如溢れ出た力を凝視した。
視線の先にいるのは腹に剣が突き刺さり、力なく体を横たえている魔物使いの老人だった。
溢れ出た力と表現したが、正確に言うのであれば、コウが見たのは老人である。既に事切れたと思われた彼から、魔力が、生命力が溢れだしたのだ。
「な、なんですか、この魔力!」
魔術師であるセシーナが驚きの声を上げる。コウも声には出さないが、かなり驚いている。
生きていたこともそうだが、それよりも信じられないのが、漏れ出る魔力の量が明らかにおかしいことだった。平均的な魔術師の十人が集まっても、同量になるか分からない程の量が、溢れ出ているのである。しかも、その総量は尚も増え続けているようなのだ。
老人、ということで、魔術に長けた人物であることは予想出来たが、まさかこれほどの魔力を隠していたとは驚きである。
(魔力の総量を隠す魔導具は希少だって聞いたが……)
コウは観察を続けながらコ考える。
その身に宿す魔力の総量を隠す魔導具は確かに存在する。しかし、保有する魔力は誇示出来る強さの一つとも言えるので、隠す意味はあまりない。
また、その魔導具自体の制作難易度が高いために、世に出回っている物は、ほぼないと言っていいくらい希少である。
それをあの傲慢そうな老人が所持していたのかと考えて、コウはまた別の意味で驚いていた。
「ひっひひひひっ!」
コウの思考を中断させるかのように、老人が体を横たえたまま、金属をかき鳴らすような笑い声を上げる。酷く耳障りだった。
この時点でまともな状態ではないのが明らかであり、何をしてくるか予想出来ないので、コウは慎重に慎重を重ねるようにして身構える。
「そ、そうかぁ、ぬ、主らは、国の犬であっだのがああああぁあああぁああああああ!?」
前触れもなく、老人が誰もいない空間を見つめたままがなり、ぐるりと顔だけコウ達の方に向けると、口の端を吊り上げて笑った。
不気味な笑みだった。よく見れば、口から泡のようなものがこぼれている。
「わしは、のぉ、わ、わしはのぉお、蔑ろにされるのは、きらいじゃが、それ以上に――」
そこで老人は徐に立ち上がると、腹から生える剣の柄を両手で握る。
「王国が、この国がだいっきらいなんじゃよぉお!」
あっさりと、老人は剣を引き抜いた。
さっきコウが突き入れた時は、抵抗らしい抵抗も出来なかったというのに。
ルフェンドやセシーナは、何が起こっているのか完璧に把握は出来ないだろうが、それでも異様な気配は感じ取っているのか、息を呑んでいるのが分かった。
コウは老人を見つめ続ける。何かおかしいのだ。
てっきり、魔導具によって保有する魔力の総量を偽っていたのかと思っていたが、その魔力は脈打つようにまだ増え続けているのだ。
それに血を撒き散らしながら、げらげらと笑い叫ぶ様子は、誰がどう見ても異質である。
コウの視線の先を追ったのかどうかは知らないが、老人は力を抜くように首を落として自分の腹を見た。
「あ゛~? 足りないのか? まだ足りんかったか?」
などと老人は意味不明な呟きを繰り返したかと思えば、懐に手を伸ばすと、赤い布の小袋を乱暴に取り出した。
一体それは何なのかと警戒を強めるコウが見守る中、彼は顔を上に向けると、袋を口の上で逆さにし、中の丸い物体を大量に呑み込み始めた。
(なんだ、あれ? 丸薬か……?)
コウは訝しむが、この状況で飲むとしたら、止血剤か鎮痛剤だろうかと予想を立てる。
「ひっ、ひゃっー! きた、きたきたきたきたきたぁぁああああ!」
だが、そんなコウの予想とは裏腹に、老人は感情を高ぶらせ、一つの場所にいることが出来ないかのように、ふらふらしながら叫び散らす。
その様子から、どのような薬かは分からないが、とりあえず副作用に興奮する作用があるのだろうと、コウはぼんやり考えたところで変化に気づいた。
「ひっははっははひっ!」
まるで体が疼き、動くことを止められないかのように、老人は落ち着きを見せない。
一見、酔っぱらいのように見えるが、着目すべきはそこではない。彼の腹に空いた穴から流れ出ていた血が止まっていることだろう。いや、それだけに留まらず、どうやら傷は塞がっているようなのだ。
(どういうことだ? 何故、傷が治っている?)
治癒魔術師が重宝されるのは、その力が魔導具などで再現出来ないからである。
故に、傷をすぐに治すのは治癒魔術師がいなければ不可能であるし、だからこそ、戦いを生業にするような騎士団などを治癒魔術師が訪ねれば、簡単な面接だけで即採用、宝のように大事にされるというわけである。
その前提で考えるのであれば、魔物使いの老人は治癒魔術が使えたということになるのだが、傷を治すのに魔術を使用した素振りはなかった。
そもそも彼の言動から察するに、先ほど大量に摂取した丸薬が、即座に傷を治したことに関係していそうである。
「これでぇ、わしは最強ぉ、これでぇ、わしを蔑ろに出来る者は、おらぬう」
老人は何処を見ているのか分からない虚ろな目で、口からは泡のような涎が吹きこぼし、力が入らないかのように足取りは危なげである。
普通なら、そんな状態で出来ることなど、ほぼないと考えるところだ。しかし、彼の魔力は増え続けており、意識も混濁としているようで、極狭い範囲にではあるが指向性もあるようである。今の彼を常人と同じだと考えるのは危険に思えた。
故に、コウは一つの動きも見逃さないように観察を続けながら、迂闊に近づかないようにしている。
「ぬしも、国の犬だったとはな……伝説が相手じゃ、最初から全力で参ろうぞぉ!」
会話を大体聞いていたらしい。
コウはルフェンド達と同じ近衛騎士ではないが、彼からすれば協力するなら同じらしい。
それよりも老人はコウに向けて「伝説」と口にした。それをルフェンド達に聞かれたことに、コウは内心舌打ちをするがまだ動かない。
一瞬、特殊展開で先手を打つ手段を検討するが、ここにはルフェンド達がいる。
正体を晒すかどうか決めかねている以上、特殊展開は見られることはなくても、状況などから種が割れる可能性があったので、それは避けるべきだと考え直す。
ならば、普通に魔術を展開すればいいのかと言えば、そうでもない。魔力が感じとれてしまう通常展開を、何の考えもなく正面から放てば、避けられて終わりだろう。
そうこう考えている内に、老人の方から動きがあった。
「今のわしにぃ、不可能はぁない! 伝説、食わぁせてもらうぅうう!」
老人は懐に手を伸ばすと、紙束を取り出した。
それは召喚符だった。枚数は二十を優に超えるだろう。老人が投げた瞬間、その全てに炎が灯るように、光が蝕んでいく。
「行けぇ、わしの子どもぉたちよ! 奴を食らい尽くせぇええ!」
召喚符。札と契約したものを、札を座標としてその場に呼び出す代物。その相手は契約させる術者の腕によって、人間に限ることではなかった。
空間に数十の術式陣が浮かび上がり、その中から様々な魔物が出現していく。
(召喚符なんて高価なものを……大奮発だな、おい!)
冷静に場違いなことを考えながら、コウは相手の手口を知ると、ルフェンドとセシーナの周りに通常展開で障壁を張り、混合する魔物の群れに飛び込む。
コウは初級地属性攻撃魔術『石獣の牙』を放ち、数匹を仕留めると四肢に力を籠め、手近な狼型の頭部を踵で踏みつけるようにして前蹴りを放つ。
それだけで狼型は歯という歯を吐き出しながら吹き飛び、背後を狙ってきた鳥型は腰の回転に合わせ、振り向き様に手刀で薙ぎ払い、潰すように打ち落とす。
蛇型を『風鳥の刃翼』で刻み、猪型の鋭い牙による突撃を右手で受け止め、地面に叩きつけることで牙を折り、折った牙を空中で逆手に掴むと、頭蓋骨を割りながら差し入れて猪型に止めを刺した。
また別の狼型がやってきて飛び掛かってきたのを、コウは体を沈めて避けながら腰を回転させ、左肘を突き上げることで胴を打ち、涎やら吐瀉物を散らしているのにも構わず、左肘を戻す動作で上半身を回転させ、右手で掌底の追撃を放ち吹き飛ばす。
息を吐く間もないような密度。しかし、コウは一つの傷を負うこともなく、冷徹に捌き切り、魔物の数を減らしていく。
「くっかかっか! 流石は伝説! 伊達ではないのぉ! その速さぁ、力ぁ、正確さぁ、判断力ぅ――全てが常識を脱しておるぅうう! 数体集まるだけで、騎士団の小隊が集まっても処理しきれるかどうか、というレベルのわしの子どもたちを、こうも簡単に屠っていくか!」
(思考能力がないわけじゃないみたいだが……妙に好戦的と言うか……)
老人は愛しいと言っていた割に、自分の魔物たちが倒されていくのを嬉しそうにしている。少しおかしくなってきているのかも知れない。
彼の言う通り、召喚された魔物たちは、ドリークなんかでは比べられないような危険度のものばかりだ。彼が最初に連れていた魔物たちよりもランクは上だろう。
全体の危険度から見れば、真ん中程度のランクになるが、それでも一匹だけでも、普通なら一人で倒すのは困難な相手となるだろう。
それを大量に用意出来ていることから、その思想は危険ではあるが、老人が魔物使いとして優れた人物であることが窺えた。
(国がグダグダしているのに、良い人材がこんなところで狂ってるんだもんな)
考えながらも蜥蜴型の腹に足を引っ掛けて、蹴りを放つ要領で飛ばし、近くの木に激突させる。
そうして、半分は減った頃だろうか。コウは異変に気付いた。
(なんだ?)
膨れ上がっていた老人の魔力が、加速的に減少していっているのだ。
魔物の数が減り、間が生まれたので慌てて見る。
そこには血走った目でコウを見つめたまま、勝ち誇った笑みを浮かべた老人の姿があった。
「く……かっ、もう、時間切れ、だが、間に合った」
意味不明な言葉。しかし、何かしたことは明白だった。
老人の足元に広がる術式陣。コウは詳しくないので、正体は分からなかったが、恐らく魔物使い特有の魔術なのだろう。
それが眩しいほどの輝きを持って、今まさに展開されようとしている。最終的には五十人分までは膨れ上がっただろう魔力を、全て注ぎ込んだらしい。
不自然に肥大する彼の魔力の波長があったために、気づくのが遅れてしまった。
既に完成しているようだ。今更止めることは出来ないだろう。
「お主ほどのが相手じゃ、出し惜しみはせんよ……」
呟くようにそう言った老人が枯れていく。
高齢と言うこともあり、元から張りはなかった肌だが、それが砂から水分が抜けて乾くように、完全に萎れ、肌の色も人間のものとは思えないくらい、暗い鳶色へと変貌してく。
その様子はまるで、いかなるときも折れることなく根を張り続けた植物が、ついに最期を迎えて朽ちるようでもあった。
事実、そうなのだろう。
枯れていく彼からは魔力が感じられない。彼の状態は枯渇状態を超えて、魔力を絞り尽くした者のそれだった。
普通なら出来ない芸当だが、彼が稀にいるという出来る者だったのか、或いは大量に摂取した丸薬が原因なのかは分からなかった。
魔力とは生命力である。生命力を全て体から抜き出すということは、どういうことか。それは考えるまでもないだろう。
「何か残す言葉は?」
召喚された最後の魔物を『石獣の牙』で打ち砕くと、コウは静かにそう訊ねた。老人は最後の一体が倒されたのを見ると、何処か満足げであるようだった。
コウから見て心が汚れきっている彼は、好ましい相手ではなかった。しかし、彼はコウとの戦いで卑怯な手を使わずに挑んできた。
それは自暴自棄に似た、捨て身だったのかも知れないし、深い考えがあるわけじゃなかったのかも知れない。
だが、結果として彼は熟練の魔物使いとして戦ったのだ。単なる感傷に過ぎないかも知れないが、最期くらいは敵意を持つことはないと思えた。
コウのそれが伝わったのかは分からないが、干からびるように朽ちていきながらも、彼は穏やかな笑みを浮かべた。
「何もない。伝える相手はもうおらん。強いて言うならば――」
真っ直ぐに見つめてくる。そこには知性すら感じられた。
そういえば、ついさっきまであった狂気が失せているようだった。
「お主が最期の相手で良かったわい。おかげで死後の世界に持参する土産が出来た。感謝するぞ」
その言葉を契機としたかのように、老人の足元にあった術式陣が展開し、空へと一条の光を放つ。それは無数に枝分かれして全方位へと散って行く。
光は尾を引きながら、きらきらと鱗粉のような、小さな光の粒を森林へと降り注がせる。
どのような効果を及ぼすのかも分からない謎の光だった。しかし、その輝きはまるで、朝日を浴びる白雪から発せられるもののようであった。
コウはまだ戦いの最中であることを忘れ、ただその光景に目を奪われる。
そして、仰ぎ見たまま言う。
「……何とも言えんが、あまり良い土産じゃないかもな。あっちじゃ、その土産は大量にあるだろうから」
視線を戻す。そこには体を投げ出して、眠りについた老人の姿があった。
コウはじっと見つめた後に、一つ大きく息をついて黙って歩み寄る。
倒れた彼、いや、彼だったものに用はない。
互いに何か感じるものが、確かにあっただろう。だが、それも束の間共有しただけのものだ。
やはり敵は敵だし、コウから見て、彼の心が穢れていたことに変わりはない。手厚く葬ってやるなど、コウの立場では許されないだろう。
彼の周辺に散らばっている丸薬を拾う。彼が大量に摂取した際に、口に入りきらなった物がこぼれ落ちたものだったので、数は少なかった。
コウはそれらをいくつか採取して、布を取り出すと包んでポケットに仕舞う。そうしてから、ルフェンドの下へと向かい、必要がなくなった障壁を消した。
「……伝説とは?」
近づいた気配を敏感に感じ取ったルフェンドの第一声。やはり聞こえていたらしい。しかし、コウはそれを無視する。
「時間がなくなった、俺はもう行く。あの老人の周辺にある丸薬を調べておくと、今後何かの役に立つかも知れないぜ」
質問を一切受け付けない雰囲気を察したのか、ルフェンドは少し黙ると質問を変えてきた。
「それは分かった。急いでいるようだが、何かあったのか?」
そういえばリーネに関して話が途切れたままである。急いでいることは伝わっているのだし、答えだけ聞いておくのも手かもしれないと、コウは一瞬だけ逡巡する。
そうして思い浮かんだのは、コウからすれば何故自分なんかをそこまで信頼するのかと、疑問を抱かせる無邪気な笑顔だった。
「老人が正体不明の魔術を展開し、広域に亘って謎の光を降り注がせた。効果が予想出来ない以上、俺はあの娘の下へと向かう」
気づけば口が勝手に動き、言葉はこの場をすぐに去るというものだった。
今まで敵役をやっていた者と協力することになり、リーネに関していろいろと聞き出すチャンスである。しかし、コウはそれを放棄した。
「なるほど……なら、行く前にここから東に少し行った所に茶革の袋がある。それを回収してから行け」
ルフェンドにはリーネの安全が第一という考え方があるのだろう。コウの言い分に対して特に否定をせず、むしろ肯定的に送り出そうとしている。
「……了解。拘束とお嬢さんのやつは、少ししたら勝手に解除されるから、そっちは好きにしてくれ」
「協力はするが、完全に信用しないという感じか……結局お前の顔は拝めずだな」
コウがついには姿を見せずに、この場を去ろうとするのに対して、ルフェンドはそんな風に言葉を投げかけてくる。
それにコウは答えずにマントを脱ぐ。老人の血や魔物の返り血がべっとりと付いてしまっているので、『認識阻害』を展開する上で、邪魔になるからだ。
何処にでも売ってそうなマントなので、捨ててもこれから足がつくことはないだろう。マントを投げ捨てて、コウは別れを告げる。
「じゃあな。これから先、どうなるかは分からないが、お前があの娘を助けようとするなら協力はしよう。次に会う時は敵でないことを願う」
「ああ、それに関しては私も同意見だよ」
『認識阻害』を展開。
その存在を隠すと、コウは音もなくその場を後にした。
お読み頂きありがとうございました。
小話一。亜麻色について。
亜麻色という定義に関してはいろいろありますが、私は広辞苑第六版の記述「灰色ががった薄茶色」という解釈を採用しています。
小話二。「あんな実存する偉人が、小娘のお守りなんぞするわけないだろう」
自重前「あんな会いに行ける偉人が~」 流石にこのフレーズは自重しました。
2012/06/05 01:20
一部文章と誤字脱字を訂正致しました。
2012/09/21 01:09
一部文章と誤字脱字を訂正致しました。