第二十三話 盗賊団の首領視点
フィフス森林に男達の集団があった。その集団の先頭を行く男が剣を振るい、草を切り裂き進む。
膝頭にも届かぬその草が、進行の妨げになるはずもないのに、男は大きく振りかぶった剣を目の前の草へと振り下ろしていく。
故に、その行動には、道を切り開く以外の意味がある。だから男は意味のないはずの行動を繰り返す。
その男は粗い生地を縫い合わせたような、質素な服を身にまとっている。四肢は細くひょろ長い。身長は高い部類に入るが、それが逆に男の体躯を虚弱に見せている。しかし、常に半眼のような眼に青白い肌が、醸し出す雰囲気に何処か不気味な印象を与えた。
「流石お頭! あんたの前を遮るものは、草一本だろうと蹂躙しちまう!」
男の背後からそんな声が響く。その声を合図とするように、背後から囃し立てるように野太い声が唱和した。それを聞き、これでいいと男は後ろの者達に顔を向けずにほくそ笑む。
男が握るのは細身の刃を持つ刺突用片手剣レイピア。用途はその名の通りであるが、そこいらの草程度であれば、難なく切り裂けた。
これをわざわざ振るっていたのは、自分の連れる手下達に粗野な姿を見せるためだった。
そう、手下。男は頭として、この集団に君臨する者なのである。
「かしらぁ、今日は帰ったら盛大に酒盛りですね!」
最初に声を上げたのとは別の者から声をかけられる。それに対して男は間を入れずに答えた。
「おう、なんなら豚の丸焼きでも用意してやろうか?」
「流石太っ腹! やっぱりアンタについてきてよかったぜ! なぁ、そうだろぅ、みんなぁ?」
手下の一人がそう言うと、他の者達も野太い声を一斉に上げて返事をしてくる。中には手にある酒瓶をぶつけ合い、既に仕事を終えたような雰囲気の者達もいる。
男はそれを満足げな様子で聞きながら、品のない笑い声を上げた。
「ぐひゃひゃ、まぁ、てめぇら落ち着け。そろそろ目的のお嬢さん方とご対面のはずだ。紳士らしくぅ、怯えさせないよう静かにぃ進むぅぞ!」
そう言いながらも男自身が怒鳴るような声で手下達に促す。何処からどう見ても緊張感の欠片もないような集団である。
この集団は巷で少しずつ名を売り始めている盗賊団であった。
まだ団員数八名と小規模なものだが「金さえ寄越せば何でもやってやる」を信条にし、愉快そうに残酷な行いを繰り返す暴虐な集団として知られていた。
男はこの盗賊団の首領である。腕力こそないが、団の中で一番苛烈なことを行い、恐怖を旗に団をまとめている存在だった。
「しっかし、アニキいいんですかい? 依頼人の奴は囲みを作れ、だとか言ってませんでしたっけ?」
さきほどまでに比べ、少しばかり抑えられた声で、話しかけられた手下の言葉に、男は少しだけ考える素振りを見せる。
今回こうして森林に足を踏み入れたのは、とある依頼があったからだ。
何でもあのクライニアス学園の生徒を攫って来いというものである。
男はこの話を持ちかけられた時、手を出したらやばいという噂のクライニアス学園と聞いて、少しばかり怯んでしまったが、最近は実力もつき、勢いのある自分なら大丈夫であると判断した。
それにそろそろ大きな仕事を熟さねば、配下の者達から嘗められるという危惧もあった。腕力がない分、功績を残さなければならないのだ。
男は怯んでしまったことを思い出してしまい、それを忘れようと強気に言葉を返した。
「ふん、関係ねぇよ。つーか、何で俺様があんな小物の指図を受けなきゃならねぇんだ!」
言いながら男は依頼人を思い出す。
岩壁のようにがっしりとした大柄な男だった。その強固な肉体、そして何より眼光にある鋭さは、思い返すだけでも体が震えた。
小物と称したものの、男は依頼人に対してはっきりと怯えていた。
噂で聞く学園の名よりも、自身の目で実際に見た依頼人の方が、やばいと思ったくらいである。
「あ、あんな強面を小物だってぇ!? やっぱりアニキはすげぇや!」
そんな男の本心など知るはずもなく、手下の一人がそう言うと、他の者達も同じようなことを捲くし立てる。
さっき静かにしろと言ったばかりであったが、今は自分の本心を悟らせないのには、良い隠れ蓑だと男はこっそりと息を吐く。
「あ、そうだ、アニキ! ……聞きてぇことがあるんですが、攫った娘は依頼人の奴に、そのまま渡しちまうんですかい?」
突然そんなことを言い出した手下には、嫌らしい笑みが浮かんでいる。
依頼人から『写映鏡』という魔導具によって、この場にいる全員が目標の女子生徒の驚くべき可憐な容姿を目にしている。
依頼人から説明を聞かされている間の数分しか、その姿を拝んでいないが、それでも鮮明に思い出すことが出来た。それだけ衝撃を覚える容姿だったのだ。
そんな少女を渡すのか? という問いかけ。言葉の意味は考えないでも予想が出来た。
「全く、あんな餓鬼の何処が良いんだか……そうだな、金を受け取るときに、奴を掻っ捌いてそのまま拉致るかぁ!」
依頼人の大男に対する恐怖を隠しながら、男は勢いのある言葉を吐き出す。
目標の女子生徒はそこらを探して見つかるような容姿ではなく、「何処が良いのか」と言いつつ、自分より上くらいの熟れた女を好む男から見ても、なかなかそそるものがあった。
攫った後、あの名高い学園による追及から逃れられるか考えるが、依頼人の男に罪をなすりつけ、自分達はとんずらすれば良いかと安易に判断を下す。
たまには手下に労いを提供するのも必要だろうと思ったのだ。
(ぐひゃひゃ、それにあれだけの金があれば、逃亡生活も豪勢に楽しめるだろうよ!)
この仕事を請けた最大の理由は、報酬として提示された金額だった。
女子生徒の容貌を見せるために、高価である魔導具を使っていたことから察するに、依頼人の大男はかなり金を持っているようであった。
使われた魔導具である『写映鏡』。見た目はただの鏡かと思いきや、鏡の中に女子生徒の姿が浮かんだ時は、かなり驚かされた。
ついでにあの魔導具も頂戴しようかと男は考える。そう妄想することで、依頼人に対する恐れが少しばかり薄まるような気がした。
前金として渡された額だけでも、しばらくは自分と手下全員が遊んで暮らせるだけの額があった。
そこまで来ると話がうますぎると思わないでもなかったが、何か裏があっても自分なら乗り切れると、男は自分を奮い立たせる。
心の隅で「調子に乗っているぞ」と自分に警告する、冷静な自分がいるような気もするが、それを無視してしまうくらいに、最近の男は勢いがあった。
(俺はこういった仕事が天職だったんだな。そうに違いねぇ)
鼻歌交じりに先を歩く。
依頼人の話では陽動として動く存在があるので、自分達は生徒だけを相手にすればいいという話だった。話を受けて一番最初に思い浮かんだ懸念である、噂の警備部隊があちらで処理されるなら楽なものである。
クライニアス学園の卒業生は有能な者達ばかりだと聞く。しかし、今から相手するのは、まだ学園で学ぶ最中の未熟な子どもだ。男は何て楽な仕事なのだろうとほくそ笑む。
こうして依頼達成が間近に迫り、男の思考はどんどんと緩んでいった。
何か裏があるのではないかと思わせた、依頼に対する報酬の額が膨大な理由。それは学園の知名度が原因で、引き受ける度胸のあるやつが、いなかったのではないかとも思えてきたのである。
それならば、この仕事を熟せば自分達、いや、自分の名声は更に高まると考え、男は笑みを深くしていく。
(世の中の厳しさって奴を教えてやるぜ。ぐひゃひゃ)
そんなことを考えている内に、指示のあった場所に大分近づいていた。
依頼人の大男から件の目標は、その付近を必ず通るので、その場所へ向かうように言われていたのだ。
何故、そんなことが分かるのか疑問に思ったが、闇雲に森林を歩いて探させられるよりは、断然楽な話だったので、男は素直にその言葉に従ったのだった。
(……ん?)
一仕事を始めるために、そろそろ集中を促すために声をかけようと、男は足を止めてから気づいた。そういえば、先ほどから後ろの手下達が静かなのである。
さっきまで考え事をしていたので、いつから静かになったのかまるで記憶にない。
今回の仕事は静かに移動する方が良いということを、いつも男の言うとおりにするだけの手下達が、自発的に考え付いたのかと疑問に思いながら、男は背後を振り返った。
いない。
誰もいなかった。
男の背後にあったのは、立ち並ぶ木々や草花による薮だけである。
「……おい、どうした?」
来た方向に向け、男は控え目に声をかける。しかし、返事はない。おかしい、と男は首を捻る。
いくら視界が開けない森林とはいえ、男を抜いた七人の手下達が固まって動いていたのだ。その姿が丸々消えたというのは妙なことである。
(魔物と遭遇したか? ……いや)
男は自分の考えを否定する。
この森林は深くまで行かなければ、ここら一帯にはドリーク程度の危険度の魔物しか生息していないはずなのである。
ドリークならば何度か戦ったことのある男の経験上、あの魔物は何かと耳障りな鳴き声を発する。それは嫌でも耳につく。
それにもしも敵と遭遇したならば、手下から怒声の一つくらい上がるはずだ。
男は背中に冷たい汗が流れ始めるのを感じた。
慌しく首を動かし、男は背後も含めて周囲を確認した。得体の知れない存在が、自分を何処からか見張っているような妄想に駆られたのだ。
その行動によって何者かを発見出来はしなかったが、代わりに見つけたものがあった。
「あっ!」
声を抑えることも忘れて、男は大きく声を上げながら、見つけたそれへと駆け寄る。
周りを見回してようやく気づいたのだが、少し離れた場所に手下の一人が、木の影に半身を隠すようして、うつ伏せに倒れていたのだ。
男は駆け足に近づき、一体何があったのかと緊張を高める。その目に倒れた手下の近くに転がるものが映った。
「って、ただ酔いつぶれただけかよ」
それは酒瓶だった。駆ける男の足が自然と遅くなる。
そういえば道すがら、ガブガブ酒を飲んでいた手下が数名いたことを男は思い出す。
(この分だと飲んでた奴らがぶっ倒れて、他の奴らが介抱してるんだろ)
呆れ返りながら男は嘆息した。
以前、酔っ払った手下が仕事で大きな失態を犯し、その際に男は全員に連帯責任として、拷問の一歩手前のような罰則を与えていた。
今回も懲りずに誰かが同じ過ちを起こしたので、他の手下達が自分の怒りを買わないように、必死に行動しているのだろうと男は結論付ける。
道理で自分に断りもなく姿を消したわけだ、と男は怒りと安心を覚えながら納得した。
「オイ、てめぇ何寝てんだ。他の奴らはどうしたぁ?」
ようやく自分の調子を取り戻した男は、改めて横たわる手下に声をかけた。しかし、手下は無反応である。どれだけ強い酒を飲んだのかと転がる酒瓶に目を向ける。
「あん?」
そして男は違和感を覚えた。
酒瓶には見覚えがあった。前に小さな村を襲った際に、強奪した物の一つである。
まだ造酒したばかりだったのか、或いは失敗作だったのか、その答えは定かではないが、度数が低くてどんなに飲んでも酔えない劣悪な品だった記憶があった。
「ったく、いい加減にぃしやがれ! とっと起きろってんだ!」
一体こんなものをどう飲めば、昏睡するほどに酔えるのか疑問に思いながら、男は倒れている手下を蹴り飛ばした。
その衝撃でうつ伏せになっていた手下が、ごろりと身体をねじる様にして仰向けとなる。
手下は目を見開き、その胸を真っ赤に染め上げて絶命していた。
「……は?」
男は間抜けな声を上げた。目の前にある事態に頭が追いつかないのである。
死んだ人間など見飽きるほどに見てきた。むしろ、男は屍を量産する側の人間だった。しかし、唐突に、音もなくやってきた予測不明の事態は、男をまるで初めて死に触れた無垢な少年のように変えてしまう。
「な、に……が……?」
呆然としたまま頭の中が真っ白になり、死に絶えている手下の肩を男は緩慢な動作で触れた。
それは起こす手段として揺り動かすためだったのか、男は自身でも分からなかったが、一つだけ痛烈に理解してしまうことがあった。
それは死に絶えた手下の体が、まだ暖かいことである。それこそ、今この瞬間命を散らしたかのように。
手下の状態を確認すれば、実は生きているなどということは考えられない。
それはつまり、この手下を絶命させた者が、
「……近くに……いる?」
ということではないだろうか。
「ひ、ひゃああはひゃひいいいいい!?」
仲間の仇を取ろうとは僅かも考えなかった。依頼された仕事のことなど頭から消え失せた。
男は奇声を上げ、何度も足を縺れさせながら、来た道へと駆け出す。
男は巷で悪名が売れ始めた、残虐にして非道な盗賊団の首領である。しかし、その痩せ細った身体の通り、腕っ節が強いわけではない。
依頼人の大男には恐れを抱いたし、手下達にだって戦って勝てるとは思っていなかった。
だからこそ、男の武器は少しだけよく回る頭と、残酷なことを平然と行っているように見せる演技力だった。
笑い方を不快なものに変えた。不摂生を心がけ見た目を不気味にした。手下達の自分に対する評価を常に気にして、仕事の難易度を見計らった。
そうして実力以上の恐怖を身にまとうことで、自分よりも屈強な男達を従えていた。それが男が首領でいられた理由である。しかし、土を撒き散らし、草を掻き分けて無様に走る様こそが、男の真の姿であった。
本当の男は臆病者だった。今はもう死から逃れることしか頭にない。
(他の、他の奴らは何処に行った!?)
懸命に足を動かしながら、男は自分にとって一番の安全地帯を求める。屈強な手下達に囲まれている時が、男にとって一番安全な時だった。
残った団員達を集めれば、今まで通り自分が戦わなくても、指示を出していればこの身を襲う恐怖から解放される。その一心で足を動かす。
今の自分の姿を見た手下達がどんな風に思うのか。それすら考える余裕をなく男は走る。
「――うわっ!?」
と、何かによって足を取られた。
あまりの混乱ぶりに受身も出来ず、男は盛大に転んでしまう。
「ぐっそ! 何だってんだよ!」
悪態を吐きながら、男は足にぶつかったものを蹴った。
男はてっきり木の根か何かだと思っていた。しかし、予想に反して蹴ったものは衝撃と共に転がった。
(転がった?)
蹴った物など見向きもせずに、立ち上がって再び駆け出そうとした男は、その意外な事に思わず振り返った。
木の根ならば蹴りなどで、その場から動くことはないはずだ。ならば、それは一体何なのか。その思考が行き着く前に、男はそれを見た。
見てしまった。
「はひぃいいいいいい!?」
絶叫。
我慢出来なかった。腰を抜かして男は力なくその場に座り込む。
足を取られたもの。それは手下の一人だった。首があらぬ方向に折れ曲がり、当然息絶えている。
そして座り込んだことで視点が下がり、気づけたのだが、がちがちと歯を鳴らしながら男が周りを見ると、藪の中には他にも二人、いや、二体あった。
残虐非道な行いを繰り返して来た男にとって、そういった死体は見慣れたものだ。
だが、つい数十分前まで男にとって安全地帯となっていたはずの手下達が、こうも簡単に屠られていること。
そして何よりもそれが音もなく実行され、近くにいた自分に気づかせずに行われたということが、男は本当に恐ろしかった。
この分だと他の者達も絶望的だろうと男は嫌でも悟る。
男は震える手で腰のレイピアを座り込んだまま抜いた。それは弱者を何度も嬲って残骸にし、男を強者と認識させる手助けをしてきた相棒とも言える一振りだ。怯えきった男の心を支える唯一の物である。
――――しかし、少しだけ他より回る頭と演技力で、やってきた痩せ細った男の剣は、細く薄い男の姿そのものであるかのように貧弱な刀身だった。
それもそうだろう。腕力のない男が振り回せる用に、そのレイピアは通常の物よりもかなり細い。はっきりと実戦で使える物ではないと、断言出来る代物であった。
いつも頼もしく振るっていたそれが、周りに落ちている木の枝と何の違いがあるのかと、男は自分で心から思ってしまう。
そして、男は自分の剣を抜いたことで気がついた。
手下達が各自持っている武器、腰にある剣や片手斧、背にある弓。それらは全てそのままだった。つまり、争った形跡がなかったのだ。
自分よりも強い手下達が無抵抗に倒されていることを、なまじ頭が少し回るばかりに、男はすぐに気づいてしまった。
自分の安全を保障する団員達は屠られ、自身には自力で抵抗する術はない。
剣を握る手から力が抜けた。軽いレイピアが頼りない音を立てて地面に転がる。
これはもう無理だ。絶対に助からない。男はその結論から脱することが出来なかった。
「ぐひゃ、ひゃひゃひひひっひ」
狂ったように男は笑う。笑うしかなかった。
少し賢い程度で臆病者のくせに、調子に乗り、演技力で強者だと偽って、好き勝手にやってきた報いが、ついに来たのだ。
諦めの境地と言うべきか、馬鹿笑いを続ける男の思考は、何故か明晰なものとなっていた。演技として身に付けた不快な笑い方が、こんな時でも出るのかと考えられるくらいである。
「ひゃひゃひひ、ひひ、ひひひひ」
ふと、過去を思い出す。
男は平民の生まれだった。男が生まれた土地の管理者である貴族は、それは酷い政策を施し、虐げられるだけの毎日を送った。
階級差別が蔓延る今の時代、その事実は当たり前のものとして受け入れられつつある。
何故、自分は虐げられなければならないのか。何故、自分は苦しまなければいけないのか。何故、奪われなければならないのか。
その思いが募り爆発した時、男は家を、家族を捨て、弱者ではなく、強者になろうと罪を犯した。
思えば綱渡りのような人生だったと男は振り返る。運が味方したようなことも多かった。身に余る成果は結果、自分を思い上がらせた。だからこそ、今回のような胡散臭い話を請けてしまったと言えるだろう。
調子に乗らずにあの依頼人を追い返せば良かった。と、依頼人である大男に対して、八つ当たりに近い憎しみを覚えながら思い出した時、男は顔に笑みを作ったまま制止した。
「……ある、じゃないか。安全地帯」
男は世紀の大発見をしたかのような強い衝撃を覚えた。
あの大男のところに行けば、この姿の見えない恐怖の存在を駆逐出来るのではないだろうか。
そう思いついてからの行動は素早いものだった。落とした剣を拾わないどころか、男は走りやすいように鞘も投げ捨てて、その場を勢いよく立ち上がる。
何故、そのことに今まで気づかなかったのかと、男は自分を詰るがその顔には喜色が浮かんでいた。
(助かる、俺は助かる!)
底には死という奈落の待つ、絶壁の縁に立たされ、あと少しというところでやって来た希望は、萎えていた男に多大な力を与える。
依然として、何かが自分の命を狙っているかも知れない状況に変転はないものの、この時ばかりは男の心に恐怖の二文字は存在しなかった。
「はっ、はっ、ぐっ、は、はっは」
無数の木の根が土の中から浮き立つ、足場の悪い地面の上を駆け抜け、障害となりそうなものは軽々と避けて、薮の中にも躊躇わずに飛び込み突き進む。
本来なら仕事を終えた後に、向かうはずだった合流地点を目指して、男は全速力で駆け抜けた。
そして――――
(見えた! やった! 逃げ延びた!)
少し抜けた先にある開けた場所。そこに立つ依頼人の大きな身体は、遠目からでも何とか確認が出来た。
(助かった。俺は生きられるんだ!)
安心した途端、無理に走ってきた為か体から力が抜け、その場にうずくまってしまう。しかし、すぐに回復出来るだろうと男に焦りはない。
男は乱れる息を整え、酸素を取り入れるたび、鮮明になっていく思考で今更ながら考える。
手下達を音もなく殺した謎の暗殺者。何故、奴は自分を取り逃がしたのかと。七人の屈強な手下達を容易に屠ったならば、ひ弱な男など造作もないはずである。
何か、嫌な予感がした。
まだ体に力は入らなかったが、声を出せるくらいには回復したので、叫んで助けを乞おうと大きく息を吸う。
そして、音として吐き出そうとし、
「――ひゅぁ?」
それは失敗に終わる。
か細い声が漏れた自分の喉に男は震える手を添え、固く冷たい物が自分の喉から生えているのを知った。
「……ぁっひゅ」
息が吸えない。
その事実を知った男は、何よりも眩しく輝く希望が、自分の思考と連動して、薄く遠のいて行くような気がした。
喉にある物。それが自分の呼吸を妨げているのだと、薄れる意識で考えた男は、何も疑問に思わないで、慌ててそれを掴み、引き抜いた。
その瞬間、赤い線のようなものが、自分の体から漏れ出て視界を走る。同時に身体から急速に力が抜けていき、強い倦怠感を覚え、自然と体が横たわってしまう。
暗がりから光が遠ざかっていくようにして、地に伏せた男の世界は、別のものへと切り替わっていくようだった。
(……なんだ、やっぱり、逃げられたわけじゃ、なかったのか)
何が起こったのかを理解した男は、ぼんやりとそう思いながら、自分の生が別のものに切り替わっていくのを自然と受け入れる。
旅立つ自分が最後に見るものとは何なのか、男は最後の力を振り絞って瞼に力を入れ続ける。
すると、視界の隅から茶色い布を被った何かが現れ、伏せる男を覗き見る。そして現れた者を見た後に、男の視界は完全に暗転した。
目が何も映さなくなり、訪れた真っ暗な静寂の中、旅立つ瞬間に「そうか」と男は納得した。
手下達を葬り去り、自分のことを追い詰めた、姿の見えない者。その正体を知ったのだ。
大きな布を被り、その奥に恐怖を隠し、人の理解及ばぬ力を無情に振るい、抗う術もなく死を届ける者。
そのような人ならざる存在は、一つしか思い浮かばない。
(なん、だ……死神、なら……仕方、ねぇわな……)
男はそう悟ると抵抗をやめ、安らかに襲う眠気に身を委ねたのだった。
お読みいただきありがとうございました。
2012/03/03 16:00
一部文章と誤字脱字を訂正致しました。
2012/09/15 15:25
一部文章と誤字脱字を訂正致しました。