第十四話
教室を飛び出したアヤは何も考えず、ただ足が向かう先へと向かって走った。
そして、気がつけば夕暮れ時で、足を止めたアヤの前には喫茶店があった。
全力疾走する中で人気を避けたからか、それとも落ち着ける場所を無意識に探したのか。ここに辿り着いた理由は、アヤ本人にも分からなかった。
ふと、アヤは通りすがりの生徒から、怪訝そうに見られていることに気がついた。
それはそうだろう。現在のアヤは全力で走った直後で、大きく息を乱れさせており、しかも髪が肌に張り付くほどに汗をかいていた。
通りすがりの生徒からすれば、普通とは言い難い様子の女子生徒が、喫茶店の前に立っているのだ。嫌でも目を向けてしまうのだろう。
アヤも視線が向けられる理由に思い至り、その視線から逃れるように慌てて店の扉に手を掛けた。
「いらっしゃいませー!」
扉を開けると受付に立っていたウェイトレスが元気良く出迎えてくれた。
てっきり寡黙なマスターが出迎えると思っていたアヤは面食らうが、思い返してみれば、この喫茶店では人手が足りない時の為に、学生からアルバイトを募っているのだった。
故に、マスター以外の者が出迎えることはあり得る話である。
茶色の髪を肩まで伸ばすウェイトレスは、真っ白なシャツに黒いパンツ、そして装飾も特にない黒いエプロンという質素な格好だが、それは店の落ち着いた雰囲気と非常に調和したものとなっていた。
「お一人様ですか?」
「あ、はい」
汗だくのアヤに嫌な顔せずに接するウェイトレス。このアルバイトを初めて長いのかもしれない。
上級生だろうか? そんなことを考えるアヤは、促されるままに窓際の席へと座る。
その席は、窓からは沈む夕日がよく見えて、光が鬱陶しくない程度に差し込む、まるで特等席のようだった。
「ご注文がお決まりになりましたら、こちらのベルをお鳴らし下さい。ただいまお冷やをお持ちします」
机の隅に置かれた小さなベルを示すと、ウェイトレスは席から離れていった。
そうして落ち着いた店の空気の中に身を置いていると、アヤはまだ身体に熱が残るものの、少しずつ自分の頭が冷えてくるのを感じた。
(お嬢様を置いて逃げ出して来るなんて!)
真っ先に頭を巡ったのはその思いだった。しかし、同時に今の自分ではリーネの側で、普段通りではいられないとも思っていた。
自分の気持ちに整理を付ける必要がある。アヤはそう自分に言い聞かせる。
元々クライニアス学園内で、致命的な危険に晒されるというのは、ほとんどありえないことなのだ。いつもいつも張り付いていなければならないわけではない。
とにかく先ほどあったことに対して、止めたくなる思考を無理矢理動かす。
(私はコウ殿を殴ってしまったのだな……)
クレイストの発言が許せなかった。だから、どうやってでも口を閉ざさせようとした。
冷静になってきた頭が、流石に暴力でそれを実行するのは、間違っていたと今更訴えかけてくる。
思えば感情に身を任せて、力任せに人を殴ったのは、あれが初めての経験だった。
コウを殴りつけた右手には、まだその時の感覚が残っていた。それほど衝撃を強く感じなかったのは、理性の箍が外れ、興奮状態だったせいだろうか。
(でも、何故コウ殿はクレイストなんかを庇ったのだ)
コウの口ぶりやロンの態度から考えて、彼らが普段からクレイストのことを歓迎した様子でなかったのは、明らかだったはずだ。
何故? 何故? 何故?
疑問がアヤの頭の中で湧いて渦巻く。
(コウ殿はお嬢様の友人ではなかったのか? それなら、あんな奴の味方をするのは変じゃないか)
アヤにとってリーネの周りにいる者は、完全に信頼出来る味方でなければならなかった。
そうでないと、リーネが辛いと思ったから。
そして何より――――
「お待たせしました~。こちらをどうぞ!」
その先までのことに思考が至る前に、ウェイトレスが戻ってきた。
手には盆を、そして盆の上にはアイスティーが乗っていた。それを当然のように目の前へ置かれ、アヤは困惑した。
「私、まだ何も注文していませんよ?」
確かウェイトレスは水を取りに行ったはずだ。それなのに、何故か戻ってきた彼女はアイスティーを運んできたのだ。
困惑しながら問うアヤに、ウェイトレスはにこやかに微笑むと、片目をぱちりと閉じて人差し指を口の前に立てた。まるで内緒だと言わんばかりの姿だ。
「マスターからよ。何があったかは分からないけど、あんまり自分を責めたりしないようにね」
ウェイトレスは秘密を共有する悪友に対して向けるように、気さくな笑みを浮かべて見せた。アヤは慌てて見るが、マスターはカウンターの奥で、グラスを磨くだけで素知らぬ顔である。
「どうして私に悩み事があると分かったのですか?」
アヤは不思議に思い、普段なら悩みなどないと突っぱねるのに、思わず素の状態で聞いてしまう。
どんな解答が得られるのかと構えるアヤに、ウェイトレスの返したものはある意味予想外なものだった。
「さぁ?」
「さぁって……」
これにはアヤも拍子抜けである。
「私はマスターがあなたに、これ持ってけって言うから運んだだけだしね」
「でも、さっきの言葉はあなたからのものですよね?」
「うん? あぁ、自分の感情に~ってやつ? いやね、マスターがサービスする人って、大体何かしら悩んでいたりする人だからさ」
「はぁ」
「それであんな風に言えばいいかな、って思ってね」
なんだかいろいろと台無しなウェイトレスである。
アヤから残念なそうな視線を受けると、ウェイトレスは慌てて言葉を継ぎ足す。
「で、でも、気持ちは本物だからね? 元気はあった方がいいんだから!」
そう言って、ウェイトレスは逃げるように受付の方へと戻っていった――――かと思うと、慌てた様子で戻ってきた。
「ご注文はお決まりですか!?」
どうやら忘れていたようで、ほのかに顔を赤くしている。
「……いえ、こちらを頂いたので今は結構です」
アヤは手元にあるアイスティーを指差す。
「失礼致しましたー!」
そして顔を赤くしたまま、今度こそウェイトレスは逃げていったのだった。
一連のことで圧倒されっぱなしのアヤだったが、そのおかげで、ほんの少しだけ気分が和らいでいるのを感じた。
それは狙って行われたのかは分からないが、アヤは名前も知らないウェイトレスへ感謝の気持ちを抱いた。
「美味しい」
喫茶店の人達からの気づかいを口にして、そう小さくこぼすアヤだった。
グラスの中身の残りがあと三分の一となった辺りで、店の入り口が少し騒がしくなった。
周りにいる他の生徒のように、アヤもそちらに目を向けると、どうやら扉を勢いよく開けた生徒がいて、先ほどのウェイトレスに注意されているようだ。
金髪碧眼。普段は好奇心を宿した目には焦りが浮かぶその生徒は、最近になってアヤの日常に登場するようになった少年だった。
「ロン?」
「アヤちゃん!」
「え、二人は知り合い? って、何、悩みって色恋沙汰?」
驚くウェイトレスの横をすり抜けて、ロンがアヤの元へやって来た。
「急に飛び出していくんだもん。びっくりしたよ。あ、お姉さんコーヒーよろしく」
先ほど注意されたことなど忘れたかのように、ロンは陽気に言いながらアヤの向かいに座る。
そんな彼の姿に仕方がないという風に、息を一つ吐いたウェイトレスは、既に煎れ始めたマスターの元へと行ってしまう。
色恋沙汰云々を否定する間もなかったアヤは呆然とするが、前にロンが座ると自分が現在どんな立場であるかを改めて痛感した。
自然と気分は重くなり、問いかる声は小さくなる。
「……探してくれたのか?」
「探したよ~。あ、そうだ」
思い出したようにロンはそう言うと、髪をゆっくりと掻き分けるようにして自分の左耳に触れる。
特等席のような席のせいか、差し込む光はロンの耳元を照らしていて、そこにつけてあるものをアヤによく見せてくれた。
彼の耳につけられているそれは、夕日の柔らかい緋色を浴びて輝く、銀製の小さなイヤリング。細かな曲線や直線が刻まれ、狭い面積の中にいくつもの小さな模様を描いていた。
アヤは今まで見てきた中で、一番綺麗なイヤリングだと思った。
「リーネちゃん? うん、見つけたよ。――――ちょ、これ頭に直接響くんだから、そんな大声出さないで! ――――ん~、そうだねぇ……」
アヤが装飾品だと思ったそれは予想に反して、魔導具であったようだ。
ロンの仕草などを考えると、どうやら遠く離れた相手と会話が出来る魔術である『念話』が、施されたものであるようだ。よく見ると模様の部分が魔光を発して淡く光っている。
通常展開によって『念話』を展開すると、相手を限定して声を届けたりするのは、かなり難易度が高くなる。しかし、魔導具を介すればかなり容易なものとなるのだ。
その代わり、設定した魔導具同士でしか『念話』が行えないなどの制約が発生するのだが、難易度の高い通常展開による個人への念話を行うよりも、断然魔導具で行う方が楽であった。
恐らく、彼の耳に装着された、イヤリングの形をした魔導具は彼の物で、『念話』が出来るように設定された同じ魔導具を、リーネの方にも渡しているのだろう。
リーネと『念話』を始めたらしい彼だが、一度アヤのことを見ると何やら考える素振りを見せた。
「場所は内緒で。――――大丈夫、安全な場所だから! ――――信用ないなぁ。本当に大丈夫、って、何にもしないよ!?」
ロンが何やら必死に弁明を始める。周りにいた他の生徒から、悪い意味で注目が集まるが、念話に集中する彼はそれに気づかない。
その様子だと、傍目からはアヤに対して、必死に語りかけているように見えてしまうことにも、気づいていないはずだ。
彼が弁明を初めて十数分。ウエイトレスが頼んだコーヒーを置いて少し経った辺りで、それはようやく終わりを迎えた。
「はい、指一本触れません。あ、アクシデントはノーカンでお願いします。――――いや、それくらいは許してよ。じゃあ、念話終了」
少し強引に終わらせると、ロンはくたびれたのか机に突っ伏した。
「はぁー、俺、いくら何でも信用なさ過ぎでしょ」
「相手はお嬢様か?」
「うん。何でも、ロンさんは良い人ですが、女性に関してのことは信用出来ません! だそうで」
何でここまで信用ないんだと首を捻るロンだが、可愛い女子生徒がいれば徹底的に目で追いかけ、アヤを見つければ猛烈な勢いで、すり寄って来るのが普段の彼である。リーネの評価は正当なものだと言えた。
「お嬢様は悪くないだろう……ところで、お嬢様は私なんかを心配して下さっているのか?」
「へ? 当たり前でしょ。ちなみに、リーネちゃんはアヤちゃんが行きそうな所を、俺は他の場所を虱潰しに探す方針でした」
当然だとロンは返したのだが、コウを殴ってしまった罪悪感に嘖まされているアヤだ。それは簡単に受け入れられるものではなかった。
「お嬢様が信頼するコウ殿を殴り飛ばした私なんかを、心配して下さっているのか……」
「……あー、そゆこと」
沈んだ様子のアヤを見て、リーネがこの場所へ来るのは、避けた方が良いと直感的に思ったらしいロンだったが、それはどうやら正解であったようである。
「あれよ? 別にリーネちゃんはコウを殴ったことで、アヤちゃんのこと嫌ったりはしてなかったみたいよ?」
「けど……」
「それにコウも気にしてないだろうし。あ、別にコウは怪我とかしてなかったから、そこは安心しといて」
「なっ!? あれだけ勢いよく突っ込んだのに!?」
「ぴんぴんしてたよ? もしかしたら、あれは自分で突っ込んだのかも知れないね」
ロンは以前にも同じようなことがあって、コウに怪我を訊ねた時、「自分で跳んで衝撃を緩和したから問題ない」と答えられたことがあったと話す。
それを聞いてアヤは自分の右手に残っていた感触を思い出した。
いくらコウがまだ少年だとはいえ、彼はしなやかなに鍛えられた肉体を持っている。それなのに殴った感触が、軽かったといのは確かにおかしな話かもしれない。
話を聞いて、アヤは今更ながらその違和感に気がついた。
「そうだったのか……しかし、それで私がコウ殿を殴ったという事実は消えないな」
アヤはコウを殴った時を思い出した。
そして、それは同時に彼がクレイストをアヤから庇ったという、一つの事実も思い出させることにもなった。
「何で、何でコウ殿はあんな奴を、お嬢様を売女などと言った奴を庇ったんだ……!!」
手を握り、机に押しつけ、声を荒げるアヤ。
「ちょ、アヤちゃん抑えて!」
日が沈み始め、寮の門限も迫り始めているとは言え、周りにはまだ喫茶店の客として生徒がいるのだ。
コウのように魔術で騒ぎを気づかせないという手段がない以上、自分たちで声量を押さえたりする必要があった。
「すま、ない」
なんとか激情を抑えた様子のアヤを見て、ロンがほっとする。
周りから注目を集めたようだが、幸いにも短い時間であったために、興味はすぐに失せたようで、すぐに誰もアヤ達へ意識を向けなくなった。
刺激しないようにするためなのか、ロンは落ち着けた雰囲気を醸し出して、ゆっくりと声を出す。
「リーネちゃんがその……売女とか言われたのって、やっぱりあの噂のせいだよね?」
「……知っていたんだな」
「そりゃ、有名だしね。知らないのは噂とかに無頓着なコウくらいじゃない?」
ロンは机に備え付けられている瓶を開け、中から角砂糖を二つ摘みだして少し冷めたコーヒーに落としていく。
その様子をぼんやりと眺めながら、アヤはリーネの噂について思い出す。
リーネには様々な噂があった。
曰く、美しい容姿とは裏腹に性格は最悪。曰く、男を使い捨てだと思っている。曰く、捨てた男の数は百を超える。曰く、男に思わせぶりな態度を取って遊んでいる等々、数え上げたら切りがない。
噂の全てに共通して言えるのは、負の感情を沸き起こす、陸でもないものばかりであるという点だろうか。
「お嬢様は何も悪くないのに!」
アヤは悔しそうに言葉を漏らし、白くなるほど手を握りしめた。
そんなアヤを見てロンはカップをソーサーに戻してから、神妙な顔で切り出した。
「実を言うとさ、俺も噂のことを少し信じてたんだよね。余りにもイメージの悪い噂が溢れてたからさ」
一つ、二つ噂がある程度なら、人は判断に迷う。しかし、その数が膨大であれば、人は噂でその人を判断してしまう。それは普通のことだろう。ロンが噂を信じたのは仕方がないことかも知れない。
しかし、噂を信じていたと聞いたアヤが何か反応を示す前に、彼は矢継ぎ早に言葉を続ける。
「でも、違った。実際に言葉を交わしたリーネちゃんは、驚くくらいに潔白で優しくて、そして何事にも一生懸命な良い子だった」
「……そう、お嬢様は売女などと呼ばれるような方じゃないんだ」
一人でも多くの人に知って欲しいと、アヤはロンに説明する。
男女の関係に関するリーネの噂の真相とは、リーネの容姿に惹かれて言い寄ってきた者達が流したものなのだと。
容姿に惹かれて寄ってきた男子生徒達。当然、そのような理由で群がってくる者達の柄が良い訳がなく、所謂ナンパというやつだった。
その全員をリーネは拒絶した。
これが一人、二人であれば。或いは平民の生徒達だけだったのなら、悪い噂など立たなかったのだろう。
言い寄ってきた人数はかなり多く、しかも中には基本的にプライドが高い者が多い貴族の生徒もいたのだ。自尊心を守る為に彼らが取った行動は、リーネを悪女として仕立て上げることだった。
容姿がずば抜けて良い女が言い寄ってきたので、思わずなびきそうなった。これが彼らの言い分である。
そんなどうしようもない理由で噂は生まれ、それは雪だるま式に増えていったそうだ。
「なんだよ、それ、くだらない……」
ナンパという点ではロンとその生徒達の行動は、あまり変わらないことをしている。しかし、ロンは決してそのような姑息なことはしない。故に、そんなことをした者達を腹立たしく思っているようだ。そんな彼の様子を見て、アヤは少しだけ嬉しく思うのだった。
それから何となく黙った二人だったが、少し躊躇いがちに口を開くことで会話は続く。
「たまたま見たんだけどさ、リーネちゃんって周りに学園のやつらがいると無表情になるじゃん?」
たった今聞いた話に続くわけではないが、ある意味で関係する話としてロンは切り出す。
「あれを見た時はびっくりしたよ。コウと一緒にいる時のリーネちゃんは、いつも表情豊かだったからさ」
「……」
そのことはアヤに取って喜ばしいことであり、同時に嫉妬を覚えるものだった。
二人っきりでいる時、リーネもアヤに笑顔を見せてくれた。しかし、周りに生徒達がいると、どんなにアヤが頑張っても、引き出せるのは弱々しい笑顔が精一杯だったのだ。
噂のことがあるので、それは仕方がないと、アヤは自分に言い聞かせていた。
それなのにコウは場所を関係なくどころか、何の苦もなくリーネの笑顔を引き出すのだ。
アヤはそれが羨ましくもあり、悔しくもあった。
「俺、リーネちゃんのあれは周りに無関心なのかと思ってたんだよ。けど、それをコウに言ったらさ、あいつ、あれは感情を押し殺している表情だって言ったんだ」
「コウ殿が?」
「うん、コウも一度見てるしね。それに悲しそうだとも言ってたよ」
アヤは驚いた。
確かにリーネが見せていた痛ましい無表情は、周りから送られてくる負の感情に対する、一種の防衛反応であった。それを一度だけしか見ていないのに、見抜く人物がいるとは思いも寄らなかったのである。
そして何よりアヤが驚いたのは、普段コウが見ていたリーネは、いつも自然体の姿であったのにも拘わらず、コウはその奥に秘められた悲しみに気づいたという点であった。
どうせお嬢様の一面しか理解出来ていないだろう。と、心の何処かで思っていただけに、アヤが感じた衝撃は大きかった。
だからこそ、アヤは思ってしまう。
「それなら、尚更、何で……、何でコウ殿はあんな男なんかを庇ったんだ!」
この席に着いたばかりの時のように、疑問がアヤの中で湧いては渦巻く。
何故、そこまでリーネのことを理解してくれているのに、リーネを貶す奴などを庇うのか。
何故? 何故? 何故?
「お嬢様の周りにいるのは、信頼出来る味方でいて欲しい! そうじゃないとお嬢様が辛いじゃないか!」
さっきは心の中で巡らせた言葉は、ロンという話相手がいることで口からこぼれ落ちる。
「そうじゃないと……、そうじゃないと…………私も、辛いよ……」
本当に、本当に小さな、掠れるような声だった。しかし、それこそがアヤの心の底に沈めてあったものだった。
リーネの護衛はアヤ一人である。それは何かあった時、アヤ一人で守らなければならないという意味だ。
何かあればリーネも戦いなどに参加はするが、それでも彼女を守る者はアヤ一人であることに変わりはない。
今までリーネが襲われた時、その全てを余裕で退けてきたわけではない。むしろ、今まで無事だったことが不思議なくらいの出来事は何度もあった。
やはり、物理的にも、そして精神的にも守る者が一人というのは辛いものがあった。
様々な重圧が心に重くのしかかり、悲鳴を上げたくなるような日もあった。心の脆さを彼女に悟られないようにする生活は、アヤの心を確実に蝕んでいた。
そんな時に現れたのがコウだった。
突然現れたのにも拘わらず、リーネから絶大な信頼を寄せられるコウに対する嫉妬は、決して小さくなかった。
だからこそ、コウに対する態度は刺々しいものになったし、関係はぎこちないものになった。
けれども、同時にコウはアヤにとって望むべき存在となるのではとも思ったのだ。
まだ本格的に実力を測ったわけではなかったが、リーネから話を聞くところによると、かなりの力量を有しているらしく、僅かに見せた片鱗も確かに素晴らしいものだった。
尚且つ、私利私欲に関係なく、リーネと友人であろうとする姿は、アヤの期待を膨らませるには十分なものであった。
即ち、彼ならリーネの――――自分達の味方になってくれるのではないか、というものだ。
信じてもいいのではないか。そうアヤは思っていた。
そんな矢先に起こったのが、コウがクレイストを庇うという事態だった。
裏切られた。そうアヤは思ったのだ。勝手に期待したのはアヤの勝手だと分かっていても、その思いは拭いきれるものではなかった。
それだけ期待は大きく膨らんでいたということだろう。大きくなった分だけ辛かった。
「私は、コウ殿のことを信じたかったんだと思う……けど、それは間違いだったのかな?」
アヤは独白を続けていたが、何処か自虐的な笑みを浮かべ、答えを求めてロンへ言葉を投げかける。
言葉を受けた彼は目を瞑り、ただ静かにそこにいるだけだった。
「ロン?」
アヤの声が不安で揺れる。
その姿はいつもの凛とした姿からは想像も出来ない、ただの少女のように弱々しいものだった。
そんなアヤの姿を、瞼を上げてすぐ目に写したロンは、目を見開き、そして次の瞬間にはわなわなと震えていた。
「許さん……」
「えっ?」
「コウの奴、俺のアヤちゃんをこんな風にするなんて! これはこれで可愛いけど!」
「……ロン?」
いつものアヤならここでロンの発言に対して、制裁を加えるところなのだが、今のアヤはただ戸惑うばかりである。
その姿は彼のいきなり始まった暴走に拍車をかけた。
「よし、コウに仕返しだ」
「えぇ!?」
「そうだね……コウは毎朝鍛錬とか言って、寮から出て秘密の場所に行くからそこを襲おう」
「……秘密の場所?」
「そうそう、俺もコウから教えて貰ったんだけどね」
そう言うと、ロンは手帖を取り出すとしばらくの間、何かを書き始め、それを書き終えるとページを破ってアヤに手渡した。
受け取ったアヤは書かれたものを確認する。それは何か洞窟などを連想されるような道の地図だった。地図の横には順路やその他の様々な事が細かく書かれている。
「時間は、ん~、コウは太陽が昇る前には部屋を出て行くから、アヤちゃんは太陽が顔を出したくらいに出発すると良いと思うよ」
「そ、そんな時間じゃ、警備部隊の人達が巡回してるじゃないか!」
「あ、それは大丈夫」
ロンは懐を探ると何かを取り出した。
「それは、指輪?」
「そう、一応これも耳のやつと同じで魔導具だよ。これは認識阻害が施されてる。はい」
ロンが気軽に渡して来るそれをアヤは慌てて受け取る。
手にとってまじまじと見てみれば、指輪にはびっしりと小さな円が重なるようにして、細かく繊細に刻み込まれていた。
魔導具というからには、刻まれたそれは魔術的に何かしら意味があるはずだが、アヤにはただの美しい装飾品にしか見えない。
「あ、アヤちゃん、魔力操れる?」
「う、うん」
「おっけー、おっけー、なら問題無いね。それとこれも、はい」
続いてロンが渡してきたのは、またもや指輪だった。
こちらは先ほどの指輪と違って、単一の模様ではなく、様々な線や円や四角形が刻まれていた。これもまた、アヤの目にはただ美しく映る代物だった。
「それは地図の横に書いたやつの六行目、岩をどける時に嵌めてね。大きさは合ってないだろけど、取りあえず嵌めておけば大丈夫だから。んー、よし、俺からの準備は終わったかな。何か質問ある?」
アヤからすれば現段階で既に質問、というか問いただしたいことは山ほどあった。しかし、多数ある内、アヤの口から出たのは最初に思ったことだった。
「ロンは、なんでこんなにもいろいろな魔導具を?」
他にもっと優先的に問いただす所はあったが、一番に思った疑問がこれだったのだから仕方がない。
魔導具というのは制約があるとはいえ、施された魔術を無詠唱で展開出来るという優れた利点がある。
その反面、施すのが初級魔術だとしても、高い技術力が求められるため、魔導具は簡単に作成出来るものではない。
それ故に、作り手は限られ、魔導具はかなり高価な品だった。
そんな代物をぽんぽんと出すロンは、流石三大貴族の子どもということだろうか? アヤは金銭的な意味でそう考えたのだが、彼の答えはその予想を大きく上回るものだった。
「あ、これは俺が作ったやつだから。材料さえ揃えれば作れるよ」
「これを、ロンが!?」
「うん。ちなみにその認識阻害の術式は、コウが考えたやつだよ。だからかなり凄いよ。コウが言うにはあいつが展開する認識阻害と同等の効力があるんだとさ」
あの少年の『認識阻害』と同等であるということは、『感知』を展開しなければ、見つけることがほぼ不可能というレベルであるということだ。もしそれが本当なら、アヤが手渡された指輪を売ったりすれば、とんでもない額がつくだろう。
そんな術式を考案するコウもコウだが、それを施したロンの技術もかなりのものだった。
アヤが先ほど考えた「流石は三大貴族の子どもだから」というのは、意味は違えどある意味正しかった。技のスティニア家の子息であるロンは、アヤが思っていたよりも、かなり優れた人物だったのだ。
驚きを隠せない。そんなアヤの心情には気づかず、彼はここで真面目な顔をした。
「それ、無くしたり売ったりしないでね? コウとの約束で信頼出来ない奴に、渡しちゃいけないことになってるから」
確かにこの指輪が心ない者の手に渡れば、恐ろしいことになるだろう。これを使った犯罪などいくらでも思い浮かべられる。これはそういう代物だ。
「そ、そんなことしない!」
「まぁ、アヤちゃんはそんなことしないと思ってるから、それを貸すんだけどね」
言葉を額面通りに受け取るのであれば、アヤのことを信頼しているとロンは言っていた。そのことに気づいたアヤは、むず痒いような不思議な感覚に襲われた。
「うぅ……お、襲うと言っても、そんなことしたらいくらコウ殿でも危険なんじゃ?」
不思議な感覚を誤魔化すため、咄嗟に言ったことだったが、よくよく考えれば、それは真っ先に考慮すべきことだった。しかし、それをロンがあっさりと否定する。
「それは大丈夫。あいつ強いから」
「いや、そうは言っても、この指輪を使って襲いかかったら、いくらなんでも……」
「甘い! そんなんじゃ、あいつは討ち取れないよ! もう、ばっさりと切り捨てるつもりでいかないと!」
討ち取ってどうするのだとアヤは思ったが、その後も何を言ってもロンは同じようなことを言うだけだった。なので、仮に行くことになったら、最悪寸止めすれば良いかと考えて、アヤはそれ以上は何も言わないでおいた。
「他に質問はない? じゃあ、これで準備は完了かな? 決行は早いほうが良いだろうし、明日にしようか」
話はまとまったとばかりのロンだが、アヤは手の中にある指輪は見て思う。確かに、これがあればロンの言う、秘密の場所という所に行くことは可能だろう。しかし、疑問は残った。
「ロン」
「ん?」
「私は、別にコウ殿に仕返しをしたいわけじゃない。ただ……」
「俺はさ」
アヤの言葉をロンは遮った。驚くアヤを余所に彼は自信満々に言う。
「コウは身内に対して、裏切るようなことを絶対にしたりしないと思う」
「……どうして?」
何故そう言い切れるのか。
前に聞いたことだが、ロンとコウの付き合いは約一年、高等部一年になりたての頃に出会ったのが切っ掛けだという。
たかだか一年の付き合いで、そこまで信頼出来るものだろうか。一年という期間は、アヤにそんな疑問を抱かせてしまう期間であった。
そんなアヤに対して、彼はいつも好奇心を宿す青い瞳に、柔和な光を加え、笑みと共に答えた。
「友達だから」
「えっ?」
「友達だからだよ」
アヤはこのやりとりに既視感を覚えた。それはいつだったかと思い返す。そう、前にこの喫茶店で、コウとリーネが全く同じやりとりをしていた。
思い出したアヤはロンを見つめる。そこにある笑みは意味ありげなもので、彼が分かっていて言ったことは明白だった。
アヤの視線を少しの間受け続けた彼だが、急に恥ずかしくなったのか誤魔化すように口を開く。
「まぁ、友達なら別に誰でも信頼出来るってわけじゃないけどね」
「それは、どういう意味?」
「そのままの意味だよ。あいつだから信頼出来るのさ。何か分かんないけど、あいつにはそう思わせる不思議な魅力があるんだよ。もしかしたら、リーネちゃんもそれにやられたのかもね」
本人には恥ずかして言えないけどね。そう言いながらロンは立ち上がる。まるで、やるべきことはやっとばかりに。
「最終的にどうするかはアヤちゃん次第だけど、もしも決行するなら頑張ってね」
「……行けば、私の答えは見つかる?」
「さて、そればかりは分からないかな。俺は俺が出来ることをしただけだよ」
ロンは机に置かれていた伝票を手に取ると、確認して首を傾げた。
「あれぇー? 何で俺が頼んだ分しか書かれてないの?」
「あ、私のはマスターからのサービスらしくて……」
「へぇー、なるほど、流石マスター。粋な計らいだね」
感心したのかしきりに頷きながら、ロンは受付に立つウェイトレスの下へ行くと、会計を済ませて躊躇なく店を出て行った。
アヤはどうするか迷い、しばらく手の中にある二つに指輪を見つめて考え込んだ。そして、そろそろ閉店の時間に近づき、ウエイトレスが躊躇いながら、声をかけようとした時になって、ようやくアヤは決心した。
「よし!」
「うわ、びっくりした! 何、悩みは吹っ切れたの?」
客と店員とは思えない、すっかりフランクな調子で話しかけてくるウェイトレスに、アヤは宣言するように答えた。
「その悩みを吹っ切りに行くんです!」
コウを信じていいのか分からないと言ったアヤに対して、明確な答えを言わずに、自分はコウを信じるとロンは言った。
それは結局の所、信じるかどうか、信頼するかどうかは、アヤ自身の問題であるという意味だったのだろう。だったら、自分は行くべきなのだ。アヤはそう思ったのだった。
迷いを振り切ったのかよく分からないアヤの言葉に、ウェイトレスは面食らった様子だが、それでも笑顔で言葉を返して来た。
「そう、じゃあ頑張れ!」
「はい! いろいろありがとうございました!」
ウェイトレスに、そして奥にいるマスターに一礼するとアヤは店を後にした。
勢いよく店を出たアヤの調子は、まだ空元気と呼べるものだろう。しかし、それは決して悪いことではないはずだ。
落ち込んだ時、元気のない時に、無理矢理にでも自分を奮い立たせることも、時には大切なのだから。
こうして、アヤはコウのことを襲うことになったのだった。
2012/02/04 00:43
一部文章と誤字脱字を訂正致しました。
2012/09/09 01:42
一部文章と誤字脱字を訂正致しました。