第8話 Round 2
地下道から這い出て、元の細い路地へと戻ってきた。澄んだ空気が気持ちいい。音はなく、時間が止まってしまっているのではないかと思わされるほど静かだ。そんな中、唯一共に時を歩んでくれる人が一人。
「シエラ。俺があいつに刺されてからどれくらい時間が経ったんだ?」
一歩前を行くシエラに問うと、彼女はネックレスの先にぶら下がっていたペンダントに触れ、それを開いた。先ほども大事そうに握りしめていたそれは、どうやら懐中時計のようだ。
「二時間くらいですね。今、ちょうど四時を回った頃です」
「いい時計だな」
つい目に留まって、口にしてしまう。そんな世間話をしている場合ではないのだが。しかし彼女は笑って「ありがとうございます。宝物なんです」と答えた。その表情が思いのほか柔らかいものだったから、俺の緊張感のないセリフにも少しは価値があったのだろう。
とはいえ、息巻いて出てきたはいいものの、もう二時間。奴が逃げるには十分すぎる時間だ。あるいはすでにアスターによって始末がついている可能性もある。本音を言えば、後者の可能性に賭けたいところだが……。
シエラは不意に立ち止まり、「ちょっと待っていてくださいね」と断って。
「百式魔道・風の章・第3節『鈴鳴』」
と、呪文を唱えた。傍目には何も起きているようには見えなかったが、シエラは瞑目して意識を集中させる。彼女の中では何かが行われているのだろう。そよ風に美しい髪がなびき、わずかに乱れるのも気にせず、彼女は目をぎゅっと瞑っていた。
黙って見守っていると。より正確に言えば、見惚れていると。一分ほどが経った頃、彼女はふうっと息を吐き出し、こちらを振り返った。
「お待たせしました」
「何してたんだ?」
「アスター様と連絡を取っていました。奴には撒かれてしまったそうです。ただ、どうもまだこのあたりにはいるようですね」
「本当か? なら、急ごう。のんびりしてたら逃げられちまう」
俺はシエラを急かすが、彼女は首を横に振った。
「落ち着いてください。アスター様でも見つけられないということは、奴の『潜影』が相当なレベルだということです」
「潜影……?」
「闇に潜む魔道です。熟達者となると、疑ってなければこの距離に立っても気配を察知することができません」
と、シエラは俺と彼女との距離を指して言う。手を伸ばせば触れることもできる距離だ。奴の獲物がリーチの短いナイフとはいえ、完全に間合いに入ってしまっている。
「……油断してたら、気づかねえうちに死んでた、なんてことにもなりかねないってことだな」
「ええ。慎重に行きましょう」
「その必要はねえよ」
耳元で、声がした。
その声に、俺は動けなくなる。
這うような指が、肩に置かれた。
「わざわざ探してもらわなくていいぜ。俺は目をつけた獲物は絶対に逃がさねえタチだからよ」
「——『赫炎砲』!」
シエラが血相を変えて、こちらに向かって一筋の炎を放つ。それは反応もできない速さで俺の顔のすぐ横を通過し、目に見えない何かに直撃した。
その熱で俺は我を取り戻し、肩に置かれた手を振り払ってシエラの隣へと飛び退く。
煌々と燃える炎は、何も存在しなかったはずの空間にいた人間の姿を暴いた。
隠れ潜んでいたその男の顔が火の玉に包まれ焼かれている。魔道で出した炎とはいえ、温度は変わるまい。常人には耐えがたい熱さのはずだ。しかし奴は悲鳴を上げるどころか身じろぎ一つしない。
シエラは再び呪文を唱え、奴へと伸ばした右手の先に二つ目の火の玉を浮かべる。
「アルマドラス王国暗殺部隊のエジル・ミルハウストですね?」
「……ああ、その通りだぜ」
奴はそう答えると、炎が燃え広がり始めた外套を脱ぎ捨てた。それまでフードに隠れていた顔がようやく露わになる。伸び放題の金色の髪の毛。不格好な無精髭。鋭い目つきに、にたにたと笑う口元に覗く歯。その性質のみならず、姿かたちもまた獰猛な獣のような男だった。
「……刀を抜いてください。来ますよ」
シエラの言葉を受けてようやく俺は刀の存在を思い出す。どきんと心臓が跳ねて恐怖心を訴えたが、俺は胸に手を当てて、黙っていろと押さえつけた。
深く息を吐きながら、刀を抜いて真っ直ぐに奴へと向ける。
「悪りぃが、今夜はもう一匹獲物が残ってんだ。そう時間をかけてやるつもりはないぜ。すぐに引き裂いてやる」
エジルもこちらに応じるように、懐から抜いた二本のナイフを両の手に構えた。
「さあ、第2ラウンドだ」




