第4話 Where's the Hero?
目が覚めてすぐに思ったのは、「ああ、俺はいつもいつも立って寝ているわけじゃないらしい」ということだった。
固い地面から起き上がり、周りを見る。そこはまたしても、知らない場所だった。真っ暗で星明かりさえもないところを見ると屋内、なのだろうか。すぐ傍では身に覚えのない焚火ほどの小さな炎が、静かに揺らめいている。
現在地が分からないのはさっきと同じ。だけど、今度は確かに覚えている。記憶を失ったこと。困惑していたところをフードの男に襲われたこと。
思い出すだけで背筋が凍る。冷たい刃が身体の中に入ってくる感覚は、この先一生忘れることのできないトラウマだ。しかし斬りつけられたはずの首筋に触れると、血液どころか傷跡さえも残っていないようだ。これはつまり――。
「俺、死んだのか?」
「大丈夫です。生きていますよ」
「どわあっ!」
突然聞こえた声に飛び上がり、辺りを見回す。闇の中で、焚き火の灯りを受けて影を伸ばす人物が、俺の他にもう一人。
「目が覚めたんですね。よかった」
足音もなく静かにこちらに近づいてきていたのは一人の女性だった。
年は二十歳ほどだろうか。身に纏うのは、この暗がりの中では闇に溶けてしまいそうな真っ黒の外套。淡い銀色の髪は、その美しさを隠すように首より下が外套の中に包まれていた。青く輝く瞳が俺を捉えて、優しい笑顔を浮かべている。
こんなにも美しい人を、俺は見たことがなかった。と、記憶喪失の俺がそんな言葉で評したところでそこに何ら価値は生まれないのだろうが、とにかくその人は美しかった。
俺の傍まで来て腰を下ろすと、彼女は先ほどの俺と同じように、傷があった首筋を一撫でした。
「傷は痛みませんか? 魔道で、見た目には完璧に直したつもりなんですが……聞こえていますか?」
突然のボディタッチに動揺して固まっていると、顔を覗き込まれた。心臓が大きな音を鳴らし、弾かれたように俺は尻を後ろに滑らせて彼女から距離を取った。
「ああ、全然、大丈夫! ……って、魔道?」
「はい。私、魔道士なんです」
魔道士。そして魔道。それらの概念のことははっきりと覚えていた。こんな短時間で傷跡も残さない治療など、魔道以外にはありえまい。とはいえ、致命傷だったであろうあの傷を治せてしまうのは、それだけ彼女の技術が優れているということだ。
と、彼女の技量に感嘆できたところで、俺は胸の内で一人安堵した。すべてを忘れたとは言っても、俺は今、こうして記憶の中にある言語を無意識に使い、コミュニケーションを取っている。俺が失ったのは自らに関する記憶で、こうした一般常識についてはしっかりと頭の中に残っている、ということなのだろう。
多少なりとも自分の記憶に関して整理がついたところで、俺は彼女に尋ねる。
「あの、ここは?」
「王都外れの地下道です。ここであれば、仮にあの男が追ってきたとしても簡単には見つかりません」
「あの男……」
フードを深くかぶり、わずかに覗く口元が愉快そうに笑っていた。楽しそうに言葉を連ねながら、俺の身体を抉っていた。
恐怖に震える手を抑えつける。あの男は、何だったんだ? なぜ俺は襲われたんだ?
「……ごめんなさい」
と、か細い謝罪の言葉が聞こえた。顔を上げると、彼女の視線は震える俺の両の手に落ちていた。
あれだけぼろぼろな姿を見られてなお、美人に情けないところを見せたくないというおかしなプライドが俺に両手を隠させ、固い笑顔を浮かべさせた。
「なんであんたが謝るんだよ。むしろ、助けてくれて本当にありがとう」
事実、彼女は俺にとって命の恩人に違いなかった。彼女がいたからこそあの男は退いたし、俺の傷もすっかり治って死を免れた。彼女がいなければ間違いなく俺は死んでいた。
しかし彼女は暗い表情で首を振る。
「あなたを守れなかった。危険な目に遭わせてしまったのは、私の力不足です」
なぜ、こんなにも彼女は抱え込んでいるのだろう。誰が悪いって、そんなのあの男が悪いに決まっている。強がってはいるが、命を救ってくれた彼女に感謝しているのは本心だ。それなのに、どうして彼女が責任を感じなければならないのか、俺には理解できなかった。
俺が何を言えばいいのか困っていると、彼女は物憂げな表情で言葉を吐いた。
「ごめんなさい……。わかりませんよね」
「……あんたはいったい、何者なんだ?」
焦れた俺がそれを問うと、彼女は一瞬の間の後に笑って答えた。
「私はシエラ。シエラ・グライスです」
その笑顔はどこか作り物のようで。まるでさっきの俺と同じように、何か強がって笑っているみたいだった。
「口ぶりから察するに、警察組織か何かか?」
改めて尋ねると、しかしシエラは自嘲するような笑みを浮かべて首を横に振った。
「いえ、むしろその逆……。私はある反王国組織の一員です」
「反王国?」
やや突拍子のない言葉が彼女の口から飛び出した。自分のいる国の名前さえ分からない俺だが、物騒さを感じ取って問い直すと、炎の灯りを挟んで正面に腰を下ろしたシエラは膝を抱えながら頷き、
「あなたは、この国の在り方を正しいと思いますか?」
そう、質問を返してくる。今の俺がその問いに答えられるはずもなく、やはり困った表情で沈黙していると、シエラはそれをどう受け取ったのか、話を続けた。
「いるんですよ。この国には裁けない悪――いえ、国に守られてさえいるような悪が」
噛みしめるように言うシエラ。よく見ればその首にはシルバーのネックレスのようなものがかかっていて、彼女の右手はそれを強く握り締めていた。
「あのフードの男も、この国は野放しにしてるってことか?」
「ええ。奴は王国の暗殺部隊に所属している男です。名はエジル。数年前に、ムルシェル帝国の要人の暗殺という成果を上げた実力者です。近年のムルシェル帝国の状況を思えば、それは誰にでもできることではありません。だからこそ王国は彼を重宝し、たまの息抜きは見過ごしているのでしょう」
「は……、たまの息抜き、だと?」
シエラが語った内容を俺は信じられず、気の抜けた吐息が零れた。だって、いくら優秀だからって、人殺しを黙認するなんて、国がやっていいことではないだろう。
しかし目の前にいるシエラの失望に満ちた顔は、嘘をついている人間に作れるものではない。恐怖と憤りが綯い交ぜになったような思いが胸に広がった。
「そんなことが許されてたまるかよ! 国民は……殺された人の家族は何も言わねえのか?」
「一般には暗殺部隊の存在さえ、知られていません。仮にエジルが証拠を残して世間に糾弾されることがあっても、王国は無関係を装うでしょう」
「ふざけんじゃねえよ、くそっ! あんなのがうろついてるなんて、勘弁してくれ……」
悪態を吐き、地面を殴りつけたその手で、自分の顔を覆った。
俺はこんな物騒な国でどうやって生きていたんだ。あんなのがいるんじゃ、うかうか自分探しもできない。
「あの男だけではありませんよ。この国はとうに腐敗しているんです。だから、私たちは……」
シエラは沈んだ表情で語った。けれどもその瞳の奥の奥には、ほんの小さな光が覗いていて。最後のその言葉だけは、覚悟のこもった声色で言い切った。
「私は、英雄の復活を望むんです」
「英雄……?」
その言葉にピンとこないのは、俺が記憶を失っているからなのだろうか。眉を顰めた俺に、シエラはさらに言葉を重ねてくれた。
「四百年前、世界を混沌に陥れた巨悪を討った最強の剣士――『スレイ』です」
「スレイ……」
その名を口にしたシエラはどこか苦しげで、その右手は何かを恐れるかのように小刻みに震えていた。その臆病な右手を呪うかのように、憎々しげな瞳で見つめながら。
「彼さえいれば、きっとすべてがうまくいくんです。どこに隠れようと、どれだけ力を蓄えようと、あらゆる悪を必ず討ち取ってくれるはずなんです。だから……私は、必ず彼を見つけ出します」




