第3話 Happy Birthday, Dear――――. 2
「……どこだ、ここ」
気がつくと、そこは見知らぬ場所。
左右は煉瓦造りの壁に囲まれていて、前後に真っ直ぐ道が伸びている。景色はすでに夜の闇に溶けていて、その道の先に何があるのか、まるで見通せなかった。
ここはどこで、俺はどうしてこんなところにいるのか。何も思い出せず、俺は頭を抱えた。
「どういう状況だよ……。さっきまで俺は……」
はて。
さっきまで、俺はどこにいたのだろう。少なくとも、こんなところに一人突っ立っていた記憶はない。まるで、唐突にこの場所に投げ出されたかのような感覚だった。
それでも何とか記憶を探ろうと、自分の身に起きたことを整理しようとする。
確か――――――。確か?
そして気づく。整理も何も、俺の頭の中には一切の材料が残っていなかった。
「おい待て。何の冗談だ……?」
何も、何一つとして思い出せない。ここはどこだ? 本当に、縁もゆかりもない土地に突然降ってきたとでもいうのだろうか。だとしたら、なぜ? どうしてこんなことが起きた? 分からない。何も、分からない。
心臓が大きく音を鳴らし、嫌な汗が背中を伝う。
「誰か……!」
焦り、動揺の中で助けを乞おうとしたその瞬間、背後に何者かの気配を感じた。振り返ると、そこに立っていたのはフードを目深にかぶった顔の見えない人間だった。背が高く、肩幅も広くがっちりとした体型。恐らく男性だろう。
俺はほっと胸を撫で下ろして、男に「あの」と声をかけた。
「ここは、どこですか? なんか、気づいたらここにいて……」
我ながら斬新な質問に恥ずかしさはあったが、しかしそれを躊躇できるような状況でもなかったから、頭を掻きながら軽い調子で尋ねた。
しかし、俺の求めた答えの代わりに返ってきたのは警戒心剥き出しの声。
「……てめえは何者だ?」
「あ……」
柄の悪い口調に、俺は少し身を固くした。こんな夜更けだ、不良が活発に活動していてもおかしくない。穏便に済ませるためには誠意ある態度を取る必要があるだろう。
思えば名前も名乗らず、不躾な態度ではあった。相手がどんな人間であれ、こんな夜分ではなおのこと、訝しむ心持ちも生まれて当然だ。俺は己を戒める。呼吸を落ち着けて、改めて口を開く。
「………………」
が、開かれた口は発すべき音を探し当てることができなかった。
名乗りたい。だが、その名前が俺の記憶の中にはなかった。
俺は誰だ?
どこで生まれた?
どんな親の元に生まれた?
どんなふうに生きてきた?
その時、俺はようやく自分の身に起きた事態を理解した。俺はこの場所を知らないのではない。忘れてしまったのだ。
自分のいる場所も、自分の名前も、何もかも。
――――俺は、記憶を失っているのだ。
想像だにしていなかった状況に、俺はただ黙って過呼吸気味になりながら空気を取り込むことしかできなかった。なぜ、こんなことに。俺は、どうしたらいい。胸の中に不安が芽生え、どんどん大きく膨れ上がっていく。
そうして黙りこくっている俺に、男は苛立つような声を向ける。
「おい。聞いてるのかよ。てめえ、どうやって俺の『潜影』を見破った?」
「……潜影?」
聞き覚えのない単語。これも記憶喪失の影響なのだろうか。戸惑って結局、何の返事もすることができない。
「……まァ、どうでもいいか。名前なんざ」
「あ、いや……」
フードの男は焦れたように口にして、俺はまともな礼儀も示せないことを申し訳なく思い、彼に謝ろうと口を開いた。が、それより先に、男は言葉を続けた。
「――どうせ、殺しちまったらすぐに忘れる」
「……は」
次の瞬間。腹部に激痛が走った。何かが腹から抜けていくような感覚。
見下ろすと、そこにはナイフが深々と刺さっており、大量の血が地面に流れ落ちていた。
「なんだよ、こんなもんも避けられねえのか。面白れェ野郎だと思ったが、とんだ雑魚じゃねえか」
視線を上げる。男は右手を振り下ろしたような姿勢を取っており、ナイフを放ったのが彼であることが分かった。
一歩ずつ。足音とともに近づいてくる。
男は懐に手を入れたかと思うと、もう一本のナイフを抜いた。俺の血を欲するそれを、右手で弄びながらこちらに迫ってくる。
俺は、死ぬのか?
何で、こんなことに?
どうしてこんな、痛い思いをしている?
「なん、で」
意図せず吐息のような小さな声が漏れていた。その声は男に届いたのか、あるいは宙に消えてしまったのか。
男のフードの内から笑みを浮かべているような歪んだ口元が見えたとき。
俺は男から逃れようと、身体を翻して全速力で走った。
呼吸が苦しい。
何度も足がもつれて転びそうになる。
身体を必死に動かそうとすればするほど、腹に刺さったままのナイフが肉を傷つけていく。痛みのあまりナイフを引き抜くと、どっと血が溢れ出てきた。
身体に力が入らない。しかし足を止めることはなかった。
このまま逃げなきゃ確実に殺される。すべてを忘れた空っぽの不出来な頭を抱えている俺だけれど、それだけははっきりと分かっていた。
死にたくない。死にたくない。死にたくない。
誰でもいい。誰か、誰か、誰か。
「誰か――――――ッ!」
喉が裂けるような思いで叫んで。
走って、走って。路地を道なりに曲がったその先で。
「……あ」
フードの男との再会を果たした。
どうして。先回りされたのか?
嫌だ、死にたくない。
でも、逃げられない。
それを理解したその瞬間、俺の意に反して身体は命を諦めたように、膝から地面に崩れ落ちた。
身体が動かない。刺された腹部がじんじんと熱を持つ。呼吸がうまくできない。むせ返る。見ると、口から吐き出されたと思われる血液が目の前に広がっていた。
視界の隅で、男の足がゆっくりの歩み寄って来るのが見えた。
ダメだ。死ぬ。殺される。
嫌だ。誰か、助けてくれ。
誰か、誰か、誰か――――――。
「彼は私が! 隊長は奴をお願いします! ――今治すから、もう少し頑張って!」
声が聞こえる。女の子の声だ。懸命に俺を励ましてくれる声が、聞こえる。
でも、ああ、だめだ。
彼女の声が遠くなる。闇に誘われる。
ぷつりと、俺の意識はそこで途切れた。




