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ゼロの英雄  作者: 鈴華圭
第1章 Happy Birthday.

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第2話 Round 1




「……誰か」


 助けを求めるか細い一言が口の端から零れ落ちた。不安のあまり無自覚に溢れたもので、呆然としていた俺は、それが自分の声だと断ずることさえ即座にはできず、愚かにも近くに誰かの存在を期待して周囲に視線を走らせた。が、当然そこには誰もいない。

 もはや他者はおろか自分の存在さえおぼつかなくなり、巨大な不安が心臓を突き動かした。


「……誰か、誰か!」


 悲鳴のような声を上げ、俺は路地を駆け出した。

 何も分からない。それは他の何事にも喩えようのない圧倒的な恐ろしさを招いた。

 俺は誰だ。

 ここはどこだ。

 この刀は何だ。

 俺は何をしていたんだ。

 今日まで俺はどうやって生きていたんだ。


「誰か、教えてくれ!」


 誰か。

 誰かとは、誰だ? 

 俺は、誰を頼ればいい?

 誰か、俺を知っている人は?

 誰か。誰か。誰か。


「助けて……誰か!」


 家族は。

 友人は。

 恋人は。

 誰でもいい。そんな人たちがいるなら、どうか助けてくれ。何もかもを教えてくれ。

 俺は、どこでなら生きていい? どこでなら、生きていける?

 過去一つ分からない今、自分の未来を朧気に思い描くことさえできやしない。世界は俺に、死ねというのか?


「嫌だ……誰か、誰か!」


 誰でもいい。助けてくれ!


 みっともなく情けなく、大量の冷や汗を流しながら、無様に走る。進めど進めど闇にしか続いていない道が胸をざわめかせる。


「誰か……がっ!」


 何度目だろう。助けを乞う叫びを繰り返したその時、俺は何かにつまづいて盛大に前方へと転がった。受け身もまともに取れず、全身をしたたかに地面に打ちつける。すぐに身体のあちこちが熱を持ち、じんじんと痛み始めた。俺は顔を歪ませ、しかしその痛みが俺を戒め、落ち着きを取り戻させた。


「ッ……現実、なんだな……」


 夢でも死後の世界でも何でもなく、ここは確かに現実の世界なのだ。身体の痛みと地面の冷たさが、ようやくその事実を冷静に受け止めさせた。


「落ち着け。大丈夫……かどうかは正直分からないが、慌てふためいてどうにかなる問題じゃない。冷静に考えろ」


 額を地面に擦りつけ、頭を冷やす。


「まずは何より、誰かに助けを求める。これが最優先だ。これだけ叫んで走っても人は見つからないけど、深夜なら仕方ない。朝を迎えれば助けてくれる人もすぐ見つかるはずだ。だから、落ち着け。ここがどこなのかも覚えてねえが、俺の家が近くにあるのかもしれない。それなら無闇に駆け回ってここから離れるのはむしろ下策だ。今は、夜明けを待とう。幸いそれほど寒くもない。一晩くらいなんだってんだ。助けてくれる優しい人は、必ずいる」


 ぶつぶつと独り言ちながら、呼吸と心音を落ち着けていく。頭もちゃんと働いている。大丈夫だ、何とかなる。


「よし、とりあえず今は大人しく休んでおこう。もう一度寝て起きたら、うっかり記憶も戻ってるかもしれないしな。道端じゃ寝心地は良くないだろうが、俺は直立姿勢で寝られるほどの大物らしいから、問題はないだろ」


 今後の見通しが立って、俺はようやく身体を起こす。痛む身体を立ち上がらせ、伸びをして。

 俺は、それを見つけた。


「……は」


 俺の、すぐ足元。先ほど躓いた()()。その正体をようやく目にして、俺は後ずさりした。

 そこにあったのは、腹から大量の血を流して仰向けに倒れる男の身体だった。


「なんだ……なんだよ、これ……」


 目を凝らしてみると、周囲の地面は赤く染まっており、男の傷口からは臓物が覗いている。目は苦悶を滲ませながら大きく見開かれて、瞬き一つしない。それがもはや命を失った身体であることは間違いなかった。

 辺りに人の腹を割ることができるような刃物は落ちていない。それはすなわち、これが他殺であることの証左だ。血液はまだ乾ききっておらず、死臭もない。恐らく、まだ死からそれほど長い時間は経過していない。

 つまり。まだ、この近くに、この男を殺した人間がいる――。




「声がすると思って戻って来てみりゃあ、もう一匹寄って来てんじゃねえか」




 不意に背後から声が聞こえて、息を吞んだ。獰猛な獣の唸り声のような、身を竦ませる低い声だった。

 振り返り、その獣の姿をはっきり捉えるより前に、弱々しい星明かりを反射する小さな光が目の前に迫る。それが何なのか、頭で理解するより先に身体が飛び退いていた。


「悪くねえ反射速度だ。てめえ、その剣。騎士か何かかよ」


 立っていたのは、フードを目深にかぶった顔の見えない男。その手にはナイフが握られていた。今、俺のすぐ目の前を裂いたものの正体は、不気味にきらめく刃だった。その切っ先が、再び俺に向けられる。


「う、わああっ!」


 目の前で小さく火花が散った。男の追撃を、すんでのところで剣を抜いて弾いたのだ。これもまた、頭で考えて動いたわけではなかった。身体に染みついていたのであろう剣の記憶が、窮地で無自覚に表れたのだろう。しかし、そんな偶然が一度や二度続いた程度では、身体の震えを止めるほどの自信は得られない。そんな俺を見て、男は舌打ちをした。


「おい、てめえ。なんだよ、その悲鳴は。ふざけてんのか? そんなタマじゃねえだろ。俺の前で声を上げられるほど長く生き残れる奴が、そんなに情けないわけがねえ。なあ、違うかよ!」


 牙を剝き、獣が吠える。その捕食者の眼光に射抜かれ、狩られる側の俺の足はすくんだ。次の瞬間、腹部に強い衝撃が走る。目で捉えることができないほどの素早い蹴りが突き刺さった。


「がっ……!」


 後ろへよろけ、地面に手をつく。胃から逆流してきた何かを、這いつくばって吐き出した。むせながら吐瀉物をすべて絞り出し、涙とよだれがその上に滴った。


「こんなもんかよ。つまらねえ」


 首に何か冷たい感触があった直後、今度は温かな何かが噴き出した。


「……あ」


 血だ。首から大量の血が流れ落ちる。身体から力が抜け、かろうじて上体を支えていた腕も崩れて地面に倒れた。


「まだ終わりじゃねえぞ。戦いで俺を楽しませられなかったんだ。せめてその身で、その血で、その命で、俺を楽しませろ。もう一つ、二つ。そら、全部撒き散らして、空っぽになって、干からびた蛙みてえに、死んじまえ」


 数度、身体に衝撃。どこかを刺されているのだろうか。しかし血を流しすぎたせいか、もはや感覚も曖昧で確信が持てなかった。

 目がかすみ、男の声が遠くなっていく。

 何もかもを忘れ、この身に残った最後の一つ、命さえもが、零れ落ちてゆく――。




「――チッ、厄介なのが来やがった」




 不意に、フードの男のぼやきが聞こえた。と、かろうじて視界の隅に映っていた男の足はどうしたことか俺を捨て置いて遠ざかり、一瞬のうちに闇の中に姿をくらませてしまった。


「アスター様、奴です! この人は私に任せて、奴を追ってください! ――大丈夫ですか? 今、治療をしますから、もう少しだけ辛抱してください」


 薄れゆく意識の中で、女の声が届く。その手が、俺の手を包み込む。血液を失い、体温を奪われていた俺は、無意識にその手の温もりを求めて、力一杯握っていた。




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