第1話 Happy Birthday, Dear――――.
暗いような、明るいような。
冷たいような、温かいような。
そんな、なんとも形容しがたい奇妙な心地の、底の底で。
「――――――――」
声が聞こえた。
遠く判然としないが、胸の奥の方を直に撫でてくる、強い愛の内包を感じさせる声が。
「――――――――」
なぜ、こんなにも惹かれるのか。
身を捩って声のもとへと向かおうとするが、宙を揺蕩うばかりで身体は一向に動かない。
「――イ、――――――」
耳を澄まし、それでもなお、単語一つさえ掴ませてくれない声。だが、わずかに明瞭さを増した音に、脳が蕩けるような快楽に包まれた。
いったい、誰なんだ。これほどまでに心を揺らすこの声は、いったい誰が――。
「――――――待ってた」
***
はっと、目を覚ました。何か、途方もないくらいに長い夢を見ていた気がする。だが、痺れた頭は夢の内容など不要と断じて、すでに捨て去ってしまっていた。伸びをして、未だ覚醒に至らない我が身に目覚めを促す。
――目を、覚ました?
不意に激しい違和感を覚え、頭の中で自らの言葉を反芻する。
俺は、眠っていたのか?
だが、意識を取り戻したその瞬間から、俺はこうして立っていた。
まさか、何かにもたれることもなく、二本の足で立ったまま眠っていたとでも言うのだろうか。
「いつの間にそんな器用な人間になったんだよ、俺は……」
状況が理解できず、半ば己に呆れながらも手がかりを探るべく、周囲に目を遣った。が、困惑はさらに深まる。
「……どこだ、ここ」
そこは、煉瓦造りの建物に囲まれた見知らぬ細い路地。すでに辺りは夜に落ちており、細道は闇の中へと伸びていた。俺の他に人影はなく、耳に届くのは徐々に早まっていく俺自身の鼓動の音だけだった。
何も思い出せない。いくら頭を悩ませても、目の前にある景色に見覚えはないし、こんな場所で吞気に寝ていた理由も分からない。いや、本当に立った状態で寝ていたならば、吞気に、という表現は適切ではないのかもしれない。が、それはさておき。俺は一体、ここで何をしていたんだ?
高まっていく不安を抑えるため、俺はゆっくりと深呼吸をした。夜の冷えた空気が肺に満ち、胸の底の臆病心がわずかに洗われた気がした。
まずは何より、今俺がいるこの場所がどこなのかを知ることが先決だ。こんな闇深い夜に外を出歩く人間がそう多くいるとは思えないが、誰も彼もが日が落ちたら家に帰る用心深さを備えているはずもない。親切な人の一人や二人、容易く会えるだろう。何も慌てるようなことはない。場所さえ分かれば、俺がこのような見知らぬ土地に来た理由もきっと思い出せる。夢遊病、なんて可能性もあるかもしれないが、その時には医者の世話になろう。
そう思考を巡らせて、前後の道を見比べ、当てずっぽうに歩き始めようとした、その時。
腰の左側で何かが確かな重量感を持って揺れた。そこで俺は初めて、腰にぶら下がっていたそれに気がついた。
「……刀?」
柄を握り、鞘からわずかに引き抜いてみると、仄かな星明りを照り返す美しい白銀の刃が覗いた。
「本物だ……」
決して一般市民が持っているはずのない物。それが、なぜ俺の腰にぶら下がっている?
そしてようやく、俺は自分の前に横たわる最大の問題に思い至った。
「……俺は、誰だ」
刀を持っている理由や、己の身分だけではない。
自分の名前さえ、思い出せない。
見覚えのない刀によく馴染むこの手は、本当に俺の手なんだろうか。
その日、その瞬間に、突然世界に生まれ落ちたかのように。
俺は何一つとして理解の及ばぬまま、深い闇に包まれていた。




