第9話 臆病心を押し殺す 2
地上に出ると、まだ辺りは真っ暗で、かすかな星の光だけが視界を照らしていた。
静かだ。無音の空間に感覚を研ぎ澄まされる。目を凝らして闇を覗くが、近くに人の気配は感じられなかった。
「まずはどっちから行く? ブラドか、俺を刺した奴か」
「ブラドよ。私の上官が追っていたはずだから……」
ルキナは小声で呪文を唱え、目を瞑る。何をしているのだろう。気になったが、彼女の顔を見つめているうちになんとなく恥ずかしくなって視線を逸らした。
その時、彼女の腰の剣が目に入り、ふと思う。
ルキナには魔道も剣もある。俺にも何か戦える手段はないだろうか。懐をまさぐってみるが、武器になりそうなものはおろか物一つ持っていなかった。こんなに無防備で、記憶を失う前の俺はいったい何をしていたんだろうか。そう思って己に幻滅するが、ある可能性に思い当たる。もしかしたら、俺もルキナのように魔道が使えるのではないか。
俺はルキナに気づかれないように小さな声で、先ほどのルキナの治癒魔道の呪文を唱えた。
「百式魔道・光の章・第1節『恢輝』」
しかし、先刻ルキナが見せたような白い光が現れることはなかった。どうやら俺は魔道も使えないらしい。まさに能無しだ。一人で勝手にうなだれる。ナイフの男を追うため、と自分の価値を示したわけだが、では目の前のブラドとの一戦で、俺は何ができるのだろうか。いや、何かできるのだろうか。
「……おかしい」
己の無力さに震えていると、ルキナが小声で困惑を口にした。
「どうした?」
「隊長と連絡が取れないの」
魔道で連絡を取ろうとしていた、ということか。その仕組みはいまいちイメージできないが、それが戦闘中でもできるような、面倒な手続きを必要としないものであるならば……。
「ブラドにやられたってことか?」
信じられない様子で表情を硬くするルキナは悪い想像を振り払うように首を横に振った。
「もう少し待ってて。……百式魔道・風水の章・第1節『波水気』」
と、再び彼女は状況を探るべく魔道を使用する。
ルキナは王国騎士団三番隊副隊長と名乗っていた。ということはつまり、ルキナの上官とは三番隊の隊長ということになるのだろうか。騎士団組織の全容は分からないが、自然に考えれば騎士団でも屈指の実力者に違いない。序列からいえば、まず間違いなくルキナよりも強いはずなのだ。そんな強者を倒すほどの相手と、俺たちはやり合おうとしているのか……?
「――見つけた。状況は分からないけれど、とりあえず隊長と合流しましょう」
「あ……ああ」
歯切れの悪い返事に、ルキナは眉を顰めた。
「怖くなった?」
「まさか。そんなわけ、ないだろ」
「……あなたが無理する必要なんてないのよ」
「……」
「どうせあなたは戦えないんだから。命を懸ける理由もあなたにはない」
忘れたわけじゃないんだ。あいつに刺された腹の痛み。
もうあんな痛い思いも怖い思いもしたくない。
本当は、地上に出てからどんどん逃げたい思いが強くなっている。
だから、ルキナがそう言ってくれて。俺は心底、ほっとした。
「っ……ああああぁぁぁぁッ!」
すぐ傍の煉瓦造りの壁に、俺は頭を叩きつけた。鈍い音が頭の中で響き、足元がおぼつかなくなる。
「ちょっと、何を……!」
「ぜんっ……ぜん、痛くねえ!」
嘘だ。本当は泣きそうなくらい痛い。
でも、俺はルキナに憧れたんだろ。
彼女はきっと、痛いも怖いも押し殺して、どんな危険にも立ち向かっていくはずだ。
「俺は、逃げねえぞ。早く、あんたの隊長さんを助けに行こうぜ」
心の隅で膨れ上がろうとしている臆病心をくしゃくしゃに押し潰して、俺は笑ってルキナに言う。隊長がやられてるというのなら、なおのことだ。俺は戦えないけれど、戦闘不能になった隊長を背負って避難するくらいのことはできるはずだ。
ルキナはそんな俺を見て「馬鹿な人ね」と小さく笑った。
ルキナの後ろを追う形で夜道を駆けていく。彼女は騎士として鍛えているだけあって、俺はついていくのが精いっぱいだった。走るのに一生懸命になるあまり、仮に道中で奇襲を受けていたとしたら、俺はその気配に気づくこともなく死んでいただろう。しかし幸い俺たちは無事に目的地まで辿り着くことができた。
「――ルイス隊長!」
地面に横たわる壮年の騎士を見つけて、ルキナは叫んだ。急いで駆け寄り、治癒の呪文を唱えた。
ルイスと呼ばれた隊長は酷い有り様だった。全身が腫れ上がり、右腕に至っては骨が折れてあらぬ方向へと曲がっていた。しかし、刃物で切られたような傷は一つもない。ということは、この人をここまで傷つけた犯人は、恐らく……。
「……ル、キナ」
ルキナの声のおかげか、ルイスは意識を取り戻して血を吐きながら彼女の名前を呼ぶ。
「はい! 今すぐ治します!」
「後ろだ……ッ!」
ルイスの警告じみた言葉に、俺とルキナは揃って背後を振り向いた。
「その男の部下か」
そこにはフードの男が立っていた。さっきまでそこにはなかった圧倒的な存在感が、全身を粟立たせた。
「なんだよ……こいつは……」
鼓動が速くなる。空気が足りず、必死に呼吸を繰り返す。さっき鉢合わせた時には感じなかった圧力。はっきりとこちらに向けられているそれは紛うことなき殺気であった。
奴は何もしてはいないのに。ただそこに立っている奴を見ているだけで身体が震え、気づけばその場に膝をついていた。
「火の章・第6節『赫炎大砲』!」
しかし、ルキナは怯むことなく呪文を唱え、大きな炎の塊を奴へと放った。直撃とともに爆発し、辺りに黒い煙が立ち込める。
「スレイ! ブラドは私に任せて、あなたはルイス隊長を安全なところへ!」
それだけ言うと、彼女は剣を抜き放って黒煙の中へと身を投じ、その姿をくらませてしまった。
あんなにもやばそうな相手にも、果敢に挑んでいく。俺が憧れたのは、そういう人だった。
「……そうだよな。俺一人ビビっていられるかよ!」
ルキナの後ろ姿に鼓舞された俺は自分の足を殴りつけて叱咤し、ルイスのもとへ駆け寄る。
「大丈夫か? ちょっと痛くても我慢してくれよ!」
ルイスに肩を貸して起き上がらせる。大柄なルイスの身体がずしりとのしかかり、俺は顔を歪ませたが、ルキナに背を向けて路地の先へと歩き出した。
しかし、耳元でルイスが呻くように言う。
「待て、ダメだ……」
「ダメって何がだよ!」
俺にできることは、いち早くルイスと共にこの場から離れて、ルキナが何も気にすることなく戦えるようにしてやることだけだ。そしてブラドを相手にしている今、少しの遅れが致命的になりかねない。ルイスもそれが分からないわけではないだろう。にもかかわらず、ルイスは俺の足を止めようとする。
「奴は異形だ……。ルキナに、今すぐ逃げるよう伝えるんだ……」
ルイスのその言葉を受けて、胸の中に冷たい不安が広がり、俺は足を止めてもう一度後ろを振り返ってしまう。
その瞬間、ルキナの身体が黒煙の中から飛び出して、地面に叩きつけられるのが見えた。




