湯煙の月見酒
湯煙の月見酒
「カケス男や。風が出てきたようだが、ぼちぼちお開きにしようかい」
「風ェ?ウィーッ、ヒック!ワイは何も感じまへんけど」
「すっかり酔っぱらっちまっとるようじゃのう。これじゃあ月見風呂どころじゃないわ。ったく、自分から言い出しよったくせに」
ここは日本最北の島、オシリ島。ふたつの峰を持つ円形の堂々とした島だが地図には記されていない。地図に載らないのは隣国との境界線を巡って危うい位置にあること、そして稀有な資源が眠っているのではないかという、まことしやかな噂が流れているからだ。
噂を確かめようとした者も少なくなかったらしいが、みな帰らぬ人となったという。
これも噂だ。
噂の真偽について知っているのは、おそらく今この野天風呂で月見酒をしているベンケェとカケス男くらいだろう。
「いやいや、酔うてまへんがな、ベンケェはん!月は見えとる。キレイなお月様や。この国見山の麓にこんこんと湧き出る神秘の温泉に浸かりながらお月見のできる幸せをとっぷりと満喫しとります。白濁の温泉ににごり酒、そして夜のカンバスいっぱいの満月、極楽極楽。ゴクゴクゴクゴク、ウイーッ」
「オヌシはそんなに呑んでばっかりいないでちっと見てみい。国見山の向こうのシッカリ山。あの崖が見えるじゃろう。ホレ崖の上のほう、樹のシルエットが揺れとる。柏の樹じゃ、ホレ」
「へ、何でっか?と・とと……」
何かを言われたことはわかっていても内容は理解できない様子のカケス男は、ふらつく手元のコップからお酒がこぼれないようにすることで精いっぱいだ。
「ああ、あんまり夜目は利かない方か。昼間はけっこう遠くまで見えとるのにのう。耳の方がなんぼかマシなようだな。ホレ!聴こえるじゃろう。カサカサッてゆうんが、葉っぱたちの笑い声が」
「ワイには何も聴こえまへんで。葉っぱたちの笑い声って、ベンケェはん、そのでかい図体、髭まんだらのごっつい顔に似合わへんロマンチックなこと言うやないでっか。ヒック、ベンケェはんこそ呑みすぎちゃいまっか?」
「し! ホラ」
カサカサ……
「ほえ?」
「見えもせんし聴こえもせんのじゃしゃあないのう。エエ若いもんが。オヌシはこれ以上呑まん方がエエ。そろそろ日付も変わる頃合じゃ。お開きにするかい。お開きお開きじゃ」
カサッ……カサッカサッカサカサ……
「ウ~ンそない言えば、ヒック、何となく」
カサッ……カサッカサッ
「ホレ、だんだん大きくなる」
「おおきく?」
「なんじゃ?」
カサッ、こんばんわあ
「こ、こんばんわあって?」
「なんじゃなんじゃ」
「あ、あの夜分にすみません」
「へ?」
カサカサという音はだんだん大きくなり、残雪を乗せて立ち枯れたオオイタドリの繁みを掻き分けて、ひとりの人間となって現れた。
「こんばんわ、驚かしてすみません。遠くから湯気が見えたので、もしやと思って来たのですが。ご迷惑でなければ、お風呂ご一緒させてもらえませんでしょうか?」
「は、はあ……別にかまわんけど」
突然の来客に面食らったベンケェとカケス男。カケス男がお銚子をこぼしてしまったのは言うまでもない。ベンケェは大きな目ん玉を見開いて湯船に仁王立ちだ。
この島にこの二人の、いや正確には一人と一羽、いややはり二人か? 他に人間が居るなんて、一気に酔いが醒めるほどの衝撃だ。酔いが醒めたら醒めたでまだまだ呑めると大喜び。しかも呑む仲間が増えたもんで始末に負えない。
「ベンケェはん、朝まで付き合ってもらいましょか」