ジークヴァルドの暗躍⑤
フレドリカ妃殿下はもう一度目を見開き、今度はなぜか、感心したように目を細めた。
「よく知っているのねえ」
純粋に驚いているだけのその表情に、俺は少し面食らう。
言い伝えが本当なら、『赤い月』の下に生まれたとされるフレドリカ妃殿下は不吉な『忌み子』である。はっきりとそれを指摘したわけではないにせよ、この場で『忌み子』の言い伝えを暴露したということは暗に妃殿下がそうだと言っているようなものだ。不敬を問われてもおかしくはない。
でも、妃殿下はまるで他人事のようにふふ、と小さく笑っている。
「確かに、そういう言い伝えはありました。でもそれは、とても古い時代の迷信なの」
「迷信ですか?」
「そうよ。誰が言い始めたのかはわからないけれど、今では何の根拠もない世迷い言だとされているの。わたくしが生まれたときにも声高にその迷信を口走っていた輩がいたようだけれど、みんな白い目で見ていたんですって」
「では、『忌み子』の言い伝えというのは、もはや時代遅れの単なる迷信ということでしょうか?」
「あ、ただ、ローダムでも北東部の一部地域では、いまだにその迷信が信じられていると聞いたことがあるわね」
「……古い言い伝えを今も信じている地域があると?」
「残念ながらね」
妃殿下の話を聞きながら、俺の中で一つの仮説が確信に変わっていく。
それから数日、俺は王城に隣接する図書館に通い詰めた。
確信を裏付ける、しっかりとした根拠を探すためだ。もちろん、ルイーズも率先して手伝ってくれた。
さらにはフレドリカ妃殿下に関する悪質な噂をよく話していたとされる『情報通』の女性職員たちを特定し、もう一度詳しく話を聞いてみた。
そして、ウェルカムパーティーから一週間後。
ほとんどの職員がすでに帰宅した宰相補佐室に残っていたのは、俺とアムラス室長、そしてイェスタ先輩である。
「いったいどうしたんですか?」
帰ろうとして引き止められた格好のイェスタ先輩は、そこはかとなく漂う異様な空気に戸惑っていた。
「イェスタ。お前に確認したいことがある」
アムラス室長の硬く事務的な声に、イェスタ先輩は怪訝な顔をする。
「単刀直入に聞く。フレドリカ妃殿下に関する根も葉もない悪質な噂を流していたのは、お前なのか?」
その問いに、イェスタ先輩は確かに一瞬怯んだ。
でもすぐにいつもの飄々とした表情に戻ると、「何を言ってるんですか、室長」とおどけた調子で笑い出す。
「そんなわけないじゃないですか。なんで俺がそんなこと――」
「先輩が、ローダム公国に対してある種の憎しみを募らせているからです」
俺はそう言って、真っすぐにイェスタ先輩を見据えた。
先輩はあからさまに眉根を寄せたかと思うと、尖った目つきで言い募る。
「なんだそれ。ジークヴァルド、お前適当なこと言うなよ。ローダムを憎む? そんなの、俺だけじゃないだろ。みんな多かれ少なかれ、ローダムのことなんかよく思ってないんだよ」
「そうですね。この国の人たちの多くは、ローダム公国に複雑な感情を抱いています。でも先輩のはもっと明確な憎しみ、有り体に言えば敵意ですよね?」
「は!? なに言って――」
「先輩はローダムに対する反感を募らせ、敵意を拗らせるあまり、ローダムから輿入れしてきたフレドリカ妃殿下に関する悪質な噂を故意に流して鬱憤を晴らしていたのでしょう? 違いますか?」
「さっきから何なんだよ。だからなんで俺がそんなことする必要があるんだよ!?」
「……先輩の姉君が、ローダム公国に深く傷つけられたからです」
俺の言葉に、イェスタ先輩はぴしりと動きを止める。
瞬きもせず俺を見つめるイェスタ先輩を横目に見ながら、それでも俺は淡々と説明し始める。
「先輩の姉君は、当時ローダム公国から留学してきたとある伯爵令息と恋仲になり、学園を卒業後その伯爵令息のもとに嫁いだそうですね。しかし三年後、離縁してこの国に戻ってきています。恐らく、子どもができなかったことがその理由なのでしょうが」
「な、なんでそれを……」
「図書館にあるローダム公国の貴族名鑑を調べました。あとは、室長にも事情を話して許可を得てから個人情報を調べさせてもらいました。ローダム公国にも問い合わせたところ、先輩の姉君が嫁いだローダムの伯爵令息はすでに別の女性と再婚していて、後継も生まれているとか。ですから、離縁はその辺りの事情が理由だったのではと」
「お前……」
イェスタ先輩は忌々しそうな視線を俺に向けてから、噛みつくような声で反論する。
「だ、だからって、俺が噂を広めたとは言い切れないだろう?」
「そうですね。俺もそう思ったんで、フレドリカ妃殿下についてよく噂していたとされる令嬢たちを特定し、改めて話を聞いたんです。彼女たちは、全員先輩と個人的に親密なつきあいのある方たちだそうですね? 先輩は彼女たちが口の軽い噂好きの令嬢たちだとわかったうえで近づき、フレドリカ妃殿下に関する根も葉もない噂を吹聴するよう仕向けたのではないですか?」
「い、言いがかりだ! 俺はそんなことしていない!」
激昂して立ち上がるイェスタ先輩を、アムラス室長は感情の見えない冷徹な目で見つめる。
「そうか。しかしこれだけ状況証拠がそろえば、お前がまったくの無関係だと言い切ることもできまい」
「うっ……」
「どうなんだ? イェスタ。正直に話してくれないか?」
室長の低く押し殺した声に、それでも先輩は何か言い返そうとしたのか口を開きかけ、結局は諦めたらしい。
腹立ちまぎれに大きなため息をついてから、ぼそりとつぶやく。
「……俺ですよ。俺が、妃殿下に関する根も葉もない噂を広めました」
そう言って、イェスタ先輩は刺すような視線を俺に向ける。
「……最初から、俺を疑っていたのかよ?」
「まさか。先輩のことは一ミリも疑っていませんでしたよ」
「じゃあ、なんで……」
「最初に違和感を覚えたのは、先輩があの『忌み子』の話をしたときです。先輩はローダム公国やフレドリカ妃殿下のことを悪しざまに話すことが多かったですけど、そのわりにはローダムの内情に詳しいなと思ったんですよ。人から聞いたと言っていましたけど、じゃあ誰から聞いたんだろう、と。もちろん、不特定多数の誰か、という可能性もありますが、それにしては『忌み子』の話は具体的すぎる。ちょっと聞いただけ程度の知識ではない気がしたんです。それで、もしや先輩はローダムの人間かそれに近しい人とつながりがあるのでは、と考えて、ひとまずローダムの人に直接聞いてみたんですよ」
「ローダムの人?」
「フレドリカ妃殿下です」
事もなげに答えると、先輩はすかさず信じられないという顔をする。
「お前、マジか……」
「はい。たまたま機会があったので、フレドリカ妃殿下に直接聞いてみたんです。妃殿下の話では、『赤い月の忌み子』の言い伝えは今では単なる迷信だとされているけど、ローダム北東部の一部地域ではいまだに信じられているらしいとのことでした。そこから先輩のことをいろいろ調べて、姉君がローダムに嫁いでいたことや嫁ぎ先の領地がローダム北東部に位置していること、でもどうやら数年前に離縁されて戻ってきていることなどを突き止めたんです」
「なるほどな……」
「考えてみれば、補佐室でフレドリカ妃殿下の噂話が聞かれるとき、先輩はいつも輪の中心にいましたよね? まあ、望まれて嫁いだはずなのに身勝手な理由で一方的に離縁され、傷ついて戻ってきた姉君を見ていれば敵意が湧くのも仕方がないのかもしれませんが」
そこで一旦言葉を切った俺は、もう一度イェスタ先輩を真正面から見据えた。
「それでも、姉君の身に起こったこととフレドリカ妃殿下とは何の関係もありません。妃殿下を故意に貶める理由にはならないのですよ」
俺の言葉にイェスタ先輩は顔を歪ませ、ただ黙って項垂れるよりほかなかった。
◆・◆・◆
それからのことを、少し話しておこうと思う。
自らの過ちを認めたイェスタ先輩はそのまますぐに退職願を出し、ひっそりと王城を去った。これからのことは領地に戻ってから考えたい、と薄く笑っていた。
イェスタ先輩によれば、姉君の離縁の理由は確かに子どもができなかったことだけど、離縁が決まる前から元夫だった伯爵令息はどこぞの令嬢と浮気をしていたという。つらい思いをして帰国した姉が今でも元夫を忘れられずにいる様を見て、やり場のない怒りをずっと抱えていたらしい。
「それでも、国のために嫁いできてくれた妃殿下を傷つけていいはずがなかった。お前の言う通りだよ」
イェスタ先輩は自分のしたことを白日の下にさらし、潔く罰を受けることを望んだ。
でも、公にすることを拒んだのはフレドリカ妃殿下だった。
妃殿下はすべての事情を知ったうえで、こう言ったのだ。
「彼のしたことは、確かに許されることではないのかもしれません。でもわたくしに関する悪質な噂がこれほどまでに広まったのは、偏にローダム公国の至らなさのせい。これまでローダムがいかにラングリッジを悩ませ、煩わせてきたのかが如実に表れていると思うのです。そんなラングリッジの想いや葛藤を真摯に受け止め、向き合っていくのがわたくしの務めなのではないでしょうか」
フレドリカ妃殿下の意向を尊重し、結局この件は一部の関係者にのみ共有されるに留まり、公表されることはなかった。
イェスタ先輩の突然の退職は当然のように周囲を驚かせたけど、「家庭の事情」と説明されれば仕方がないと受け入れられた。妃殿下に関する噂と先輩の退職を結び付けて考える人は、多分そう多くはなかったと思う。
ただ、悪質な噂の供給がなくなったからといって、妃殿下に対する評価が劇的に改善するわけはない。
それに関しては、俺の可愛い婚約者がいい感じに暴走している。
「これまでの噂は所詮根も葉もない、事実無根のでたらめなのです。でたらめが真実に勝てるわけないじゃないですか。今こそ妃殿下の聡明さと清廉潔白なお人柄を世に知らしめ、間違った情報に上書きしてしまいましょう!」
ルイーズはそう言って、妃殿下を王城の外へと連れ出し始めた。例えば教会とか、孤児院とか、困っている人が多い場所、人手が足りないところへ行っては街の人たちとふれあい、意外にお茶目で人懐っこい妃殿下の人となりをアピールするようになったのだ。
これまで妃殿下は、ローダム公国に対するラングリッジの国民感情を逆撫でしないよう、王城の外に出ることや目立つ行動は極力控えていたらしい。ルイーズは補佐官としてまったく真逆の戦略を主張し、持ち前の行動力で妃殿下を動かした。
これが功を奏し、人々の目は少しずつ変わりつつある。
王城の中でも、妃殿下を擁護する意見が聞かれるようになっているらしい。
ただ。
俺の中には、一つの疑問がずっとくすぶっていた。
だからイェスタ先輩が王城を去ってしばらく経ったあと、宰相補佐室に残っていたスヴァンテ先輩に尋ねたのだ。
「先輩は、噂を広めているのがイェスタ先輩だと気づいていたんじゃないですか?」
その問いに、スヴァンテ先輩は張り詰めたような険しい表情を見せる。
「……なんでそう思うんだ?」
「単なる勘です。でも学生時代からの友人なら、イェスタ先輩の姉君がローダムに嫁いだことを知っていてもおかしくはないかなと」
「……ローダムに何かしらの因縁を持つイェスタなら、妃殿下の噂の件にかかわっていても不思議じゃないと俺が気づいてたっていうのか?」
「はい」
スヴァンテ先輩は目を通していた書類をパタンと閉じると、小さく息を吐く。
「……勘のよすぎる後輩ってのは、扱いづらくて困るよな」
皮肉めいた言葉とは裏腹に、スヴァンテ先輩の表情はどこか悲哀と憂いに縁取られている。
「一度だけ、イェスタが話していたことがある。年の離れた姉がローダムに嫁いだけど、離縁して家に戻されたって」
「え……」
「あいつ、幼い頃に母親を亡くしてるんだ。姉はあいつにとって、母親代わりだったらしいからな。ローダムに対して、漠然とした葛藤というよりもっと明確な敵意を抱いているのは知っていたよ」
「だったら……」
「俺には、間違ったことを間違っていると言える勇気がなかったんだ。あいつに向き合う覚悟もなかった。ただそれだけだよ」
スヴァンテ先輩はそう言って、何かを諦めたように笑った。
俺にあったのは、勇気や覚悟ではない。そんな大それたものじゃない。それは自分が一番よく知っている。
俺を突き動かしたもの。俺がしたかったこと。それは、ただ――――
「ジーク?」
いつものように隣に座るルイーズが、心配そうに俺の顔を覗き込む。
「どうしたの? 何かあった?」
気遣わしげに俺の目を見つめる最愛に、すっと手を伸ばす。
「……何もないよ」
言いながらルイーズを抱き寄せて、その首元に顔を埋める。いつもの甘い匂いがして、ホッとすると同時にすべてを奪い尽くしたい衝動に駆られる。
やっと手に入れた唯一無二の存在だけが、俺のすべてだ。
そして、俺の行動原理そのものでもある。
無謀で、怖いもの知らずで、人の言うことなど一切聞くことなく勢いだけで暴走するくせに、意外に冷静で、肝が据わっていて、どんな危険もあっけらかんとはね返す最愛の婚約者。ルイーズがルイーズのまま走り続けていられるように、俺はいつだってすぐそばで、ルイーズを守りたい。
「……ルイーズ」
「なあに?」
「すげぇ好き。めっちゃ好き。大好き」
顔を上げると、頬を赤く染めたまま何も言えずにいるルイーズと目が合った。
ほんとにもう。いちいち可愛すぎるんだよ。
挙動不審になりながらも、必死で「わ、私も……」とつぶやくルイーズが可愛すぎて愛しすぎて、俺はすかさず触れるだけのキスをした。
心の中で、「愛してるよ」とささやきながら。
番外編もこれで完結です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!




