3 我慢しなくていいから
その瞬間、世界からすべての音が消え去った。
意識が白い闇に覆い尽くされ、次第に遠のいていくのを感じてふらりとよろめくと、背中に回った強い腕の力に支えられる。
「……大丈夫か?」
間近に迫ったジークの顔は思った以上に蒼白で、真剣で、切羽詰まっていた。
辛うじて「う、うん」と答えると、ジークは小声で静かに尋ねる。
「立てる?」
「……うん」
「じゃあ、行こう」
そのままジークに手を引かれ、いつぞやと同じ裏庭のほうへと歩き出す。
無言で歩き続ける間にも、さっきのオズヴァルド様の言葉が否応なしに頭の中を駆け巡っていた。
――――『俺もパウラといつも一緒にいたいよ』
――――『半ば勢いで決まったような婚約だけどね』
――――『正直言って妹みたいにしか思えなくて』
――――『俺が本当に婚約したかったのは、君だよ。パウラ』
呆然自失のままよろよろと裏庭のベンチに座ると、ジークが恐るおそるといった様子で口を開く。
「……ルイーズ」
「……なに?」
「我慢しなくていいから」
「なにが……?」
「泣きたかったら、泣いていい」
「……え?」
「俺の前では、我慢しなくていいから」
その言葉で、私の涙腺は弾かれたように全面決壊してしまう。
それからしばらく、私はまるで子どものようにわんわん泣いた。泣きじゃくった。
涙って人体からこんなに流れ出るものなんだと我ながら感心するくらい、とことん泣いた。
声を抑えずあふれる涙を拭うこともせずひたすら泣き続ける私を、ジークが黙って抱き寄せてくれるからその胸の温かさにますます泣いた。
悲しい。苦しい。痛い。どうして。つらい。嫌だ。なぜ。痛い。悲しい。信じたくない。苦しい――――
ぐるぐると渦を巻く感情の波に翻弄され、自分を保っていられない。
どれくらい、そうしていただろう。
ようやく涙が収まってきて、ジークの胸から顔を離すと気遣わしげな低い声が降ってくる。
「……落ち着いた?」
見上げると、深い森のような翡翠色の瞳が私の顔を覗き込んでいた。
「……ご、ごめんね。いきなり泣いたりして……」
急に恥ずかしくなってパッと離れると、ジークはなぜか浮かない顔つきになる。
「気にしなくていいよ。それより、こっちこそごめん」
「……何が?」
「兄上が言ったこと、傷ついただろう?」
申し訳なさそうに目を伏せるジークの言葉に、私は首を振る。
「ジークは、何も悪くないでしょ」
「でも――」
「それに私、オズヴァルド様の本音が聞けて、かえってよかったと思っているの」
ぎこちなく笑うと、ジークは渋い顔をして眉間にしわを寄せる。
「つらいけど、悲しいしショックだけど、何も知らないままオズヴァルド様を追いかけ続けていたら、もっとつらくて惨めな思いをしていたと思うもの」
切なげな目をするジークを励ますように、私はわざと明るい声を出す。
「私、オズヴァルド様が大好きすぎて、オズヴァルド様が私のことをどう思っているかなんて今まであんまり気にしていなかったのよ。というか、オズヴァルド様も私のことをそれなりに好きでいてくれてるんだろうって勝手に思い込んでいたの。オズヴァルド様は優しいから、きっと本当のことを言えずにいたんだと思うのよ」
「でも少なくともパウラ嬢と出会う前の兄上は、ルイーズのことを一番大事に想っていたはずだよ」
「そうかもしれないけど、本当は私にもこの婚約にも不満があったんじゃないかしら。パウラ様とのことがなかったら、そんなオズヴァルド様の本心を知ることなんてできなかったでしょう? だから、こうなってよかったのよ」
「いや、でもさ――」
「とにかくオズヴァルド様の気持ちがわかった以上、今のままではいけないと思うの。本当に好きな人を諦めて、妹みたいにしか思えない私と結婚しなきゃならないなんて、オズヴァルド様にとっては不幸でしかないもの。そうでしょう?」
「ルイーズ……」
怖いくらいに険しい表情をするジークは何か言いかけて、結局やめた。
私も力なく曖昧に笑いながら、それでも一つの決意を固めていた。
◇・◇・◇
帰宅してすぐに、私は迷わずお父様のいる執務室へと足を運んだ。
そして、オズヴァルド様との婚約解消をストレートに願い出た。
「な、何を言って――?」
お父様は持っていた書類をばさばさと落としてしまうくらい驚いていたけれど、この春からオズヴァルド様が見せていた素っ気ない態度の数々や学園での様子、とりわけパウラ様との関係やさっき聞いたばかりのオズヴァルド様の本音について私が包み隠さず説明すると、どんどん忌々しげな表情になっていく。
「オズヴァルドのやつ……!」
話を聞き終えたお父様の声は、地獄の底から響くような怒気を孕んでいた。
「お前たち二人は幼い頃から仲睦まじげでずいぶん楽しそうだったから、私たちも良かれと思って婚約を決めたんだ。それなのにここへ来て、まさかほかの令嬢に目移りしているなどと……」
「パウラ様は学園でも有名な才女で魅力的な方だし、オズヴァルド様が惹かれるのも無理はないと思うの。仕方がないわよ」
「そんなにあっさり引き下がっていいのか? お前はまだ、オズヴァルドのことが好きなのだろう?」
「……それは……」
思いがけず痛いところを指摘され、私は視線を泳がせる。
でも自嘲ぎみに笑いながら、はっきりと答える。
「ずっと大好きだったんだもの、すぐにすぱっと諦めるのはさすがに難しいと思う。でもオズヴァルド様の本音を聞いて、それでもこの関係を続けていきたいとは思えなかったの。ほかの人への気持ちを残したままのオズヴァルド様を想い続けていく自信もないし、一生添い遂げるにことにいつか苦痛を感じてしまうと思う。だったら、オズヴァルド様を解放してあげたほうがいいのかなって……」
私の言葉にお父様は腕を組み、ひとしきり何事か考え込む。
そして真顔のまま、小さく息を吐いた。
「……ルイーズがそこまで言うのなら、婚約は解消してもいい。ソルウェイグ侯爵にも、私のほうからしっかりと説明しよう。ただ、オズヴァルドとは一度きちんと話をしたほうがいいんじゃないか?」
当主として威厳に満ちた雰囲気を纏いながらも、お父様の目は娘を想う優しさであふれている。
「あれが彼の本音だったのだとしても、オズヴァルドの言い分には改めてきちんと耳を傾ける必要があると私は思う。そうじゃないと、オズヴァルドだって婚約解消に納得しないんじゃないかな」
「どうかしら……」
お父様の言葉を聞きながら、恐らくそれはないだろうと私は確信していた。
だって、オズヴァルド様はパウラ様といつも一緒にいたいと思うくらい恋い焦がれて、パウラ様との婚約を心から望んでいるんだもの。
私との婚約が解消になったら、諸手を挙げて喜ぶだけのような気がするんだけど。
でも貴族の婚約は、家同士の結びつきでもある。
いくらお互いの両親たちが良かれと思って決めただけの婚約とはいえ、オズヴァルド様の心変わりが理由とはいえ、一方的に婚約解消を申し出るのは確かに乱暴かもしれない。
「……わかりました。話をしてみます」
お父様はホッとしたような表情を見せていたけれど、私の胸はまだじくじくと痛み出して、どうしても鬱々とした気分が拭えなかった。
今日はこのあともう一話投稿します。
次話はオズヴァルド視点回です。
ちょっとイラっとするかもしれませんが……!