既視感
薬を飲んで3日経っても熱は大して下がらなかったが、診断書も貰えていないのに会社を休み続けるのも居心地悪い。ずいぶん重たく感じる体を引きずり、4日目は出社した。
そんな体調で仕事ができる人なんているだろうか。遅々として進まない仕事を前にして、俺は文章を繰り返し思い出していた。
3度目の遭遇で不気味さを増す文。実はあの時すでに熱を出していて浅く朦朧とした脳が作り出した幻覚なんじゃないかと俺は疑った。
しかしあの広告の画面はスクショして保存してある。見間違いではない。
社内の自販機で買ってきたペットボトルで額を冷やす。幾分か思考がクリアになる。
迷惑メールと広告の共通点は同じ主語と似たシチュエーション。作者が同じなのか、偶然の一致か。俺は根拠なく同じだと思った。
ポップアップで現れる短文といえばひとつ、かつてネット上で流行った『赤い部屋』という都市伝説を思い出した。WindowsXPくらい時代だ。とあるURLを開くとポップアップウィンドウが出てくる。横長の長方形のそれには『あなたは/ですか?』と表示されている。中央には亀裂のような線が入っている。邪魔なので消すとすぐに同じウィンドウが再出現する。何度消しても出てくる。しかもよく見ると再出現するたびに亀裂から徐々に文字が這い出てくる。やがて最後には『あなたは赤い部屋は好きですか?』と表示され、ユーザーはその中へと引きずり込まれてしまう……みたいな話だ。
当然そんなものは実在しない。有志が作った再現動画や偽の赤い部屋ウイルスは流行ったが。
ネット都市伝説が全盛の頃に中学生を迎えた俺は親のパソコンでしょっちゅうそれらの情報を漁った。ネット掲示板のコピペや怪談話や恐怖動画をあれこれ見ては一人眠れぬ夜を過ごしていたのも懐かしい。
人並みに恐怖への渇望があるのは大人になっても変わらない。
単調な日々に色を、平凡な人生に刺激を。俺は学生時代からサブスクでB級ホラー映画をながら見したり古いネット怪談を読み返したり、ホラーコンテンツに絶えず触れていた。フィクションは一定の距離感を保てる。恐怖を感じても現実に起こりえないからこそ多少の憧れを持ってそれらを摂取していたわけだ。
一度なら、身の安全が保証されるなら、異常現象に遭遇してもいい。そう思っていた
世に溢れる恐怖体験の全てが世迷言ではないと証明したかった。0.1%でいいからホンモノがあると信じていた。
甘かった。
俺は中学生から何も変わっちゃいない、甘い見積もりで行動してしまう生き物だった。
熱から完全解放されたのは発症から6日目だった。
茹だる脳みそで仕事をしていてはミスが増えるのは必然だ。俺は上司にしこたま怒られながら数日を過ごしていたわけだが、それでも考えていたのはあの文のことだった。
詐欺集団の下っ端構成員が作り出したおふざけだとは、もう思えなかった。
件名で興味を惹き、開くと言葉はなくて画像だけ。詐欺ならあっさり失敗している。
絶対に何かがおかしい。妄想は推測に、推測は確信に成っていた。
ネットの力に頼ることにした。
近い事例や話がないか、かつてよく訪れたオカルトサイトや掲示板を思い出せる限り辿ってみた。そのうちいくつかはもう閉鎖されておりアーカイブすら残ってなかった。現存するサイトも懐古的な楽しみを与えてくれるだけでめぼしい情報はなかった。
振り出しに戻ってしまい仰向けにベッドに身を投げた。白塗りの天井のルームライトの周りを件名と広告文が蛾のように舞っている。
そのとき、ふと思いついた。
怖いもの見たさの興味本位で生きてきたが無意識的に築いたラインは超えないようにしていた。越えてしまえば最後、安全ではいられない。微かに動いただけで異質が身体と同化を始める。自分が自分でいられなくなる。漠然とそんな気がしていた。
でもそれは未知に対して抱えるぼんやりとした不安と同義でしかない。情けない、つまらない自分を抜け出すために必要な一歩を踏み出す機会が訪れた。
避けていたことを実行するしかない。
俺はメールアプリを起動した。フォルダ分けし保存された迷惑メール2通のうち一通目を開く。
件名には『僕の家の前にいる女の人は誰ですか?』と書かれたメール。
すぐ下には非表示の画像。
今度は躊躇うことなく「表示する」をタッチした。
写真だ。
夕方、ひとつの建物の全体像を捉えた一枚。
建物は一般的な家屋、和洋折衷、コンクリートと木材を組み合わせた2世帯住宅といった出で立ち。駐車場はなくコンクリート塀の向こうの前庭から種類の分からない木が一本伸びている。最近建てられたデザインではない。少なくとも20、30年は前だ。写真もその位前に撮られた画質をしている。
写真を見た瞬間、こめかみに痺れが走る。異常な既視感にムズムズと皮膚の下が疼く。
オレンジ色に染まる写真の家。家の2階にカーテンの掛かる窓が見える。黒く、わずかに歪な隙間が。
誰かがこちらを覗いている。
観察していると思った。
改めて写真全体を見るとピントは2階の窓に合わせてある。つまり撮影者の意識は初めから窓の人物に向けられていた。
窓から門前を伺う人と、見られているとわかりながらそれを撮影する人。既視感に苛まれながら奇妙な構図を想像した。
変な写真ではあるが、予想していたような心霊写真やブラクラ画像ではなかった。肩透かしを食らった感はあるが、それ以上に心がモヤに包まれてしまった。この不安はなんなのか。
釈然としないまま、俺は2通目のメールの画像を開いた。
さっきよりさらに薄暗い写真。構図を理解するのに少し時間が必要だった。
部屋の中を写している。ただし撮影者は外にいる。窓ガラスを一枚挟んで部屋を撮影した写真。向かって左に物が散らばった勉強机、右にベッドとその上に黒いランドセルが見える。そして中央よりやや左奥、ドアを背にした子供が一人、いる。小学校2、3年生くらい? 短髪のシルエット、半袖半ズボンなので季節は夏。陰になり顔は判別できない。たぶん一枚目で窓から観察していた人の正体だ。
件名に出てきた僕――俺が想像した少年を思い出す。
彼の部屋だろうか。本当の話だった? 全部本当にあったことだと、そんなまさか。
しかし既視感はいよいよ強い頭痛に変わっていく。イライラが積もっていく。
無駄だこんなこと。これ以上見てもしょうがないだろ。
ため息とともにやる気が抜けていく。
だが、ここまで来たら3つ目を見ないわけにはいかない。
画像フォルダに残したリンク付のスクショ。そのまま跳ぶのは色々危ないという警戒心は無くなっていた。焦燥と不安で冷静さを失った俺はリンクURLに触れた。
読み込み、ややあって画面が切り替わった。
黒以外何もない景色が画面を覆った。
これだけかと思う間もなく、中央に小型のウィンドウが表示された。
画像ではなく下部にシークバーと真ん中に「▷」マークがついている。
『僕の部屋で踊っている女の人は誰ですか?』
――広告リンクの文面を思い出す。
乱れた脈動が内側から鼓膜を揺らした。見てはいけないと本能が訴えてくる。
でも……先ほどからの既視感を確かめるためにも見なければ、向かい合わなければならない。
動画が始まった。
咄嗟に構えたのか激しくブレる画面、ノイズが縦横に混じる映像、ビデオカメラで撮影された昔のホームビデオ。
照明はなく夕日の差し込んだ暗い部屋の中、本棚や勉強机を背景にしてカメラの正面に背の高い女性が叫びながら踊り狂い――
天井から吊られた女性は宙を泳ぐように足をバタつかせ腕を搔き回し息継ぎする様に首を思い切り伸ばして、締まる喉でか細く呻いていた。
電池が切れたおもちゃのように女性は動かなくなり、カメラが投げ捨てられて動画は終わった。
……気づいた、いや思い出した。
写真も動画も間違いなく俺の実家だ。しかし今はもうない。
昔住んでいた家で、オレが子供の頃に火事が起きて、そのあと取り壊された。
1枚目の窓、2枚目と動画は全部俺の部屋だ。つまり映る少年は俺自身ということになる。
じゃあ、あの女性は誰なんだ?
母親じゃない。姉妹はいないし年齢からして祖母でもない。先生や友人の家族でもない。記憶の限り見たことない女性。子供の頃に知らない女性を部屋に招いたことがあるわけない。窓から覗いたことすら一度もない……はず。
写真と映像が作り物の可能性はある。だとしたら誰がこんな手の込んだことをするのか。昔の実家の外観だけでなく屋内の情報まで得るのは親族でもなければ難しい。詐欺にしても利益がない労力の無駄使いだ。
既視感の消滅と同時に大きな謎ができあがった。
あらゆるものに対して現実感が薄れ、自分の記憶さえ信頼できなくなる。
突然、着信音がなった。非通知の相手からだった。スマホをベッドに投げ捨てた。
このタイミング。
本能が出てはいけないと警告する。早く止め、早く鳴り止めと念じた。
画面は暗くなり、静かになっても緊張が抜けない。
すると今度はLINEにメッセージが来た。
友人からだと安堵しスマホに飛びついた。
通知を開いたとき、俺は一瞬呼吸が停止した。
身に覚えのない”ともだち”からメッセージが届いていた。
そこにはこう書いてあった。
『もうすぐ会えるね』