はじめての催眠
「ねえママ」
あくる日の夕方の事である。麻由は靖子に、カエルに導かれた先の地下室の話を、
靖子に聞いてもらおうと勇気を出した。
「なんですか?」
靖子は夕食の準備をしながら答えた。最近の物価の高騰に反比例して、納豆だけは異常なほどの豊作であり、むしろ国が無料で送りつけてくるようになった。
都合により行政の行き届いていない空き家となった場所にも、役所の人間が捌ききれなくなった納豆を放り込むために、
一部地域では納豆の傷んだ匂いが立ち込めて、ちょっとした騒ぎになっている。
今日の鈴木家の献立は、納豆のハンバーグと、そこに納豆サラダだ。納豆サラダと言っても、ここのところのキャベツやトマトの高騰で、
主に納豆。そこにコーンをトッピング程度にまばらに添えたものが納豆サラダだ。
主食に、ご飯納豆。納豆ご飯ではない。と言うのも、いわゆる納豆ご飯の、ご飯と納豆の比率が逆の料理。と言えばわかるだろうか。
それから汁物は納豆味噌汁だ。味噌汁は日本人の命の水だが、これはお椀にナミナミ、納豆が盛られたものだ。つまり納豆だ。
キッチンには、採れたての納豆の匂いが立ち込めている。
「神社の地下におじいちゃんがいるの」
「いませんよ」
麻由の勇気の一言を、靖子は一言でシャットアウトした。
「聞いてよ」
「はいはい。なんです?」
大量の納豆をかき混ぜる手を止める事なく、靖子は受け答えしている。
「ねえ、見たの。神社の裏の方にね、地下室があって……」
「あ、そうだ麻由。今度松原2丁目にできた動物園には近づかないでくださいね。
アゴのしゃくれたパンダが1匹いるだけですから」
今度は唐突に、靖子に話題を変えられた。
「え、何それ。みてみたい」
「ダメです。め」
「なんでー。パンダ好きなの」
「パンダが好きならしゃくれパンダはやめておきなさい」
「なんでー」
靖子の、納豆をかき混ぜるスピードが上がっていく。お椀のレース場に、幾つもの納豆が滑走している。
「ねえママ。神社におじいちゃんがいたの」
「いません」
「いたんだってば! それとしゃくれパンダにも会いたい!!」
靖子は、「ふう」と一息ついたと思ったら、エプロンのポケットから金色のスプーンを取り出した。
「麻由?」
「何?」
「このスプーンを見てください」
靖子は、金のスプーンを麻由の顔の前でゆっくり左右に振った。
「か。か。か。」と一定のリズムで舌を鳴らしながら。
「???」
麻由の両目は金のスプーンの先端を追って游ぐ。と、次第に目が回ってきた。
「麻由?」
「はい」
「神社のことは忘れますね?」
「はい」
「2丁目には行きませんね?」
「はい」
「納豆を残さず食べますね?」
「はい」
……ふと、気がつくと麻由は夕食の食卓についていた。
父親と、母親と、怪異たちと一緒に、納豆を美味しくいただいた。




