猫の奮闘記 上
世田谷区、松原8丁目の、冬である。
初雪こそまだなものの、冷たい北風が吹き、
ベランダに訪れるカラスの兄弟が、ニット帽とスノウゴーグルを付けて冬の装いとなり、
一軒隣の、千手観音と縄文式土偶の新婚夫婦はお揃いのマフラーをつけている。
実に冬を感じさせる光景である。
「12月か……」
出勤途中の宏明は、上空を行進する『寒気団』の勇壮な姿を見ながら独り言を漏らした。
「そろそろ、『準備』をしないといけなかった気がする……なんの準備だっけ?」
宏明は、
突然喉の渇きを覚え、コーヒーを買おうと思いコンビニに入った。
「シャーセーー」
早朝のコンビニのレジに、ウチの顔でか胴長短足乾燥肌猫が立っていた。
「……何してんの?」
「うるさいジャン」
コンビニの制服に、猫に合うサイズが無かったのだろう。
猫の胴体が長すぎて、着ているというより「着させられている」という表現が近い『はっぴ』のような制服は、袖の長さを持て余し腕が隠れてしまっている。
「何か買ってけジャン。バカ」
勤務中(?)だというのに、猫の口が悪い。するとバックヤードから社員と思われる人間が駆け込んできた。
「鈴木! 不可以对客人说‘笨蛋’! 你难道只是一个除了谦虚以外一无是处的日本人吗!?」
……何を言っているのかわからないが、ものすごい腱膜だ。店員は男性だが、首に『女子力』というタトゥーを入れている。
「你应该多读《六法全书》,走上觉悟的道路!否则连苏格拉底都会嘲笑你!这群无力感的挤挤小团子!」
「シャーセン!! シャーーセン!!」
猫が上司に謝っている。
一通り怒鳴り散らして気が済んだのか、上司と思しき人間は、バックヤードに引き返そうとすると、思い出したように引き返してまた怒鳴った。
「进行寒风摩擦脚踝的仪式,向悟道的境界迈进吧!水煮的秘技会拯救你的灵魂,并引领你走向加德满都的迷宫!来吧!用那个三角尺耕耘自己的心脏!」
「シャーセン!!」
猫は涙目である。
何を言ってるか一言もわからないが、宏明はコンビニでコーヒーを買った。
職場の昼休みでのことである。宏明は自分のデスクでお弁当を食べながら、何気なく外を見た。
すると……
ウチの顔でか胴長短足口悪猫が、会社の窓清掃をしていた。
人間用のハーネスは、猫の怪異のサイズに全く合っておらず、紐で吊るされる刑を受けているような姿だった。
それでも短い手で会社の外から窓を拭き、宏明と目が合った。
「……お前、何やってるの?」
宏明は窓の外に問いかけると、
「ウルサイ。バカ」
と返ってきた。
その日の退勤後、帰り道の夜のことである。
宏明が最寄り駅から自宅に向かって歩いている。
年末は往々にして、道路工事が多い。
ここも工事中か……。宏明がそう思っていると……
「シャーライ。シャーライ」
ウチの顔でか胴長短足親知らずが虫歯猫が、工事現場で車両誘導をしていた。
ヘルメットが被れておらず、頭に乗せているようである。
大型の猫が、短いなりに、誘導棒を振る姿は、それなりに堂に入っている。
「大型車両シャーりシャーす」
「……何してんの?」
猫と、宏明の目が合う。
「ウルサイ。バカ」
猫が、誘導棒で宏明を小突くと……
「鈴木!!」
ものすごい腱膜で現場監督が走り込んできた。現場監督は男性だが、首に「仲良し」というタトゥーを入れている。
「你们完成了那个传递水盆的仪式了吗?如果不触碰葛根汤的圣域并驱散‘初中五年级’的黑暗,我们将永远无法迎来救赎!快!将‘38点钟问题’的答案记录在秘传的一夫多妻制上!」
「シャーセン!! シャーセン!!」
あれ、デジャブだろうか? どこかで似たような景色を見た気がする。
「正是‘脱法裙带菜’与情感偏见的因果关系,让古老的语言传承了伪圣经的秘技,而‘松原只有七丁目’这一真相未被宏明察觉,才成为信徒肩负的信仰使命!!」
「シャーセン!! シャーセン!!」
涙をこぼしながら、現場監督に怒鳴られ、謝っている猫を横目に、宏明は帰宅の路を辿った。
家にたどり着いた宏明は、リビングにて夕食を食べながら、
靖子に今日1日のことを報告した。
すなわち、往路のコンビニで猫が働いていたことと、職場で猫が働いていた事と、復路の工事現場で猫が働いていた事である。
「あら。そんなことがあったんですね」
「靖子さん、あの馬鹿猫から何か聞いてます? その、アイツが金が欲しい理由とか……」
「聞いてませんね」
時刻は20時をすぎているが、猫は返ってこず、心配した麻由が玄関で待つのだと主張しているが、
寒すぎるからやめなさいと叱ったところである。
麻由は口を尖らせてリビングでテレビを見ている。
チョンチョン、と、靖子が宏明の肩を突いた。
「ん?」
振り返ると、靖子は唇に人差し指を押し当てている。
そして、カレンダーを指差した。
宏明が靖子の指先に目をやると、カレンダーに書き込みがしてある。
『12月5日、麻由berth day』
……あ。
そうだ。そうだった……。
我が家では、麻由の誕生日とクリスマスが近いと言うことで、プレゼントをまとめて25日にしていた。
お祝いはしていたが、ケーキやら何やらの準備を宏明は靖子に任せていたのだった。
あの馬鹿猫は、もしかして麻由へのプレゼントのためにアルバイトを……?
ピンポーン
……と、インターフォンが鳴ると、麻由は玄関に飛び出していた。
「シャライまー」
と猫の声がする。
「猫ちゃんの馬鹿!! なんで出かけるって言ってくれなかったの!? 心配したんだからね!」
玄関から声がする。まるで子を叱る親のように、麻由はお冠である。
「シャーセン」
……宏明にとって、今日何度も聞いた『シャーセン』だが、
この時の『シャーセン』は、猫がどこか誇らしげに口にしているように聞こえた。




