毒蛇 下
その後、麻友は何度も、猫の巨体に巻き付いたヘビを解こうと苦闘したが、
一行に事態は解決の光を見なかった。
ヘビの巻き付く力が凄まじいのだ。
「ヘビちゃん、ちょっと力ゆるめてよう」
「難しいなー難しいなーっつってねぇ。
頑丈に絡まっちゃったなーっつってねぇ。
臭くて汚い猫に巻きついちゃったのが、切ないなー、悔しいなー、もどかしいなー
……っつってねぇ」
ヘビは『ドヤ』と麻由を見た。
猫の方は、この数分間でヘビから許容量を越える毒(舌)を流し込まれ、心が無になっていた。
心なしか、顔がしぼんで見える。
猫が流した涙のあとを、ヘビがチロチロ舐めながら、
「しょっぱいなーしょっぱいなー……っつってねぇ。
これじゃあヘビちゃん腎臓に悪いなー悪いなー。
怖いなー怖いなーっつってねぇ」
「シャー」
猫はすでに、何かを言い返す気力がなくなっていた。
宏明は相変わらず布団にくるまってガタガタ震えていた。
麻由一人が、この問題に向き合っていた。
しかし麻由がいくら懸命に、ヘビを引っ張ろうが、ネジろうが、
複雑に絡まっているヘビは、口で言ってることと正反対に猫から離れまいと張り付いている。
なんなら、少し緩まったところも力を入れてテンションをかけていた。
「どうしたいの?ヘビちゃんは」
「ほどいて欲しいなー、ほどいて欲しいなー。辛いなー辛いなー……っつってねぇ」
「違うんじゃない? 猫ちゃんに巻きついてたいんじゃない?」
「そんなことないなー、ないなーっつってねぇ。
この猫なんだかカビ臭いなー、辛気臭いなー、つでに口も臭いなーっつってねぇ。
最悪だなー最悪だなー……っつってねぇ」
「ねえパパ!」
「ハイ!!!!」
突然話しかけられて、宏明は素っ頓狂な声を上げた。
「手伝ってよ」
「無理無理無理無理。無理無理。お父さん、自分の部屋にヘビがいる事実を受け入れられてない」
「噛まないよ? このヘビ」
「わからないじゃない! 突然噛むかもしれないじゃない!!」
「……ヘビちゃん、噛まない?」
「噛まないなー、噛まないなーっつってねぇ」
「ほら」
「怪異の言うことを間に受けないでください!」
麻由は、布団にくるまる父親を眺めて、失望の表情を浮かべた。
「もういい。ママ呼んでくる。猫ちゃんが可愛そう」
娘が行ってしまう!
娘に見限られそうになり、宏明は最後の勇気を振り絞った。
「あ!」
なけなしの勇気を振り絞ったものの、出てきたのは布団の中で叫ぶ「あ」の一文字だった。
それでも娘を引き止めることには成功したようだ。
麻由は、目の前の震える布団を無表情で数秒間眺めたあと、
ガバ……っと布団をひっぺがした。
「わ!」
出てきたのは、反ベソで震えている、甲斐性のない親父の姿である。
「しっかりしてよ! パパ!」
見かねた麻由が喝を入れると、宏明は頭を抱え、数秒のたうちまわり、
深呼吸をしてベッドの上に正座をした。
しかし視界にヘビが写った瞬間にまた布団に潜り込もうとするので、小二の幼児が布団を再び剥がした。
……まるで、仮病癖のついた小学生だ。どちらが保護者なのか、これではわからない。
宏明は、先ほどと同じ動作を繰り返し、再びベッドの上に正座をし、目を固く閉じて手を伸ばした。
当然、猫の元まで届かない。
伸び切った手はカタカタ震えている。
「パパー!!」
麻由は、父親の背中を後ろから押し、ヘビに近づけた。
……娘よ、今自分がどれだけ残酷なことをしているかわかっているのか。
父の背中を蹴って、大蛇に食わせようとしているのだぞ。
ぴと
と、宏明の手がヘビに触れる。
「ひ!」
宏明が、手を反射運動的に引っ込めようとした刹那である。
シュルシュルシュルシュル!!と、それまで堅牢に猫に巻きついていたヘビの全身が宏明の手を伝い、
4mの大蛇が今度は宏明に巻き付いた。
「わあ! パパすごい!!」
麻由は大喜びである。
「よかったね! 猫ちゃん!!」
「シャー」
一方、宏明の方に住処を移したヘビは、宏明の体の匂いを一通り嗅いで、脇と、耳の裏、膝の裏を舌でチロチロ舐め出した。
「臭いなー! 臭いなー、臭いなーっつってねぇ!
こりゃたまらんなー!加齢臭いなー加齢臭いなーっつってねぇ!
ああ臭い! こんな臭い人間初めてだなーっつってねぇ!
本当に人間なのかなーっつってねぇ!」
何やらヘビは先ほどよりもテンションが上がったようである。
「あー臭いなー! 臭いなー! 頭から爪先まで臭いなっつってねぇ!
これは……豚骨系!家系!家系の匂いだなーっつってねぇ!
くっせえ拉麺屋の匂いだなーっつってねぇ!!
あー辛抱たまらんなーこりゃ、辛いなー辛いなーっつってねぇ!」
どうやらヘビは、宏明が気に入ったようである。
「パパ?」
先ほどから動かない宏明に麻由が声をかけると、
既に彼は、失神していた。




