悩み
彼の足音が完全に遠ざかったのを見計らってから、だらーん、と机に突っ伏す。
「……どうしよう……」
あの馬鹿王子のときとは全く違って、心臓は鳴り止まないし、顔は火照って仕方ない。
こんな、恋愛小説みたいなことを言われる日が来るなんて思わなかった。
小さい頃から、パーティ会場に置かれたお茶菓子のように用意された相手と、感情もなく否応なしに結婚するものだと思っていたから。
頭がふわふわして、ぼんやりして、幸せの中をほわほわ漂っているような不思議な感じがする。その感覚は思った以上に心地よくて嫌じゃない。
「はぁ……どうしよう」
でも、怖い。このふわふわした幸せの中に、ぽつんと、得体のしれない恐怖もあって、消えてくれない。
本当にこれを受け入れていいのか。……きっと私は、トールのことをいずれ好きになってしまう。婚約者がいるから、私は王妃にならねばならないから、という理由で押し込めていた恋愛感情は、きっとこのままじゃ彼に向く。いや、もう向いているような気さえする。
そんなことを考えれば考えるほど、頭の隅でちらつく妹――アイミヤのことが思い出されて仕方なくなっていくのだ。
「……また、取られちゃうかもしれない」
あの子が生まれたときから、私の家はあの子が中心に回っていた。可愛らしく、甘え上手なあの子ばかりを両親は可愛がった。王子と婚約させられて、たくさん我慢しなければいけなくて、全部飲み込んでいれば、いつの間にか少し精神年齢の高い子供になっていたのだろう。だから両親からしたら私は可愛くないらしくて、年が経つごとに贔屓は顕著になっていった。両親は面倒なことはすべて私に押し付けて、いつしか見向きもされないようになった。
私もそれを諦めていたし、ずっとそうだったからなんとも思わなくなっていた。
そして、私が学院に入る前の夏のことだった。滅多に私と話さないアイミヤが、突然私に話しかけてきた。嫌な予感は、していた。
『それ、ちょーだい!』
指差したのは、唯一私を可愛がってくれた祖母から入学祝いに貰ったバレッタ。
渡したくなくて断ると、泣いて両親に訴えて、結局は取られてしまった。
その後、学院に入って、初めて公爵家に寮休暇を貰って帰ってきた日のこと。
『アイミヤ、そういえばあのバレッタは……』
付けていなかったから、なんとなく聞いた。私が学院に行くまではずっと着けていたから、気になって。
『え? 古くなったから捨てちゃった』
無邪気な笑顔だった。目の前が真っ暗になったような、気がした。
あのときのことは、今も焼き付いたように記憶に残っている。
私の入学から1年後、あの子が学院に入学してからはもっと酷くなった。
ドレスが祖母から届くたびに、取られた。買った本も、取られた。調達した新しい魔道具も、何もかも、取られた。欲しいものは、好きなものは全部アイミヤのものになっていった。それは人間も例外ではなくて。私も仲良くなった人を誰も彼も奪っていって、気づけば一人ぼっちになっていた。
文句を言えば、両親に話がいって、怒号が飛んだ。勘当してやる、とまで言われた。
トールとアリアのことは、平民だと言って、遠ざけていた。幸い、アイミヤには平民蔑視の感情が強くあったから、そう言えば二人には近づかなくなった。
でも、このままいったら、きっと、トールのことも取ろうとする。取られてしまう。隣国の王子だと分かれば絶対に。だから、怖い。怖いのだ。何かを好きになるのが、怖くて怖くて仕方ないのだ。
「……あ、授業、行かなくちゃ」
気づけばもう五分前。部屋を出て、プレートを空き室にする。
そうして、もうすぐで始まってしまう授業へ、重い足を動かして向かった。