婚約破棄
「なんの御用でしょうか。貴方に頼まれていたあれらの公務でしたら既に先日、やり終えて従者の方にお渡ししたはずですけれど……」
なにか重要な書類が抜けていたり内容に不手際があったりでもしましたか、と言葉に棘を含めて聞き返すと、私に座るように勧めるどころか、言葉の棘を感じ少しでも遠慮することすらなく、目の前でどっしりと構えてそれはそれは偉そうに座っているこの男、アルバートはゆったりと首を振る。
じゃあ、何で呼び出したわけ? 正直言えば全くもって身に覚えがない。……まさか、また仕事を押し付けようと? この前やったばかりなのに? と色々と予想していると、斜め上、悪い意味でそれはそれは予想外の返答が返ってきた。
「フィティア、そなたとの婚約はなしにしてもらいたい」
「……はい?」
思わず目が点になる。
……いやいやいや、この婚約、そもそもあなたの両親に頼み込まれて成立したものなんですけど?
彼と同年代で、魔力が王族並みかそれ以上に高く、全属性の証である魔眼を持っている上に公爵令嬢という申し分ない身分な私に白羽の矢が立って、それこそ3歳くらいのまだ物心のつかない頃にはとっくに婚約することになっていた。
だからそもそもこの婚約、私がしたくてしてるものじゃない。
好きになれたらよかったんだけれど、あまりにも傲慢で怠惰なこの男だけはどれだけ努力しても無理だった。毎日のように振り回して、後処理に奔走させるこの男だけは。
だから、婚約破棄したかったのはむしろ私の方だ。
そしてそもそも、アルバートは私に頼み込んで婚約した王家側だから、そっちから婚約解消の申し出なんてルール違反なんですけど。
こんこんと湧き上がる怒りを手を握りしめ手のひらにぐっと爪を立てて抑え込み、にこりと笑顔で聞き返す。
「突然何を仰るのですか? なしにするも何も、この婚約は貴方がた王家が定めたものではありませんか。王の許可は取っているのですか? 貴方の一存で反故にしていいものではないと思うのですけれど……」
「だから何だ。私は次期王だぞ、決定の一つくらい覆して何が悪い」
あぁ、この馬鹿王子。どうしてくれよう。視界がクラリと揺れたような気さえする。もう怒りを通り越して呆れてしまう。
「とりあえず、理由をお聞かせいただけませんか?」
「よいだろう。私には他に婚約したい相手がいるのだ」
「どちらの方ですか?」
「アイミヤ嬢、そなたの妹だ。可愛らしく、優しい素敵なお方でな。あ、了承は取ってあるぞ」
そう誇らしげに言われても、困るのだけれど。
……アイミヤねぇ。あの子は昔から私のものを欲しがる癖があった。私から奪い取って、手に入れて、そうしたら興味をなくしてすぐ飽きる。両親まであの子に肩入れするからどうしようもなかった。
その対象がまさか婚約者までとは思わなかったけれど……
もう、本当に、全てが馬鹿馬鹿しくて、聞けば聞くほどどうでも良くなっていく。未だに王子はアイミヤの良いところを語り続けているけれど、そんな暇があるなら公務をしてほしい。
婚約者にさせられてから、本当に酷い生活だった。王妃教育に、こいつの公務の肩代わり、こいつが仕出かしたことの揉み消し……
思えば常に振り回されていた。
辛すぎて、解放されたくて、よく王妃様にはお茶会でそれとなく婚約破棄を打診していたほどだ。全部断られていたけれど。
向こう側からの申し出になると、解消を受け入れた側である私に非があることになってしまうけれど、よく考えたら願ったり叶ったりじゃないか。ここで破棄してしまえばもう取り返しはつかないから二度と苦しめられなくて済む。
案外お似合いかもしれない。このどうしようもない馬鹿王子と、どこまでも夢見がちで飽き性な妹。
「分かりました」
その場の勢いのまま、そう返す。
「本当か!」
「ええ、婚約解消しましょう。ただし、もう私に二度と関わってこないと約束して頂戴」
「ああ、勿論だ!」
これで、何もかもから解放される。もうこいつに振り回されなくて済む。
幸い婚約の契約書は、本人たちの一存だけで成り立つものだ。結婚と違って口約束と何ら変わりない。家のしがらみがあるから婚約も同じくらい解消しにくいのは確かだけれど、相手はアイミヤだからそこまで大問題にはならないと思うし。……あぁ、結婚する前で、本当に良かった。
渡された契約書を読んでいき、最後に一行だけ書き足す。
フィティア・ヴィオテールが正当な理由があると認めた時以外には、二度とアルバート・リリーシェはフィティア・ヴィオテールに関わらないこと。
と。
「どうぞ。私の方は署名しましたので」
「……よし。私も書き込んだぞ」
「なら、これで今日からは赤の他人ですね。さようなら」
返事も待たず、椅子から立ち上がり、身を翻して部屋の出口へ向かう。
あぁ、清々した。
勢いで言ってしまったけれど、後悔なんてものはひとつもない。全てから解放されたのだから。
私は淑女の笑みを浮かべながらも、内心は満面の笑みに満ちていた。