修道女がお城にやってきた~山の中の小さな修道院~
『サンスクリオ修道院』という、架空の存在をモチーフにして書き上げました。
よろしかったら、ご一読くださいませ。
ヴェルドライン王国の謁見の間。
詰めかけた貴族たちに、壁際に並んだ近衛騎士。
玉座に居るのは国王と王妃、王太子とその婚約者。
その正面に跪き、顔を伏せたままの女性が一人。
「良い、顔をあげよ」
「失礼いたします」
小声ながら良く通る声が響き、うつむいていた女性が面を上げる。
「恐れながら国王陛下、並びに王妃殿下、ご尊顔を拝することをお許しいただき、感謝いたします。また、王太子殿下におかれましてはご婚約を結ばれたとのこと、お慶び申し上げます」
一度上げた顔を再度伏せ、淡々と挨拶を述べる女性。
それに気をよくしたのか、国王と王太子の顔がほころんだ。
とある事情でこの国はつい最近まで大荒れだったのだ。
治安の要を握る聖女が高齢のため死去。
それに伴い、今まで抑えられていた魔獣が徐々に活性化して周辺地域へと侵入を開始してきた。辺境の農村部では片手では収まらないほどの村が壊滅し、騎士団の派遣も間に合わなかった。各領主たちは領民を守るべく手を尽くし、国軍もまた魔獣の討伐に明け暮れていた。
教会では大司教自らが精進潔斎して何日も神殿の奥の間にこもり、全知全能の神に祈りを捧げた。そして、聖女候補の居場所と目された地点へ騎士団が赴き、とある平民の娘を連れ帰る。大司教から聖女の力を持つ者として認められた娘は、見事その資質を開花させた。
それにより結界が張りなおされ、暴れまわっていた魔獣は勢いを削がれて次々と討伐されていく。
魔素で荒れた土地も聖女の祈りによって力を取り戻し、久しぶりの豊作にどこの村も歓喜に湧いたという。そんな中、王太子の婚約が発表された。お相手は隣国の第二王女で、どちらも憎からず思っていたらしい。ただ、状況が状況で話が中断していたのを、今回の聖女誕生、魔獣の駆除でとんとん拍子にまとまったと公表された。慶事に続く慶事で国民は盛り上がり、どこに行ってもお祭り騒ぎだ。
王都ヴェルドは一段とにぎやかであり、街のあちこちには花とリボンが飾られてさながら結婚式が行われたかのような様相を呈していた。
「遠き所を良く参られた、サンスクリオ修道院長どの。何やら重大な案件があると申しておったようだが、それほど急ぐことなのか? 見れば旅装を解かれた様子もないが」
確かにそうだった。謁見の間にいるにもかかわらず、目の前の女性は薄汚れていた。普通は湯浴みをして着替えてくるのに、門から直接ここまで通ってきたのだ。居並ぶ貴族の中には顔をしかめて嫌悪をあらわにしている者もいる。
「申し訳ございません、陛下。お見苦しい格好なのは重々承知の上、お目通りをさせていただきました」
顔をうつむけたまま、女性が言葉をつなぐ。
「この後、王太子殿下の婚約発表を兼ねた昼食会が開かれるそうで。国を挙げての吉事を遅らせることとなり、重ねてお詫び申し上げます……しかしながら」
ここで一度言葉を切り、女性が顔を上げた。見つめていた貴族たちは思わず息を呑む。女性から放たれる気配が明らかに変わったのだ。
それは前に居た国王も同じ。受ける圧力に額から汗が流れる。
「是非ともお伝えせねばならぬことがございます」
「……して、その内容は?」
「その前にひとつお伺いいたします。聖女様はどこにおいででしょうか?」
その問いに、謁見の間の空気が揺れた。
「聖女の居場所……それを聞いてどうする」
「できるのであればこの場にお呼びくださいませ」
「ならぬ。今も聖女は結界の維持をしておる。気をそらすことは出来ぬのだ」
「では大司教様は?」
「同じだ。共に結界を支えておってくれる」
国王の答えに、女性が下を向く。それは落胆か、それとも……
「やはり、そうでしたか。まさかとは思うておりましたが」
「それはどういう意味ですか。王を相手に不敬ですぞ!」
王の傍らに居た宰相が声を荒げる。この場に薄汚い女がいることからして気に入らないのだ。
そんな宰相を片手で制し、こわばった表情で王が問う。
「修道院長どの。何か不満でも?」
「陛下」
伏せていた身を起こし、正面の王を見つめて声を発した。
「聖女様を邪法で縛り付けましたね?」
疑問形でありながらそれは断定していた。
再び揺れる空気。そしてその乱れは特定の者に集約していた。
国王。
王太子。
宰相。
もうひとつ、涙に濡れた気配は。
王妃。
婚約者の王女。
図らずも、男女できれいに分かれていた。
「……何を根拠にそのような絵空事を……」
「神託がございました」
王の言葉にかぶせるように紡がれる言葉。本来なら不敬だが、その内容に耳を疑う。
「神託、だと……?」
「まさか、本当に……」
「ここ暫く、予期せぬ事が重なりました」
ひそやかな貴族の囁きのなか、凛とした声が響く。
張り上げている訳でもないのに、誰の耳にも届くその声は続ける。
「周辺の村への炊き出しに行った修道女が戻らず、探しに行ったものもまた音信不通となる始末。よくよく糺せば王宮からの騎士団が連れて行ったとの回答が返りました」
「…………」
「さらに、隣国から山越えをしてきた一行までも無理やり連れ去ったとの報告を受け、祭壇にて祈りを捧げましたところ、二柱の女神さまからお答えを頂戴いたしました」
「! ふ、二柱、だと!?」
「まさか!! 嘘だろうっ!?」
「そんな……!」
ささやきがどよめきとなり、怒号となるが、王は言葉を発しない。
対する女の表情もまだ変わらない。ひたすらに前を見て口を開く。
「我がサンスクリオ修道院は世の女神すべてを奉じる場所。女性の最後の砦。そのことをよもやお忘れとは思いませなんだ」
「……何が言いたい? たかが山奥の、鄙びた修道院長の身で、国王の儂に何を偉そうに言うのだ!」
椅子のひじ掛けを叩きつけ、国王が立ち上がる。
「衛兵! この慮外者をひっ捕らえよ!」
王の指示に、兵が動こうとした時。
女がひとつ、手を打ち鳴らした。
パァン!
たかだか手を打ち鳴らしただけ、のはずが。
その音が、この場に居るものすべてに衝撃を与え、凍り付かせた。
表面上は何の変わりもない。
だが、誰もが身じろぎひとつできずに、その場に立ち尽くしていた。
天井にあるシャンデリアの飾りがいつまでもちりちりと音を立てたまま、ゆっくりと左右に振れているのが唯一の変化だった。
そんななか、女が静かに立ち上がる。その手にあるのはモーニングスター。
「下された神託はふたつ。ひとつは女神テミス様。
『乙女が穢され、欲望の鎖にとらわれた。解放せよ』
今ひとつ、女神ユーティ様。
『古の盟約に反し、欲を望んだ者に正義を下せ』
私はその神託を執行するために参りました。お覚悟を」
女、いや、修道院長の形をとったナニカはまず、王太子のもとに向かった。
王太子ジャニアス。
彼もまた、身体機能を凍り付かされたままそこに居た。いや、わずかに手指がうごめき、横の婚約者となる王女の腰を抱いている。王女の表情は能面のごとく固まり、涙がほほをつたっていた。
そんな二人の前に立ち、ナニカは告げる。
「王太子ジャニアス殿。横恋慕の挙句の強奪、女神テミス様はお怒りです」
「あ、あ、あ……」
ジャニアスは隣国の王女に執着していた。幾度となく婚礼を申し入れたが叶わず、歪んだ恋心は消えることなく燃え上がったまま現在に至っている。
元々王女は二つ向こうの国の第二王子と恋仲だった。ヴェルドライン王国とは険しい山で分断されているため国交はあってもそれほど深い付き合いがなく、婚儀を結ぶ理由もないとして、遠回しの拒否をしていた。
それが、つい2か月前。第二王子が急死した。それを機に再度婚姻を申し入れたが、隣国は『姫は王子の死を悼み、修道院で生涯王子の冥福を祈ることとした』との理由をつけて拒否してきた。
ジャニアスは怒り狂い、騎士団に指示をして修道院に向かっていた王女の一行を襲わせた。そして、王女を連れ帰り、無理やりに従わせたのだ。
ナニカの右手が上がり、王太子のほほを撃った。
「へぶうぅぅっっ!」
女の細腕と思えないほどの圧力が王太子に襲い掛かり、その場で側転と宙返りをした後に床にたたきつけられた。しかし、なぜか意識は残っている。
次にナニカの左手が振り上げられた。モーニングスターの棘にシャンデリアの光が反射して、そのまま振り下ろされる。王太子と王女の真ん中、何もないはずの床に叩きつけられると。
ジャラララッッ ピキィィン
硬質な音が響いた。
その途端、能面だった王女の顔に変化が訪れた。
驚愕。痛苦。畏怖。悲嘆。絶望。虚無。
あらゆる負の感情が王女の顔面を横切り、歪ませ……そして通り過ぎた。
そのあとに残ったのは、涙に洗われた清らかな乙女の顔。
王女がカーテシーを取る。
「女神テミス様、お救い下さりありがとうございます。あの日、非道にも山中からここに連れてこられ、自害もままならぬほどに拘束されて辱めを受けてより、わたくしの心は死んでおりました。戒めを解かれてやっと人の心を取り戻すことが叶い……」
言葉が途切れ、王女の肩が震える。そのまま終わるかと思ったが、気丈にも顔をあげて、
「今の境遇を嘆くことも、あの人の死を悼むこともできるようになりました。女神テミス様のご慈悲に感謝を捧げ、生涯、御身のために尽くすことをお誓いします」
頬に流れる滂沱の涙をそのままに、王女は誓いを述べる。その姿は痛ましくも清廉な光に満ち溢れ、誰もが王太子のしでかしたろくでもない所業を疑えなくなっていた。
ナニカは頷き、言葉を紡ぐ。
「誓いを受け取りました。これより聖女を解放します。共に来るように」
「はい。お供させていただきます」
そして向きを変え、今度は国王の元へ。
玉座への段を上り、王の前に立つ。その右手が王太子と同じように、王のほほへ炸裂した。
「がっ、ぐうっっっ!!」
玉座から跳ね飛ばされ、段を転げ落ちていく国王を見ることもなく、ナニカはモーニングスターを振り上げる。
「やっ、やめよっ! そ、その呪術を、壊すなっ!」
段の下に這いつくばりながら叫ぶ王。それは先ほどの断罪を上書きする以外のなにものでもない。
「やめろおぉぉっっ!!」
悲鳴に近い声を遮り、振り下ろされる鉄槌。その先にあるのは、玉座。
グゥワシャアァッッ・・・ンン パキッピキキッッ
ガラララアァァッッ!!
「「「「「うわああぁぁっっ!!」」」」
「て、天井が抜けたぞぉっ!」
「聖堂がっ、聖堂が、崩れるっ!!」
「た、たすけてくれえぇっ!」
「「い、いやああぁぁっっ!!」」
「「「ひいぃぃっ!!」」」
「皆の者っ、静まりなさいっ!!」
立ち騒ぐ人々の悲鳴の中、ひときわ高く、鋭く響いた声は、王妃のもの。
今まで声を出したことなど数えるほどしかなかった王妃の、威厳ある声が。
そして。
ドゴッッ!!
謁見の間の中央に、突き刺さるように落ちてきたクリスタルの塊。
騎士が5人で周りを囲んでも囲いきれない大きさのクリスタル、その中には。
「ひいっっ!!」
「ひ、人がっ、人が閉じ込められているっ!?」
「あれは、修道女かっ!!」
「な、なんです、あれはぁっ!」
高々と両手を鎖で戒められ、吊るされたように立っている修道女と、縋り付くように膝立ちした修道女が二人、中に封じられていた。
そこに近づき、モーニングスターを振りかぶったナニカは、ためらいなく振り下ろした。
ピシィィッッ パリィン・・・
あり得ないほどあっけなくクリスタルはひび割れ、崩れ、溶けて消えた。
中の修道女たちも解放され、座り込んでいたが、すぐに礼を取る。
「お救い戴き心より感謝いたします、女神ユーティ様。私は炊き出しの途中に城の騎士団に拘束され、聖堂にてこのクリスタルに封じられました。その際、呪術で精神を絡めとられて身動き一つとること叶わず、このまま朽ち果てることを覚悟しておりました。女神さまの慈悲によって救われたこの命、生涯御身に捧げ奉ります」
「私たち二人も、探しに行った先で同じように拘束されました。大司教様に忠誠を誓えと迫られましたのを断固はねのけましたら、シスターと共に国へその身を捧げよとクリスタルに封じられました。お救い戴きました事、心より敬愛と感謝を奉げ、信仰と共に生きてまいります」
「誓いは確かに受け取りました。これにて戻ります」
「「「はい、お供いたします」」」
「お待ちくださいませ、御使い様」
振り返ると、玉座を下りた王妃が跪いている。
「我が国の度重なる罪業、王に代わりまして謝罪いたします。どのような処罰もお受けいたします」
「「「「「「「王妃殿下っ」」」」」」
貴族たちの悲鳴に近い怒号が吹き荒れた。
「不敬ですぞっ、王妃殿下! 王を差し置いて、しゃ、謝罪などとは!」
真っ青な顔で宰相が言い募るが、
「お黙りなさい! 国を売った忘恩の輩がっ!」
倍以上の声で退けられた。
「陛下も陛下です! 邪道に堕ちてまで地位にしがみつく貴方など見たくありませんでした!!」
悲鳴に近い王妃の告発にその場の誰もが硬直し、耳を疑った。
悲痛な決意を顔に宿し、王妃は語る。
「何年も前から聖女様はすでにご自分の死期をご存じであらせられました。その後継となる者を探しだそうとしましたが力及ばす、このままでは国の崩壊もありうると……そうなれば、真っ先に被害を受けるのは民草です。わたくしは周辺諸国へ逃がすことを進言いたしました、が……陛下は、その時すでに、悍ましいことを実行に移しておられました……!」
王妃の血を吐くような声が響き渡る。
「大司教の仮面をかぶった黒魔術師と共謀して! 城の、メイドや下女……果ては城下の民草を極秘に攫い、その命を、禁呪へ捧げていたのですっ……!」
「な、なん、ですとっ!」
「それは誠ですか!」
「そ、そう言えば、城のメイドたちがいつの間にかいなくなっていたような」
「おお、城下でも同じようだったと聞いたな……まさか、王がっ!?」
「な、何をおっしゃっているのですか、王妃殿下! 妄言も大概になさいませっ!」
「その片棒を担っていたあなたに言われたくはありません、宰相!」
王妃の切り返しに、冷や汗をかいて立ち尽くす宰相。その様子だけで、宰相が関わっていたことは明らかだった。
さらに、
「そのことを知ったわたくしに、大司教が……あろうことか、この身を穢されそうになりました……護衛のものと侍女が身を挺してわたくしを庇い、辛くも逃れることができました。ですが、その者たちは……その場で、命を……」
壮絶な告白に貴族たちは息を呑み、夫人に至ってはもらい泣きをしている。
這いつくばっていた王も、この言葉に衝撃を受けていた。
「き、妃よ、そんな事、儂は聞いておらん……」
「何度も陛下に訴えたではありませんか! 大司教を内宮に近づけさせないでくださいと! それを無視されたのは貴方です!」
泣き声混じりに叫ぶ王妃。
「それでも陛下に忠告しようとしたら、大司教に術を掛けられ……このような公の場で声を上げるどころか身動きが一切許されない、唯々ここに在るだけの存在となり果てました…………」
その言葉に貴族たちはいつからか王妃を無視していたことに気づかされた。いつも国王の横で静かにたたずみ、動かない王妃に目をやる事さえなくなっていたことが思い出され、ばつが悪くなった顔を見合わせる者、己の不明に唇をかむ者があちこちに居た。
気まずくなった謁見の間に幽かな足音が響き、次第に近づいてくる。それは玉座の後ろ、本来なら王族のみが使える通路のはずなのだが、その扉が荒々しく引き開けられた。
「国を守る結界のクリスタルを壊しおったのは誰だ!」
でっぷり太った赤ら顔の男だった。大司教の衣装をまとい、きらきらしく豪華な飾りをあちこちに着けている。だが、浅ましくも前をはだけた様子は聖職者に見えない。
それは後ろに従うお付きの少女たちも同様だ。彼女たちは冠や笏、帯に上衣を捧げて着付けようとおろおろしているが、全員髪を乱れさせ、着衣もひどく着崩している様子から、直前まで何をしていたのか誰の眼にも明らかだった。
足音荒く謁見の間へと進んだ大司教。差し出された帯を乱暴に巻き付け、肩に打ちかけられた上衣をはねのけると全員を睨め付けた。
破壊された玉座と這いつくばる王、恐怖と嫌悪の表情で唇を震わせる王妃。棒立ちのまま立ち尽くす騎士と貴族たちを見渡した後、中央付近にたたずむ女性たちへ視線をやると口の端を釣り上げた。
「ほうほう、貴様があの術を破ったのだな? 愚か者が。そのためにこの国は守りの陣を失ったのだぞ。その罪は貴様自身で償ってもらおう」
そう言うと、両手の指を複雑に組み合わせて術を編み上げ、投げつけてきた。同時に大司教の瞳が怪しく光る。『魔眼』の一種だろうか。
「あっ、いけない! あれは緊縛の術です」
「避けてください、院長様!」
修道女が声を上げ身を寄せ合う。彼女たちはこの術で体の自由を奪われ、クリスタルに封印されたのだ。
一方、飛んでくる術を見つめ、院長の姿をしたナニカは無造作に手を振るう。白いたおやかなその手に弾かれて術は霧散した。そのことに一番驚いたのは大司教だった。
「な、そんな馬鹿な!」
再度術を向けるも、通用しない。後ろに居たお付きの少女の手から笏をもぎ取り、更に力を増幅させた術を何度も打ち込んだ。
ナニカは右手一本で払い続ける。右に払い、左に跳ね上げ、下にたたきつける。最後には掌で握りつぶしていた。
脂汗を浮かべ、瞳をぎらつかせながら術を行使する大司教。なんの感情も見せずに淡々と対応するナニカ。この時点で勝敗は見えていた。
「き、貴様っ、このわたしに、逆らおうとは、一体、どこの田舎者だっ!? その根性っ、叩き直してくれるわぁっ!」
息を喘がせ、肩を大きく上下させた大司教がナニカに詰め寄り、笏を振りかぶる。うなりをあげて振り下ろされるそれをすいと左に躱し、ナニカはモーニングスターを軽く当てた。衝撃を受け、笏は大司教の手からすっぽ抜けていった。
「う、おぉぉっ!?」
痺れた腕を胸に抱えて振り返った大司教の顔に迫るのは、握りしめられた白い拳。驚愕を張り付けた大司教の顔の真ん中に、それはめり込んだ。
「ぶべごぼぉっ!」
大司教の身体が宙に浮き、二度三度バウンドして転がった。奇しくもそこはクリスタルが落ちてきた場所であり、天井からは光が落ちてきていた。
ナニカはその場に跪く。
「女神テミス様、ユーティ様。下されました神託、執行いたしました。お力をお貸しいただき、深く感謝いたします。そしてここに、根源たるものが判明しております。お二柱のお考えをお示しくださいますよう、伏してお願い申し上げます」
そのまま深く身を折り、額づく。長い毛足のカーペットに埋まるほどの姿勢はまさに最上級の敬礼だ。後ろの修道女たちもそれに習い、平伏する。
天井からの光にもうひとつ輝きが加わった。それは降り積もる雪のように柔らかな動きでありながら、研ぎ澄まされた槍の穂先に似た鋭い冷たさも持っていた。それらが倒れ伏した大司教の身体とその周囲に降り積もっていく。
と。
鈍い響きを伴って謁見の間のカーペットの中から黒い段が持ち上がった。
「お、おおぉっ!? こ、これは何だ、どうなっているっ!」
自身の身にかかる異変に気付き、よろけながらも立ち上がった大司教の回りを、腰の高さで出来つつある柵が取り囲んでいく。それは馬蹄形であり、さながら裁判の被告席にも見えた。
そして。
その柵が捩れ、溶け崩れて大司教にまとわりつく。逃げる間も与えられずに、大司教はその場に縫い留められた。見ていた貴族たちからも驚きの声が上がる。
「や、やめろ、やめるんだ! こんなことをして、国がどうなってもいいのかぁっ!!」
何とか身をよじって逃れようとする大司教に、更なる異変が起きる。腰から下を固めた部分から真っ黒な蔦が何本も生え、お互いに絡み合いもつれながら大司教の体を覆って上へ上へと伸びていく。隙間なく絡まった部分から徐々に硬化が始まっていくのを見た大司教はパニックを起こして喚き散らした。
「うひぃ、死にたくないっ、悪かった、謝るから、許してくれぇっ! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、い、や、d、……っ!!」
「ひっ!」
「あ、あれは、あれはっ……!」
「やめてやめて!」
夫人の間には失神する者もいた。男たちも、できれば逃げ出したいくらいだ。
顔まで達した蔦に覆われ、悲鳴が途絶えた。やがて伸ばした腕の先まで蔦に覆い隠され、残されたのは奇妙なオブジェだけ。
額づいていたナニカが顔を上げる。
「お二柱のお考え、確かに承りました。誤りなきよう、伝えてまいります」
その場で立ち上がり、玉座の方を向く。
「邪法にて国の結界を維持することは、建国当時に結ばれた神との誓約をないがしろにするもの。ましてや、無辜の者の意思を慮ることなく自らの欲望のために踏みにじったヴェルドライン王国の所業に対し、女神さま方は甚くお怒りになっておられます。今回の神託を下されました際、『遂行する事能わずんば、国ごと罪を贖わせよ』との一言がございました」
「「「「「「……っ!!!」」」」」」
王も宰相も貴族たちも、騎士に至るまでその苛烈な言葉に息を呑んだ。
ただ王妃のみが、静かな表情で受け入れる。
「幸いにも王族すべてが腐っていたのではないこと、根源たる存在が事実を捻じ曲げていたこと、この二点で女神さま方の寛恕が得られました。亡くなられた聖女様の張られた結界がすぐに消えることはありません。……今のところは」
「おお、ありがたい」
「で、では魔獣の心配もないのですな!」
「何と喜ばしいことだ!」
「女神さまの広き心に感謝を」
「ですが!」
安堵の声をあげる貴族たちに、否定の言葉が降りかかる。
「すべてが許されたわけではありません。猶予を得ただけです。その猶予を継続させるため、女神さま方から条件が述べられました」
「そ、その条件、とは、どういうことで、ありましょうか……?」
恐る恐る、宰相が問いかける。
「ひとつ。現王はその地位を退くこと。
ふたつ。王太子は廃嫡すること。
最後に、王妃様が国の舵を取られること。以上の三点でございます」
謁見の間に沈黙が落ちた。この国は建国当初から男王が継承していく仕組みになっており、王妃や王女はその血を次代に繋げるためのものでしかなかったからだ。今までの認識を覆され、混乱する貴族たち。その一人がそっと声を上げる。
「もし、もし、その条件が履行されなかった場合は……どうなりますか…?」
「女神さま方からの寛恕は消え、この国は滅びます」
簡単にして明瞭な答えが返ってくる。謁見の間の誰もが言葉を失くし、王妃を見つめた。
跪いたまま、王妃は長い時間黙り込んでいた。やがて上げた顔に苦悶の表情を浮かべ、
「わたくしにできるのでしょうか……でも、やらねばならないのですね」
そう言って立ち上がり、見事なカーテシーを取る。
「女神さま方のご提案、引き受けさせていただきます。この身に宿るすべてを持って、国と臣民、民草を導いてまいります。どうかご照覧くださいませ」
女神公認の女王が誕生した瞬間だった。期せずして貴族や騎士たちから拍手が沸き起こる。
「では、御前を失礼いたします」
そう言って足元の荷物を手に取るナニカ、いや修道院長。
「? どちらに行かれますか、御使いさま?」
「下されました神託を執行しました今、ここに居る意味はございません。戻らせていただきます」
「そう、ですか。引き留めることはできないのですね」
「ご理解くださりまして感謝いたします。では」
「あの、わたくしもお連れ下さい!」
不意に上がった声は、隣国の王女のものだった。先ほど解放されたときの悲壮感がいくらか残ってはいたものの、今はそれ以上に決意のようなものが現れていた。
「元々わたくしはあの人の冥福を祈るために修道院を目指しておりました。理不尽な横やりでこの場に連れてこられましたが、こうして解き放たれたなら、当初の願い通りにしたいと思います。院長様、どうか入所の許可をくださいませ」
「修道院では誰もが現世のすべて、名も地位も捨てて同じように暮らしています。あなた様にそれがお出来になりますか?」
院長の問いに、しっかり頷く王女。そして、美しく結い上げられた髪からティアラを外して投げ捨てた。見ていた王妃改め女王陛下は痛ましそうにしながらも無言を貫く。
「ならば一緒においでなさい。皆様、失礼いたします」
一礼して扉に向かう院長と修道女たち。その一番後ろへ王女が続く。
「ミ、ミーティア……」
やっとの思いで顔を上げた王太子が呼びかける。だが、王女の歩みは止まらない。
カツッ カン コロコロ・・・・
「待ってミーティア、行かないでくれ! 頼む、頼むから……!」
一歩進むたびに外された装飾品が転がる。サークレット、ネックレス、指輪、イヤリング、ブレスレット、ブローチ……王太子の婚約者として遜色なく身に着けさせられた王家所蔵の宝石たち。それらが塵芥のごとく捨てられていった。
「ミーティア! 愛してるんだ、ミーティアァァッ!」
全身で叫ぶ王太子の声に、一度たりとも振り向くことなく王女の姿が小さくなり……そして消えた。後に残るのは、点々と散らばった装飾品のみ。
伸ばした手が掴んだのはティアラ。王女が真っ先に切り捨てた枷の証。
「ミーティア……!」
手の中のティアラを握りしめ、王太子は初めて後悔の涙を流した。
それから時を置かずに現王の退位と女王陛下の即位が発表され、同時に王太子の廃嫡も伝えられた。婚約発表とは裏腹の事態に騒然となったが、女王陛下が自ら王城のバルコニーに立って女神さま方から下された神託の内容、明らかになった王族の罪、大司教への断罪を王都の民たちへ包み隠すことなく伝えた。
「わたくしたちは許されたわけではありません。今はただ猶予されているだけなのです。古の盟約によって得られた安寧に寄りかかるのではなく、わたくしたち自身がこの国の維持と繁栄に心を傾け、謙虚に日々を生きていく、その有様を女神さま方はじっと見つめておいでです。
わたくしはもちろん、貴族の誰もが心をひとつにしてこの国のために働く覚悟です。臣民たちよ、わが国の民草たちよ、あなた方も共にこの国を盛り立てていってほしい。女神さま方を失望させないよう、これから生きていきましょう」
この時の言葉はそのまま他の町や村へも伝えられ、王国全土に広まった。中には王侯貴族の不始末を下々にまで波及させることに不満を漏らすものもいたが、今まで聖女様の結界に守られていた事実を思うと、いつしか不満も消えていった。
女王陛下は言葉通り精力的に働いた。
まずは非礼を働いた隣国に対し、心からの謝罪と王太子の廃嫡を告げ、王女自身は修道院へ入られたこと、今は心穏やかに過ごせているであろうことを伝えた。
前王と大司教によって命を絶たれた者たちに対しては充分な補償を行い、乱れていた教会内部の粛清を断行。教会任せにしていた聖女候補捜索を自分の直轄する部署に切り替え、国中へ派遣して探させた。思ったよりも早く複数の候補者たちが見つかり、今はその子たちの能力を育てている最中だ。
魔獣出現で分断されていた、街を結ぶ道路の復旧と修復、親を亡くした子供たちのための孤児院創設と、仕事を失った大人たちへ向けてのあっせん所を開設、必要な場所への物資を城から供出して取引価格を高騰させないように監視し、民草の生活向上に心を砕くと同時に、不正を見逃すことのないよう警察組織の引き締めにも目を配る毎日だ。
その傍らには、宰相を辞して侍従となった男が常に付き添い、助言をしているという。
一日の仕事を終えると、女王陛下は庭の一画にある離れに向かう。そこには謁見の間から移された大司教だったオブジェが置かれていた。この前で祈りを捧げ、自らの罪と誓いを新たにするのが日々の日課となっている。
サンスクリオ修道院。世の女神すべてを奉じる場所。女性の最後の砦。その所在は深い山の中に在り、存在のみが伝えられる。どの国にも従属しないが、どこの国の者でも受け入れる。
ただし、女性に限って。
当たり前だが、修道院である。男性は出入り禁止だ。
以前にプロットだけを書き留めていて、結末を悩んでいた作品です。
もう少しまとめるつもりが長くなってしまいました。
『サンスクリオ修道院』を軸にした作品をこれからいくつか考えています。
遅筆ですが、これからもよろしくお願いします。
因みに、女神さまについてですが。
テミス様はギリシャ神話のアルテミスとテミスの両方をかけてます。
ユーティ様はローマ神話のユースティティアからです。
どちらの女神さまも怒らせたら怖いですよ(笑)