第九話「シデムシに会いたい」
時間ってのは意外と早く経つ。もう夏休みも後半に差し掛かり、いい加減放置気味の宿題にも手を付け始めなければならない時期が来ていた。
八月十五日。そろそろ俺も残りの休み日数と照らし合わせながら、宿題を終わらせる予定を組まなければならない。
「飛太、お風呂湧いてるから、先入っちゃいなさい」
「あー、後でね」
部屋まで来た母に適当に答え、俺は母が下へ降りたのを音で確認してからため息を吐く。
「なんか、つまんねえな」
読みもしない少女漫画雑誌が、床に放り投げられている。押入れを見ると小さなタンスが置いてあり、女物の服が何着かしまってあった。片付けられていない敷布団の上には、はぐられたままのタオルケットがほったらかされていた。
ナナが帰ってから、もう三日経つ。
アイツが来てからの二週間、本当に駆け抜けるように過ぎていったせいで妙に短かったような気がしてしまう。アイツの周りだけ時間が加速しているかのようで、一日が本当に短かったんじゃねえかと錯覚してしまうくらいだった。
ナナがオムニバスに連れて帰られて、俺の生活には平和が戻った。昼飯は食えるし、変に金がなくなることもない。そもそも今金ねえからなくなりようがないのだが。
あれだけ騒がしかった毎日が、急に今まで通りの平穏に戻ってしまった。
「……もう夕方かよ」
昼はあんなに長く感じたのに、気がつけばもう夕方だ。差し込む夕日が眩しくて、俺はカーテンに手をかける。
そういやアイツが来た日も、こんな夕方だったな。あの時はとんでもない美少女がきたなと思ったものだが、中身があんなにぶっ飛んでるとは思いもしなかった。
思わず苦笑しながら、脳裏に浮かんだナナをかき消すようにカーテンをしめる。電気を付けていなかったせいで、部屋が急に薄暗くなってしまった。
アイツ、何してんだろうな。折角かき消したナナが、それこそ殺しても殺してもわいてくるゴキブリみたいに脳裏をよぎる。
もうアイツはどこにもいないのに、俺の日常のそこかしこに、アイツの影がある。こうして部屋にいると、今にもアイツが騒ぎ出すような気がして。
――――問おう。あなたがナナのマスターか。
――――気持ちの良い朝ですよ! ナナにします? ロアにします? それとも……ナ・ナ・ロ?
――――もし、もしナナが……ヒロインにあるまじき事態に発展しても……ナナのこと、見ていてくれますか……?
「……うん」
ロクな思い出がねえ。
「は? 異世界に行きたい?」
俺の親友、桐生院武志は俺の顔を見ながら不思議そうに顔をしかめている。
無理もない、夕方急に家に押しかけてきた友人が「異世界に行きたい」と言い始めればそりゃあ不思議そうな顔にもなる。
「異世界……というと、あのカスの所ですか?」
丁寧な口調で、かつナナに対してだけは一切の容赦ない罵倒を口にしつつ問うレイラちゃんに、俺は小さく頷く。
「おいおい、お前ナナちゃんに帰って欲しかったんじゃなかったのか?」
「そ、そりゃあそうだけどよ。なんつーか、あんな奴でもいねえとつまんねえっていうか……」
適当にペラペラと御託を並べては見たが、どうも我ながらしっくり来ない。どうせ相手は武志だし、誤魔化す必要も恥ずかしがる必要もない。
俺は小さく嘆息してから、オムニバスに連れて行かれたナナのことを思い出す。
「アイツさ、ちょっと泣いてたんだよ」
「泣いてた……? ナナちゃんが?」
「ああ、ちょっとだけな」
――――飛太さん! 飛太さん!
ナナの奴、半べそになりながら手を伸ばしやがった。帰れば良い、迷惑だ、いられても困る。そう思っていた俺に、手を。
「オムニバスの奴、なんか”手続き”とか言っててさ。ナナは帰るのも、その”手続き”ってのも嫌みたいなんだよな」
「手続き……ですか」
「わかるのか?」
俺の言葉を復唱したレイラちゃんに問うたものの、レイラちゃんは静かにかぶりを振る。
「あのゴミクソは吐瀉物が命を持ったかのような汚泥ですが」
せめてゴミクソ吐瀉物汚泥のどれか一つにしてやってくれ。
「一応人間ですので、ハーピーとは違う文化で生きています。ですので私にはその手続きというのがなんなのかわかりませんが……あのゲロ虫がそれ程嫌がるというのは少し異常ですね」
「いない時まで言いたい放題過ぎるだろお前」
「あのウンコマン、一体何をされるのでしょうか」
「いやそれはどちらかというと俺かな」
いや違うウコンマンだった。
「それで飛太、お前どうしたいんだ」
ウンコマンを自称した俺に戸惑うレイラちゃんを尻目に、武志は真っ直ぐに俺を見据えて問う。
どうしたい……か。それは多分、連れ戻したいのかどうかって話でもある。俺はこの三日間、ナナのいない毎日を退屈だと感じていた。きっとそれって、ナナが向こうの世界で感じていた退屈と少し似ているのかも知れない。
もしかしたら俺のエゴかも知れない。本当は俺がまだまだナナと遊びたいだけで、ナナはオムニバスの言う通り向こうの世界にいるべきなのかも知れない。
だけど、だけど俺はもう一度ナナに会いたい。帰って来いなんて言うつもりはない。でも、二週間も一緒に過ごしたアイツに、まともにさよならさえ言えないなんてのは嫌だった。
「武志……俺、あのシデムシに会いたい……!」
「そこでシデムシとか言う?」
いや、レイラちゃんにつられてつい……。
結論から言うと、異世界に行く方法はある。というか一般人にとっては無縁なだけで、桐生院家ではそれ程珍しい話ではないようで、魔力を持たない武志はともかく桐生院家の人間は大抵が自力で異世界に行けるくらいの魔術を扱えるらしい。了承してくれるかどうかはわからないが、とにかく武志が今から兄に頼んで来てくれるようで、今は部屋に俺とレイラちゃんだけが残っている。
ちなみに魔法と魔術は向こうとこっちで呼び方が違うだけらしく、魔法の方が強いとかそういうのはないって言われた。俺は魔法の方が強いって思ってた。騙された。
「……なあレイラちゃん、ナナは向こうの世界の何が退屈だったって言ってたけど、なんか本人から聞いてない?」
武志が戻ってくるまでの間、待っているだけというのも退屈なのでレイラちゃんに少しナナの話を聞いてみることにした。
いやあしかし何回見てもレイラちゃん美少女過ぎるしお淑やかだし、言葉遣いも基本的には丁寧だしなんか良い匂いするし武志はズルい。
「……あの便所コオロギ、家に両親がいないんです」
「便所コオロギ?」
「そこ聞くんですか」
一番不可解だっただろうが。
「あのダニの両親……とは言ってもご両親はまともで立派な人間ですけれど。ご両親は王族に仕える龍騎士で、毎日ドラゴンに乗って夜空をブイブイ言わせているのです」
「ゾクじゃねえか」
「家に帰れる時間はほとんどないらしくて、兄のオムニバスさんも蛆虫が幼かった頃は魔法の研究に没頭していたみたいで……」
蛆虫の幼い頃って卵の中の話かな?
「よく私のところへ愚痴りに来てましたよ。退屈だ、つまんない、誰も相手にしてくれないって」
レイラちゃんの話からイメージすると、確かにナナは結構かわいそうな奴なのかも知れない。まともに育ててもらえないまま放ったらかされていたのなら、なるほど教育が行き届いていないのもある程度説明がつく。親が龍騎士で夜空ブイブイなら、ドラゴンに良い印象がないのにも納得出来る。だからアイツ、ドラゴンの闊歩する世界がつまんねえとか言ってたのかな。
「なぁレイラちゃん」
「……なんですか?」
「ナナってさ……」
「……はい」
「今の話を念頭に置いた上でもやべえから、やっぱアレって環境云々じゃなくて天性の狂気だと思わねえ?」
「わかります」
いない間にフルオートで評価が下がる女だった。
そんな会話をレイラちゃんとしている間に、廊下の方から足音が聞こえてくる。すぐに引き戸が開いて、部屋へ最初に顔を覗かせたのは武志だ。
「連れてきた。連れてきたが約束してくれ、絶対に兄さんに粗相は――」
次の瞬間、鈍重な音がすると同時に武志がその場へうつ伏せに倒れた。
「武志!?」
「武志さん!?」
武志はピクピクしながらも何とか身体を起こし、苦痛に呻きながらも俺達へ視線を送る。
「お前達も……こうなる……気を、つけ……」
武志が言葉を言い終わるよりも、綺麗な足袋が武志の背中を踏みつける。それと同時に、引き戸の向こうからゆらりと細長い影が姿を現した。
「こんばんは、いつも弟がお世話になっております」
ペコリと頭を下げたのは、長い黒髪の女性? だった。いや見るからに女性だし、声も多少ハスキーボイスってだけだし、確かにちょっと身長は高いけど……少なくともお兄さんではなかろうよ。
オネエさんかなぁ。
オネエさんだった。
この度この部屋に現れたお方、桐生院連華(本名桐生院連司)さんは正真正銘武志のお兄さん……もといオネエさんで、この家では最も魔術の扱いに長けているとのことだった。武志が踏みつけられたのは「兄さん」とうっかり呼んでしまったせいらしく、レイラちゃんによれば結構日常茶飯事らしい。
「それで、異世界に行きたいって言うのは飛太くん? 随分久しぶりねぇ……昔はあんなにちっちゃかったのに」
いつの話かはわからんが、多分まだこの人がオネエさんになる前のことだろう。俺はこんな人知らん。俺の知ってる連司さんはもっとこう、こうな……チクショウ時は人を変える!
しかしまあ、見れば見るほど男には見えない。声はどうにかして作ったのか、それとも地声がやや高めだったのか、意識して聞かなければ男声には聞こえにくい。
「あの、えーっと……連華、さん? それで異世界には……」
「勿論、行かせてあげるわ」
「本当ですか!」
思わず畳を叩きながら喜ぶ俺だったが、連華さんはただし、と言葉を付け加える。
「これからあなたに上げるのは、青春片道切符よ」
「青春片道切符……?」
「要するに、私が世話してあげられるのは出発だけってことよ」
片道切符。連華さんが今出来るのは、俺一人だけを向こうへ飛ばすことだけとのことだった。つまり、連華さんはおろか、武志やレイラちゃんも同行出来ない。加えて連華さんの話では、連華さんの魔力量で可能なのは精々一回の移動だけで、二回目以降はしばらくの間休まないと行えない。そのため、向こうへ送った俺をこっちに帰すためには、かなりの手間と労力がかかるというのだ。
「私から何か出来るのは、あなたがこの世界にいる間だけ。だから、あなたは向こうでこっちの世界に帰る方法を探さなければならなくなるわ」
今までは穏やかに話していた連華さんだったが、これについては終始真剣な眼差しで話していた。気にするまいとは思っていたが、喋っている内に声を作る余裕がなくなったのかじわじわ野太くなっていくのは面白すぎるのでやめて欲しかった。
「最悪、あなたはこっちに帰って来れなくなることだってあり得る」
連華さんの言葉に、俺はゴクリと生唾を飲み込む。真剣に話す連華さんの雰囲気に気圧された、というのもあるが、単純に「帰って来れなくなる」という言葉が恐ろしかった。
「どうする? あなたが決めて」
もうすっかり野太くなったオネエ口調と一緒に、俺は生唾をごくりと飲み込む。
「……俺は」
俺は家から持ってきた、没収したままのナナのメイスを取り出してジッと見つめる。アイツの笑顔が、アホ面が、泣き顔が、頭に焼き付いて離れない。メイスを見ていれば、もう今にでもナナの声が聞こえてきそうな気だってする。
もし例え帰って来れなくなったとしても、俺は……
「俺は……行くよ。俺のエゴでも良い、俺はアイツに会いたい」
「……そう」
静かに、包み込むようにそう答えて、連華さんはメイスを握る俺の手にそっと手を重ねる。流石に引いたが手はメチャメチャ綺麗だった。
「なら、行きなさい。きっとそのメイスが導いてくれるわ」
「……あの、何で俺にそこまで……?」
「ふふ、うちの武志の親友の頼みだもの。それに、私は全ての青春の味方だから……」
連華さんの隣で微笑む武志とレイラちゃん。こんな俺のために、あんな馬鹿のために、こんなにまでしてくれる奴らがいるだなんて思わなかった。俺はもしかしたら、最高の仲間に出会っていたのかも知れないな。
「……行って来い飛太!」
「その、私はあくまで武志様のご友人の無事を祈るのであって、えっと、決してあのゲジゲジのためでは…………とにかく、ご無事で……!」
「青春よ飛太くん! あなたが帰るまで、私達はずっと待ってるわ!」
三人の声援を聞きながら、俺はもう一度メイスを握りしめる。俺は行くぜ……ナナ! せめてお前に、きちんと別れを言うためにもな!
すげえ良い空気だから言わなかったんだけど、多分向こうから帰る時はナナかオムニバスに頼めば何とかしてくれると思うんだよな。そんななんか決死の旅路とかじゃなくね?