少しだけ強くなろうと決めたのです。
「風華っ」
晴久が勢いよくリビングのドアを開けると、こちらに向かって、紗雪がしぃーと指を立てた。
「晴久先輩、静かにしてくださいよ。風華、寝たとこなのに」
「悪ぃ」
リビングのソファで、小さな体を丸めて、風華は眠っていた。思っていたよりも顔色は悪くないようなので、晴久は小さく息をはく。
「晴久、ただいまくらい言いなさいよ」
せっかちな子ねぇ、と晴久と風華の母親である美月は台所から顔をのぞかせながら息子をとがめた。
「……ただいま。そもそもの原因は母さんじゃねぇか。風華に弁当届けさせるなんて」
「あら。晴久が悪いんでしょう?」
「なんで」
「だぁって、あんな早い時間なのが悪いのよ」
「朝練なんだから仕方ねぇだろ」
「それはあなたの勝手でしょう?」
飄々として、つかみ所のない美月は、高校生の子供がいるように見えない。笑うことが多いからか目尻に笑いじわはあるが、すらっとした体つきは10歳は若く見えた。
「……わかってたんじゃねぇか?」
こうなること。
吐き捨てるように言い、晴久は美月を責める。自分を責めながら、他にも責任を押し付けたい、子供のような思いで。
「えーっと、はいはい。それくらいでいいですか?そういう親子喧嘩は、私が帰ってからしてもらえません?」
紗雪がそっと鞄を肩にかけながら、ふたりに割り込む。この親子の言い合いは日常茶飯事だが、それに巻き込まれるのは疲れる。面倒である。そういうのは、宏和だけで十分なのだ。
「さゆ」
玄関で靴をはいている紗雪を、晴久は後ろから呼び止め、頭をなでる。
「その、なんだ。いつも悪ぃな」
「……たいしたこと、出来てませんよ?」
「いや、サンキューな。ヒロに飽きたらいつでも嫁にこい」
「……遠慮しときますよ。私、刺されたくないです」
「そーか」
晴久はズルい。紗雪はそう思う。心地いい優しさは、蜜であり毒だ。蜘蛛の糸のように、絡めとられ、動けなくなる。浸っていたくなる。
弟しかいない紗雪にとって、晴久は兄同然だった。
そして風華は、守るべき妹だった。
ーーー大切な幼馴染みを守って、何が悪い。
「じゃあ、また明日」
「はい。おやすみなさい」
明日、おそらく風華は人の視線を集めるだろう。晴久の行動は目立つ。本来であれば、入学当初から、兄妹だということを知らしめておくべきだったのかもしれない。
でもーーー最低1年、晴久たちが卒業するまで、兄妹だということを隠しておきたかった。
「明日から、忙しいかもなぁ……」
自分の家へとマンションの階段を上りながら、紗雪はひとり呟いた。
「風華、一緒に学校行こう」
「……それ、は、ゃ……」
晴久は風華の小さな抵抗に、困った顔をした。
そもそも、風華が晴久にお弁当を届けたのは、美月が頼んだことではなかったらしい。テーブルの上に置いてある自分のお弁当の横に、普段はないはずの晴久のお弁当があり、当の本人はすでに家を出ている時間であり、しばらく悩んだ結果、風華は自分で持っていくことを決めたのだそうだ。
ーーーあの子も、いつまでもこのままでいいなんて思ってるわけじゃないのよ。
美月はそう言った。それを後押しするために、無駄にならない、男子高校生の胃袋はブラックホールみたいなものだ、というような趣旨のことを言ったと。
それを聞いて、晴久はぞっとした。誰が好き好んで、可愛い可愛い妹を、辛い道へ向かわせたいのか。今までだって、守って……守れなくて。それが自分のせいだと知ってから、他の誰でもない、自分が風華を守るのだと、そうするべきだと信じてきた。
「……でも、俺に妹がいるって、風華が妹だって、これ以上は隠せないだろ」
意図してそうしたわけではなかった。だけど、それが風華のためならば、学校で接触がなくても、我慢しようと思えた。
弁当を届けてくれたとき……いろいろ吹き飛んで、いつものように構ってしまったが。
ーーー妹と、言う前に。
それが間違いだったと、気づいたときには遅かった。中学のときの、二の舞は踏むまいと思っていたのに、自分は何も成長できてない。
「ぁの、ね、お兄ちゃん」
「ん?何?」
「……ほんと、言うと、こ、怖くないわけじゃ、なくて……で、でも、もう、そういうの、ゃ、なの」
「……どういう意味?」
こてん、と首をかしげて、晴久は続きを促す。決して急がせたりしない、最後まで待っていてくれる、その安心に、風華はいつも感謝していた。
「……お兄ちゃんが、守って、くれて、紗雪ちゃんが、そばにいて、くれて、ほ、ほんとに嬉しい、の」
「うん」
「で、でも、ね……私、は」
その後に続いた言葉を、晴久は消化するのに時間を要した。
明らかでなくとも、それは拒絶の意味を持ち、妹命の晴久にとっては大打撃だったのだ。
「私は、強く、なりたいの。……ひとりでも、大丈夫なように」
ずっと一緒にいることはできない。それが兄であろうと、幼馴染みであろうと。
風華はこの2年、紗雪に甘えてきた。運よく一緒のクラスだったこともあり、晴久目当ての生徒に絡まれることは少なかった。
が。
その度に……いや、それよりもずっと前から。
風華は苦しかったのだ。兄である晴久や、幼馴染みである紗雪が、自分のことを守ってくれる。それが当たり前になっていた。それがただ、苦しいなんて。
我が儘だ。自己中だ。何にも返せないくせに。
その場から意識を飛ばして逃げることでしか、自分を守れないなんて。
晴久も紗雪も、風華がそんな風に思っているなんて知ったら悲しむだろう。だから、言えなかった。言う勇気もなかった。守られているのは楽で、弱い自分だからこそ、その中で甘やかされ続ける。
だけど。
宏和と紗雪が長い両片想いを実らせ、付き合いだした。宏和も風華にとっては幼馴染みだ。大切な、幼馴染みだ。
ーーーこれ以上、縛れない。
自分を優先してくれることは、とても嬉しい。だけどそれが、枷にならないなんて誰にも言いきれない。
ーーーいつか付き合いきれずに……重荷になってしまうなら。
ーーー大丈夫。大丈夫。ちょっとずつでいいのだ。
宏和と付き合い始めたと紗雪が言ったとき、風華は本当に嬉しかった。紗雪がこんなに可愛らしい顔で、こんなに幸せな報告をしてくれて。
そうして気づく。風華は、紗雪に困った顔ばかりさせていたことに。
正確には、風華を取り巻く感じの悪い連中に対して、紗雪は怒ったり、苛ついたり、悔しかったりしたのだけど。
ーーー原因は、私だった。
ようやく1日が終わった……!長っ。