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姉上はぼくたちのひみつ

作者: 待山宵田

 自分の目に映り、感じるものが全て真実だと思うのは間違いだ。

 だって、ほら。

 ぼくらはそれを判断する材料を、確かにこの体に持っていると言えるかな。

 真実は、いくらでも湧いてくる。 

 それこそ、人のいる限り。思いの交差する限り。 

 だって、そうでしょ?

 虚構を信じてしまえば、それは真実になり、あとにはもう、事実になってしまうのだから。



         〇




万寿(まんじゅ)、遅い! あんた、なにやってたのよ。さっさとここに、来なさいよ! こののろまっ」


 部屋に入ったとたんに響く罵声。

 ぼくは、父上にならい、どんな理不尽な目にあわされたって、どんな業腹な目にあわされたって、無心でいられるよう心掛けた。

 何も考えるな、ぼく。

 だって、そうじゃないと、懸盤(かけばん)(ごはん台)に乗せた料理の数々が、ひっくり返ってしまうじゃないか。

 こぼれたら、すべてパアだ。

 これは彼女への供物なのだ。

 御仏の心になれ。

 今だけでも、御仏になったつもりでいるのだ、万寿丸(まんじゅまる)


「ちょっとアンタ、そんなところで突っ立ったまま、ぼーっとしていないでよ。早くこっちにソレを持ってこいって言ってるでしょう! このうすらボケっ」


 うっ、うすらボケ!?

 ひどいや!

 ぼく、うすらボケなんかじゃないっ。


「はい……」


 でも、何も言えない気弱なぼく。

 ぼくはしゅんとなって、頭を下げた。

 だって姉上、怒るとこわいんだ。

 今までに口げんかで勝てたことなんか、一度もない。ついでに、腕っぷしだって。

 姉上は、どすどすとわざとらしく足音を響かせて、ぼくの目の前にやってきた。

 いきなりメンチを切ってきたので、ビビってしまった。


「フン!」


 そうしたら、乱暴に、懸盤をひったくってきた。

 その拍子に、椀の中の汁が大きく波打って、動揺した姉上が、懸盤を持ちなおそうとして、大きく揺らした。

 案の定、ひっくり返る器たち。

 姉上の体が、怒りにぷるぷる震えている。


 さようなら、ぼくの無心。


「万寿う! あんたっ、あんたっ……」

「ぼく、なにもしてないよっ。こ、これは姉上がっ……」

「なにをぬかす! あんたがさっさと渡さないから悪いんだっ。なんてことしてくれたのよ。あたしのごはんっ。ああ、あたしの大事なごはんがあっ」

「ぼくのせいなの!?」

「ほかに誰がいる!」


 しゃがみこみ、散らばった食材をせっせと集めていた姉上が、キッとにらんできた。


 りっ、理不尽なり。



      〇



 ぼくの名前は万寿丸。

 兄弟は、姉上のほかに、妹や、最近生まれた弟がいる。

 ぼくたちは、俗に言う『鎌倉殿(かまくらどの)』のこどもだ。

 ほんとうはもっと兄弟が多いはずだなんて、叔父上や父上の友達は冗談めかして言うけれど、まあ、そこらへんのことはいいや。

 問題は、ぼくの姉なのである。




 ぼくは、足だけを使って、器用に襖障子を閉めた。

 改めて部屋に入ったとき、姉上は、板敷きの上でゴロンゴロン寝転がっていた。

 のたうち回る虫みたいだった。

 ぼくは心の中でため息をつきながら、用意し直した懸盤を置き、円座(わろうだ)(ワラ編みの丸い敷き物)をしいてやって、席を用意した。

 それを、侍所(さむらいどころ)の武人のように険しい目つきで注視していた姉上は、一息に起き上がると、つかつかと歩いてきた。

 そうして、懸盤の食材をじろりと見下ろす。


「合格。全部、あたしの好きなものだわ。どいてよし」

「当り前でしょ。姉上の注文に合わせて作ってもらったんだから」


 ぼくがさっさとどいてやると、姉上はなんだか上機嫌になったようで、食事の前に座った。


「久しぶりの肉っ。鹿肉っ」


 好きなものから食べ始める姉上は、真っ先に肉へと箸を伸ばす。

 その光景を見て、ぼくは今度こそ溜息をついた。


 この、姫君にあるまじきはしたなさ。

 四つ足の動物が大好物と言ってはばからないオヒメサマって、このご時世、この人以外どこにもいないよ。


 しかし姉上は、ぼくの呆れ顔なんか気にもせず、もりもりとご飯を食べる。

 このひとは、食べることが大好きだ。

 食べ物への執着はものすごいものがあるし、なにより、食べているときの顔は、この上もなく嬉しそう。

 

 なんだかなあ。


 なんとなく目線を周囲に投げたら、文机に並んで、懸盤が一膳ひっそりと置いてあるのに気が付いた。

 確かあれは、さっきぶちまけてしまった懸盤のはず。

 あの時、丹念に食材を拾っていたけれど、まさか姉上、あれを夜食に食べたりする気じゃ……。


「なによ、万寿。なにか面白いものでもあった?」


 気付けば、口を大きく開いて、今まさに食べ物を口に入れようとしている姉上が、じっとぼくを見つめていた。


「う、ううん。別に」


 ぼくはとりすまして首を振った。

 すると姉上はさして興味もなかったのか、すぐに話題を変えた。


「あっそ。じゃあ、そうねえ、今日は午前中、父様の周りで何があったか、面白いことだけ、話してよ」

「面白いことって、そんな……」


 とんだ無茶ぶりである。


「父上の周りでっていったって、そんなの、いつもの通りだよ」


 姉上が不満そうな顔でぼくをにらむ。

 でも、食べ物を運ぶ手は止まらない。

 さすが姉上、食い意地が張っている。

 ぼくは必死に頭をひねった。


「あ、そういえば、父上が新しく仏さまをこさえたそうだよ。なんかかわいい顔をしてるから、姉上にどうかって言ってた」

「なにそれ、いらない」


 げっ、と短く声を上げると、姉上は黙々と食事しだした。

 ぼくは口をつぐみ、静かにそれを見守った。


 父上は、むかしむかし、戦犯扱いされてへき地に幽閉されていたことがあったらしい。

 そこはけっこうな田舎で、日中やることがなくてヒマだから、若いころの父上はといえば、そこら辺にあった木片やらなんやらを、切ったり彫ったりして遊んでいたという。

 そうしたら、いつの間にか木を彫るのが上手くなっちゃって、仏像っぽいものが彫れて以来、父上は手乗りの小さな仏像を彫ることに目覚めてしまった。

 素人とはいえ、わが父は、我流仏師歴ウン十年のベテランである。

 仏像を語らせたら、長い。


 姉上にはこっぴどくやられてしまったけれど、ぼくはちゃんと、父上が彫ってはくれる、彫ってはくれる仏像を、部屋に安置している。

 うまいヘタは問題ではなく、こういうのは、贈り手の心、貰い手の心だと思うのだ。

 姉上は、里へ下がる女官のだれそれかの荷物の中に、問答無用で複数体押し込めて処理しているけれど、それを父上が知ったら、あのひと、ゼッタイ泣いちゃうからね。

 姉上は、ぼくがじーっと見つめていることなんか気にもせず、がつがつ食べ続けた。


 うーむ。この、食欲……。

 やっぱり、どこをどう見ても、


『病に伏せって外出もままならない深窓の姫』


 には、見えない。

 つくづく、この人について、どうしてこんなうわさが出回っているんだろうと、不思議に思う。


 実は姉上、秘密を抱えて生きている。

 実態は、こんな欲丸出しの姉上だけど、表向きは病弱ってことになっているのだ。

 しかも、


『殺された亡き夫の無念だけを口にして、か細い体を震わせ毎日むせび泣いている』


 という、生きながらにして貞操乙女の美談まで持つ。

 さらにそれには、こんな悲嘆まで付いてきたりする。


『悲しみに暮れる毎日で、食事ものどをとおらないそうな。おいたわしや、姫。おいたわしや……』


 どこがだ。

 ぜんぜん、おいたわしくない。


 姉上は、一度結婚しているのだ。

 といっても、それは、姉上が六歳のころのこと。

 しかし、その相手は父上に殺されてしまったのだ。

 そう。

 父上に、だ。


 あの熱心な仏像彫りが、そんなことをするとはぼくには思えないのだけれど、いちおう父上は組織のトップだし、昔はいろいろ、あったんだと思う。

 姉上は、当時は荒れたらしいけど(その荒れっぷりが想像できちゃうのがすごいところ)、今はもちろん、そんなことはない。

 心のうちまではわからないけれど、たぶん姉上だって、一方的に父上を恨んでいるわけではないはずだ。

 だって、そうじゃなきゃ、こうして父上の話をせがんできたりしないんじゃないかな。


 けれどある時、どこが出所か、夫を父親に殺されて、悲嘆にくれる毎日をずっと送っているっていう姉上の話が、まことしやかにささやかれて、広まってしまった。

 姉上の気性を知っていれば、貞操乙女だの、我慢強いだの、妻の鑑だの、そんな殊勝なタマじゃないことはわかるのだけれど、姉上は、好機到来とばかりに、そんな噂を逆手にとって、裏ではやりたい放題やることに決めた。

 なんでも、


『頼朝の娘』


 ってだけで利用したがる連中が山といるから、噂はその防波堤なんだとか。


「病気持ちで体が弱くて、そのうえ死んだ夫に今でもすがってメソメソしてるって言ってれば、そんな面倒な女、誰も政治の道具に使おうなんて思わないじゃない」


 それが姉上の理屈だった。

 でも、それはただの言い訳じゃないかと、ぼくはにらんでいる。

 姉上の実態はひどいもんだけど、一応女の子で、カタガキはお姫さまなのである。

 男のぼくよりも、ややこしい決まり事や、制限の多い生活があったりして、その窮屈な生活から抜け出したいだけなんじゃないかと思う。

 だって姉上、ぼくよりよっぽど男らしいし。

 以前ぼくは、


「姉上は結婚する気ないの?」


 と、我が身の将来に危機感を抱いて、尋ねたことがある。

 なんてったって、家族はみな姉上に甘いのだ。

 姉上に意思がない限り、一生生家に居座り続けるだろうと思って、末恐ろしくなった。

 このままじゃ、一生姉上にこきつかわれる。

 すると、ぼくのおののく気持ちなんて知りもしない姉上は、目をキラキラと輝やかせて言ってのけた。


「よくぞ聞いてくれたわ、万寿。あのね、あたしはね、燃えるような恋がしたいの! 母様と父様のような、運命に引き合わされたような熱い恋が。それが叶ったら、その人と結婚するんだわ」


 まるで現実的でない言葉に、その時ぼくは落胆の色を隠せなかった。

 母上と父上みたいな恋って、流人の貴公子と土豪の娘が結ばれるような、身分違いの恋のこと?

 それとも、台風に行く手を阻まれながらも恋人のもとへ会いに行った、執念の恋?

 ほんとうに、姉の将来が思いやられる。

 そんな話を真に受けるなんて、この人ときたら。

 本人が遠い目をして語る昔語りに、真実が含まれている可能性は、限りなくゼロに等しいじゃないか。



       〇



 がっつりご飯を流しこんだ姉上は、男らしくげえぷ、と喉を鳴らした後、口を拭ってぼくを見つめた。

 ぼくは姉上の御膳係兼暇つぶし係だ。

 噂を表に立たせて生きている姉上は、実際表だって行動できる事が少なく、日中をほぼ部屋で過ごしている。

 ぼくは姉上から、栄えある会話係にも任命されていた。

 というか、ほぼ世話係に等しい。

 弟に世話を焼かれる姉って、なんだ。

 もう、いいトシこいて。


「万寿、実はあたし、考えたのよ。そろそろこの生活にも終止符を打つべき時が来たんじゃないかって」


 それには大いに賛同する。

 ぼくは、深くうなずいてみせる。


「わかってくれるのね、万寿。じゃあ話は早いわ。あたしの運命の恋人を探すために、早速動き出そうじゃないの」

「え」


 ぼくは思わず膝立ちしかけて、姉上を見返した。

 どういうこと?

 っていうか、あんた何言ってんだ。

 いい加減にしなさいよ。

 どうか、聞き間違いであることを祈ろう。


「運命の恋人を探して、あたしはその人と駆け落ち。颯爽とこの家を出ていくわ。この計画を実行に移す時が今、きたのよ!」


 力んで握った拳にうっすら筋が浮かんでいる。


「でも、恋人なんて姉上いないじゃない」


 ほんと、あんたはいきなり、なに言ってるの。


「だから、それを今から探すのよ!」


 深窓の姫にはできるはずもない、目で射殺すような鋭い視線が、ぼくを捕る。


 うっ。

 この目は、本気だ。


 念のため、おずおず聞いた。


「は、母上や父上にはなんて言うの……」


 もし、そんな事が実現、発覚してしまったら、笑い事ではすまされないじゃないか。

 いや、でも、姉上だったらごり押ししそうな気もするけれど。


「やだわー、万寿。駆け落ちするんだから、何にも言うはずないじゃない」


 えーっ!?


「でっ、でも姉上、叔父上のことはもういいの!?」


 ぼくは、わたわたとして、つい、聞いてしまった。

 姉上の初恋の相手は、母上の弟にあたるひとだ。

 ずっと、想い続けていたはずだった。

 だからある程度、彼女のわがままにも歯止めがかかっていたと思うのに。


 これはいったい、どういうことだっ?


 姉上は、ふっと視線をそらして、むなしく笑った。


「叔父様ももう三十路過ぎ……。小娘の魅力などで到底揺らがぬ人なのだと、なんだか最近、ふっと気付いた気がするの……」


 おいおい。


 ぼくは、開いた口がふさがらなかった。

 姉上は、妙に感じ入ったようすで、食器をじっと見つめている。


 はあ。

 つまるところ、やっと諦めが付いたってことか。

 なるほどね。

 じゃあ、この馬鹿らしい一念発起は、勝手に失恋した姉上が立ち直るべく企画した、傷心の催しなんだろう。

 イヤだって言っても、絶対に聞かないんだろうな。


 じゃあ、初めから選択肢はひとつしかない。

 ぼくは、やるしかないんじゃないか。


「……わかったよ、姉上。ぼくは何をすればいいの」


 物分かりのいいぼくは、足を崩して座り直した。

 きっと、姉上の気が済めばこの騒動も終わるだろう。

 そんな気持ちを少し、口調に混じらせる。


「とりあえず、今から里に出るわ。あんた、しっかり支度なさい。弁当も竹筒も忘れず装備してくのよ」


 承諾したのを時の速さで後悔したのは言うまでもない。

 少なくとも、このひと、夜までは御所に戻らない気だ。

 鏡台を持ち出し、黒髪をとかし始める深窓の乙女に、ぼくはほとほと困り果てた。




      



      〇







 住まいである大倉御所を出て、姉上はまず鶴岡八幡宮寺に向かい、社の前で一礼。

 そしてすぐに背を向けて、さっさか歩き出した。


「あれ? 参拝はしないの?」


 と、不思議に思って話しかけると、


「馬鹿。もし誰かがあたしに気付いたらどうすんの」


 と、すかさず返されてしまった。

 なんだ。

 脱走慣れしているから、大それたことをしても気にしないのかと思っていたけれど、ちゃんと考えているらしい。

 ぼくは慌てて姉上を追った。

 姉上は歩くのが早い。

 ついでに走るのも。

 武芸の鍛錬を積んでいるのかと思うほど、身のこなしが素早く軽い。


 以前、侍所ではじまった、太刀まで持ち出した武士たちのガチ喧嘩を、茂みの中から姉上が熱心にのぞいていたのを、ぼくは目撃したことがある。

 ぎょっとした。

 心臓が止まるかと思うくらい、驚いた。


 あれは鍛練とは言えないけれど、もしかしたら身近な例を参考に、わが姉は人知れず体を鍛えているのかもしれない。

 とりあえず、姉上はぼくなんかよりも強そうだ。


「ねえ、どこへ行くの? まさか鎌倉を出るつもり?」


 里の喧騒を離れて進む姉上を早足で追い、ぼくは着物の袖を引っ張った。

 ぼくは一人で鎌倉を出たことがない。

 姉上だって、それは同じだ。


「当り前でしょ。鎌倉住民なんて、そんな運命もへったくれもない相手、イヤだもの」


 へ……へったくれ、ときた。


 どうやら、ご近所で済ませる気は毛頭ないみたいだ。

 なんだか、急に心細くなってしまった。


「ねえ、姉上。女子ども二人で東海道を渡るなんて危ないよ。まだ山賊が出てくるって噂だよ? それに、歩いて行くんじゃ今日じゅうに次の宿駅につくかどうかもわからないし」


 なにより、そんな事態になんか、おちいりたくない。

 野宿するなんて選択肢は頭の中に全くなかった。

 ちょっと屋敷を出て、そこら辺を散策したら、姉上を無理やりにでも説得して帰って来ようとばかり考えて、今まで必死に言い訳やこじつけを探していたのだ。

 だから、旅支度なんてしているはずもない。

 竹筒は腰にぶら下がっているけれど、弁当はといえば、歩き出したとたん、ナンカオ腹スイタとか言って、姉上はさっさと食べてしまった。

 アンタさっき食べたばかりじゃないか、と呆れたけれど、隣に座れと勧められて、ぼくもウッカリ包みをほどいてしまった。

 人のこと、言えない……。


「馬鹿ね。東海道なんて行って、万が一あんたの知り合いの武士なんかに出くわしたらどうするのよ。別の道から鎌倉を出るの」

「別の道?」

「ここには町を囲むようにして山があるでしょ。山越えしてやるわ」

「山越えって……。道らしい道なんてないよ! それにそれこそ、山賊がわんさか出そうじゃないか! もっと危険だよ!」

「進まずして道はなし!」


 姉上がまた、変なことを口走る。


「だいじょーぶ! 武士のたまりばのこの里に、乱暴者から毛が生えただけの半端者たちが好き好んで近付くはずないじゃない。返り討ちにあっちゃうわよ。だいたい山賊はねえ、盗賊と違って開発されてない場所を好むのよ。じゃないと商売あがったりだわ」

「え~……?」


 姉上がどうしてこんなにならず者事情に詳しいのか知らないけれど、とりあえず不謹慎だ。


「お弁当もなくなっちゃったし、さっさと目的を遂行しなくちゃね!」


 いや、もう、帰ろうよ。


「ねえ姉上、日を改める気はない?」


 妥協点を探るための、ぼくの決死の交渉。


「思い立ったが吉日」


 しかし、頑固で偏屈な姉上はぼくの意見に耳も貸さない。


「少年よ、大器を目指せ!」


 姉上が、遠方に見える濃緑の山を指差して言った。

 どうやらあの山を登る気らしい。

 姉上はぼくの肩を強く叩くと、


「われらがやらねばだれがやるっ」


 と言い出した。


 彼女がこういったおかしな言動に走る時は注意が必要だ。

 周りが懸念しているよりも強く、好奇心にかられている。

 ぼくは姉上より半歩下がってとぼとぼと歩きだした。

 叩かれた肩がめちゃくちゃ痛い。



       〇



 山に入って、どのくらい経ったかわからない。

 けれど怪我をしたわけでもないのに痛くなってきた足と、草で切られたぼくの手、だんだん冷えてきた体、落ちるぼくらの影の濃さを考えれば、相当な時間をかけて山歩きをしている事が推測できた。


「帰り道、ちゃんと把握してる? 万寿」

「た……ぶん」


 今のところ、ほぼ直進しかしていない。

 だから、帰りは真っ直ぐ山を下るだけで大丈夫なんじゃないかと思っている。

 姉上はぼくの答えを聞くと、またのしのしと草をかき分け進み始めた。


「待ってよ、姉上」


 姉上のうずく冒険心とは反対に、ぼくの心には不安が募っていった。


「もう帰ろうよ」


 そう言うと、


「まだまだ」


 と、姉上はますます精を出して前に進むのだ。


「あっ、この草、いざとなったら食べられそうじゃない? 確保しとこうか」


 姉上が、とつぜんしゃがみこんで、野草をぶちぶち摘み始めた。

 たくましすぎるよ、姉上。


 ぼくとしては、暗くなる前に山を下りたかった。

 けれど姉上は、暗くなる前に山越えをすればいいと考えているみたいだ。

 この山がどれほど大きいのか、知っているわけじゃないのに。

 わーん、ぼく、変な草なんか食べたくないよう。


 四苦八苦、重い足を引きずるようにして姉上のうしろを歩いていると、いきなり姉上が足を止めた。


「……何か、聞こえる」


 真剣な顔をしてそんな事を言う。

 ぼくは縮みあがって、思わず姉上に抱きついた。


「な、なに! なにかいるの?」


 顔を押し付けた背中には長い黒髪が垂れていて、ひんやり冷たい。

 けれど、そんなことかまうもんか。

 ぼくは、これでもかというほどくっついた。

 緊張で、二人の息遣いさえも聞こえない、山の中。

 鳥が木々を揺らす音とは違う、落ち葉を踏んで、枝をかきわけているような音がぼくらのほうへ近付いてくる。


「……猪?」


 声を低めて、姉上が言う。


「熊?」


 襲われたらひとたまりもない。


「狼?」

 

 姉上と仲良く食われるなんて嫌だ。


「あたしが食べた鹿肉の主?」


 それは違うだろう。


 一際大きな音を立てて、硬直しきったぼくらの前に、何かが姿を現した。

 姉上が、自分の体に巻きついているぼくの手をものすごい力で振りほどくと、うしろへと、思い切り突き飛ばしてきた。

 山の傾斜も手伝って、ぼくは尻もちをつくと、転がってしまった。

 やっと止まったところで顔を上げると、姉上は、ぼくを守るように両腕を広げ、ヤブの中から出てきた獣に相対していた。

 さっき二人で採集した緑色の草が、茶色い地面に落ちていた。


「姉上っ!」


 体中にぞわっと鳥肌が立つのを感じながら、叫んだ。

 しかし、姉上は動かなかった。

 ぼくが無事に逃げられるように獣を引きつけている気なのだ。


 ぼくは無意識に腰を探っていた。

 そこには、太刀があるはずだった。


 姉上が……姉上が、死んじゃうなんていやだっ。

 犠牲になんて、させるもんか!

 ぼくは、太刀を抜いて走り出した。

 手が震える。

 でも、ぜったいに姉上を守らなくちゃいけない。

 ぼくは男なのに、女の姉上を置いて逃げるなんて、ゼッタイにだめだ!

 姉上は、ぼくが守るんだ!

 ぼくは、姉上の横から飛び出した。

 力いっぱい、大きく太刀を下したけれど、獣には当たらなかった。

 獣は、軽々と跳びのいたらしい。

 ぼくは目を見張って周囲を見た。

『獣』が、こつ然と消えてしまっていた。


「こんな山奥に、女子どもが入り込んで何をしている。危ないから、早く山を下れ」


 姉上とぼくの前にいたのは、なんと、男の人だった。

 肌は浅黒く、目は黒々として、顔の造形がはっきりしていた。

 着物は、ぼろ衣のように汚かった。

 男の人は、太刀を地面に差したままのぼくを見下ろし、見比べるようにして、姉上を見た。

 とてもとても、静かな目だった。


「……二人とも、身なりが良いな。どうしてこんな山の中に」


 髪の毛、ぼさぼさ。

 いっぺんもくしを通したことがないだろうなと思われる髪を、無造作に結っている。 

 獣のような身なりだけど、獣かと思った正体は、男のひとだった。

 ぼくは一気に力が抜けて、その場にふにょふにょと座り込んでしまった。

 引っ張っても、地面に突き刺さった太刀は抜けなかった。


「早く帰れ」


 男の人はそっけなく言い、背を向けて、木々の中に消えていこうとした。


「足をひねって動けないの!」


 姉上が、広い背中に声をかける。

 ぎょっとした。

 な、ななな何言ってんの?

 さっきまで、姉上、ぴんぴんしていたと思ったけれど。

 男の人は足を止め、姉上を振り返った。


「……あんた、両の足で立っているじゃないか」

「弟が!」


 姉上が、ビシッとぼくを指さす。

 ぼくは、あっけにとられて姉上を見つめた。

 いきなり何を言ってんだと言いたいけれど、うまく言葉が出てこない。


「そいつ、さっきは走って、おれに太刀を振りおろしてきたぞ」


 男の人がじろりとにらんできた。

 ぼ、ぼく、何も言ってないのに!


「あなたを獣と勘違いして、姉を守りたい一心で痛みも忘れて突進したのよ。火事場の馬鹿力というやつね」


 なんという大嘘。

 いや、あながち嘘でもないけれど、愕然とする気持ちはどうしようもない。

 姉上は、いまだ腰を抜かしているぼくのところへやって来た。

 そして目の前にしゃがみこむと、ぐいっとぼくを抱き寄せて、声を上げて泣き始めた。


「ああ、可哀想な弟! なんて姉想いの弟! 足をくじいてもなお山中を付いてきて、姉の危機には命を投げ出して突き進むとは! おまえはあたしの誇りよ! もう一歩だって進めない体なら、ねえさまもここにいてあげる! そしてともに、山中の塵となりましょう」


 そんなのごめんだ。

 ぼくが口を開いて抗おうとすると、姉上は耳元で囁いた。


「静かにしなさいよ。あんた、姉上の恋人探しを手伝うって、昼間約束したばかりでしょ」


 ぼくは、瞳だけ動かして姉上を見た。

 姉上が馬を挙動不審にさせるような眼差しで射すくめてくる。


 たいへんだ。

 この目は、本気の目だ。


「い、痛いよう~。足が、足が死ぬう~」


 チラチラと男の人をうかがいながら、ダメ押しのようにわめくと、その人はやれやれといったふうに首を振って、近付いてきた。

 姉上をどかし、ぼくの前にしゃがみこむ。

 ぼくの足首を、ごつごつした手が押して回った。


「いだっ」


 思わず情けない声を上げてしまった。

 演技じゃない。

 これは本当に、痛かったんだ。


 「……乗れ」


 ぶっきらぼうに言い、男の人が、背中を向けた。

 おぶってくれるということだろうか?

 ぼくが戸惑っていると、彼から見えていないのを良いことに、姉上がすばやくぼくの頭を叩いた。

 早く乗れ、ということらしい。


「この子の足では、山下りは辛いだろう。それにここらはおれたちのムラのほうが近い。来い」


 男の人は、くいっと顎をしゃくった。

 ついでに太刀も抜いて、ぼくの腰に戻してくれた。

 ちょっと汗臭いけれど、大きくて広い背中は暖かかった。

 ぼくにはわかる。

 この人、ぜったい良い人だ。


「ムラって、こんな山中にムラがあるの?」

「おれたちは山の民だ」


 くぐもった声が聞こえてきた。


「カマクラドノの鎌倉入りの際、武士どもに地を追われた。みんな散り散りになったが、おれたちは、山の中にムラを作って生きている」


 山の民。

 聞いたことがある。

 彼らは古くから東に暮らしていたひとびとであり、武士に従順でないため追い払われた。

 ぼくは今、そんな人の背の上にいるのだ。

 これから向かうのもそんな人たちが暮らすムラだという。

 カマクラドノの子供であるぼくらが行っても、大丈夫なんだろうか。

 

 ああ。

 胃が、きりきりといたんできた。



        〇



「恋って唐突!」


 姉上が歌う。


「恋ってきらきら!」


 姉上が踊る。


 山の中には、小さなムラが存在していた。

 地面を掘り下げた竪穴式の家々は、一見粗末なものだった。 

 けれど、外観と違って、中は広々として快適そうだった。

 アオと名乗った男の人は、ぼくらを自分の家に連れて行った。

 とりあえず今晩はここで寝ろと、指示を出したら、すぐにどこかへ行ってしまった。


「見つけたわ、運命の相手!」


 姉上はさっきから上機嫌だ。

 ぼくは肩をすくめた。

 姉上は、アオに一目惚れしたのだ。

 そして、ぼくをダシに大嘘をついて、彼のそばにいようとしている。


「姉上、ぼくらが屋敷に戻らなかったら、鎌倉は大騒ぎになるよ」

「あたしがいなくなっても、父様は表だって捜索はできないわ。だってあたしは、家から一歩も出たことがない、姫君のなかの姫君のハズなんだもの!」


 ふふん、と姉上はふんぞり返った。


「だいいち、ねえ、父様たちも、あたしとともにあんたが消えていたら、二人してどこかに遊びに行ったんだと、見当をつけてくれるわよ。あたしがあんたと一緒にいるということは、事件ではないということよ」


 だから心配はないのだと、姉上は胸を張る。

 まったく、どんな理屈だ。


「だいたいさあ、一日二日いなくたって、どってことないわよ」

「またテキトーなこと言って……」


 暗澹たる気持ちのまま、呟いた。

 すると姉上は、


 「ま、あたしは駆け落ちするしね!」


 と、くるくる回りながら、フンフン鼻歌を歌いだす。

 

 「はあ~……」


 まったく、頭が痛くなる思いがした。

 姉上は、そんなぼくなんか知らん顔で、さっきからそこら辺をピョンピョン飛び跳ね回っている。 


 や、やめてよ。騒がないでよ、あねうええ~……。


 つくづく、アンタどう考えてもヒメって器じゃないよ。

 お気楽にも、豪胆なのにも、お行儀が悪いのにも、ほどってもんがある。

 ここ、ひとさまのお宅なんだからね、姉上!


 もしこのひとが長男だったら、次代の悪源太(あくげんた)を勝手に名乗って、大暴れしていたにちがいないだろうと、フッと想像して、怖くなった。

 あげくの果てに、「いくさじゃあ!」と叫び、武士たちを扇動して、勢いと腕っぷしだけで、朝廷にカチコミをかけにに行くなんていう暴挙に出たかも……。


 ぶるるっ。

 

 我ながら、恐ろしい想像をしてしまった。

 現実逃避するなら、お花畑とか、ぬくぬくの子猫とか、ヨリトモ工房のいびつな仏像とかに逃げていた方がマシだった。


 ……姉上が女の子でよかったような、そうでないような。



    〇



 日が沈み、夜も更けたころ、アオが戻ってきた。

 手に二人分の椀をもっている。


「食え」


 アオは、ぼくたち二人にそれを差し出してくれた。


「腹が減っただろう。たくさん歩いたから」


 そして、ぼくたちから距離をとり、隅の方にドカッと腰を下ろした。

 椀を受け取ったぼくたちは、顔を見合わせた。


「あなたは食べないの?」


 姉上が首をかしげて尋ねると、アオはひょいっと顔を上げた。


「ああ。おれはもういいんだ」


 そう言うと、ワラみたいなものをせっせと編みはじめる。


「もういいって、なにが?」


 姉上が、遠慮なしに踏み込む。

 アオは、またひょいっと顔を上げた。


「おれは一人だから、いいんだ。それは、余り物を恵んでもらった。いいから、食え」


 ぼくと姉上は、また顔を見合わせた。


「一人ってなに? あなたに家族はいないの?」

「いない」


 アオの家は、集落から少し離れたところにぽつんと建っていた。

 姉上が、アオにいざり寄る。

 それに気づいたアオは、身を固くしてじっとしていた。


「ぜひ、詳しく聞かせて」


 あ、姉上ーっ!


「あたし、あなたのことをもっと知りたいわ」


 姉上が、アオにお椀をそっと差し出した。


「あたしは弟と分け合って食べるから。だから、これはあなたが受け取って」


 な、なにを言ってんだーっ。


 アオは、瞠目していた。

 ぼくだって、驚いてしまった。

 まさかあの食い意地の張った姉上が、他人に食べ物をゆずるなんて……いや、そうじゃなく、いったいぜんたい、なんなんだ、この変わりようはっ。

 姉上は、ニコニコ、嬉しそうにしていた。


「あのね、あたし、あなたのお嫁さんになりたいな」


 姉上は、一足も二足も、いろんなものを一気に飛び越えて、とんでもないことを言いだした。

 アオはといえば、一息に壁まで後退し、あからさまにうろたえている。

 姉上は、そんなアオにじりじりと迫り寄る。


 姉上、恋をして有頂天になったのはわかったから、百回くらい深呼吸をして、つとめて落ち着いてください。



    〇



 嫁の座を狙う姉上の詰問により、アオはぽつぽつと話しだした。

 アオは、天涯孤独の身らしかった。

 山の民は、たまに里に下りていくこともあるけれど、主に漁猟などをして、自然に寄り添って生きているらしい。

 アオは唯一の家族であった母親とも死に別れ、結婚もしていない。

 そして彼は、自分は『ヨソモノ』だと言った。


 姉上は、ずけずけと聞きにくいことを平気で聞く。

 それくらいでやめときゃいいのに、と思うのだけれど、ついには、アオの父親は出自不明の流れ者で、ゆえにムラビトから一家は遠巻きにされていること、そしてとうの父親はといえば、アオが幼いころにふらっといなくなってしまったことなどを、根掘り葉掘り聞き出した。


 はたしてアオは、姉上の容赦のなさに怒っていないか心配だったけれど、始終ぶっきらぼうな調子ではありながらも、気を悪くしたようなようすはなかった。

 姉上があんまり楽しそうにしているから、ぼくも、つい楽しくなってしまって、同じようにたくさん質問をした。

 アオは、すべてにちゃんと答えてくれた。

 体が大きくて強そうなのに、会話はどこかおっかなびっくりなようすで、困ったように眉を寄せて話しているのが、なんだか似合わない感じがして、おかしかった。


 ぼくと姉上は、並んで眠った。

 アオは隅のほうで、ぼくたちに背中を向けて横になっていた。

 姉上はじーっとアオの背中を見ていたようだったから、ぼくはがっちり姉上の腕をつかんで放さないでいることに決めた。

 いくらなんでも、添い寝はまずい。

 積極性がありすぎるよ、姉上。


    

    〇



 やはり、アオはすごく良いやつだった。

 アオは一人でぼくらの食事の面倒を見、ぼくの足の具合を確かめ、根気よく姉上の話し相手をつとめたりした。

 姉上はますますアオに心魅かれているようだったし、ぼくもアオが好きになった。

 アオがいつもそばにいてくれたら楽しいだろうな、と思った。

 アオは強面(こわもて)で無口そうな見かけとは裏腹に、内面はあったかいやつだった。


「万寿の姉さんは、セミみたいなやつだ」


 姉上のとりとめの無さすぎる話からようやく逃れたアオが、ぼくにこっそりと打ち明けた。


「あんなに喋っているのに、ケロッとしている。おれはあの子といると、のどがカラカラになってしまう気がするよ。おまえの姉さんは、いつも元気だな」


 うん。

 姉上はとっても元気だ。

 しかも、アオといると、ガゼン張り切り方がちがう。


「そのうち慣れるよ、アオ」


 ぼくが達観したようにつぶやくと、アオはそうか、と笑った。

 そして、しまいには、ぼくらは声を上げて笑いあった。

 姉上が外から帰ってきたら、二人して口をつぐむ。

 そんなことも、またおかしかった。

 それが、アオと出会った次の日の出来事。

 ぼくらは一日二日といわず、長らくその地に逗留してしまった。



    〇



 ぼくらはアオに言われていたから、あまり家の外に出るようなことはなかったけれど、そのせいもあってか、アオ以外の山の民を、ほとんど見かけなかった。

 ここを訪れるひともいなかったし、アオは彼らについて、ほとんど何も語らなかった。

 念押しのように言ったことは、ぼくの足が完全に治るまで、なるべく一人で家から離れるなということだ。


 そして、あっという間に六日が過ぎた。

 くじいた足ならもう大分良くなっている頃合いだ。

 しかし、そもそもぼくは足をくじいてなんかいないのだ。

 だけれどぼくは、姉上に、もう帰ろうよ、とは言わなくなっていた。

 姉上とぼくが六日も失踪して、鎌倉がどんな騒ぎになっているのか、想像はする。

 けれどお互いに、その事を口にすることはなかった。

 御所での生活より、アオと話をして、一緒に笑っているほうが、だんぜん楽しかった。

 なにより、すべてが新鮮だった。

 アオのふしぎな生活、アオの山での体験、アオの話してくれるいろんなことが、ぼくらにきらきらした夢を見させた。


 ぼくは無性にわくわくしていた。

 アオは優しい。

 山で拾った、得体のしれない二人組を、なにくれとなく世話してくれる。

 姉上の弟であると同時に、ぼくには妹や弟がいるから、兄の立場でもあるわけだけれど、もしぼくに兄上がいたら、こんな感じなのかもしれない、と想像して、うれしくなった。


 ぼくはいつの間にか、姉上のことを応援していた。

 姉上とアオがケッコンしたら、ぼくには兄上ができるんだ。

 兄上って呼んだら、アオ、いったいどんな顔をするかなあ?


     

     〇



 水を汲みに、アオと一緒に近くの川辺から帰ってきた姉上は、もうすっかり、かの家の夫人のような顔をして、なにかとアオの世話を焼きたがった。

 押し掛け女房もはなはだしいけれど、でも、アオは文句を言ったりしなかった。

 どうやら、まんざらでもないようすに見える。

 いったい、アオは姉上のことを、どう思っているのだろう。

 うまくいってほしいけど、でも、アオみたいにしっかり者で、常識をもった男性が、出会っていく日も経たない女に好意を寄せることなんて、あるのだろうか?

 ぼくはいつからか、ふたりのようすをじーっと観察するようになった。





「何してるの、姉上」


 ぼくが用便から戻ってくると、姉上はアオの着物を膝の上に広げていた。


「やだわあ、万寿。見ればわかるでしょ、つくろいモノよ、ほほ……」

「つくろいものお!?」


 まさか姉上からそんな言葉を聞く日が来るとは思わなかった。

 ぼくは駆け寄って、うしろから姉上の手元を覗き込んだ。


「針、だいじょうぶなの、姉上……?」


 姉上はつくろいものなんか、したことがない。

 だって、そんなことしなくてもいいご身分のお姫さまだ。

 見よう見まね感がすさまじい。針がメタメタに動いてますけど、いいんですか、おねーさん。


「アオ~……」


 どうか、助けてやって。

 ぼくが声をかけると、向かいに座っていたアオはニコッと笑った。


「進んだか?」

「もちろんよ。だいぶ、いいカンジ。コツはつかめたわ」

「えっ、どこが? つぎはぎ、盛大にしわが寄ったまま縫い付けてるよ?」


 姉上が、腰を浮かしてぼくのアゴに頭突きしてきた。

 いっ、いだいっ!


「おい、喧嘩はよせ。大丈夫か、万寿」


 ぼくがアゴを押えながらうずくまると、アオが心配そうに駆け寄ってきてくれる。

 ありがとう、アオ……。


「喧嘩じゃないわ、制裁よ。間違えないでちょうだい」

「暴力の正当化、反対っ。強権反対っ」

「うるさい! あんたも、この針で縫い付けてやるっ」


 姉上がすっくと立ち上がり、針を構えてじりじり迫ってきた。

 うわーっ。


「アオ、助けてーっ」


 ぼくはアオの背中に回り込もうとしたけれど、それよりも早く、アオは姉上の腕をつかんだ。


「おい、よせ。危ない……」


 姉上が、ムスッとしてアオをにらむ。

 けれど、アオはひるまなかった。


「弟がけがをしたら、どうする」


 アオに睨み返されて、姉上は急にたじろぎ、うつむいてしまった。


「じょ、冗談に決まってるでしょ。これは、あたしだって、本気じゃないわ」


 勢いよく振りあげられた姉上の顔は、はた目にもわかるほど真っ赤になっていた。

 あれ? 

 姉上、どうしたんだろう? 


「せっかく針を覚えると言っていたのに、こんなことなら、もうさせないぞ」


 アオの肩越しに見る姉上は、ぐっと言葉に詰まってしまったようだった。

 こんな姉上、はじめて見た。

 たとえ誰かにいさめられたって、いつも自分の気が済むまで、やりたい放題やってるのに。

 姉上と同じように、ぼくもおとなしくしていると、アオが振り返った。


「万寿、姉さんを許してやれ」


 ぼくは、目をぱちくりした。


「う、うん。べつにぼく、怒ってないよ……」


 アゴはむちゃくちゃ痛かったけど。

 ぼくの答えにほほ笑んだアオは、姉上に、座るよう促した。


「よし、じゃあ、続きをやるぞ。万寿も、来い」


 アオに手招きされる。

 ぼくらは、アオを挟んで三人で座った。

 何をするのかと思ったら、アオは姉上に針の指導をした。

 姉上は、ふてくされた顔をしながらも、アオに言われた通り、せっせと腕を動かす。

 そして、ついに姉上は人生初となる縫い物を完成させた。

 そのころには、すっかり姉上の機嫌も直って、ぼくとアオは、とたんにウキウキしだした姉上に、代わる代わる努力の結晶を羽織らされた。

 作品といっても、つぎはぎした小袖一枚だったけれど、姉上はとても嬉しそうだった。

 もっと練習をしたいから、水干(すいかん)を脱げと詰め寄られたときは、心胆寒からしめられたけども。





 姉上は、見るからに浮かれていた。

 つい数日前まで、叔父上が近くを通りかかったと知れば、いそいそと部屋から出て、残り香を鼻いっぱいに吸い込み、必死にふがふがと嗅ごうとする、不届き者ではあったけれど、一方で、恋した人のためにこんなにかいがいしく動き回る姉上がいるなんて、いままでぼくは知らなかった。


 アオはといえば、いまいちわからないのだった。

 姉上が好きだとか、キミの姉さんをくださいとか、いざ、ぼくに言われても困るだろうけれど、アオには、そういった雰囲気がなかった。

 初日の姉上の求婚については、あれきりで、話題にもしないし、気にしたようすもない。

 けれど、イヤだったらハッキリ断ればいいのに、それもないのだ。


 恋って、ぼくにはわからない。

 父上は以前、恋愛について、本気になったものが勝つのだ、と、それっぽく語り出したことがあったけれど、母上やら叔父上やら、周りから総ツッコミが入って、しゅんとなっていた。

 ぼくにはやっぱり、恋ってわからない。

 姉上はいつも唐突で、今だってすごい前のめりでアオに恋しているけれど、どうしてそんなに、自分の気持ちが、ころころ切り替われるんだろう。


 アオは、どうなのかな。

 アオは姉上のこと、好きになってくれるのかな。

 ぼくはちょっとだけ、二人がうらやましく思えた。

 だって時々、二人だけで、楽しそうに話しているときがあって、それがなんだかズルいんだ。

 ぼくも仲間に入りたいけれど、そういうときって、誰に何を言われたわけでもないのに、むやみに話しかけてはいけない気が、なんだかする。


 こんど、ウチの自称・恋愛マイスターに、こういうのってなんでかなって、聞いてみようかな。

 もちろん、母上のいないときにだけれど。

        




 その日の夜、相変わらず姉上はアオの背中を凝視したまま横になっていた。

 ぼくは、ぎゅっと姉上の腕を握り締める。

 姉上からたまに舌打ちが聞こえてくるけれど、それでひるんじゃだめだ、ぼく。


「……万寿、いつまでここにいる?」

「えっ?」


 不意を突かれて、闇の中のボンヤリした姉上の横顔を見つめてしまった。

 姉上の頭がちょっとだけ動く。


「そろそろ、あんたは帰らないとまずいね」

「帰るって……姉上も、帰るんだよね?」


 ぼくの心臓が、ドッドッドと、とつぜん早くなった。

 姉上は、ゆっくり呼吸していた。なだらかな山が動いているみたいだった。


「あたしは帰らない」


 姉上が、ささやく。


「アオがここにいて良いって言うなら、ここにいる」

「姉上、ほんとに、駆け落ちするの?」

「あたしは本気だけど、一人じゃ無理だわ」

「ア、アオがいいって言ったら、そうするの?」

「うん」


 掴んでいる姉上の腕が、棒みたいに感じた。

 暗がりのなかで、姉上の表情は見えない。

 ぼくは、とつぜん、頭がぼーっとなってしまったみたいになった。


「万寿、あんたは父様のお世継ぎだから、帰らなくちゃいけない。アオに、下山を手伝ってもらおうね。それでさ、父様たちにいつまでもお元気でって、言っといて」


 ポツリポツリと落ちてくる声は、闇に広がるように聞こえてきた。


「ねえ、でも、姉上も帰るんだよね? アオが姉上のことを好きにならなかったら、帰るんだよね?」


 姉上は、黙ってしまった。

 ぼくは急に不安になった。

 いつもの姉上じゃないみたいだった。

 そして、姉上の言葉の数々が、ぼくの気持ちを一気に現実へと引き戻した。


 ぼくは姉上の駆け落ち騒ぎに、付き合っているだけなのだ。

 ぼくには、ちゃんと帰る家がある。

 でも、それは姉上だって同じはずだ。

 駆け落ちだ、運命の恋だ、なんて騒いでいるけれど、成就しなかったら、姉上はきっと家に戻るはずだ、と思っていた。

 でも、二人が両想いで、もし本当に姉上がアオとケッコンするのなら、ぼくはこれから、二人と離れ離れになることになる。

 そうならなくても、姉上はアオのそばを離れたくないって、きっと思うんだろう。

 姉上は、家族に何も知らせずに、出ていく気なのだ。


 本気だと思っていなかったのは、ぼくだけ?

 姉上は、帰りたくないの?

 家に帰れなくなっても、いいの?


「いまさらだけど、万寿、ありがとうね」

「姉上……」


 ぼくは急に泣きたくなった。

 鼻の奥がツンとして、思わず自分の袖で涙をぬぐった。

 そして、姉上の腕に、ぎゅっと額をおしつけた。


「万寿はきっと、立派な男になるよ」


 まるで、今生の別れじゃないか。

 なんでそんなこと言うんだ。

 姉上のバカっ。


「あたしが日々、精神を鍛えてやったおかげだね」

「あんなの精神修行じゃない」

「なにを。男は包容力と対応力だぞ、万寿丸」

「一切鍛えられた覚えはないよ……」


 姉上のばか。 

 ほんとに、ほんとに、ばか。



     〇



 九日目の晩のことだった。

 姉上がアオの隣に座り、鍋の中をかきまわすという、今までしたこともない炊事仕事をそれらしくしている最中に、とつぜんの来訪者があった。

 家の中に、荒々しく踏み入ったのは、三人の初老の男だった。

 アオは、椀を取り落として、驚いているようだった。

 まるで、口もきけないようすだった。

 ぼくと姉上はといえば、この無礼な人たちが誰なのか、何が起きているか、とんとわからず、二人して顔を見合わせていた。


「捕らえたという、鎌倉のガキ共はこいつらか」


 男たちはみんな肌が浅黒く、白髪で、同じように白くなったひげを顔周りに生やしていた。

 三人の中でも一番顎ひげの長い男が、声を発した。

 ふさふさの眉毛に隠れた眼は、真っ黒だ。

 なんだか、物語に出てくる仙人みたいだ。


「連中が、変に動き回らないうちが良いだろうな」


 仙人が言った。

 呆然として、ぼくと姉上は、鍋の前で固まってしまっている。


「まったく良い拾いモノをしたじゃないか、なあ、ヨソモノ。たまには役に立つことをする」


 仙人の隣の、腰に茶色い毛皮を巻きつけている男が、腕組みをしてにたりと笑った。

 三人目の、いかめしい顔をした男が、じっとアオを見据えた。


「手柄だぞ、アオ。算段は整った。成功したら、おまえを仲間として迎えてやる」

「おい、縄はどこだ? おまえ、どうして繋いでいない? 逃げられたらどうするんだ」


 毛皮の男が、はっとして言う。


 縄?

 それってなんのことだ?


 毛皮の男は、きょろきょろと辺りを見回す。

 あとの二人は、向き合って話しはじめた。

 男たちに呼ばれて、アオが立ち上がった。


 ぼくは、ちらっとアオを見た。

 アオは男達の会話を黙って聞いているだけで、口を開こうとはしなかった。

 けれど、ところどころでうなずいたり、うつむいて、唇をぎゅっと噛み締めたりしている。

 男たちは、さっきぼくらを見て、『鎌倉のガキども』と言っていた。

 それに、『良い拾いモノ』とも。


 背中が、ぞわっとした。

 もしかして、彼らはぼくらが誰の子どもか知っているのだろうか?

 山の民は、武士に住んでいた場所を奪われてしまったひとびとなのだ。

 里の人間を、恨みに思っていても不思議じゃない。

 ましてや、『鎌倉殿』の血族なんて……。


 まさか、アオは、ぼくらが誰なのか、わかっていたのか?

 わかったうえで、長く逗留するように、わざと仕向けたのか?

 なにが目的かはわからないけれど、きっと、自分たち山の民の恨みを晴らすために、ぼくたちをその材料として使う気なのは間違いない。

 だって、さっき男たちは、ぼくらを『捕らえたガキども』と冷たい目で見て、言い放ったじゃないか。


 ぼくたちは、ふいに訪れた客ではなかった。

 彼らにとっては、めっけものだったのだ。

 愚かにも、自分からのこのことやってきた、(とりこ)

 きっと、そうだ。

 彼らがぼくらを恨んでいないはずがない。

 アオがぼくらをここに連れてきたのも、今までぼくらに優しくしてくれたのも、全部計算づくだったのだ。

 すべては、その先にある見返りのために、行ったこと。


 ぼくは、アオの厚意を疑いもせず、どっぷりと浸っていた。

 あまつさえ、アオの事が大好きになっていた。

 ぼくは、とんでもないばかものだ。


 アオと男達は、熱心に話し込んでいる。

 そこから漏れ聞こえる言葉は、ぼくの予想を裏打ちさせるものばかりだった。

 姉上は、アオの体一つ分空いた隣で、椀を手にしたまま、微動だにしていなかった。

 愛した男に売られるような事態になったのだ。

 悲嘆にくれているに違いない。

 さぞ、悲しいだろう。

 よもや落涙、衝撃のあまりろくに四肢も動かせない状態なのかもしれない。

 ぼくだって不安でいっぱいだったけれど、それ以上に姉上が心配で、そっと、顔を覗きこんだ。

 姉上はぼくには気付かず、ずっと前ばかりを見ている。

 その先にいるのは二人の男と、アオだ。

 目もそらせないほどに茫然自失としているのか、と思ったけれど、どうもようすが違った。

 鼻の脇の筋肉が小刻みに痙攣しているし、眼は黒眼と上瞼と眉が一つになりそうなほど寄っている。

 どうやら姉上の胸に来襲しているのは、愁傷の念でも悲傷の思いでもなんでなく、腸が煮えくりかえるほどの怒りらしい。

 そこへ、縄を持った男が、外から戻ってきた。

 フゴッと、姉上の鼻が鳴る。

 そして、ぼくに顔を向けた。


『ニゲルゾ』


 と、口をパクパクさせながら、姉上はぼくに指示をした。



     〇



 夜山を駆けるなんて命知らずなことをする羽目になるとは、今の今まで思わなかった。

 姉上はぼくの手を引いて、ぼくは鍋の蓋を持って、山を下っている。

 そのうしろには、点々と火明かりが見える。

 どうやらムラビトが、こぞってぼくらを追ってきているらしい。


「つ、捕まっちゃうよ、姉上!」


 姉上が鍋を男達に向かってひっくり返し、赤々と燃える薪木をぼくが四方八方に投げ、降りかかる火の粉を、まるで心もとない木蓋で防ぎつつアオの家を脱出してから、ずっと走り通しだ。


「うるさい! 集中しないと転ぶわよ!」


 姉上は月明かりだけを頼りに走っているから、ちゃんと下山できたら奇跡だ。

 ぼくはうしろを振り返り、見える明かりを確認して、そのたびに弱音を吐いた。

 あいつらをふり切れたら、もはや偉業だ。

 泣き言を言っては叱咤されるということを繰り返していたら、とうとうぼくは転んでしまった。


「馬鹿!」


 すごい剣幕で怒鳴られた。

 ちょっとは心配してよ、と思うものの、そんな余裕なんて、今のぼくらにないことは、じゅうぶんわかっている。

 足をすりむいたようで、鈍い痛みにぐずぐずしていたら、うしろから肩をつかまれてしまった。

 こわごわふり返ると、そこに、松明の光に照らされた、荒い息づかいのアオがいた。


「こっちだ」


 アオが、無理やりにぼくを立たせて、引っ張った。


「こっちに来い!」


 そう言って、自分の持っている灯りを後方にぶん投げた。

 ぱちぱちと、小さな炎をくゆらせながら、明るい橙色は、闇の中に次第に燃え広がってゆく。


「家に帰りたいのなら、おれについて来い」


 もどかしそうに言い、アオはぼくと姉上の腕を強引に取って走り出した。

 姉上が進もうとしていた方向とは、まったく違う獣道だ。


「ちっ」

 

 アオが舌打ちする。

 気が付けば、山の民たちはすぐ後ろに迫ってきていた。

 しかし、そのとき、いっきに火の手が上がった。

 さっきアオが投げた炎は、山の民たちを足止めし、瞬く間にぼくたちの間に境界線を引いた。

 そして、炎はどんどん大きくなった。

 けれど今度は、山の民たちの代わりに炎がぼくらを追いかけてくることになった。

 以前にも増して、死に物狂いで走った。



      〇



「すまない」


 アオが先頭を走りながら、叫ぶように言った。

 はぐれないように、アオは姉上の手を、姉上はぼくの手を引いて、生い茂る草木の中を一列に進む。


「こんなことになってしまって、すまない」


 アオが何度も叫んだ。


「おれがお前たちを、無駄に引き止め続けてしまったのがいけないんだ。許してくれとは言わない。一生憎んでいい。こんなに恐ろしい目に遭わせて、ほんとうにすまない」


 するととつぜん、姉上の握力が強くなり、ぼくは顔をしかめた。


「どうしてあたし達を引きとめたの?」


 自分から帰る素振りも見せなかったくせに、姉上はちゃっかりアオの言葉に乗っかった。


「帰したくなかったんだ」


 まるで、なにかを振り切るかのように言う声が、聞こえてくる。


「楽しかったんだ。おまえたちが家にいることが、ただ、楽しかった。これは、おれの欲だ」

「欲って、なに?」

「……二人に行き場所がないのなら、このまま、ずっとここにいればいいと思った。それで、おまえたちのことを、ひきとりたいと、長たちに話した。それが、いけなかった」


 アオは本当に悔やんでいるようで、ずっとぼくたちに謝り続けた。

 そして、かならず家族のもとへ帰してやる、と、力強く言い切った。


 アオを恨むなんて、できるはずがなかった。

 アオはぼくが思っていたよりもずっと、ぼくらを大切に思っていてくれていたらしかった。

 アオは何も知らなかった。

 けれど、長たちは鎌倉の騒ぎを知っていて、アオの話から、ぼくらが誰か見当がついたらしいのだ。


 ごめんね、アオ。

 疑ってごめん。

 短い間だったけど、ぼくだって、アオを家族のように感じていたんだ。

 けれどアオが、ぼくらと一緒に暮らしていたいって思ってくれて、そのために行動していたなんて、ぜんぜん気付かなかった。

 アオ自身だってヨソモノと言われていて、山の民たちからはのけ者にされているっていうのに、ぼくらのことを心配して、仲間に入れてもらおうと、掛け合ってくれていたんだね。

 ありがとう、アオ。

 ぼく、もうぜったいにアオのこと、疑ったりなんかしないよ。



        〇



 山火事は、驚くほど広がるのが早かった。

 やっとのことで下山し、ぼくらはようやく拓かれた大地を踏んだ。

 そして、振り返って山を仰ぐと、白み始めた暁の空に、巨大な火の玉が浮かんでいた。

 ふもとでは、騒ぎを聞きつけたひとびとが右往左往し、明るい山あかりを見ていた。


「派手に燃えるな」


 放火した張本人は、まるで他人事みたいに言った。


「山の民たちは大丈夫なの?」


 なぜかぼくが、彼らの心配をしている。


「炎から身を守るすべくらいは心得ている。それに、火事もじきにおさまるだろう。もうすぐ雨が降る」

「どうしてわかるの?」


 不思議に思って尋ねると、アオは意外そうな顔をして、


「空気の湿り気でわかる」


 と言った。

 ……空気の湿り気って、なんだろう。


「アオ」


 ぞくぞくと集まってきたひとびとをかき分けるようにして、ぼくらは歩く。

 姉上がアオに腕をからめた。

 アオは驚いた顔をする。


「あたしも、あなたと一緒にいたい」


 ぼくをつかんでいた姉上の手が、そっと放れてアオにかかった。

 


      〇



「姉上は死にました」


 ぼくが告げると、父上の顔がますます険しくなり、母上は鼻の穴をおっ広げ、叔父上は憮然としてぼくを睨んだ。


 狭い部屋のなか、身内とはいえ三人の大人に詰め寄られて、さすがに肝が冷えた。

 だからぼくは、すかさず訂正する。

 この嘘はつき通してはいけない嘘だと、瞬時に判断されたのだ。


「姉上は、駆け落ちしました」


 御所に帰って来てからというもの、ぼくは多忙を極めていた。

 おもに、各所から怒られる方面で、だけれど。


 ぼくがひょっこり戻ってきたとき、母上は半狂乱だった。

 ビシッとハチマキを締めた父上は、ぼくらを探しにすぐにでも馬を駆りそうな勢いだったし、それを叔父上が泣きそうな顔で必死に止めているというありさまだった。

 里ではちょっとした騒動になったようなのだけれど、すくなくともぼくらの失踪がおおやけにはならず、捜索も小さな規模で行われたのは、ひとえに叔父上の采配のおかげだ。

 けれども、ふらりと帰ってきたぼくを見つけたときの叔父上の怒りようは、群を抜いて凄まじかった。

 まったくもって、叔父上の苦悩が偲ばれるところだ。


「駆け落ちって、あの子が? 誰と?」


 説明責任の義務が、ぼくに課される。

 ぼくは父上からもらったげんこつの場所をひと撫でして、しぶしぶ語りだした。

 冒険譚と言うにはおこがましい。

 ぼくと姉上の馬鹿騒動を。


「アオっていう山の民。すっごく優しくて、いいやつなんだ。狩りもうまいんだよ」


 母上が、ぎろっとにらんできた。


「その男が、あの子をたぶらかしたのね?」


 今にも泣きだしそうな顔をしている。

 でも、ぼくは勢いよく首を横に振り、否定した。


「それは違うよ。どっちかっていうと、姉上のほうが……」


 押しに押しまくったというか、なんというか。

 ぼくは、ぽりぽりと頭をかいた。

 姉上の暴走の数々を話したら、父上たち、卒倒しちゃうかもしれない。


「あ、でも、本当に姉上は心配ないと思うよ! アオは料理もできるし、狩りが得意だから、姉上、すきなだけ好物の肉を食べられるんだ。だから、食については問題ないかな。あと、アオ、簡単な住居なら作れるって言ってたんだ。すごいよね、ぼく、尊敬しちゃうよ」

「バカっ。そういうことを聞いているんじゃありません!」


 母上に怒られてしまった。


「でも、大切なことだけどなあ」


 のんきに言う父上の様子がシャクに障ったのか、母上はキッと睨みすえ、父上はというと、黙ってうつむいた。

 

 ああ、姉上って、つくづく母親似だなあ。

 アオ、これから大丈夫かなあ。


「まったく。ほとほと、馬鹿な子だ」


 叔父上が、呆れたようにため息をついた。

 ぼくは、その様子にこそ、ムッとしてしまった。

 だから、口をとがらせて、父上と母上を顎でしゃくってみせた。


「馬鹿ってなんだよ。叔父上の姉弟にだって、似たような例があるじゃないか」

「うっ……」


 叔父上は、ばつが悪そうに目をそらした。

 いっぽう母上は、言葉に詰まってしまったようだった。

 少々険悪な空気が流れはじめたこの場に、ぽん、と膝を打つ音が響いた。

 父上が、いきなり立ちあがって、ぼくらを見下ろした。


「恋は盲目、思案のほか」


 使い古された名文句。


「まったく、見上げた根性だ。ここはあの子の心意気に、私達も、ひと芝居打ってはどうかな」


 世間では冷血漢と名高い父上が、茶目っ気たっぷりに意味深なことを言う。

 母上と叔父上は眉をひそめたけれど、ぼくには父上の真意がわかった。

 だから、ニッと大きく笑った。


「祝辞として、姉上の逝去を触れまわったらいいと思うよ」


 そうしたら、鎌倉の意思はきっと二人へと届くだろう。

 祝辞とはなむけ。

 もうどこにいるともしれない娘に、家族が最後におくるもの。

 母上は諦めたように嘆息し、叔父上もそれにならった。

 そして、


「この親にしてこの子あり、ですね」


 と、失笑をもらす。


「北条の血筋は、姫にとってはアダかな」


 母上が投げた扇が、叔父上の顎に当たって跳ね返った。

 ぼくと父上は、声を上げて笑った。


 父上のやけに大きく響いた笑い声も、母上が泣き笑いにこぼした涙も、叔父上の苦りきった顔での舌打ちの音も、みんな、みんな、姉上に届くといい。

 それで、笑って歩きだしてね。


 ね、姉上。







   






 

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