第1話第一章-② 死を見送る少女
「あらら。これはまた、すごい騒ぎね」
彼女が、すなわちミスラント市専従の葬儀屋、イリア・トラディスが要請を受け、現場に駆けつけたときには、既にあたりは黒山の人だかりとなっていた。荒事や面倒ごとに慣れきって、ちょっとした騒ぎはすでに日常の一部となっている旧市街の住人たちも、さすがに殺人事件ともなると興味を持たずにはいられないらしい。しかも殺されたのが旧市街有数の――いや、一番の金持ち、クラムゼ・スタールともなればなおさらだ。
街の開発と発展に伴い、新市街に家を持つ事が、ミスラントにおける小金持ちの証明と見なされるようになったのはいつ頃からなのか、イリアはよく知らない。彼女がこの街に来たときには、すでにそれが当然の事として、暗黙の了解のようなものが出来上がっていた。
そんな風潮の中、わざわざ旧市街の一角に、新市街にあっても違和感がないような豪華な屋敷を構えたのがクラムゼである。もっとも、それだけならば彼が物珍しいものを見る目で見られるだけで済んだだろう。
だが、そうはならなかった。クラムゼは事あるごとに手を変え品を変え、自分がいかに裕福であるかということを、これ見よがしに周囲にひけらかした。そうやって旧市街の住民を見下す事で自分の自尊心を満足させ、同時に嫉妬と羨望の対象として見られる事を楽しんでいたような男がよく思われるわけもなく、旧市街の住民達の間でのクラムゼの心象は最悪というほかないものだった。
だからだろう。殺人事件の犠牲者となった今でも、野次馬達の顔には故人を悼む色は全くなく、自分たちを見下していた雲の上の人間が自分たちより下の位置に転げ落ちた事に「ざまあみろ」とほくそえむような空気が充満しているのは。
それはひどく醜くて、だが極めて人間らしい反応でもある。
そんならちもないことを考えながら、イリアが野次馬を遠ざけるようにして張られた赤いロープをまたいで、中に入ろうとしていると、それに気付いた警備官が一人、慌ててやってきた。
「おい、そこのお前。何をしている。この家は殺人現場だ、警備局関係者以外がそれ以上近づくんじゃない」
(?殺人課の警備局員ならわたしの顔くらいは知っているはずだけど……)
思いがけずかけられた制止の言葉に、イリアは首をかしげる。
殺人事件や不慮の事故等により死人が出た場合、葬儀屋を呼ぶことが法律によって定められているため、葬儀屋という仕事は医療機関のみならず、警察や消防の人間とも顔を合わせる機会が多い。
この街に来たばかりの頃ならともかく、イリアがミスラントで葬儀屋業を始めてからもう四年だ。それなりに仕事が順調なこともあり、直接顔は知らなくても、奇妙な格好をした珍しい若い女の葬儀屋の話は、この街の関係各所にそれなりに知れ渡っているはずなのだが……。
「おい、聞こえなかったのか。早くそこから離れるんだ」
怪訝な顔で立ったまま動こうとしないイリアを不審に思ったのだろう。威圧するような声で警備官が警告を発する。歩み寄ってきたその顔に、ずいぶんと幼さが残っていることに気付いて、イリアは相手に気付かれないようそっと警備官の様子を観察して見た。
着ている制服は、おろし立てのようにぴかぴかで、階級を示す胸のバッジに刻まれているのは無骨で飾り気の欠片もない楯の紋章。警備局の中で一番下っ端の地位である巡視である証だ。いかめしいしかめ顔も、なめられないように無理をして、作ってそうしているということが、少し注意してみると丸分かりである。
どうやら最近ミスラントに配属されてきたばかりの新人といったところだろうか。それなら自分の顔を知らなくても無理はないと、イリアは心の中で納得し、肩書きを明かそうと口を開く。
「あのですね。わたしは……」
「なんだ、反抗する……よく見ると貴様、妙な格好をしているな。怪しい奴だ」
説明しようとするのを無視して、じろじろとこちらを無遠慮に眺め回してくる警備官の高圧的な態度に、流石にイリアも不快感を覚える。もっともそれを顔に出すほど未熟ではないが。
(そんなことしたら、ますます絡んでくるのが目に見えているしね)
あと、確かに自分の格好は少しばかり普通ではないな、という自覚もある。
全身をすっぽり包める時代錯誤な黒いマントに、首からさげた中世の医師が使うようなマスク。これでマスクをつけ、今は跳ね上げているフードをかぶれば完全に不審者だ。こんな格好で夜の街を徘徊した日には、警備官を呼ばれることになっても文句は言えないだろう。
故郷から出てきてすぐの頃ならともかく、今はイリアも、普段こんな格好で外を出歩いたりはしない。 だが、今回は仕事できたのだ。そして、仕事となれば話は別だ。何故ならこの服装こそ、イリアの仕事着であり、仕事に欠かせない正装なのだから。
「すみませんがそろそろいいですか?中でランチェッタ刑事官が待っているので。時間に厳しい彼をこれ以上怒らせたくはないですから」
「なんだって?何で貴様が刑事官のことを――」
おもいがけず出てきた上司の名前に、困惑する警備官の鼻先に、にっこりと笑いながらスノウベルの花を刻んだ銀のバッジを突きつける。スノウベルの花言葉は「命の儚さ」「死への想い」。そしてそれを刻んだ銀のバッジは、正式な葬儀屋であることの証明だ。
「ミスラント市専従甲種葬儀人、協会登録番号00108番。イリア・トラディスです。今後ともよろしくお願いします、新人さん」
驚きに目を丸くする警備官の様子に、いい気味だと少しばかり意地悪な感想を心の中でつぶやきながら、イリアは改めてロープの内側に足を踏み入れた。
「そうか、そんなことがあったのか」
先にたってスタール邸の廊下を歩きながら、ドロウル・ランチェッタ刑事官はいかつい顔に苦笑いを浮かべた。イリアとは四年前にある事件で知り合って以来の付き合いだ。ドロウルが殺人課所属ということもあり、イリアが警備局の要請を受けるときは、大抵現場には責任者として彼の姿がある。
「まあ、不愉快な思いをさせたことは謝る、勘弁してやってくれ。お前さんの顔を知らない奴が捜査に加わっていることに考えが至らず、特徴をきちんと伝えなかった俺にも責任はあるからな」
「いいですよ。わたしの格好が変なのは確かですから」
葬儀屋には定められた服装という物はない。一応、協会がデザイン、販売している指定の制服もあるのだが、着用の義務はなく、最終的にはどんな服装をしようが、それは個人の自由で済まされる。だが、その役職上、警備局や医療機関、役所などのお堅いところが依頼人となることも多い葬儀屋は、制服ないしはそれなりにきちんとした服を仕立てているのが普通だ。
人間の第一印象は外見で決まるという。いくら中身が大事だといってみたところで、外見が悪ければ中身を見せる機会すら与えられないこともあるからだ。
そしてそれらの服は程度の差こそあれ、それなりに動きやすさも考慮されているため、実際の作業現場にもそのまま着ていく葬儀屋は多い。もちろんそれとは別に作業着を用意している者もおり、その中には随分ラフな格好をしている者もいるが、イリアのように黒ずくめのマントなんてものを羽織った変わり者は流石にいない。少なくともこのミスラントでは。
協会が主導して葬儀屋のイメージアップ運動などというものが行われ、整ったスマートな服装が奨励されている昨今、イリアのような葬儀屋のほうが少数派なのである。
「ただ一つだけ言わせてもらえるなら、わたしは伊達や酔狂でこの服装をしているわけではないですよ」
「分かってるよ。お前さんの故郷で死人を送るときの格好なんだろ。……っと、こっちだ」
あわただしく行き来する警備官に指示を飛ばしながら、ドロウルは行き過ぎかけた階段に足をかけ、すたすたと上がっていく。
どうやら現場は二階らしい。イリアも続いて階段に足をかけ――ふと眉をひそめた。二階からかすかに漂ってくる臭いに覚えがあったのだ。
「………………」
段を上がるたびに臭いはその濃度を確実に増していく。まるで錆びた鉄を思わせる強烈な臭気。間違いなく血の臭い、それもかなり濃密だ。
「…言い忘れていたが、今回の現場はかなりえげつないことになっている。そのつもりでいてくれ」
仏頂面でそう言いながら、ドロウルは入り口に二階の廊下の端に位置する部屋に入っていった。入り口に警備官が立っている点から見ても、この部屋が殺人現場なのだろう。こちらを認め、敬礼する警備官に軽く礼を返しながら、イリアもドロウルの後に続いて部屋に入り――
「うわっ」
まず視界に飛び込んできたのは、部屋の中央に横たわるモノだった。次に高価そうな書き物机と、揃いで作られたと思しき壁一面に並んだ書棚が目に入る。天井からぶら下がっているのは高価な光の魔刻石を用いた室内灯だし、机の横には最新型の蓄音機まで置いてある。よく分からないが、この分だと壁紙もかなり値の張るものだろう。
ふんだんに金を使った立派な書斎だ。しかし――
「どんなに豪華な家具も装飾も、これじゃあ台無しね」
それらの全てに満遍なく飛び散った血痕と、その持ち主であったろう、部屋の中央で血まみれになって横たわる男の死体。そのあまりの惨状に、イリアは小さく溜息をついた。
仰向けに倒れた男の、苦悶で歪んだその顔に見覚えはないが、上質の生地で作られた服を着ていることや死んでいる場所を考えれば、男の素性は容易に見当がつく。ミスラント有数の資産家にして実業家・クラムゼ・スタールは、財の限りを尽くして築き上げた自らの城の真ん中で物言わぬ屍となっていた。
ともあれ、それはわかっていたこと。人死にが出たからこそ葬儀屋が呼ばれたのだから。
「被害者はクラムゼ・スタール。この家の主だ。犯行の推定時刻は午前8時頃から昼にかけて。仕事の邪魔をするなと閉じこもったまま、昼飯時になっても降りてこない主人をいぶかしく思った使用人が第一発見者だ」
ついでに、部屋の隅に景気よく吐いてくれやがった、といかつい顔を歪ませ、ドロウルはぼやくが、この部屋の惨状を考えると、それも無理はないだろう。仕事柄、こういった現場にそれなりに耐性のあるイリアでさえも、胸がむかむかとしてくるのだから。
「……じゃあ、ちゃっちゃと済ませちゃいますね」
「すまんな。検死の連中を待たせているからそうしてくれると助かる。だが、急ぎすぎて仕事が雑にならないようにな」
「分かってますよ」
どんなときでも仕事は丁寧に。死者への敬意を忘れるべからず。
葬儀屋として生きる術を教えてくれた人たちが、口をそろえて言っていた言葉だ。幼い頃から聞いてきた彼らの心構えは、今ではイリアの中にしっかり根を張り、彼女自身の仕事に対する心構えとなっている。
(とはいえ、これはひどいと言わざるを得ないですね……)
こんな仕事だ、死体というものは見慣れているし、顔を背けたくなるようなひどい死に様の死体も何度か見ている。しかし、この死体の状態は、そんなイリアですら言葉に詰まるものだった。
遺体の両手両足は体から切り離されて、四方の壁にまるで虫をピンで留めるように、短剣で縫い付けられ、しかもその手足には一本の指もない。犯人が切り落として、その上で念入りにも踏みにじったのだろう。その指の成れの果てだろう。豪奢な絨毯の上のあちこちに、白いものの混じったひき肉の塊がある。切り離した指を犯人が踏みにじったのだ。
頭と体にも大小無数の切り傷があり、特にその顔には目も耳も鼻もなかった。本来目があるはずの場所にあるのは、眼球をくりぬかれた後の、ぽっかりと空いた暗い眼窩だけであり、耳や鼻のあった場所にも、あるべき器官は見当たらない。うっすらと開いた口の中に見えるのも、舌の残骸らしきものだけだ。
「ホトケの顔の部品を捜しているなら無駄だぞ。多分あそこだ」
うんざりした様子の(無理もないが)ドロウルが、棚の上に置かれたガラス製の水槽を親指で指す。観賞用の魚を飼育するための特別な物だ。その高価な四角い宮殿の中で銀の鱗をひらめかせ、のんびりと泳ぐ魚たちが、主な餌として肉を好んで食べる種類であることに気付き、イリアはドロウルの言葉の意味を飲み込んだ。
「……理解しました」
理解したのは、被害者の切り離された体の部品の行方ともう一つ。この惨状を生み出した人間は、そうとうに危ない奴だということ。ほんの数時間前までこの部屋にいたであろう、そいつの悪意が今も部屋の中に漂っているような気がして、イリアは我知らずぶるりと背筋を震わせるが、すぐに気を取り直す。これからが葬儀屋の仕事なのだ、余計なことに気を散らせていてはいけない。
気持ちを切り替えると、イリアは遺体の側にひざまずいた。その唇からゆっくりと、だがはっきりとした口調で聞きなれない言葉が流れ出す。はるか昔よりイリアの故郷に伝わる祈りの言葉だ。
「『時計の針は今止まり、貴方は尊き重荷を下ろす。貴方の歩んできた道は長く、積み上げてきたものは偉大なり。今こそ我が言葉を導とし、新たな旅立ちの門を開け、死の司、魂の慈母の元に詣でたまえ』」
もしこの言葉を聞き取れる者がこの場にいたなら、その者は首を傾げただろう。イリアが唱えた祈りは、現在大陸で信仰されているどの宗教のそれとも大きく異なるものだったからだ。
そしてもし、その人物が宗教学に深い造詣を持っていたならば、顔色を変えていただろう。何故なら、イリアが今唱えている祈りは、今はもうろくに信じる者もいない、忘れさられたと言っても過言ではない神のものだったからだ。あるいは、その神が司るものがなんだったのかを思い出し、嫌悪感に顔をしかめていただろうか。
しかし幸か不幸かこの場にそれを聞き取れる人間は一人もいない。異教の祈りの言葉を誰に聞きとがめられることもなく、哀れな死者の魂の安らぎを願い、イリアは祈りの言葉を紡ぎ続ける。
「『そこは無限に広がる世界。安らぎに包まれし楽園。全ての魂が生まれ、そして帰る場所』」
正直に言うと、イリアはクラムゼにあまりいい感情を持っていない。そもそも顔見知りというわけでもないし、旧市街の知人を通して耳に入る彼の話題は、総じてろくなものではなかったからだ。情報源が被害者に反感を持っているということを差し引いても、わざわざ嫌がらせのために旧市街に豪邸を建てるなどの行状を見る限り、クラムゼがあまり褒められた人間でなかったことくらいは容易に察しがつく。
だが、だからといって儀式に手を抜くつもりはなかった。善人だろうが悪人だろうが死者は等しく死者であり、死者を弔うことが役目の葬儀屋にとっては、それだけで充分だ。
「『偉大なる慈母アメラネよ。彼の者、クラムゼ・スタールの魂に安らぎと祝福を与え賜らん事を、イリア・トラディスが心より祈り願います』」
祈りを終え、葬送文を書いた紙を顔の上に被せる。本当なら自分の血で死者の胸か顔に直接記すものなのだが、証拠が失われるかもしれないということで、事件性の高い遺体に関しては、こういった代替措置を取ることになっている。
最後にもう一度、短い祈りの言葉を添えて、ようやくイリアは緊張を解いた。
「終わりました」
詰めていた息を吐いてそう告げると、室内の空気がわずかに緩んだ。息をすることもはばかられるように立ち尽くしていた警備官たちが、ドロウルの指示の元、捜査を再開するべく動き出し、その邪魔にならないようイリアは素早く場所を譲った。要するに選手交代。葬儀屋の出番はここまで、ということだ。
「お疲れさん」
額に滲んだ汗を拭っていると、一通り部下への指示を終えドロウルが近づいてきた。いつものようにねぎらいの言葉をかけるため、とイリアは一瞬思ったのだが、その顔に刻まれた難しい表情を見る限り、どうもそれだけではないようだ。
「とりあえずはご苦労だった。だが、一つ気になることがある。今日の作業はいつもより早く終わったな……大丈夫なのか?」
心なし下がった声での問いかけ。豪胆で知られ、『必要とあれば拳銃一つでギャングのアジトに殴りこむ』などと同僚に揶揄される彼にしては珍しく、その顔にはかすかな懸念の色が見て取れた。そしてその理由に心当たりがあるイリアは、どこか歯切れの悪い様子を見せながらも、きちんとうなずいてみせる。
「この場にひずみはありません。またひずみが生まれそうな兆候もありません。残滓の発生を心配する必要はないですよ」
ひずみとは、死に臨む人の負の感情や生に対する執着など、今まさに死出の旅へと向かおうとする者の感情が時にこの世に遺していく、いわば空間に刻まれた傷だ。肉体に付いた傷ならば、普通は時を置けば自然と癒えていくものだが、この空間の傷は自然と癒える事はない。時間を置くにつれて、この傷は膿んで悪化し、そしてまるで溜まった膿を体外に吹き出すようにある存在をこの世界に産み落とす。醜悪であったり奇怪であったりする千差万別の姿とたやすく人を殺せる強い力、そして本能の赴くまま暴れまわり、目に付くもの全てを殺そうとし壊そうとする、まるで悪夢をそのまま形にしたような偉業の怪物――通称残滓。死に行く人の想いの強さがこの世に遺していく極めて迷惑な遺産である。
人が人である以上決して逃れえぬ運命である死に付随してくるこの怪物は、その強大な力と相まって、古くから人々の頭を悩ませてきた。とうぜん人々もそれに対処するため様々な方策を生み出してきたが、その内容は多種多様にして玉石混合であり、その効果に疑問符がつくものや不安定な成果しかあげられないものも多く存在した。
また、ひずみや残滓への対処を使命、あるいは生業とする者たちも世界中に数多く生まれ、存在していたが、拝み屋、祈り屋、処刑人、魔道士、呪術師…………その呼称や持ち得る残滓に対抗する手段は国や地域、あるいは文化、ひどい場合は個人ですら大きく変わり、格好と口先で礼金だけをせしめようなどという悪質な偽者がはびこったこともあり、一昔前まではひずみや残滓の専門家といえば、ペテン師と同じに見られることも少なくなかったのである。
それが大きく変化したのは近代になってから。今から約150年ほど前、効果的に残滓を処理する方法を探していたある研究者たちが、ある地方に語り継がれていた方法に目をつけたのだ。それは、ある程度の素養さえあればきちんとした学習することで誰でも身につけられるという技術であり、調査と実験の結果、肝心の残滓に対する効果も証明された。
この報告を受けて、政府は残滓に対処するための専門機関、葬儀屋協会を設立。残滓処理を生業とする者たちは協会への所属と、協会が発行する資格免許の取得を義務付けられ、未所属、無免許の葬儀屋は厳しく取り締まられることになった。
それと同時に、対策班が見つけた方法は、改めてまとめ直され、ある程度の体系化をほどこされた上で、残滓に対処するための最もポピュラーな方法として協会によって広められた。もちろん今までのやり方を変えたがらない者も少なくなかったが、実際に効果がある技術を持っていた者以外は、例外なくこの方法への変更を余儀なくされ、頑なに拒否した者は資格を取り消された。
こうして、残滓の処理やその発生の予防を行う者たちは、近代的なひとつの職業として新しく生まれ変わることになった。
死者の鎮魂と遺された残滓の対処の専門家。葬儀屋の誕生だ。
「なら、いいがな。ひずみの処理についてはそっちのほうが専門だし、こっちとしては残滓さえ発生しないなら文句はない。だが確か残滓を生み出すひずみってのは、ひどい死に方をしたときに出来やすいんだろ?俺の今までの経験でも、こういう胸糞が悪くなるような現場では、どの葬儀屋もいつも念入りに作業を行っていたからな。少しばかり不安になったのさ。お前さんの顔も含めてな」
彼の言うとおり、今しがたイリアが行ったのは一般的な死者を送る際に行う儀式だった。もちろん普通ならこれで問題はないが、ひずみが発生している場合、特にそれが大きなものであるときには、葬儀屋側としても、特別な儀式が必要となってくる。その辺りの事をドロウルは指摘し、それで大丈夫なのかと心配しているのだ。
「警部の心配は最もですが、本当に残滓が発生する危険性はありません。――まあ、それが少し腑に落ちないんですが」
死に方の悲惨さと残滓の発生確率が比例するのは事実だ。残滓を生み出すのは死に瀕した人間の生への執念や負の感情であり、強い苦痛や恐怖を伴った死を迎えた人間のほうがそれらの感情を強く発散するからだ。しかしそれは、あくまで残滓が発生する可能性が大きいというだけであり、確実というわけではない。
だから、悲惨な殺人事件の現場であるこの部屋に残滓が発生する兆候がないこと自体は、珍しいケースかもしれないがありえないことではない。だが、残滓を発生させる要因である未練や恨みつらみなど負の感情すらほとんど感じられないというのは明らかに異様だ。思い残すことなく天寿を全うしたような老人ならいざ知らず、殺人事件の被害者として無残に無理やりに人生の幕を引かれた人間が、そういった感情を全く残さないなどとはとうてい考えづらい。
そのことを話すと、ドロウルも状況の不自然さを理解したらしく、難しい顔をして黙り込んだ。そのまま少し考え込んだ後、無精ひげの生えた顎をさすりながら口を開く。
「何か心当たりはないのか?過去に似たような事例があったとか――」
「残念ですが、わたしもこんなことは初めてです。推論ならたてられますが」
「推論でも構わん。聞かせてくれ」
先を促すドロウルに対し、イリアは少し黙り込んだ。立てた仮説はいささか現実味が薄く、考え付いた自分ですら半信半疑のものだったからだ。
どのように話せば上手く伝えられるだろうか。
頭の中で整理しながら、自身の考えをまとめるのも兼ねてイリアはゆっくりと話し出した。
―――世間一般では歪みを生むのは負の感情であると認識されているが、それは半分間違いだ。死者が残した強い生への執念は、時に空間にある種の“傷”として残る。それが核となって周囲の負の感情を集めた結果として歪みは発生するのだ。逆に言えば、生きることへの未練という核がなければひずみが形成されることはないのである。まあ、実際にそんな事態が起こるかはまた別問題だが。
「ところがそれが、まさにこの場で起きた、ということか」
イリアの説明に、ドロウルは難しい顔をして考え込む。確かにそれなら一応説明はつくが、警備官という職業を通していくつもの殺しの現場を見てきた彼は、どうにも納得できないようだ。
それも無理はないだろう。前述の通り、殺された人間が未練を残さず逝くなど考えられないからだ。しかし――
「この状況を見る限りでは、そう考えるのが妥当だと思います。でもそれは、彼に心残りがなかったからじゃありません」
「だろうな。だがそれなら、何故今回の被害者は未練を残さなかったんだ?」
「残さなかったのではなく、残せなかったんだと思います」
「なに?」
ドロウルが眉をひそめる。怪訝そうなその表情に、徐々に理解の色が浮かぶ。どうやらこちらが言おうとしていることに見当がついたらしい。淡々と話すイリアの顔も、自然と苦いものになる。
「ひどい死に方をしたのに未練が残っていないとなると、それ以外に理由は考えられません。スタール氏はまだ息があるうちに、死なない程度に暴行を受け、その苦痛から逃れるために本心から死を望んだ……そう考えるのが妥当だと思います」
要するに負の感情の核となる生への執着がなかったため、発生した負の感情は固定化されず散ったのではないか。物証もないし証明も出来ないが、これ以外にこの現状を説明できる理論を、イリアは思い浮かばなかった。
「まさか安全なはずの自分の家でそんな死に方をする羽目になるとはな。なんともやりきれん話だ」
壁に縫い付けられた指のない手を見ながら、ドロウルが深々と溜息をつく。
「敵の多い男だったが、ここまでするほどに恨みを覚えている相手となると限られてくる。もしそうでないとするならば、あと考えられるのは例の連続殺人犯の仕業だろうな」
「連続殺人犯って・・・・・・今話題になっているあれですよね。その現場もこんな有様だったんですか?」
驚くイリアに、ドロウルは苦りきった顔でうなずきを返した。
「無用の混乱を避けるためと、イカレた模倣犯を出さないために関係者以外には知らされていないがな、今までの被害者も、大なり小なりこんな有様で発見されているんだよ。目的はやはり不明だ。怨恨がらみの線も考えたが、今のところ被害者どうしに繋がりが見えてこないから、警備局では犯人は異常者だっていうのが主流の考えになっている」
確かに、ただ殺すことが目的ならわざわざなぶり者にする必要はない。時間をかければかけるほど、第三者の介入の可能性が増えるし、追い詰められた相手から反撃を受けることもあり得るからだ。ましてや今回の現場は多くの使用人を抱えた街の中のお屋敷で、しかも皆が寝静まっているような真夜中でもないのだ。被害者が一声叫べばそれまでだし、そうでなくても物音で誰かに気付かれる危険性も高い。
死体を傷つけるのも同じで、持ち運んだり隠すのに便利なように小さくバラすのならともかく、今回の件ではただ傷つけて見せしめのようにしているだけだ。そこに必然性などまるでない。そんな作業に時間をかけ死体を傷つけたところで、目撃される危険性が増えるだけで犯人には何の得もないはずなのだ。
それなのにそんな意味のない殺し方を繰り返しているということは、ドロウルの言うとおり、被害者の事をそれこそ殺すだけでは足りないほど憎んでいたのか、そうじゃなければそういう行為そのものを楽しんでいるのか……。
「どちらにしても、空恐ろしい事には変わりないですけどね」
「全くだな。どんなクソったれかは知らんが、一刻も早くふん捕まえんといかん。警備局の威信と、何より市民の安全と安心のためにもな」
ここは無人の家ではなく、事件が起きたまさに時にも、扉一枚、階を一つ隔てたところでは多くの使用人が働いていたのだ。にも拘らず、その誰にも気付かれることなく犯人はこれだけのことをしてのけた。 その手際のよさも恐ろしいが、しかしイリアが最も恐ろしいと感じたのはそれとはまた別のところだ。
人間とて生物であることに変わりはなく、生物である以上当然本能を備えている。そして、生物に備わった最も強い本能こそは「生きたい」というものにほかならない。ゆえに全ての生物は死を恐れ、すこしでも長く生きようとあがき続ける。
なのにこの犯人は、残虐極まりない方法で、被害者が持つ生への渇望という本能を押し潰し、心の底から死ぬ事を望ませたのである。一体どんな想いを抱いていれば、そんなことが出来るのか、イリアにはまるで見当がつかなかった。
分かるのはただ、まるで無慈悲に命を刈り取る死神を気取っているかのようなそのやり方から窺える、命に何の価値も見出していないような犯人のぼんやりとした人物像のようなものと、怒りと哀しみとその他諸々の感情が入り混じった、なんともいえぬ不快感だけ。
その気持ちを多分に含んだ息を吐き出し、イリアはぼんやりと視線を天へと向ける。せめて死者の魂が、アメラネの御許に無事たどり着くように、もう一度祈りながら。